007 あ、まどマギだ

 ピーンポーン。

 と、玄関のチャイムが鳴ったとき、俺はまだ熟睡の最中だった。夢も見ていなかった。

 飛び起きた俺は、一瞬戸惑ったが、すぐに昨日の記憶を取り戻し、ソファから飛び下りて、玄関に向かった。

「はーい」と、俺は念のため、声を上げた。

「お、おはようございます。安藤まひるです」

 ドアの外からまひるの声がした。

「どうぞー。開いてるよ」

 ゆっくりとドアが開き、まひるがひょこり、と顔をのぞかせた。

「あがって。よかったら」

「お、おじゃまします」

 俺はまひるをリビングまで案内した。

 時計は八時十五分を指している。

 まひるは、ローテーブルの上に持っていた紙袋を置いて、ソファに腰かけた。

「あの、これ、朝ごはんです。よかったら」

「え。いや、なんか、申し訳ない、気を遣わせちゃって」

 まひるは首を振った。

「こ、こちらこそ、あの、もしかしたら、ごはん、食べれてないんじゃないかと」

 言われてみれば。

「確かに、昨日の昼以降何も食べてないな」

「やっぱり」

「あれ、でも、不思議とお腹は減ってないぞ」

 それに、犬の姿になってから、一度もトイレに行ってない。

「余計な生理現象は起こらないように設定されているみたいだな」俺はくんくんと鼻を鳴らした。「それに、犬の感覚じゃなくて、あくまでも人間の感覚に調整されているみたいだ」

 おそらく、犬の嗅覚や聴覚は、人間にはオーバースペック過ぎるんだろう。

「でも」俺は自分の鼻先を、まひるが持ってきた紙袋に近づけた。「これ、めっちゃいい匂いがしてる」

「ここのパン、すごくおいしいんです。パン、お好きですか」

「うん、めっちゃ好き。ありがとう」

「い、いえ。あ、まどマギだ」

 まひるは、テレビの前に無造作に置かれているブルーレイのケースに目を向けていた。そういえば、この前見て、出しっぱなしだった。

「わたし、途中までしか見てないんです」まひるは立ち上がって、テレビの前の床に座った。「見てもいいですか?」

 一瞬、引かれるかと思ったが、そんな様子はなかった。そうか、今はそんなことはないんだろうな。若い子たちは特に。

「ああ、いいよ」

 てっきり作品を見始めるのかと思ったら、ケースを見たかったようで、まひるはケースの裏に書かれているあらすじを読んでいる。

「ちなみに、何話まで見たの?」俺は尋ねた。

「ええと確か、六話までかな」

「ああ、じゃあ、例の、マミさんの回は見ちゃったんだ」

「三話ですよね。見ました。びっくりしましたー」

「だよねー。ああ、よかったら、それ貸してあげるよ」

 まひるはちょっとためらってから、「いえ、今日は大丈夫です」と言って、ケースをもとあった場所に置いた。後ろ向きだったからよくわからなかったが、なんとなく寂しそうな表情を浮かべているような気がした。

 ふと顔を上げたまひるは、テレビの横に置かれている時計を見て、声を上げた。

「あ、もう八時半過ぎてます」

 まひるは、再びソファに戻ると、足元の床に座っている俺をひょいと抱え上げ、自分の隣に座らせた。そして、俺の頭に手を置いた。

「では、山田さん、元に戻るよう念じてください」

「わ、わかった」

 俺は目を閉じて、念じた。

 昨日と同じく、視界に光があふれ、それが収まり目を開けると、目の前に腕があった。

 ん?

 あ、そうか。まひるの腕か。

 まひるはさっと手を引っ込めて、こちらに向けていた体の向きを変えた。

 俺は慌ててソファから下りた。

 犬に変わる前と同じ、スーツ姿の俺は、ポケットを確認した。うん、財布と鍵とスマートフォンもちゃんとある。

「ありがとう、安藤さん。おかげで元に戻った」俺はまひるを振り返った。「よかったら、朝ごはん、いっしょに食べて行かない?」

 まひるはソファに腰かけたまま、うつむいた状態で固まっている。

「い、いえ、あの、わたしは、これで」

 すくっとまひるは立ち上がって、すたすたと玄関に向かった。

「ちょっと待って」俺は慌てて追いかける。「朝ごはん代」

「だ、大丈夫です」

 と、スニーカーを履きながら答えるまひるに、俺は言った。

「さすがに中学生におごってもらうわけにはいかないよ」

 まひるは、サコシュからレシートを取り出して、俺に手渡す。

 俺は財布から千円札を二枚出して、まひるに渡した。

「おつりは、取っといて」

 お金をしまうと、まひるはぺこりと、おじぎをして、出て行った。

 いろいろと聞きたいことがあったんだけど、まあ、しょうがないか。

 俺はリビングに戻り、ローテーブルの上に置かれている袋を開いた。中には、クロワッサンとフォカッチャが二つずつ入っていた。焼きたてらしく、まだほんのりと温かかった。

 紙袋を置き、昨日の夜伏せておいた、テレビ台の上の写真立てを、俺は起こした。そこには、まひると同じ歳の女の子が映った写真が飾られている。怒ったような顔でこちらをにらんでいるその表情に、ま、ゆっくり仲良くなるさ、と心の中で返事をして、コーヒーを淹れるためにキッチンに向かった。

 その日は何事もなく、いつもの土曜日の日課である洗濯と掃除と、食材の買い出しをして、一日が終わった。

 翌日の日曜日も特に用事はなかった。もう一度BBのところへ行って、いろんな説明を聞くべきかとも思ったが、やめておいた。録画していた深夜アニメや、ネット配信の映画を見ていると、あっという間に夕方になった。明日からの夕飯の作り置きを作り始めようと、冷蔵庫を開けたとき、それは来た。

「山田さん」まひるの声が耳元に響く。「来てください」

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