第13話 ユアン・クレバー
あたしはトイレで吐く。朝ご飯と夜ご飯が全部出た。めちゃくちゃ強くドアを叩かれる。
「ルーチェー♡!? 大丈夫ぅー!?」
(まじ無理……)
手が震え、体が震え、緊張という緊張が心を支配する。どうすればいいの。これ。マインドコントロールやったのに全然効かない。魔力は一本飲んだ。でも無駄になった。あ、また吐き気!
「おろろろ……!」
「氷よ。癒やしの気温を分けてあげて」
あたしの周りの気温が下がった。あたしはほてった体を起こし、また胃から出そうになって、堪えきれずまた吐いて、もうこれ以上出ないところまで吐いて、ようやく個室トイレから出てくる。
お姉ちゃんが眉を下げてあたしを見つめる。
「ルーチェ♡、大丈夫」
「じゃない」
「だよねえ。でもね、大丈夫だから。だってお姉ちゃんがついてるから。あ、ルーチェ♡の顔色がまた青くなった! ルーチェ♡、心配しなくても、今まで練習してきたことが本番に出てくるだけなんだから、自信持って! ルーチェ♡! 吐瀉物の匂いがしても、ルーチェ♡は最高に可愛い!」
(まじやべぇ……。吐きすぎて死にそう。ああ……消えてなくなりたい……)
「楽屋戻れる?」
「戻る……」
「ああ、パル、ここにいた」
あたしとお姉ちゃんが振り返ると、シワだらけの老婆が歩いてきた。……あ。
「お婆ちゃん」
「まーあ! ルーチェちゃん! 元気だったかえ!」
「久しぶり」
「あんら。どしたの。ルーチェちゃん、めんこいお顔が真っ青になっちまって」
「先生、ルーチェ♡がアガッちゃって」
「ト、ト、トイレで吐いてた……」
「あら、そいつは大変」
お婆ちゃんが杖を小さく構えた。
「癒やしの氷よ。甘くなれ。美味しくなれ。甘くなれ。優しい味わい。ばあばの味わい」
氷の飴が出来上がり、あたしはそれをつまんで口に入れた。
「わ、なつかし」
「ルーチェちゃん、氷飴好きだったでしょう。そこにお婆ちゃんの魔力入れてるからね。これで少しは良くなるよ」
「……本当だ。き、き、気持ち悪く、なくなった」
「あー! よかった! さすが先生!」
「ルーチェちゃんの晴れ舞台だもんね。席に座って応援してるから、頑張ってね。あ、でも怪我にはお気をつけ。魔法使いに油断は禁物よ」
「うん。ありがとう」
「ルーチェ♡ 一人で戻れる? お姉ちゃんと戻る?」
「一人で戻る」
「先生! 心配だからわたくしもついていく!」
「いや、戻れるか……」
「ついていくね!!」
「戻れるっつーの!」
「パル、やめなさい。ルーチェちゃんの嫌がることをしないの」
「だって! 心配なんだもん!!」
「ルーチェちゃん、パルのことは任せてお行き。楽しみにしてるよ」
「うん。ありがとう」
あたしは女子トイレを後にし、一人で廊下を歩き出す。今回参加するチームの子達が廊下でたむろしている。自販機の前でクレイジーが飲み物を選んでいたが、戻ってきたあたしを見かけて振り返る。
「大丈夫?」
「なんとか……」
「座って休んでれば?」
「……ちょっと練習しない?」
「ルーチェっぴー?」
「ふ、ふ、不安なんだもん。それに……ちょっと、その、気分は良くなったから。……ま、魔法は使えないから、ダンスのな、な、流れだけとか……」
「……そだね。やろっか」
「……ありがとう」
二人用の楽屋に入り、室内で軽くステップを踏む。
(足上がりますように。右から。大股。蹴り飛ばす。あー。ミス無しで行きたいなー。どうか魔法失敗しませんように)
「……あ」
クレイジーのスマートフォンが鳴った。着信相手を見て、クレイジーがすぐに応答ボタンを押した。
「ごめん。ルーチェっぴ。取るね」
「あ、うん」
「おっすー。兄ちゃん。どしたー?」
(……お兄さんか。……今のうちにステップの確認してよ)
「やー! んひひひ! ありがと! 嬉しい! 嬉しい! ……ううん! 全然! そっから応援しててよ! まじで優勝いくから!」
(ひぐっ、やめて。プレッシャー与えないで)
「……うん。大丈夫。兄ちゃんは気にしなくていいよ。あとは何とかするから」
(耳を塞いで……振り付けの確認を……)
「……ん? なーに? 兄ちゃん」
クレイジーがきょとんとした。
「兄ちゃん?」
(ん?)
