第四十六話 魔の塔
――王都べオルドから西方 棄てられた塔
魔族サテラ。吸血鬼の一族である彼女は二つの小国を影から支配し、さらに領土を増やそうと考えていた。
ベオルナート王国は、サテラが支配下に置いた国よりも低いレベル帯の地域にある。その気になれば一日で王都べオルドを陥れることもできたが、サテラはすぐには行動を起こさなかった。
サテラをこの地に導いた者は、彼女にこう告げていた。
――ベオルナート王家には、まれに魔族を討つ力を持って生まれる者がいます。
――それは、不死身のあなたを滅ぼす力を持つ者がいるかもしれないということです。
吸血鬼の中で、レベル45は最高位ではない。それでもレベル10以下という、最弱とも言えるレベル帯の地域において脅威となる存在はいない――可能性の上では
しかしサテラは、忠告を無視することはしなかった。
自分の脅威となる存在をまず排除する。そのために配下の魔族たちに命じ、王族一人ずつの能力を確かめさせた。国王と王妃も含めてである。
その結果、一人だけ所在が把握できなかった王族がいた。
「最後の最後に、私を喜ばせてくれたわね……ラクシャ」
べオルド西方の高台にある塔。かつて魔法使いが隠棲していたとされるが、住人が姿を消して長い間放置されていた場所。サテラはその塔を根城としていた。
魔力の高い者が住んでいた場所には、霊体の魔物が寄り集まる。『幽霊塔』と呼ばれて人々が近寄らなくなっていた塔だが、魔力を生命力と同義とする魔族にとっては、最適の拠点であると言えた。
「歓楽都市フォーチュン……そんな場所で一国の姫が冒険者をやっているなんて」
サテラは居室のテーブルに座り、いくつかのランタンによる明かりのみの薄暗い部屋で愉しそうに微笑む。
塔の最上階にあるサテラの居室は、かつて魔法使いが住んでいた頃と何も変わっていない。魔法使いが姿を消した後もその扉は開かれることなく、内部は魔力によって保護されていた。
王国はサテラの存在を関知しているが、それはすでに彼女にとっての脅威ではなかった。王国騎士団にはレベル10までの者しか存在せず、一軍を送り込まれてもサテラを倒すことはできない。
それ以前に、軍を送り込まれるという事態は起こり得ない。王都べオルドは表向きは平穏を保ちながら、実質サテラの掌中に収められていた。
「後は、あの娘さえ手に入れれば……」
ラクシャの眼が映した、青い髪の少女剣士。彼女が持ち出した王家の宝剣には退魔の力がある――それを使って、剣士と同じパーティにいた少年がラクシャを倒した。
一度魔石に戻されたラクシャとは、主従の契約は切れている。ラクシャのことを手駒として惜しむ思いはあったが、サテラの関心は別のことに強く惹きつけられていた。
「あの子を先に手に入れて、その後に……というのも良いわね。一緒にいたもう二人も、眷属にしてあげてもいいし……」
サテラが愉しげに想像を巡らせていたその時、ドアがノックされる。
『サテラ様、報告があって参りました』
「いいわ。入りなさい」
上機嫌に答え、扉の鍵を外す――ドアが開くと、そこにはサテラが知っている声の主とは違う、フードを被った女性が立っていた。
ファリナ・ラウリール。魔竜を討伐した
「っ……!」
動くことができない。このレベル帯の地域に、これほどの力を持つ者がいるはずがない――サテラは混乱しながらも、ここで倒されることを避けることに思考を傾ける。
「……魔族はいつもそう。強くなれない人たちがいるところにやってきて、好き勝手をする。私たちは女神様の許可がなければ、ここに来ることもできない」
「私を倒せと、女神が命じたと言うの? 魔竜レティシアも倒されたというけど、まさかあなたが……」
ファリナの瞳は氷のようで、それでもサテラの言葉に耳を傾けている。サテラは微かに微笑み、さらに言葉を続けた。
「私はこの国をすでに手中に収めている。ここで私を倒したとしても、眷属が代わりに動き出す……だから、交渉をしましょう」
「……交渉?」
「あなたが欲しいものをあげる。こんな場所で得られるものに興味はないかもしれないけれどね」
わずかにファリナの感情が動く。それを見て、サテラは言葉を続けようとする――しかし。
「あいにくだけど、私は魔族を倒さなければいけない」
「女神が私を倒せと? あなたほど強い人が、まだ神の言うことに縛られて……」
「――最後の言葉は、それでいい?」
「っ……!」
ファリナがほんの僅かに重心を下げた、サテラにはそのようにしか見えなかった。
――『ファリナ』が『
「あぁぁっ……ぁ……!」
ただ魔力を込めて放つ突き――それをファリナほどの剣士が繰り出せばどうなるか。
一撃一撃が、流星に匹敵する。サテラの魔力で作られた身体に無数の穴が穿たれる――このまま消滅することを避けようと、サテラは吸血鬼の能力で緊急回避を試みる。
