第四章 それはどちらも、愛ゆえに
(1)
「春妃が大人しくしていてくれるなら、別に危害は加えないよ」
そう言った雪人さんが、私の手首を掴んでいた手を放して体を起こす。体を起こすくらいなら良いだろうかと思って一緒に起き上がってみると、一瞥はされたものの特に咎められはしなかった。
「喉乾いてない? 紅茶飲む?」
「何の紅茶ですか」
「アッサム。ちょっと濃いめに入れてミルクティーにするのが好きでね」
「……」
「茶葉とお湯以外は何も入れてないよ。ほら、同じものを飲んでる僕がどうもないだろう?」
「……そうですね。それなら頂きます」
「ミルクティーにして良い?」
「はい」
喉が渇いていたのも確かなので、彼の申し出を受け取っておいた。数分後差し出されたティーカップの中からは、ふわりと良い香りが立ち込める。
「……あの」
「何だい?」
「一晩此処に居ろ、と言うのならば……色々質問しても良いですか? 聞きたい事や確認したい事はたくさんありますし、一晩何もしないで過ごすのは、何というか……」
「落ち着かない?」
「……そうです」
予想外の展開に落ち着かないというのに加えて、好きな人の家で好きな人と二人きりなのだ。向こうの思惑が何であれ、私は、まだ、この人の事を……。
「答えられる事になら。恥ずかしながら、詳細は知らないって事もあってね」
そう言って肩を竦めている雪人さんの事を、じいっと見上げてみた。私の視線に気づいたらしい彼は、どうしたのかと言いたげな表情になったけれど、何も言わずにそのまま見つめ続けてみる。たっぷり三分は見つめ合った頃合いに、雪人さんは頬を真っ赤に染めて照れた様子で視線を逸らした。
「な、何……そんな見られると、恥ずかしいんだけど……」
「気になさらないで下さい。女子高生の間で最近流行っている遊びなので」
尋問、もとい質問がある時には、こちらが主導権を握っていた方が話を有利に運びやすい。そんな訳で、雪人さんの調子を崩せないかと思ってそんな事をしてみたが、上手くいったようだ。流行っている云々の話は、夏葉が私に頼み事をする時にやってくるので、あながち間違いでもないだろう。
「ええと、一つ目の質問なんですけど。雪人さんは、私の事……三週間前に桜の木の下で会う前から、ご存じだったんですか?」
「あ、ああ……うん。そうだよ」
一つ目のピースが嵌った。今までの彼の言動からそうじゃないかとは思っていたけれど、確かだったようだ。
「お察しの通り、僕と春妃はあの瞬間よりも前に、既に出会ってた」
「それっていつ頃です? 雪人さん、十年前がどうのっておっしゃってたから、それくらいの時期ですか?」
「うん。春妃は小学校に上がる直前で、俺は六年生になる直前だった」
「小学生になる直前……」
という事はつまり、幼稚園の年長だったという事だ。幼稚園の時の出来事なんて、確かに記憶があやふやだけれども……それでも、幼稚園の先生とか遊具とか、当時遊んでいた友達とかは何となくでも思い出せる。それなのに、雪人さんの事を会った事があるという事実すら完全に忘れてしまっていたなんて、現実有り得るのだろうか。
「……十年前から待っていたって事は。十年前にも、雪人さんは私に告白して下さったんですか?」
「そうだよ。俺の方から春妃に向かってはっきり好きだと告げたし、春妃も同じ気持ちだと答えてくれた。何なら、離れ離れで寂しいから毎月手紙を書こうね、とも約束した」
「…………」
いくら必死に考えても、そんな記憶どこにもない。だけど、雪人さんの目はとても綺麗で真剣で、嘘を付いているようには、とても思えなかった。
欠片だけでも、思い出せないだろうか。愛する人が、かつてくれた愛の言葉を。忘れたまま彼との関係を進展させるのはとても不義理な気がするから、何か一欠片の言の葉だけでも。そう思って、さらに記憶を辿る。すると、何の前触れもなく、脈打つような激痛が頭を襲った。
「痛っ……」
「春妃!?」
「す、すみません……少し、頭痛が」
「ああ、そっか……こうしてたら、少しは治まるかな」
そう言った雪人さんは、私の肩を抱き寄せた後で二人の上に布団を被せた。視界が闇に覆われて、少しだけ痛みが和らいていく。
「眠たくなったら寝ても良いよ。春妃に必要以上の負荷を掛けるのは、本意ではないんだ」
雪人さんの体温と布団の温かさに包まれて、一瞬だけ思考が眠りの淵に行きかけたけれど。だけど、この温もりに、甘える訳にはいかない。
「眠くはないので、このまま話を続けても良いですか?」
「春妃が大丈夫なら」
「ありがとうございます……先程の話、ちょっと腑に落ちなくて」
「どの辺りが?」
声が固く冷たく聞こえて、周りの空気がぴしりと音を立てた気がしたのは、気のせいではないだろう。貴方が嘘を言っているとは思っていませんよと付け加えると、彼が纏う雰囲気が優しいものに戻った。
「……私、当時年長だったんですよね?」
「うん。間違いない」
「年長なら、流石に……好きな人に告白されて返事をしたっていう事実を忘れないと思うんです。そんなイレギュラーというか……普通の日常とは違う、とびきり嬉しかった事を、あった事実すら丸ごと忘れるなんて、不自然だなって思って」
とつとつと自分の意見を伝えると、雪人さんが息を飲んだ。春妃は本当に賢いね、なんていう言葉が、頭上へと降りてくる。
「本来ならば有り得そうにない事態が、現実に起こった。それは、嬉しかったという高揚を上回る程の衝撃とか苦しみとか、悲しみがあったから上書きされてしまったという可能性も、ありますよね」
「……あるね」
「それなら、私が雪人さんの事を、雪人さんが好きだったって事を忘れてしまっていたのは……母さんが事故死したというショックな記憶を忘れて自分を守ろうとした時に、一緒に忘れてしまったという事ですか?」
私が投げかけた言葉を受け取った雪人さんは、唇を引き結んで押し黙った。眉間に皺を寄せて難しい顔をしているが、果たして正か否か。
「……半分正解で、半分不正解だ」
「どういう事ですか?」
「春妃があの頃の記憶をごっそり失くしてしまったのが、お母さんの死のショックに連動しているのは合ってる」
「それなら、何が」
「まず一つ。春妃のお母さんは、事故死じゃない」
「……え」
嘘だ。それなら、どうして、母さんは私と父さんを置いてこの世からいなくなってしまったというの!
「そして、もう一つ」
「もう、ひとつ」
「春妃があの頃の記憶を全部失ったのは、君のお父さんの仕業だ」
目の前の闇が更に深く濃くなって、冷たく纏わりついてきたような、気がした。
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