「兄ちゃん? 大丈夫? ……呼吸出来る?)
(ん?)
「兄ちゃん、大丈夫。そこにナースコールのボタンあるっしょ?」
(……ナースコール?)
「兄ちゃん、俺の声聞こえる? ね」
(……なんかまずくない?)
「兄ちゃーん? 聞こえるー?」
クレイジーが黙った。
「兄ちゃーん?」
クレイジーが首を動かした。あたしを見る。
「スマホある?」
「あ、うん。待って」
やばいことが起きてる気がして、あたしはポケットからスマートフォンを取り出した。クレイジーが受け取り、素早く指を動かして、自分のスマートフォンを応答の状態にしたままあたしのスマートフォンで誰かに電話を掛ける。
「あ、もしもし。母さん? ユアン。……今どこ? セインの様子おかしいんだけど」
クレイジーがそわそわしだした。
「や、今、電話繋がってて、ルーチェっぴからスマホ借りて……うん。発作起きたみたいで、ナースコール押せてるか確認出来てなくて。……や、ちょ、わかった。すぐ病院行ける? や、いいよ。俺すぐ連絡するから。じゃ」
クレイジーが通話を切った。クレイジーがあたしに自分のスマートフォンを渡した。
「ごめん。声かけて」
「え?」
「セイン大丈夫? って声かけて」
「あっ、え?」
「もしもし、すいません。兄が入院してるんですけど、名前がセイン・クレバーで……」
(……声掛け……?)
あたしは勇気を出して、細い声で声をかけてみた。
「……も、もしもーし……?」
何も聞こえない。
「セイン……さん……ですか……?」
ガサリと、音が聞こえた。
「だ、大丈夫ですかー……?」
『……。……。……ルーチー?』
「え?」
『げほっ!』
「えっ? あのっ」
『ゲホッ! ゲホッゲホッ!』
「え、あ、く、クレイジー君、えっと……」
『ゲボボッ!』
「なっ、なんか、すごい音が……!」
「兄がナースコール押せてない可能性があって、早く病室に。だから、病室の番号が……!」
『セイン君!』
クレイジーのスマートフォンから慌しい声が聞こえた。
『先生呼んで!』
『脈は!?』
『セイン君ー!? 聞こえるー!?』
『大量に血を吐いてます!』
『心臓の音が聞こえません!』
スマートフォンの向こうがとんでもなく騒がしくなる。
『電気マッサージ!』
『緊急事態です! 手術室を開けて!』
『ご家族に連絡して! 峠よ!!』
スマートフォンから流れる音をあたしと――クレイジーが黙って聞く。乱暴な音が響き、何かが引きずられたような音が聞こえて、体を移動させた音が聞こえて、カートを押す音が聞こえて、看護師と医者らしき者の声が聞こえて、どんどん聞こえなくなって、……何も聞こえなくなった。
クレイジーを見上げる。そこには――見たことがないほど真っ青に顔色を変えたクレイジーの姿があって――呆然と――思考を停止させている。あたしはスマートフォンを見て、もう一度クレイジーを見上げる。
「……コリス……さんに、連絡した方が良くない……?」
「……あ、……ああ、うん」
「……あ、あたしの、スマホ、使っていいよ」
「あ、うん。ありがとう……」
(あ、でも電話番号わかるかな……?)
