(2)
(母さんは事故死じゃなかった。忘れていたのは、父さんのせいだった)
告げられた事実に眩暈がしてくる。今の今までずっと信じてきた事が真実ではなかった、真実と思っていた事がまやかしだった……こつこつと培ってきたものが崩れ落ちる瞬間というのは、こんな感じなのだろうか。
「事……事故死じゃないなら、私の母さんは、どうして」
「……ごめん、俺も両親から聞いた概要しか知らないんだ。確かに、事故と言えなくもないと思うし衝動的なものだったんだろうけど、それでも、罪は罪だ」
そこで一旦言葉を切った雪人さんは、もう一度私の体を抱え直した。体に直に触れる体温を以てしても、逸る鼓動は収まらなかったけれど。
「……母さんは、何かの事件に巻き込まれたという事ですか?」
「そうなるね。春妃のお母さんは……」
「母さんは?」
「……春妃を誘拐しようとした犯人によって殺されたと、聞いているよ」
聞こえてきた甲高い叫び声は、自分の口から発せられたものだった。雪人さんが抱き締める腕の強さを強めてくれたけど、溢れる嗚咽は止まらない。
「そんな、そんな。それなら、母さんは、わた、わたしの、せいで」
「違う。それは、断じて違う」
「だけど、かあさんは、とうさんは、いつだって私に周りに気を付けるようにって言ってた。それを、わたしは、やぶったんじゃないの? だから」
「違うよ。研究所の庭の中で遊んでいた春妃を、犯人が正面から押し入って連れて行こうとしたらしいんだ。それで、春妃の悲鳴に気づいたお母さんが駆け付けて、娘を返してって言って犯人に縋り付いた瞬間渾身の力で突き飛ばされたって」
「それなら、わたしが悲鳴を上げたせいだ!」
「違う! 春妃のお母さんは、ご自身の額を切っても、青あざが出来ても、それでも返せって言って揉み合いになって犯人の顔をはっきり見たからだ! だから、犯人は春妃を置いて逃げようとした際に、警察への通報や逮捕を恐れて、春妃のお母さんを」
「いやあああああああ!」
それ以上聞いていられなくて、今度は自分の意志で叫び声を上げた。もうやめて、言わないで、ごめんなさい、母さん、どうして……脈絡のない言葉が、浮かんだ端から消えて、消えた端から浮かんでいく。
「春妃! そこにいるのか!?」
混乱を極めていた頭の中に、聞き慣れた声が響き渡った。どうして、ここに来られたのだろうか。分からないけれど、でも、少しだけ言葉の海に溺れそうになっていたのから意識が救い上げられる。
「父さん!? どうしてここが!?」
「説明は後だ! 今助けるから!」
「……させるか!」
唸るように叫んだ雪人さんが、私を離して布団の中から出て行ってしまった。ぽっかり空いた空間が寂しくて、一人は心細くて、彼を追いかけるため私も布団の中から抜け出して彼の元へ行こうとする。
「っ!?」
薄暗くて温かい布団の中から出て蛍光灯の光を浴びた瞬間、脳裏でちかちかと何かが瞬いた。一瞬の内にたくさんの映像が流れ込んできて、目の前が回るような感覚に立っていられなくなる。
遠くの方で、大きな物音がした。ばたばたと走る足音が、たくさん聞こえてくる。
「春妃、もう大丈夫だ! さあ、これを」
「だめだ! 飲んじゃいけない! もう飲まなくても大丈夫だ!」
「お前は春妃を苦しめたいのか!? 身勝手な欲望に、この子を巻き込むな!」
「あんたに何が分かる! 俺が、どんな、どんな思いで、この十年を過ごしてきたと!」
二人が争う声が、だんだん遠くなっていった。頭の中に溢れる大量の情報が、私の自我をゆっくりと眠らせていく。これが、いわゆるキャパオーバーってやつだろうか。
「思い出してくれ!」
薄れゆく意識の中で、彼の叫びだけがくっきりと鮮明に響いた。落ちかけていた意識が、少しだけ現実に引き戻される。
「思い出したせいで戻ってきた恐怖は、トラウマは、乗り越えられるように俺がずっと一緒にいるから!」
ずっと一緒にいてくれるの? 私は、あなたの事を、欠片も覚えていなかった大罪人なのに?
「だから、もう一度、僕の事を……僕が好きだったって、お互い好きだったって、僕らは両想いの恋人同士だったって思い出してくれ!」
愛する人の絶叫がこだました。愛するあなたが、こんなにも悲痛な様子で願いを叫んでいる。ああ、そうだ……あの時もあなたは泣いていたから。だから、励ましたくて、笑ってほしくて、縁が途切れないように、紙に想いを綴って贈り合おうと、やくそくした。
そんな約束を思い出した瞬間、ぱしんと軽快な音が鳴り響いて、すべてすべてが戻ってきた。初めて会った時の緊張したような面持ちも、自分よりも年下の女の子の相手をどうすればいいのかと戸惑っていたような顔も、笑って見せたら笑い返してくれた初めての笑顔も、この人のそばにいたいと強く強く願ったことも。
「……ゆきひとさん」
これだけは、あなたに伝えたくて。必死に声を絞り出して、心と記憶をずっと大事に持っていてくれていたあなたの名前を呼んだ。
「春妃?」
「ゆきひとさん、どこ?」
「ここにいるよ」
霞んでいる視界の中に貴方を探す。ぼんやりとした影しか分からなかったけれど、私の手を握ってくれている温かさは、間違いなく彼のものだ。
「ゆきひとさん」
そっと彼の手を解いて、彼の顔に触れた。少しだけ熱くなった頬をこちらにぐっと引き寄せて、その中心辺りに唇で触れる。
「え、あ、春妃!?」
「……ずっと忘れていて、ごめんなさい」
視界に鮮やかな赤が映ったのと意識の限界が来たのは、同時だった。
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