中編

 別に「セフレになろうよ」とか言われたわけではなかった。


 けれども「恋人になろうよ」と言われたわけでもない。


 それなのに肌を合わせる行為をするということは、つまりはそういうことなんだろう……と私が解釈するのはなんらおかしい道程ではないはずだ。


 真偽は不明だが、エンリーハ先輩は女遊びをしていたとかいう噂もあった。私は信じてはいなかったが、ここにきてその噂が妙な真実味を持って私の前に立ち現る。


 物扱いされているような気持ちになったことはないし、行為の最中のエンリーハ先輩はいつも通り優しい。


 しかしそこで勘違いしてしまうのはよくない。セフレはセフレらしく己の立場をわきまえておかなければならない。


 ……と、思っていたのにエンリーハ先輩はやはりいつも通りで、このあいだは私に真っ白なフレアスカートを買ってくれた。ミモレ丈の長くて裾がひらひらしていて、私が着るにはちょっと恥ずかしくなる。


 ついでに全身コーデされたが残念ながらこれを買ってもらっても、着る機会はないだろうと私は思った。


 しかしエンリーハ先輩はそれを見抜いたのか、フィッティングルームに戻る前に「このまま着て行きます」と店員さんに告げてお会計までしてしまった。


 恐縮するやら混乱するやらでその後の記憶はあいまいだ。ふわふわのスカートの裾に引っ張られるように、私の意識はふわふわしたままエンリーハ先輩と遊んで、部屋に戻って、その後は以下略。


 ……なぜそんなことを思い出しているのかというと、今私がそのときに買ってもらったひらひらのフレアスカートを身につけているからだ。


 そしてオシャレなカフェの、オシャレなチェアに座る私を見下ろす……エンリーハ先輩。


 眉間にしわが寄り、眼光は鋭く、逆光になっているから余計に顔が恐ろしく見える。


「マツリちゃん、なにしてんの?」


 私はなぜエンリーハ先輩が怒っている風なのかまったくわからなかった。


「な、なにって……えっと」


 どう説明すればいいのか迷い、言葉に詰まる。


 エンリーハ先輩はしどろもどろな私を見て、固く冷たい、感情を押し殺したような声で言う。


「ふーん、すぐに言えないこと?」

「すぐに言えないというか……説明が難しくて」


 嘘はひとつも言っていない。


 私はちらりと対面に座る彼へと視線を寄越す。彼は同郷からの留学生で、常から親しくしているというわけではなかったものの、会えば挨拶はするし、たまに言葉を交わす程度の交流はあった。


 そんな彼から「デートの練習に付き合ってほしい」と言われたときはおどろいたが、私を信用してのことだと思うとなんとなく断れなかった。


 同郷のよしみというのもたしかにあった。彼がまさか私に恋愛感情を抱いているとも思えなかったし、その逆もしかり。


 ただの「練習」だし、今現在お付き合いしている人がいるわけでもない……。


 だから私はその頼みを引き受けた。けれども今ならそれは「安請け合い」というやつだったんだろうということがわかる。


 だって、こんなことになるなんて想像だにしなかった。



 カラン、とグラスに入った氷が音を立てる。


 次第にカフェにいる他のお客さんの視線がこちらに集まり始めているのが肌でわかった。


 けれどもエンリーハ先輩がひるむ様子は一切ない。


「『説明が難しい』?」

「えーっと……話すと長くなるんですが」


 というか、話してもいいのだろうか?


 デートの練習に女友達を付き合わせていたなんて話は、男としてはあまり吹聴されたくないのではないだろうか?


 そう思うと言葉に詰まってしまう。


 また視線をこの頼みを持ちかけた彼へと向けるが、彼の顔は可哀そうなくらい青白くなっていて、フォローは期待できそうになった。


 エンリーハ先輩といると忘れがちだが、竜人族は普通の人間からすると畏怖の対象だ。


 だから、彼のように竜人族を前にしてガチガチになってしまうのは無理からぬことではあった。


 それでも一応「デートの練習」なのだから、ちょっとはいいところを見せて欲しい――。


 そんなので本命の心を射止められるのだろうか、と私は明らかに今考えるべきではないことに思いを馳せる。


 そんな私を見てエンリーハ先輩はどう解釈したのか、あからさまに侮蔑を含んだ息を吐いたので、私はおどろいた。


 エンリーハ先輩はいつだって私には優しかった。それこそ砂糖に蜂蜜を加えたみたいに甘い。そんなエンリーハ先輩が侮蔑をあらわにしたのだ。おどろくのは無理からぬことだろう。


 しかし次にエンリーハ先輩が口にした言葉で、本当に目玉が飛び出そうなほどにおどろくことになる。


「『説明が難しい』とか『話すと長くなる』ってなに? オレが買ってあげた服で他の男とデートした経緯とか聞きたくないんだけど。『浮気』の一言で済むでしょ」

「……はい?」


 私はエンリーハ先輩がなにを言ったのかとっさに飲み込めず、間抜けな声を出してしまう。


「……浮気?」


 馬鹿みたいなオウム返しで問う。真実エンリーハ先輩がなにを言ったのかわからなかった。


 もしかして、セフレの関係でも「浮気」って概念が存在しているのだろうか? いや、そんなはずはないし、そもそもこれは「デートの練習」であって、本物の「デート」ではない。


 それじゃあ「浮気」ってなんだろう? どういう意味なんだろう? ……なにかの隠語?


 私が本気で混乱していると、他人の機微に敏いエンリーハ先輩が片眉を上げて不可解そうな顔になった。



 そんないたたまれない場から先に逃げ出したのは、この修羅場の元凶である「練習デート」を持ちかけた彼だった。


「デートの練習に付き合ってくれてありがとうな! それじゃあ俺はこれで!」


 風のように立ち去る彼を引き留める声は、どちらからも出なかった。


 私は呆気に取られていて、一方エンリーハ先輩が用があるのは私だけのようだったので、当然である。


「この卑怯もんが」という悪態が口を突いて出そうになるが、なんとかこらえる。


 代わりに心の中で「そんなんじゃお前の恋は成就しないぞ」と呪いの言葉を吐いておいた。


 実際そうだろう。「練習」と言えど思い人――という設定の相手――を置いて逃げる人間は、男女の別なくイヤだ。


 しかし残された私がそうやって湧き上がるかすかな怒りに震えていられたのも、わずかばかりのあいだだけだった。


「マツリちゃん」

「……はい」

「ひとまずここ、出よっか」

「はい……」


 私に否やはなかった。というか、ノーと言えるわけもなかった。


 エンリーハ先輩は先ほどまで浮かべていた怒りの形相など嘘のように、いつもの愛嬌のある笑顔に戻っていたけれど、立ち上るオーラのようなものは消せていない。


 そして私たちは完全にカフェ店内で悪目立ちしていたから、早々に退散するのが吉と判断した。


 見世物になる気はなかったし、私の神経はそれほど太いというわけでもないので、その選択は当然のものだった。


 こうして私はエンリーハ先輩に引き立てられるようにして、オシャレなカフェを後にしたのだった。

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