――『サテラ』が『ミストボディ』を発動――
サテラの身体が霧に変化する――しかしファリナの攻撃はそれをものともせず、サテラの持つ魔力を一突きごとに削っていく。
『調子に……乗って……っ!』
堪りかねたようにサテラが叫ぶ。霧となった身体を自ら爆散させ、ファリナから離れた場所に幾つも自身の手だけを実体化させて、全方位から魔法を放つ。
――『サテラ』が『シャドウラッシュ』を発動――
無数の影の刃がファリナに向けて放たれる。その間、サテラは実体化する時間を稼げたつもりでいた――霧の状態では魔力の消耗が激しいからだ。
――『ファリナ』が『聖女の右手』を発動――
ただ、魔力を込めた右手を振り払っただけ。実体化を始めたサテラの目にはそう見えた――だが。
ファリナは一振りで影の刃を全て打ち払い、何事もなかったように立っている。
「これで終わり? 私たちが倒した吸血鬼は、あなたよりもっと強かった」
サテラは実体化を続けているが、ファリナはそれを止めるわけでもなく、ただサテラに一歩ずつ近づいてくる。
「こんな人間の方が、よっぽど怪物でしょうに」
サテラがそう言い終えないうちに、彼女の身体に袈裟懸けに線が走る――ファリナは一瞬で剣を振り抜き、鞘に収めていた。
魔力で作られたサテラの肉体が消滅する。残された魔石が床に落ち、鈍く輝く。
「これで一体……次は誰を倒せばいいの?」
ファリナが姿の見えない女神に呼びかけたその時だった。
床に転がっているサテラの魔石が、徐々に輝きを増している。振り返ったファリナは、自身に起きている異変に気づく。
――魔族が残した魔石に触れても、危険はないんですか?
マイトがシェスカに対して、そう質問したことがあった。魔物を倒したあと、マイトは戦利品を手に取る時でも常に注意を払っていた。
残されたものを安全に持ち帰るまでが『盗賊』だとマイトは言っていた。事実、彼がいなければ戦利品に不用意に触れ、罠にかかっていたような事態もあった。
――魔族の中には、魔石化したあとに働く能力を持っている者もいるかもしれない。それを『呪い』と言うこともあるわね。
――呪い……それがかかっているかどうかはどうやって見分けるの?
――そんなときのために私がいるのよ。呪いのことは神官に任せておけばいいの。
魔竜を倒した後でもシェスカが傍にいることに、何の疑問も持たなかった。
パーティでなければ魔竜を倒すまでの旅路で躓いていたかもしれない。ファリナの役割を他の誰かが果たせないように、マイトたちの役割もまた同じだった。
(私一人では、できないことばかりなのに……そんなことを、今さら思い出すなんて)
『私は魔族という全体の一部……私よりも強い吸血鬼を倒したと言ったわね』
魔石に宿るサテラの魂が語りかけてくる。完全に倒すことはできていない、それでも魔石を剣で断ち割ることを考えられない。
ファリナは聖騎士の小手を外し、素手で魔石を拾い上げる。彼女の手に収まるほどの小さな石――それを握りしめた瞬間、身体が震えた。
「くっ……ぅぅ……!」
『どれだけレベルが高くても、抵抗できないものがある。そのうちの一つが、吸血鬼である私の魔石を使った秘術……』
――『サテラの魔石』による『血の呪い』が発動――
「あ……あぁ……」
サテラの魔石から生じた赤い光が、ファリナの身体に吸い込まれていく。その場に膝を突き、ファリナは胸を押さえて苦悶の声を上げる。
『私は長い眠りに就くことになる……もう目覚めないかもね。それでもいいのよ、あなたほどの強い女性が魔に染まるなら』
「ふざけ、ないで……私は、魔……なんかに……っ」
抵抗を続けながら、ファリナ自身が理解していた。
こうなってしまったら、自分の力で呪いを解くことはできない。辛うじて正気を保っている間に、誰かに止めてもらうしかない――それができるのは、彼女と同等の力を持つものだけ。
「シェスカ……エンジュ……」
マイトを救えるのならと、女神の言うことを盲信していた。傍にいたシェスカを置き去りにして、それも仕方がないことだと割り切ろうとした。
戻るべき場所に戻ったエンジュに頼ることはできない。レベルという強さの指標の最高点に達した者は、もう他にいない。
いなくなってしまったマイトを除いては。
「……駄目……私がこんなことじゃ……誰が、マイトを……」
『ああ……動けなくなってから見えても仕方がないけれど。貴方が見てきた世界は素晴らしいわね。ここまで強い人間がいるなんて……』
恍惚としたサテラの声――それもまた聞こえなくなっていく。
――『ファリナ』の『吸血鬼化』が一段階進行――
自分の中の何かが変わっていく。人間を護らなければならない、魔を討たなければならない――それらの使命感が、身体の奥底からの欲望に塗りつぶされていく。
「……喉が……渇く……」
