057 な、何するんですか!
その日、午後十時頃、山田雄作(仮称)は、会社からの帰宅途中で、電車に乗っていた。
夜も遅いというのに、車内はそこそこ混んでいて、山田雄作(仮称)は吊り革につかまって立っていた。邪魔にならないよう、リュックは体の前に抱えていた。
山田雄作(仮称)は車両連結部のすぐそばにいた。山田雄作(仮称)の右側は連結の扉で、山田雄作(仮称)は右手で吊り革をつかんでいた。山田雄作(仮称)の左には、若い女性が立っていた。
電車の窓ガラスに映っているその若い女性の姿を、山田雄作(仮称)は見るともなしに、見ていた。なかなかの美人だな、と山田雄作(仮称)はぼんやりと思った。
その女性は左手で吊革を持ち、右手でスマートフォンを操作していた。
山田雄作(仮称)も、ツイッターを見ようと、スマートフォンを入れているズボンのポケットに左手を入れようとした、その時。
それが起こった。
突然、山田雄作(仮称)をある感情が襲った。
俺、やらなきゃ。
何か、やらなきゃ。
山田雄作(仮称)はそう思った。
その思いは切実で、切迫していた。
切実で切迫していたにもかかわらず、具体的に何をすればいいのか、肝心のそのことが分からなかった。
分からなかったが、それはとても大切なことのはずだった。
何だ。
何だっけ。
ふと、電車の窓を見た。
そこには、自分と、自分の隣に立っている女性の姿が映っていた。
山田雄作(仮称)は、窓に映っている女性と、目が合った。
その瞬間、山田雄作(仮称)は何をすべきかが分かった。
山田雄作(仮称)は、窓ガラスから、隣に立っている女性に視線を移した。
隣に立っている女性も、山田雄作(仮称)を見た。
二人はどちらからともなく手を伸ばした。
山田雄作(仮称)は、吊革につかまっていない、左手を。
隣の女性は、持っていたスマートフォンを鞄にしまい、右手を。
そして、二人は手をつないだ。
そのとき、山田雄作(仮称)は思った。
もし、この女性が困っていたり、悩んでいることがあって、もし、自分が何か彼女の役に立てることがあるのなら、彼女の助けになりたい、と。
隣に立っている女性も、山田雄作(仮称)に対して、まったく同じことを思っているのだということが、山田雄作(仮称)には分かった。
見ると、前の座席に座っている乗客たちも、お互いに手を握っている。どう見ても、彼らは知り合いではない。山田雄作(仮称)のすぐ前に座っている男は、飲み会の帰りらしく、だらしない格好で寝ていたが、今は居住まいを正し、隣に座っている年配の女性の手をうやうやしく握っている。
山田雄作(仮称)が車内を見渡すと、乗客全員が、近くにいる人同士、手を握り合っている。
山田雄作(仮称)は思った。
俺たち、もしかしたら、できるんじゃないか。
誰もが心の奥では、そうなればいいと思っていたこと。でも、そんなことできっこないと思っていたこと。あまりにも非現実的で、口に出すのもためらわれること。今どき、小学生でもそんなこと言わない、荒唐無稽なこと。
でも、それは、もしかしたら、できるんじゃないか。
本気でやろうとしてこなかっただけで。
やらないうちから、あきらめていただけで。
っていうか、今なら。
今なら、やれそうな気がする。
山田雄作(仮称)を握っていた手に、力が込められた。
山田雄作(仮称)は、自分の手を握っている、隣の女性を振り返った。
隣に立っている女性は、山田雄作(仮称)に何かを言おうとして、口を開きかけた、その時。
それは唐突に、終わった。
それが始まった時と同様、何の前触れもなく。
女性は、口を閉じて、自分の手を見下ろした。
そして、山田雄作(仮称)に視線を戻した。
女性の表情に、困惑と、かすかな嫌悪が浮かんだ。
ばっ、と女性は山田雄作(仮称)の手を振りほどいた。
「な、何するんですか!」
「え」思わず手を引っ込めながら、山田雄作(仮称)は言った。「いや、何って、な、何だろ。え。あれ。俺、なんで」
前の座席の老婦人は、嫌悪感を露わに、隣の男性の手を振り払い、体を遠ざけようとして、反対側の若い女性にぶつかった。若い女性は「ちっ」と舌打ちすると、老婦人の体を押しやった。
山田雄作(仮称)の背後、車内では、乗客たちが混乱に陥っていた。
「ちょっと、何触ってるんですか!」
「ち、痴漢です!」
「ちょ、キモいんだよ、ジジイ!」
「てめ、俺の彼女に触んじゃねえ!」
乗客の誰かがもみ合い、それが車内に広がっていった。誰かが非常停止ボタンに手を触れ、電車は急停止した。
立っている乗客たちは急停止の反動で倒れた。
山田雄作(仮称)の隣の女性もよろめいて、山田雄作(仮称)の腕をつかんだ。
山田雄作(仮称)はすぐそばの車両連結部の扉にもたれかかり、隣の女性を支えた。
電車が完全に停止し、隣の女性は山田雄作(仮称)をつかんでいた腕をはずすと、山田雄作(仮称)から距離を取り、山田雄作(仮称)をにらんだ。
なんでこんなことに?
山田雄作(仮称)は首を振った。
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