その意味も形も、未だ分からないままに

 宿屋、星見の羊亭。

 迷宮都市の宿屋の中では三番目か四番目くらいに高級な宿屋であり、ステラが泊まっている宿でもある。

 迷宮都市には数多くの宿屋がある……というか、宿屋だらけだ。

 それは迷宮都市の名の通り冒険者が迷宮に潜り戦果を持ち帰ることで潤う街だからであり、そうなれば当然街の産業も、それを軸に回るようになる。

 その代表格が宿屋というわけであり、高い宿から安い宿まで色々あるわけだが……その最安値の宿にも泊まれていなかったイストファには、まさに別世界のような宿でもあった。

 暖かいお風呂、美味しい食事……ステラからしてみれば「ま、こんなもんね」らしいのがイストファには理解できない感覚ではあったのだが、それはさておき。

 すっかり日も落ち、一部を除けば誰もが眠りにつく時間となっていた。


「ふぁ……それじゃ、そろそろ寝ましょっか」

「おやすみなさい、ステラさん」


 ベッドに入り込むステラに挨拶すると、イストファも部屋の隅に転がって目を閉じる。

 屋根のある場所で寝られるのは、本当に久しぶりだ。

 一体いつ以来だったか、確か家を出てからはずっと野宿だったはずだ。

 そう考えると、此処で寝られるのはなんて幸せだろうか。

 明日はきっと良い日になると、そんな事を考えて。そのすぐ後に、何者かにつつかれる。

 イストファが振り向けば、そこには呆れた顔のステラが立っていた。


「そんな端っこに居るから何してるのかと思えば……」

「え? あ、ひょっとしてこの場所だと邪魔でしたか?」

「……んー、こりゃ重症だわ。よいしょっと」


 ステラはその細腕に似合わぬ力でイストファを持ち上げると、ベッドに放り投げる。


「え。うわっ!?」


 ふかふかのベッドの上に乗ったイストファは、慌ててベッドから降りようとしてステラに阻止される。


「あ、あの。僕がベッド使ったらステラさんは……」

「いいから、ちょっと詰めてね」


 イストファを少し押しながらステラは横に座ると、イストファの頭を軽く撫でる。


「明日以降は二人部屋も空くみたいだけど、今夜は仕方ないわ。さ、寝ましょ?」

「え? えっと……」


 戸惑うイストファを、ステラは無理矢理ベッドに寝かせて胸元をポンポンと叩く。


「はいはい、遠慮とかいらないから。さっさと寝るの」

「え。ええ!? で、でも。え?」

「でも、は無しよ。私が良いって言ったら良いのよ。はい、おやすみ」


 言いながら目を閉じるステラに、イストファは小さく「はい」と答える。

 少しでもステラの迷惑にならないようにちょっとだけ隅に寄って、そうしてイストファも目を瞑る。


「……おやすみなさい、ステラさん」


 思い返せば、今日は信じられないことの連続だった。

 ステラとの出逢い。

 貰った一万イェン金貨。

 初めてのダンジョンと、盗賊男。

 そして、今までの自分では達成出来なかった程の稼ぎ。


 何もかもが順調というわけでは、勿論ない。

 使えないわけではないが短剣は早速欠けてしまったし、ステラにはダンジョンで二度も助けられた。


 けれど。それでも、着実に前に進めている。

 薬草採りだけでは進めなかった場所へ、イストファは進めている。

 ならば、明日はもっと。明後日はもっと。

 その先は、もっと……もっと先に進めるはずだ。


 そうすれば、きっとイストファも一流の冒険者になれるだろう。

 色んな人に好意を向けて貰えて……きっと、幸せになれるはずなのだ。


 幸せ。そう、きっと自分は幸せになりたいのだとイストファは思う。

 自分の手で、幸せを掴みたいのだ。

 それにはきっと、一流冒険者になるのが近道であるはずだ。


「……」


 背後から聞こえてくる寝息に、イストファは思う。

 結婚だなんだというのは、ステラが何処まで本気なのかイストファには分からない。

 魔力の話もエルフの話も聞いたが、それが本当かどうかすらもイストファには分からないのだ。


 でも、ステラがこうして親切にしてくれているのは事実で。

 イストファは、この街に来てから一番の幸福を味わっている。

 ……だからこそ、怖い。怖くてたまらない。


 ステラはきっと、いつでもイストファを測っている。

 今は気に入られているかもしれないが、ある日突然そうでなくなる可能性だって、充分にあるのだ。

 そしてその時、自分で立つ力が無ければ……待っているのは、あの路地への転落だ。


 そう考えると、自然と身体が震えてくるのをイストファは感じる。

 ……だからこそ、イストファはやらなければならない。

 自分の力で、自分を幸せに出来るようにしなければならないのだ。


「……やらなきゃ。そうしなきゃ、幸せになれないんだ」


 呟きながら、イストファは眠ろうと固く目を閉じる。

 望む幸せ。その意味も形も、未だ分からないままに。

 与えられた事がなかったからこそ、その素晴らしさを夢見て……イストファは眠りの世界へと旅立っていった。

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