第8話 継続は力なり
試験の前日は朝からミスが多かった。朝ごはんの玉子焼きに白出汁を入れるのを忘れるし、砂糖と塩を間違えるし、雨が降ってるのに傘を置いて外に出ようとするし。あたしは電車の中で改めてスマートフォンのタスクメモを見つめつつ、録音アプリを100ワドルイヤホンで聞き、眉を潜ませた。
(滑舌がやばい……)
あたし、なんでこんなに声がこもるんだろう。口も開いてる。言葉を出してる。舌を動かしてる。なのに明瞭ではっきりしたロボットみたいな言葉が出てこない。「ら」が「りゃ」に聞こえる。「そ」が「せ」に聞こえる。魔法に集中したいのに、基礎が出来てないから魔法が中途半端になってしまう。
(どうしよう……)
あたしはもう一度聞いてみる。
(アクセント、これでいいのかな。本当に良いのかな)
アクセント辞典のアプリを開いて聞いてみる。
(これだよね? あたしの耳あってるよね……?)
あたしは録音した声を聞いてみる。
(え? 何? 違うように聞こえる。でも、……頭高だから……あってるよね……?)
次はない。
(どうしよう。あってるかな。あってるよね? これでいいんだよね? 大丈夫だよね? 大丈夫じゃないかもしれない。あたしの大丈夫は大丈夫じゃないってセーレムが言ってた。あ、また嫌な記憶思い出してきた。あ、あの時のことも、あ、違う、そうじゃなくて、あ、あの時のことも思い出してきた)
一度思い出したら記憶が一気に膨れ上がって思い出す。
(あ、あ、あ……)
頭の中がパニックになる。
(あ、あ、あ……)
あたしは震える指で無意識に別のアプリを開いた。チャットアプリだった。
(……あ)
アーニーちゃんのアイコンが見えた。
「……」
あたしは言葉をタップする。アーニーちゃん。忙しいところごめん。明日大切な試験があって、滑舌に自信がないから、聞いてくれませんか?
あたしは録音した声をそこに貼り付けた。
(……迷惑だったかな……)
既読がつかない。
(送らなきゃよかった……)
アーニーちゃんはもう学生じゃない。プロとしてデビューして、今きっと忙しいはずだ。あたしの声なんか聞いてる暇なんてない。
(だって、ミランダさんと似たようなことをしてるんでしょう? あたしは試験だけど、アーニーちゃんの場合は仕事)
きっといっぱいいっぱいだ。あたしに構ってる余裕なんて無い。
(あ、どうしよう。嫌われたくない。でも、頼れるのアーニーちゃんしかいないし、でも、でも……)
――チャットに可愛いスタンプが押された。
(あ)
>ルーチェ久しぶりー!!
>今声出せないから、ちょっと待っててねー!
(え)
ぴこん♪
音と共にアーニーちゃんから録音した声が送られてきた。
(……おー……)
あたしは声を再生してみた。
(……何これ。……アクセントロボットみたい……)
再生が終わると、再びチャット欄に画面が戻った。メッセージが残されてた。
>前より滑舌良くなってるよー!
>明日試験なんだね! 後悔ないように練習して、自信持ってやりきって!
