016 すごくいい
クルーナーの内部に入ったとたん、俺の体は人間の姿に戻った。手にはコアを抱えている。
中は、何もない空間だった。
グレーの壁に覆われたドームのような空間というイメージだ。灯りはないのに、何があるかは知覚できる、そんな不思議な感覚があった。
近くに人の気配を感じて、俺はそちらの方へ近づいた。
すぐ目の前の空間に、人が浮かんでいる。
取り込まれた人――坂本さんだ。坂本さんは赤い色のコアを抱きかかえるようにして、目を閉じ、ゆらゆらと浮かんでいた。コアと体とが融合してしまっていて、境目がなくなっている。顔色が悪く、苦しそうな表情を浮かべている。
俺は坂本さんが抱えている赤いコアに手を伸ばし、そっと触れた。
坂本さんを襲っている負の感情の源が流れ込んできた。
「なあ、坂本さん、ちょっと考えてみてくれないかな」「あんただったら、まだまだ、働けるよ」「あんたの職歴だったら、その歳だっていくらでも働き口はあるから」「若い人がなかなか上にいけない状況があってね」「坂本さん、適性検査でも、営業能力が非常に高かったですから、これからは外でその能力を活かしてみてはどうですか」「セカンドキャリア講習、かなりためになったんじゃないですか」「坂本さん、どうかな、同期の石田さんも、前向きに考えてくれてるみたいなんだ」
かつて、会社に勤めていたころに、坂本さんが言われた言葉だ。それから坂本さんは執拗な会社からの勧めに応じて早期退職した。早期退職後の再就職の支援があるのは超王手企業だけだ。もちろん再就職の当てはあったが、坂本さんはそこもすぐに辞めてしまった。そこからは、もう転落の一途だ。再就職どころかアルバイトさえ受からず、最終的には肉体労働のすえ体を壊してしまう。会社を辞めたとき、彼の中で、何かが終わってしまったのだ。長年勤めた会社が求めたのは、社歴の長い坂本さんたちの人件費を減らすことで得られる固定費削減だった。
結果、彼は自ら命を絶つか、自暴自棄になって無関係の人を巻き込み破滅的な行動に走るかを、真剣に考えるような地点にまで至ってしまっていた。
俺は、持っていた青いコアを赤いコアの隣に置いた。青いコアの中には、彼の人生でよかったとき、楽しかったとき、充実していたときの記憶を呼び起こす、事象の断片が詰まっている。青いコアから流れてくるイメージによって、正の感情が励起されていくことを俺は祈った。
しばらく変化がなかった彼の体に、徐々に変化が現れた。赤いコアの融合が徐々に解かれていく。苦しそうだった表情もかすかに和らいできた。やがて、完全に赤いコアが体から分離すると、俺はそれを取り上げた。
そして、坂本さんが抱える青いコアに触れた。
この赤いやつは、俺が処理します。俺は一度あちら側に足を踏み入れてしまった人間なんで。俺が負うのは一応筋が通ってるでしょう。もう行ってください。あとは、引き受けます。
坂本さんの体を押すと、すっとグレーの壁を通り抜けて向こう側へ消えていった。
『おっさん!』あかねの声が届いた。『中の人を回収したで』
『山田さん』まひるの声がした。『山田さんも脱出してください。全員でコアを破壊します』
「いや」俺はつぶやく。「そうしたいのは、やまやまなんだけど」
俺が腕に抱える赤いコアの中身は、今、空っぽになっている。
そして、俺の背後から何かが近づき、ぴったりと俺の背中に張り付いた。
白い腕が俺の胸に回される。
白く細い指が、俺の首筋をゆっくりと撫でていく。
女か。
豊かな乳房の厚みを背中に感じながら、俺はちらりと後ろを見た。
暗くて、はっきりと顔が見えない。
「ねえ」首元で女がささやく。「あなたが、代わりにいてくれるのよね」
まあ、そうなるわな。
突如、俺の持つ赤いコアから、黒いものが俺の中に流れ込んできた。
それは、言ってみれば、呪いだった。
この呪いに従えば、世界を破滅に導くことができる。
それはとても甘美な誘いだった。
それはずっと自分が密かに憧れ、夢見てきたことだった。
期待で背筋がぞくぞくした。
改めて俺は自分の本心を認めた。
こんな世界なんていっそ滅んでしまえと思っていた。
こいつらみんな死んでしまえと思っていた。
こんな奴ら生きてる価値ないだろと思っていた。
自分も死んでいいから、もういっそみんな死んじゃえよと思っていた。
「本当に、あなた自身が死ぬことになっても?」
背後の女が問うた。
「いい」即答した。「俺の命でそれができるのなら、安いもんだ」
「あなたの身近な人間が死ぬことになっても?」
かえでには悪いが、面倒な親を持った不運を呪ってもらうしかない。
「かまわない」
「そう」女が満足そうに微笑むのが分かった。「あなたは素晴らしいわ。じゃあ、こちらも全力で期待に応えるようにしなくちゃね」
そして、赤いコアが、力で満たされた。
俺の両手首は、完全にコアの中に埋没している。
クルーナーの内部が震え始めた。
自分の体がどんどん膨張していくような、全能感が俺を襲う。
「いいわぁ。すごくいい。あなた、最高よ」女が嬌声を上げる。「世界中に、私たちの歌を聴かせてあげましょう」
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