(4)
「……もう体は大丈夫なのか?」
台所で水を飲んでいると、後ろから父さんに声を掛けられた。昨日見た時と同じ格好をしているので、寝ていないのかもしれない。
「うん」
「頭痛がするとか、気分が悪いとかは」
「ないわよ。関節が少し痛いくらい……今って何時?」
「朝の五時だ」
「じゃあ、もう次の日になったのね」
「そうだな」
父さんの声が、いつになく沈んでいるように聞こえた。疲れているのか、落ち込んでいるのかは定かではないが。
「……秋姫の事は」
「思い出したわ。雪人さんの記憶と一緒に」
「あの、瞬間は」
「全部。全部、思い出した」
彼と会って惹かれ合い、お互い好きだと言い合って約束をした事も。身を挺して私を守って、微笑みながら息を引き取った母さんの事も。全部、ぜんぶ。
「聞きたい事があるの。今大丈夫?」
「問題ない。何だ?」
「結局、あの誘拐犯は知り合いだったの?」
「……以前に共同研究を持ち掛けてきた研究所の所員の一人だった。挨拶に来た面子の中にいてな……だから秋姫とも面識があった」
「持ち掛けてきたって事は、共同研究そのものはしなかった?」
「ああ。あまり良い噂を聞かない研究所だったから断ったんだが、それを根に持っていたらしい。そこで、脅迫の材料にする為に、お前を誘拐しようとしたんだそうだ」
「とんだ研究所ね……あの犯人が計画も?」
「いや、彼は実行犯という位置づけだな。年老いた両親を人質にされて、経営陣に命令されたらしい」
「……最低」
「今思えば、彼も被害者だったのかもな。当時は、彼も含めて全てが憎い、全て殺してやると復讐心に満ちていたが」
「……」
その全てに、どこまで入っていたのだろう。そんな事をふっと思ったが、聞くのが怖くて止めておいた。当時がどうあれ、今の父さんはちゃんと私を大事にしてくれている。
「その人、ちゃんと生きてるよね?」
「生きてるよ。諸々の事情を汲んで懲役十五年の実刑判決になったが、真面目に服役していたから今は仮出所してご両親の面倒をみているらしい」
「経営陣は?」
「当時求刑し得る最大の刑を求めたら、それが認められた。研究所も解体になって社会的な制裁も加えられたから、不幸中の幸いだったな。決定打は実行犯の彼の証言だったから、そこにだけは感謝している」
「よく証言してくれたわね、その人。報復とか怖くなかったのかしら」
「警察がご両親の身の安全は自分たちが保証すると約束してくれたそうだ。当のご両親にもきちんと真実を話せと説得されたらしくて、決心したようだな」
「……そう」
だからと言って、経営陣は勿論実行犯も到底許せるものではないけれど。でも、末端だけでなくて親玉もきちんと裁かれたのならば、少しは母さんも浮かばれるだろう。
「あと一つ……父さんは、私に何をしたの?」
「何をした、とは?」
「雪人さんが言っていたの。私が母さんの死の真相と雪人さんと一緒にいた記憶を全部無くしていたのは、父さんの仕業だって」
「ああ、成程……そうだな、雪人くんならそう形容するだろうな。あの年頃の子が、好きな相手が自分を忘れるかもしれないと言われて納得出来る筈がない」
「……一体何を」
「当時開発を進めていた薬を春妃に飲ませたんだ。トラウマとなり得る記憶を忘れさせる薬効を持った、記憶消去とか阻害に近い薬だ」
記憶阻害薬。副作用でそういう効果を発揮した薬があるとか、研究は今も進められているとか、話には聞いているけれど。うちでも、研究をやっていたのか。
「その薬、今はもう実用化されてるの?」
「いや……研究は中止した。データは残してあるが、簡単には見られないようになってる」
「それはどうして?」
「阻害される記憶の範囲が予想よりも大きくてその後の患者の生活に影響が大きかった事と、半減期が長すぎて継続服薬における管理が難しい事、実用化した場合に懸念される事象が多い割にメリットが少なさそうだと判断した事が理由だな」
「……なるほどね」
「確かに、過去のトラウマのせいで日常生活がままならない人にとっては夢のような薬だろう。だけど『忘れる』という事を簡単に考えて安易に使われてしまえば、犯罪を助長させるうえ人間の人格形成や成熟に悪影響を及ぼす」
「そうね。試験に落ちた、失恋した、喧嘩した、悪口を言われた……その度に忘れたいといって繰り返し使ってしまえば、精神部分はもちろん健康被害も招きかねない」
「その通りだ。勿論、そのせいで脅迫を受けたとか命を脅かされたとか、自殺を考えたとか、そこまでいけば服薬検討の余地はあるだろうが……特に、前者なら医者に行くより警察に行ったほうがいい」
「……まぁね」
そう単純な話ではないだろうし実にさまざまな意見があるだろうが、言わんとしている事は理解出来る。製薬会社の娘がこう言っていいのかは謎だが、薬なんて飲まなくていいなら飲まない方がいいのだ。
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