(……っ)
ほんの少し、……目が潤んで、ここが電車の中であることを思い出して、ぐっと堪えて、あたしは欠伸をしましたと示すために口を開けて欠伸をする人の真似をしつつ、……チャットに言葉を打った。
>ありがとう。アーニーちゃん。
>この間テレビでアーニーちゃん見たよ。お仕事頑張ってね。
>あたしも頑張る。
(継続は力なり)
あたしはもう一度アーニーちゃんの声を聴くために、再生ボタンを押した。
(*'ω'*)
教室にベリーがいる。ベリーが楽しそうにみんなと話している。男子も女子も交えて楽しそうに。前はなんだか正直疎ましかった。チームの協調性も無視して、きっかけがあたしだったにせよ、トラブルに発展させたベリーに恨みを持って、自分にもなぜもっとベリーに歩み寄れなかったのか後悔と憎悪の念で渦巻いていた。でも、そんな余裕ない。そんなのに構ってる暇はない。あたしは目の前の事に集中しなければいけない。これが駄目ならあたしに次はない。
「課題やったー?」
「これでしょ?」
「この呪文さ、この部分言いづらいんだよね。いっつも噛むの」
友達同士で喋る余裕があるなんて羨ましい。妬ましい。あたしはこんなに必死にやらないとこの呪文のこの部分を噛んでしまうのに。畜生。今も時間が足りなくて練習している。絶対に成功するように。
こういう時、あまり喋る人がクラスにいなくて良かったと思う。誰もあたしに声をかけてこないから返事を返すために時間を使わなくて済む。それよりもあたしはこの課題をこなさないといけない。噛むなら噛まないようになるまで繰り返す。何が駄目なんだ。どうして舌が動かなくなるんだ。舌を前にぴーんと伸ばして、また挑戦してみる。今は言えた。次は? 駄目だ。ああ、時間が足りない。みんなは友達同士で喋っている余裕がある。あたしはない。仕方ない。だってあたしは障害者。理由には出来ない。健常者の中に混ざらないといけない。あたしは障害者だから仕方ないって割り切るのは練習中だけだ。見せる時はみんな平等。障害も健常も関係ない。あたしは繰り返すしか無い。
忘れるな。みんなはエスカレーターで上がれるけど、あたしは階段でしか上がれないのだから、繰り返すしかないんだ。
(ADHDなんてくたばってしまえ! 吃音症なんて死ね! みんなが5回で出来ることを、あたしは500回やらないといけない。くそ。くそくそくそ! 嫌なら諦めろ。諦めたくないならやれ! 時間の限りやれ! あたしには才能も実力もないから、それしか出来ないんだよ!! 妬ましいとか考える余裕があったら少しでも滑舌を綺麗にする方法を考えろ!)
「みんな、おはよー」
緑魔法使いのリズベルト先生が来て、あたしははっと口を閉じる。
「さあ、課題はやってきましたか?」
あたしは――みんなの背中を見て思った。――やってる人とやってない人が、なんとなくわかった。なんか……わからないけど……雰囲気と顔が違う気がする。
(気のせいかな)
あたしはノートを広げて、クラスメイト全員の名前を書く。
(あたしは才能も実力もないから)
「それじゃあ、一人目から見せてもらいますよー」
(盗んでやる)
10歳には10歳にしか出来ないこと、13歳なら13歳にしか出来ない魔法が存在する。あたしに持ってないものを他人が持っている。あたしが持ってるものはみんな一瞬で真似できるものばかり。あたしに出来るのはそのレパートリーを増やすことだけ。盗んで、参考にして、真似して、自分なりにそれを取り入れる。あの子の滑舌はどうしてあんなに良いんだろう。滑舌は真似できない。数をこなすしか無い。でもあたしは明瞭な滑舌で喋れたことがないから正解がわからない。滑舌は本当に治るものなのだろうか。でもやってない以上答えはわからない。あたしは何が悪いんだろう。姿勢。舌の位置。なんだろう。どうして喋ってる時に舌がピンと固まって動かなくなって喋れなくなる時があるんだろう。みんな普通にぺらぺら喋ってるのに。
「ルーチェ・ストピド」
はい。
あたしは杖を持って前に出た。
「いくつかある中で、どの課題をやる」
課題2でお願いします。
「はい。ではどうぞ」
課題2.鉢に入った土の中にはタネがあります。魔法で花にしてください。(タネはリズベルト先生の魔力。あたし達が注ぎ込む魔力に反応して姿を変えてくれる)
(集中して)
家事に追われながら、ミランダの課題に追われながら、でもこっちも手を抜くなとミランダが言うからやってきた。
(大丈夫)