クレイジーがあたしのスマートフォンで電話を掛ける。あ、番号は大丈夫だったか。すげえ。よく覚えてるな。
「……兄ちゃん? あー……なんか、セインの様子が……かなり、やばいみたいで……や、なんか、応援のさ……電話くれてたんだけど……途中で発作起きたみたいー……で……あ、母さん、には……連絡して、だけど、なんか、あの……峠? って聞こえて……」
クレイジーが声を震わせる。
「や、うん。そうした方が……や、俺は……」
しばらく黙って――クレイジーが笑顔で言った。
「大丈夫っしょー! へーき! へーき! 俺っちここ終わってからすぐ行くからさ! 兄ちゃん先行っててくれる? まー、大丈夫っしょ! いつも何とかなってんだから!」
あたしはクレイジーのスマートフォンを見た。
「大丈夫! 終わったら! 瞬足で行くから! まじまじ! やー、ごめんねー! せっかく来てくれたのにさー!」
クレイジーのスマートフォンからは何も聞こえない。
「じゃ! あとは頼むね! 兄ちゃん!」
クレイジーが通話を切り――黙って――笑顔であたしに振り返った。
「よーし! ルーチェっぴ!」
「棄権しよう」
クレイジーが黙った。
「今ならま、まだ、まだ開場時間だから、ま、間に合うから」
クレイジーの目が揺れる。
「峠って、あ、あたしも聞こえた」
峠。
「なんか……やばい……んだよね……? ……お兄さん」
「……」
「……お兄さん……でしょ?」
「……」
「……入院してるの?」
――クレイジーが頷いた。
「なんか……やばい……病気?」
「……心臓病」
「……」
「ドナーは見つかってる。手術予定」
「……まだ、してないの?」
「うん」
「……ドナー見つかってるのに……予定なの?」
「うん」
「……なんで?」
「お金払ってないから」
あたしの眉がひそめられた。
「……保険とか」
「入ってるよ」
「じゃあ……」
「下りた保険金と家族で貯めた貯金、全部父さんに取られちゃった」
「……え?」
「そう。今、うちお金なくてさ」
「……え? 待って? 取られた?」
「そっ」
「お父さんは?」
「どっか行った」
真顔のクレイジーが答えた。
「消息不明」
――モニターから派手な音が聞こえた。盛り上がる人々の拍手が沸き起こる。
『レディース・エンド・ジェントルマン! ようこそ皆様、ヤミー魔術学校独占イベント、魔法ダンスコンテストへ!』
花火が打ち上がる。歓声が上がる。司会者達の甲高い声が響く。その中で、あたしとクレイジーが静かに見つめ合う。
「優勝すれば賞金が手に入る」
彼は策士だ。
「兄ちゃん達が必死にかき集めたのと合わせたら、丁度」
奇策を考える天才だ。だけど、奇策だけではどうにもならないことがある。
「兄ちゃんが手術を受けられる」
峠。
「まさか、手術直前で父さんに持ち逃げされるなんて……思うわけねえじゃん?」
「……」
「だから棄権は無し。優勝するまで動けない。優勝以外はアウト。それ以外の結果が出たら……セインは死ぬ。うちの家族は崩壊する。夢とか、魔法使いとか、そんなこと言ってらんない。俺も……学校を辞めることになる」
あたしの目の前には、夢に向かって必死に足掻く一人の男の子がいる。
「だから、ルーチェっぴ」
ユアン・クレバー。
「頑張ろ?」
人生をあたしなんかに賭けた、とんでもないクレイジー野郎が、あたしに微笑んだ。
(……そんな状態で……今まで練習してたってこと?)
確かにアルバイト、休まず練習の後、働きに行ってた。Cステージの日、用事が入ったって言って途中で抜け出した。『何の用事』だったんだろう。あたしが寝坊した日、スマホに来た連絡で血相変えて帰って行った。彼の魔法で作られた花びらが言葉を示した。
『間に合え』
――まだ元気でありますように。
――まだしばらく様態が安泰しますように。
――もう少しだから。
――もう少しで魔法ダンスコンテストが開かれる。
――優勝すれば、賞金が手に入る。
兄ちゃんの手術費用が手に入る。
――間に合え。
(……そういうことだったの……?)
にこにこ笑っていた彼を思い出す。
(いや、笑ってる場合じゃ……)
全てがわかった今――彼がどういう状況かわかった今――引くに引けなくなってしまった。最高で、優勝出来たらいいな程度に思ってた。だけど違う。彼は違うのだ。優勝以外はあり得ないのだ。優勝すれば大金が手に入る。それを手に入れないと――彼の全てが壊れるのだ。
だから――訊かないわけにはいかなかった。
「……なんで……あたしだったの……?」
「……言ってるじゃん。ルーチェっぴとやりたかったんだよ」
「や、そこは、ちが、だから、……あたしよりも、優秀な人、いっぱい……」
「ルーチェっぴ以外考えられなかった」
「嘘だよ……」
「じゃないと誘ってない」
「……どうするの」
「だから、やるしかないって」
「優勝、できると思ってるの?」
「チーム名の『クロトン』って、運を運んでくれるんでしょ?」
クレイジーは笑う。
「運がいいなら、そうだね。いけんじゃね?」
笑うしかないのだ。
本来の自分の顔を隠すために、もう、馬鹿みたいに、この子は笑うしかないのだ。
