(4)
薄暗い通路を通りながら、左右の水槽を眺めていく。さっきも同じように眺めていた筈なのに、まるで見え方が違う気がする。
「ねぇ、さっきは気づかなかったけど……水槽の奥にもう一匹いたんだね」
「えっあ……そうですね。擬態していたんでしょうか」
「擬態というか、元々砂に近い色みたいだ。似た色で動かなければ、気づき難いのも無理はないな」
「……詳しいんですね」
「何、横の説明文を読んでおいただけだよ」
雪人さんは楽しそうに笑っているけれど、正直私はそれどころではなかった。好きな人と二人きり……なんて今にも心臓が口から飛び出てきそうだ、比喩でなく。
「それにしても、夏葉ちゃんが年パスを持っていたとは驚いた」
「あ、ああ……昔から、夏葉は生き物が好きだから。水族館だけじゃなくて、動物園のサポーターにもなってますよ」
「動物園のサポーター? そんな制度があるんだね」
「簡単に言えば寄付制度ですね。寄付者の特典として年パス渡してるみたいです」
「なるほど。動物の助けになれて自分も得して、ウィンウィンってやつか」
「ですね」
つらつらと会話しながら、ゆっくりと進路を進んでいく。もう一度大水槽の前にやってきたが、相変わらずの迫力だ。
「春妃は?」
「私?」
「春妃は、生き物好き?」
「……好きか嫌いかの二択なら、好きになりますね。でも、夏葉ほどではないです」
年パスは特に持っていないし、動物園も水族館も一人で行こうとは思わない。一人で行きたくなるのは、海とか湖とかだ。実際に一人で行けた事はないけれど。
「雪人さんはどうなんですか?」
「俺?」
「はい。雪人さんは、生き物……というか動物好きですか?」
「俺は植物の方が良いかな。広義的に言えば植物も生き物だけど」
「それもそうですね」
周りに人がいなかったので、さっきよりも水槽に近づいた。大きなサメが目の前を横切っていったので、何とはなしに目で追っていく。
「……あのさ、春妃」
「はい、何でしょう」
「春妃はさ、植物の中では何が一番好き?」
「植物ですか?」
「うん。唐突で申し訳ないんだけどさ、答えてくれると嬉しいな」
「んん……そうですね、植物……」
植物そのものは色々と脳裏に浮かぶが、好きとか嫌いとかっていう概念で考えた事はなかったのでなかなか決め手に欠ける。ああ、でも、そうだ、好きというか、思い出深くて印象的なのは……。
「桜ですかね」
そう答えた瞬間、雪人さんが息を飲んだ音が聞こえてきた。どうしたんだろうと思って振り向いたけれど、水族館の館内は照明が絞られているので表情が分かりづらい。
「小さい頃に家族三人で部屋から花見してたからっていうのもあるんですけど……中学に上がった頃から、夢にもよく出てくるようになったんです」
「どんな、ゆめ?」
「……綺麗に咲き誇っている桜の木が一本あって、私はその桜の木を見ている場面から始まります。しばらくしたら強い風が吹いて桜の花びらが舞って……私よりも年上だろうと思われる、青年が現れるんです」
「……その青年は、何を言ってる?」
「何も。じっと私の方を見てくるけど、会話らしい会話はなくて。だけど、もう、何度も何度も夢に出てくるから、どんな人なんだろうとは思って……こっちから話しかけようとするんですけど、いつも桜吹雪の中に消えていってしまって、目が覚めるんです」
こんな夢の話をされても迷惑だったかな、とは言い終わってから気づいたけれど。でも、話題を振ってきたのは雪人さんだし追加で質問もされたくらいだから、問題はないだろう。
「……その人さ、見た目とか、どんな風?」
そう聞かれて、うっと言葉に詰まった。馬鹿正直に雪人さんに似ている、と答えるのも気恥ずかしいけれど、嘘をついたりはぐらかしたりするような事でもなさそうだし。というか……そうやって逃げるのは許さない、と言わんばかりの気迫が彼の顔には浮かんでいた。
「雪人さんに似てるんです。少し外に跳ねた茶色がかった黒髪で、夜空のみたいな深い色の目をしてるから」
恥ずかしいのを必死に堪えて、正直にそう告げた。と、その瞬間、雪人さんがいきなり私の腕を掴んできた。
「……ひゃあ!?」
気が付いた時には、彼の腕の中に囲われていた。初めて会った時みたいに強く強く抱き締められて、全身が沸騰してしまったみたいになる。
「好きだよ」
耳元に吹き込まれた言葉は、いつになく震えていた。まだ好きでいてくれたのだという喜びが、血液に乗って駆け巡る。
「春妃の事が、ずっと好きだよ。ずっと、ずっと……忘れられなくて、好きは募るばかりで、ずっと……」
しかし、続いた言葉のせいで頭の片隅がすっと冷えた。私と彼は、まだ出会って一か月も経っていない。だけど、その言い方だと……まるで、彼は、何年も前から私を知っていると言っているかのようだ。
「あ、の……雪人さん」
「ごめん、嫌じゃなかったら、しばらくこうさせて」
「嫌ではないんですけど……ええと……」
「お願い、春妃」
そう言われてしまっては、断り切れない。いつ人がくるかも分からないような場所でとは思ったが、水を差すのも悪い気がするし。
(……さっきの疑問は、帰りにでも確認してみよう)
ひとまずはそう考えて自分の心を折り合いをつけ、しがみついてくる彼の背をずっと撫でていた。
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