練習してきたことを見せるだけ。
(あたしはやってきた。怖いものはない)
体に叩きつけてきた事を思い出す。忘れたらどうしよう、どもったらどうしようなんて考えない。ただやってきたことをやるだけ。
さあ――魔法を始めよう。
「それは鳥。それは蝶。思わず貴女にキスしたくなる。太陽と間違えて、ついやってきちゃった。花。満開よ。美しい花。満開よ」
あたしの魔力のイメージがタネに注がれる。リズベルト先生の魔力が姿を変えた。にょきにょきと芽が出てきて伸びていく。にょきにょきと伸びていく。クラスメイト達が目で芽を追っていく。まだ伸びる。もっと伸びる。もっと伸びろ。あたしは太陽をイメージしている。もっと伸びろ。でも、伸びない。もっと伸びてほしかったのにそこまでいけなかった。そこで花が満開に開き、綺麗に太陽のような花びらを見せた。
「うん。面白い魔法です。本当、面白かった。うん。あんまり見たことないです。へえ。よく考えてきましたね。結構。面白かったですよ。戻ってよし」
(……これが実力か)
あたしは今まで、本当に何をしてきたんだろう。7歳からこの世界に入って、19歳になってようやく繰り返すことを覚えた。
(あたし、何やってきたんだろう……)
思うようにいかないのは、自分の実力が無いからだ。
(……駄目だ。集中力が切れた)
ノートを書きたいという感情はあるのに、脳が面倒臭いとあたしを拒む。無理矢理書こうとすると、耳を聞こえなくしてくる。書くのをやめると、耳が聞こえるようになった。だから次の人を見ようとすると、今度は褒められた先生の言葉が頭の中でループして回り、嬉しいという感情と、やったやった、という感情がずっと頭の中で踊り狂う。リズベルト先生はあたしの魔法を褒めてくださった。きっとこう思ってるに違いない。ルーチェはなんて見込みのある生徒なんでしょう。よし、気に入られた。これならきっとミランダさんの課題も上手くいく――。いい加減にしろ。これは妄想だ。あたしの妄想でしかない。集中しろ。あたしは生徒の一人でしか無い。気に入られるとかそうじゃないとかそんなことは今は後回しだ。気に入られたところで魔法使いになれないと意味なんて無い。気がつくと、もう五人の人が終わっていた。あたしが妄想していたのだから、その五人分のメモは真っ白だ。
(……くそ)
感情と脳がばらばらだ。集中しろ。次は……。
「ベリー・ワクソン」
あたしの集中力が蘇った。
「課題はどれにしますか?」
「課題2でお願いします」
「わかりました。はい、どうぞ」
ベリーが呪文を唱える。
(……やっぱり滑舌いいな。ボイストレーニング通ってるって、まだ仲が良かった時に言ってた。実家ぐらしだっけ。トレーニングとここのお金は自分でアルバイトして払ってるって言ってた。15歳なのに頑張ってるよな。嫌だけど、ベリーは実力がある。才能もある。声もいい。ただ……)
ベリーはいつも一生懸命。こだわりが強い分、なんというか、自信がないように見えるのはあたしの気のせいだろうか。きっと理想が高いのだろう。これくらいの魔法を使ってみたい。イメージする。練習する。ベリーはすごく練習してると思う。努力家だと思う。だからこそやる気のないメンバーが一人いるだけでブチギレるのだから。でも、余裕がない。理想と気合で押し切ろうとしている。あたしもそうだった。数をこなさないと不安になって気合で押し切ろうとする。だけど、もうあたしの実力があたしが一番わかってるし、上には上がいるし、到底優秀な人には敵わないのだから、今自分にできる範囲のことを数をこなして上手く見せるしか無い。そう思ったら……ここまで気合で押し切ろうとはしないのではないだろうか。
(まあ、人によって違うんだろうけど)
あたしはベリーの魔法をメモする。やっぱり実力はある。この魔法のこういうところは素晴らしい。でも余裕がない。アーニーちゃんと一つしか歳が違わないのにここまで違うのか。いや、……それはあたしも人のこと言えないか。19歳で活躍してる魔法使いが大勢いる中、あたしは未だ魔法学生。自分は自分。人は人。個性様々。環境も様々。……でも、……これだけは思ってもいいよね。
(ざまあみろ。実家暮らしの甘えん坊のクソガキ)
大人気ないけど、心で思えば誰にも思われない。あたしは笑顔で口を閉ざしたまま、発表を終えたベリーに大きな拍手をした。
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