056 アレサと同じくらい
まひるたちのもとへと上昇している俺たちの耳に、まひるの声が届く。
「クシー! いいんだよ。私に言っていいんだよ。あのスーツケース、いいなーって言っていいんだよ。もっといろんなことしたいって言っていいんだよ。くやしがっていいんだよ。悲しがっていいんだよ。もっと歌っていたいって言っていいんだよ。私には言っていいんだよ。クシーは全然充分じゃないよ。ぜんぜん足りてないよ」
俺たちの視界に、クルーナー=クシーとまひるの姿が入ってきた。
まひるは、クルーナー=クシーの足に両手両足を使ってしがみついている。はっきり言ってカッコ悪い。クシーは、第三段階の能力が切れてからも、なおも上昇を続けようとしている。それをまひるはなんとか押しとどめようとしているようだった。
「お願い!」まひるが、クルーナー=クシーの顔を見上げて、言った。「戻ってきて、クシー!」
クシーは無言だ。まひるを足にくっつけたまま、クルーナー=クシーは上昇を続けていく。
「ふぐ、ふぐううううう」
まひるの嗚咽の声が聞こえてくる。お、お前また……。
俺たちは、クルーナー=クシーのすぐ下方まで来た。
「だめだ!」ぱん、とまひるは両手で頬を叩いた。「泣いてちゃ、ちゃんと歌えない」
まひるはクルーナー=クシーの足から離れると、その体と並行して上昇し始めた。なぜか、その体は直立不動の体勢だ。
まひるが大きく息を吸う音が聞こえた。
「令禅学園中等部二年三組安藤まひる、魔法少女、う、歌います!」
「ま、まひるん……それ別にいらん……」あかねが残念そうにつぶやく。
まひるが歌い始めた。
「い、いふざすかぁあーい、あぶうぁぶゆ
ぐろぉうずだあー、あんふぅおぶくらうず」
それは、第二回オフ会で、クシーが歌った歌だった。キャロル・キングの『君のともだち』。
「えんざどぉーおー、のーすぅういん、びぎん、ずとぅぶろー
きーぴょへー、とぅげえざー
あん、こおおおおまねぇ、まあうらあはあぅど
すぅん、ゆーひぃみ、なああっきんん、な、よおおおおどぉ」
最初たどたどしかった歌声は、次第に力を増していった。
さすが、ケイさん仕込みだ。
「ゆーじゃすと、こーる、あう、まぁいねぃむ
あんゆのーお、ふぇえばあいぇむ
あいるかむ、らぁにんぐぅ、らあにん、いぇ、いえへぇ
とぅ、しゆあげえんん
うぃんた、すぷりん、さま、お、ふぉお
おやはふ、とぅどぅいず、こおーおおおる
あんだ、びーぜえ、いえさあ、うぃいいいる」
クルーナー=クシーの体に変化が起こり始めた。
滑らかだったグレーの表面が、まるでセメントのような、ざらざらとしたつやのない材質に変化していった。
「クシー!」まひるが叫ぶ。「ゆーじゃすと、こーる! あうと、まいねーむ!」
クルーナー=クシーの体にひびが入り始めた。
「ただわたしの名前を呼ぶだけで、いい」まひるが言った。「わたしがどこにいても、飛んで行く。会いに行く。冬だって、春だって、夏だって、秋だって。いつだって。ただ、わたしの名前を呼べばいい。そしたら必ず、わたしはそばにいるから。これからクシーが黒く濁っていっても、わたしがそばにいるから。クシーが取り込まれても、何度でも助けに行くから」
クルーナー=クシーの棘が体からはがれて、落ちていった。
俺の手足から棘が消え、犬の手足に戻る。
「だから、お願い、クシー。呼んで。私を呼んで。私の名前を呼んで!」
「まひる!」
クシーの声が響いた。
クルーナーの外殻が、ぼろぼろと、剥がれ落ちていく。
粉々に砕けていくクルーナーの中から、クシーの体が現れた。
クシーは空中に、あおむけで漂っていた。学校の制服を着て、長くて細い手足がゆっくりと揺れている。その姿は、まるで、透明な海に浮かんでいるかのようだった。
やがて、クシーの体が反転し、まひるが手を伸ばした。
二人はお互いの両手をつかんだ。
二人の声が聞こえた。
「クシー、私、あのスーツケース、買ったよ」
「え」
「お金は山田さんがほとんど出してくれたんだけどね。えへへ。誕生日プレゼントだよ、クシー」
クシーがまひるに抱きついた。
「一緒に帰ろう」クシーの腕の中で、くぐもった声で、まひるが言った。「それで、お誕生日会、しよう」
クシーの腕に、きゅっと力がこもったように見えた。
「響いたよ、まひるの歌。ニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会のアレサと同じくらい、私の胸に響いたよ」
「あれ? さ?」
「今度教えてあげるよ」
やがてうっすらと、太陽の光が差し込んできた。
その光は、東の地平線から顔を出し、みるみるうちに、大気圏を照らしていく。
俺たちの上空で抱き合っている二人の魔法少女に、黄色い光が降り注いでいった。
陽の光に向き合って、クシーが言った。
「ジーザス」
クシーはまひるに頬を寄せた。
「なんてきれいなんだ」
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