(3)
『ほら春妃。雪人くんにちゃんとご挨拶しなさい』
『こ……こんにちは……』
そう父さんの陰から呟くと、目の前の少年の表情が少しだけ和らいだのでほっと胸を撫で下ろした。もっと年上の大人と話すのには慣れていたけれど、それ以外の人には慣れていなかったから緊張していたのだ。最も、向こうも幼稚園児と話す機会はなかなかなかったらしいので、同じように緊張していたらしいが。
『え、えっと……何して遊ぶ? 絵本でも読む?』
困ったような表情でそう申し出てくれた彼に、私は絵本の朗読をお願いしたんだったと思う。あの頃から、雪人さんの声は好きだった。
『面白かった?』
『うん!』
慣れてない感は否めなかったけど、それでも雪人さんの読み聞かせを聞くのは楽しいものだった。だから、その気持ちをそのまま伝えたんだったと記憶している。
『それなら、良かった』
そう返事をしてくれた彼も、つられた様に笑ってくれた。彼の笑顔が見られたのが嬉しくて、もっと喜ばせたくて……以降も、雪人さんが遊びに来る度にずっと後をついて回った。彼がご両親と一緒に引っ越さないといけないと知った時はわんわん泣いて困らせたけど、雪人さんを困らせるのだけは嫌で、一生懸命強がりながら彼を励まし想いを告げ、手紙のやりとりをしようと約束した。
『あなただれ? 父さんにご用があるの?』
その日は、雪人さんが研究所に遊びにくるのがいつもの時間よりも遅くなると聞いていた。だから、待ちわびた私は庭で待ちたいと言って、正門から外に出ない事を約束に許してもらった。そこで、買ってもらったスケッチブックにクレヨンで絵を描いていたら……見慣れない大人が、するりと庭に入ってきたのだ。
私が普通の子供だったなら、きっと、見知らぬ大人を怖がって部屋に駆け込んで声なんか掛けなかったと思う。だけど、幼稚園にいる時間以外は常に大人に囲まれていた私にとって……大人は見慣れた存在で、怖い存在では無かったのだ。だから、見た事がない人だけど父さんの知り合いかもと思って、話しかけてしまった。
『いやだ! こわい! たすけて!』
侵入者は、私の問いには答えずいきなり近寄ってきて私を抱え上げた。いきなり視界が高くなって、無言のその人が怖くなって……暴れながら必死に叫んだ。
『私の娘に何をしているの!』
私の悲鳴を聞きつけて、エプロン姿の母さんが駆け寄ってきた。これでもう大丈夫と思った私は、必死に母さんの方へと手を伸ばした。
あともう少し。そう思った矢先、いきなり母さんがバランスを崩して地面に倒れこんだ。私を抱えたままだった誘拐犯が、母さんに足払いを掛けたのだ。
だけど、母さんは諦めなかった。咄嗟に犯人の足を掴んで、両腕で拘束した。動けなくなった犯人は母さんを振り払おうとして、何度も、何度も母さんを蹴り飛ばそうとしていた。
『春妃を離しなさい!』
額から血が流れてきても、頬が腫れあがっても、母さんの瞳は光を失わなかった。あの細い体のどこにそんな力があったのだろうと思うけれど、数キロ十数キロの自分の子を抱っこしたりおんぶしたりする必要があるのだから、世の母親とはそういうものなのかもしれない。
そんな風に庭が騒がしくなったので、研究所の中からも人が何人か出てきた。窓にも人影が見えてきて、焦ったらしい犯人は、そこでようやく私を放り投げるようにして地面に落とした。したたかに体を打ち付けてすごく痛かったのだけど、解放された安心感の方が何十倍も大きかったので、それで泣いた覚えがある。
だけど、正義感が強かった母さんは犯人を逃がす気はなかったのだろう。横目で私の無事を確認した後も、犯人を離さなかった。逃げようと必死な犯人の足を力任せに引きずって、庭の草木の上に引き倒した。
「……あなたは」
地面に転がった犯人の覆面は半分くらい外れていたから、私よりも近い位置にいた母さんには顔がはっきり見えたのだろう。あなたは、確か。犯人を見ながら、母さんは間違いなくそう言った。そして、そう言って動きを止めた瞬間……犯人の蹴りをもろに食らって、文字通り母さんの体が飛んだ。
「秋姫! 春妃!」
「お父さん! お母さんが!」
「秋姫、しっかりしろ!」
「お母さん……おかあさん!!」
自分の服が血で汚れるのも構わず、母さんに縋りついた。まだ息のあった母さんは、うっすらと目を開けて私を視界に入れる。
「……はるひ」
唇が微かに動いて、私の名前が紡がれた。そして、母さんは……安心したように微笑んで、そのまま目を閉じた。
「……おかあさん!!」
必死に呼び掛けたけれど。母さんが目を開けてくれる事は、二度と無かった。
***
「……ん」
ぼんやりとしていた意識が浮上してきたので、ゆっくりと目を開けた。天井が見慣れたものなので、どうやら私は自分の部屋にいるようだ。
寝息が聞こえてきたので、そちらの方へと目を向ける。そこにいたのは、ベッドの淵に俯せて眠っている雪人さんだった。左手が温かいと思ったのは、彼に握られていたかららしい。
出来ればそのままでいたかったけれど、起き上がりたかったので注意しながらベッドを抜け出した。椅子に掛けていたブランケットを彼の肩に掛けてから、音を立てないようにして部屋を抜け出す。
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