「あ、あぁ……サテラ、様……っ」
ファリナはサテラの部屋に入る際に、サテラの眷属を捕らえて代わりに呼びかけさせた。その眷属――女性の吸血鬼は、ファリナの姿を見て後ずさる。
「……一部始終、見ていたんでしょう? それなら、何が起きたのかは分かる……?」
「――あぁぁぁぁっ!!」
ファリナの言葉に答えず、サテラの眷属は爪を振り上げて襲いかかる――だが、振り下ろしたはずの爪は何も捉えることなく空振りする。
「――動かないで」
「ぐぅっ……!」
サテラの眷属に背後から組み付き、動きを止める。ファリナは冷たい目をしたまま、自分の中にある衝動に向き合う。
目の前にある青ざめた白い首筋――そこには惹きつけられない。
「サテラ様の呪いで、吸血鬼の性質が伝染した……でもそんなこと、私は認めない……!」
「伝染……そう。人の血を吸いたいなんて、病気みたいなもの」
「わ、私の血を……吸っても、何も……っ」
「……それでも、あなたたちを自由にしておくつもりもない」
「っ……!!」
吸血鬼化が始まったばかりでも、ファリナは本能的に理解していた。
同じ吸血鬼の血を吸っても『渇き』は満たされないが、相手を支配することができる。ファリナはサテラの眷属の首筋に牙を立て、僅かに血を吸う――それだけで十分だった。
「……無礼をいたしました、我が主。失礼ながら、ご尊名をお聞きしたく存じます」
がらりと態度が変化した吸血鬼が、手巾を差し出してくる。ファリナはそれを受け取って口元を拭う――自分が血を吸ったのだと理解しても、そこに嫌悪を覚えることはない。、
「ファリナ……今は、それだけでいい」
「ありがとうございます、ファリナ様。私はマレーネと申します……これより貴女様にお仕えさせていただきます」
「……ベオルナートの貴族?」
「はい、王宮で侍女を務めておりましたが、彼女によって『こちら側』に誘われたもので」
マレーネはすでに、サテラに対して敬称を使おうとしていなかった。
崇拝に近い感情が、マレーネがファリナを見る目に込められている。それを目にしても、ファリナは特に心を動かさなかった。
(これは吸血鬼にとって自然なこと……
「他の眷属たちはまだ支配の儀礼を受けておりません。この塔に呼び戻しますか?」
他者を従わせることに関心のなかったファリナだが、吸血鬼となった今は違っていた。
「……全員を呼んで。私の言うことを聞かない人がいるのは、困る」
「かしこまりました。ファリナ様、お食事はいかがなさいますか? まだこちら側に来られたばかりで、さぞ喉が渇いていらっしゃるでしょう」
眷属ではなく、人間の血を吸う。それを想像しただけで、ファリナの
(……駄目……この気持ちに身を任せたら、戻れなくなる……)
高鳴る胸を押さえ、ファリナは衝動をやり過ごそうとする。
血を吸うことを想像して、その相手としてファリナが想像したのは――絶対にあってはならない相手の姿。
(……マイト……)
「……ファリナ様、塔に誰かが近づいてきています。結界に干渉していますが、いかがなさいますか?」
マレーネは手のひらに載る大きさの水晶を取り出し、ファリナに見せる。
水晶には、塔の外にいる人物の姿が映し出されていた――エルフの神官、シェスカがそこにいた。
「エルフがこんなところに……彼女たちのレベル帯では、ベオルナートに入ることはできないはずですのに」
マレーネは、ファリナがシェスカを見たときの変化に気づいていなかった。
シェスカが自分を探すために、レベル制限を回避する方法を使ったことは、水晶の中にいる姿を見ればわかった。それでもファリナの中に、シェスカに助けを求めるという考えは生まれなかった。
「ファリナ様、いかがなさいますか? 配下とするならば、私どもが……」
「……何もせずに、追い返して」
「っ……それでいいのですか? エルフは魔力量が多い種族ですし、このまま帰すというのは……ひぃっ……!」
饒舌になっていたマレーネは、ファリナの目を見て震え上がる。
「……言った通りにして」
「か、かしこまりました……ファリナ様の仰せのままに」
マレーネが部屋から退出したあと、ファリナは立っていることができず、居室の中に作られた寝室に向かい、ベッドに座る。
――魔竜を倒したら、その後どうするか決めてるか?
旅の途中、マイトがそう尋ねてきたとき、ファリナは答えられなかった。
シェスカと話さなくてはならない、そう思っても、吸血鬼化が始まってしまった今は神官に相対することを忌避してしまう。
「……負けない……私は、まだ……」
水差しからグラスに水を継いで、喉を潤す。それでも癒えることのない渇きに、ファリナは自制のみで抗い続けていた。
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