だって、こんな話、されたって困るもの。しても困るもの。お互いどうしていいかわからなくなってしまうもの。ああ、こういう時、お姉ちゃんならなんて言うかな。ミランダ様ならなんて言うかな。きっと元気づけられる、安心させられるような気遣った言葉を言えるんだろうな。でもあたしには言えない。どう言葉をかけていいかわからない。大丈夫だよ、は無責任すぎる。そこまで言うなら優勝しよう、は気休めに過ぎない。どうする。なんて言えばいい。なんて声をかければいい。
ごめん。やっぱりあたし、こういうところで発達障害を持ってるんだって思う。言葉をかけたいのに良い言葉が頭に思い浮かべない。だから、思ったことを率直に言ってしまう。
「運なんてないよ」
クレイジーの笑みが止まった。
「やってきたことが出るんだよ。全部」
運があれば、発達障害のあたしはもっと楽に生きられたはずだ。人生は運なんかで物事が運べるほど簡単じゃない。あたしは運なんて信じない。信じて良い事なんてなかった。運なんて存在しない。
モニターでは、人々が盛り上がっている様子が見える。
「やった数だけ結果が出る」
クレイジー君。
「あたし達は……少なくとも、正しい練習の数をやってた方だと思う」
パルフェクトに尻を叩かれた日々に間違いはなかった。あとは体が動くか、動かないか、魔法が発動するか、しないか。それだけ。
「全部、結果」
「運なんてない」
「努力したものが出るだけ」
「……やってきたことだけやろう」
クレイジーには後が無い。でも、あたしにだって後は無い。
「それが全部結果に繋がるから」
「……」
「……ああ、そうだ」
あたしはリュックから小瓶を取り出し、クレイジーに差し出した。クレイジーが一目見て、その正体を答える。
「冷静薬」
「一瞬でわかるんだ。す、すごいね。……夏休みの宿題で作った。……あげる」
「……」
「……胸、ざわついてるでしょ。身内の……あんなもの聞いた後なら……なおさら」
「……」
「……これ飲んでから、またあの、ま、マインドコントロールやろ? ……冷静に、ダンスを踊れて、楽しんで……魔法が使えますようにって自己催眠をかけるの」
「……」
「……願えば……祈れば……魔法は味方してくれる。あたしも……全然クラス上がれなかったけど……魔法だけは……いつもあたしの味方だった」
「……」
「……ごめん。大した事言えないけど、だけど、さ……」
クレイジーの手を握りしめて、彼の顔をしっかりと見て、伝える。
「やってきたことは間違ってないし……クレイジー君は、……一人で、踊るわけじゃない」
緑の瞳があたしを見つめる。
「あたしも、いる……から」
手に力が入る。
「一緒に、やれるだけ……やろ? ……気張らずに、背伸びせず、いつも通りに」
「……」
「……で、あの、……あの、お、終わったら……すぐ抜けて……病院に行って? ……結果はあたしが聞いて、連絡する。それならいい?」
「……」
「その、ゆ、優勝出来なくても、なんとかなる方法、考えよう? ミランダ様も、そ、そう、ジュリアさんも今日いるの、魔法調査隊の。魔法の専門家だから、なんとか……相談して、方法があるかもしれないから。……魔法調査隊なら、お金、持ち逃げしたお父さんの行方もわかるかもしれないし……絶対なんとかなると……思うから!」
「……」
「……一緒にやろう?」
震える手をしっかり握り締めて離さない。
「二人なら、怖くないよ」
「……。……。……だね」
「……頑張ってたんだね。あたしよりも、全然」
「……や……それは……どっちも、どっちじゃね?」
「……や、頑張ってるよ。……あたしなら……絶望して泣いてる」
「……泣いたよ」
「……クレイジー君も……泣くんだ」
「泣くよ。……大泣き。家族会議中に……止まんなくなって……そりゃ、全部取られたんだから……家族で集めてきたもの……まじで」
「……マインドコントロール、やる?」
「……うん。やろ」
「うん。じゃあ、まず、あの、あ、あたしが作った冷静薬、飲んでもらって」
「ルーチェっぴ」
「うん?」
「ありがとう」
「……うん」
「好き」
「……そういうの後にして」
「ひひひひひ!!」
(冗談言ってる場合じゃないってば。もう!)
笑いながらクレイジーが蓋を開け、ルーチェお手性冷静薬を一気に飲んだ。
『それでは! 早速最初のチームから行きましょう!』
あたしとクレイジーはマインドコントロールで心を落ち着かせる。一つだけ暗示をかける。あたしは――練習したことが全て出せますようにと催眠をかける。時間が近付く。最初のチームが終わる。二番目のチームが終わる。三番目のチームが終わる。ドアが叩かれた。
「お疲れ様ですー。そろそろ準備お願いしまーす」
あたしとクレイジーが顔を見合わせ――クレイジーが首を傾げた。
「行ける?」
「クレイジー君は?」
「大丈夫」
「あたしも大丈夫」
「手でも繋ぐ?」
「……え、え、遠慮する」
「俺っちは繋ぎたいなー?」
いつもの調子が戻ってきたクレイジーに、あたしは顔をしかめた。
「ね、駄目? 俺っち、すごくルーチェっぴに甘えたい気持ちなんだっぴ」
「……好きな人に見られても知らないよ」
そのまま手を伸ばし、相棒の手を握って、一緒に廊下に出た。
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