第2話
金が、likeが足りない。
俺はスマートグラスを掛けて、視界に浮かぶウィンドを立ち上げlike信用金庫を見る。
足りなかった。圧倒的にlikeが足りなかった。
日々飲んでいる抗うつ剤と睡眠導入剤、嗜好品の煙草、そしてエナジードリンク代を差し引いても、いや、差し引かなくても明らかに足りないのだ。
――『like』個人信用価値資本数値。
次世代の金銭であり、物理通貨、暗号資産が意味をなさなくなったこの時代で、唯一金銭的価値を持つデータであり、これのやり取りで今現在どうにか商業が成り立っている。
そのlikeが、足りない。
今俺の持っているlikeは5万like、食費光熱費入院費で二日分程で底をつく。
マズい、本気でマズい。笑い話にならないくらいにマズい。
つい先日日本国での生活保護受給者の激増で、生活保護体制の見直し政策が可決され、このままでは生活保護自体が消滅するのは明白で、結構マジで洒落になっていない。
国の救済措置は、傷病者手当は、精神障碍者手当はと、必死になってメッシュネットウェブを探し上げるが、それらしい項目は悉くダメだった。
じわじわと生綿で首を絞められるように息がしにくくなってくる。
こんなはずじゃなかった。きっと鬱さえ発病していなかったらもっとまともな生活をしていたに違いないと、高を括ってベットに寝転んだが現状のリアルは変わりはしなかった。
カリカリと爪を噛んで試算思索するも出てくる金策は、エロゲオタクグッズの中古販売で、本当にその日暮らしのもので尚且つ持って一ヶ月程度のlikeである。
こんな体たらくでは死んだ両親に顔向けできないし、入院開始からそろそろ一年になりしかも、今日がその退院日だ。
前日から身支度は済ましているが、それでもこの環境の心地よさにどっぷりと浸った俺にとって市勢は本当に生き難い世界だった。
何時からだろうか。世界が生き難い時代になったのは。
20年代から精神病が騒がれ出し、はや50年近く経とうとしているのに世界は進歩するどころか後退していまっている。
決定的な2025年の大事件『オール・フォーマット』で全世界が混乱に叩き込まれ、親たちが齷齪して今を繋いでくれたが、夢にまで見た未来世界、サイボーグやAIロボットの人類共栄とは程遠く、朝鮮半島経済の崩壊と国家崩壊。
それに付随するように中華人民共和国の半島侵略と台湾侵攻。
世界は大混乱の時代だった。でも人は強かで何とか凌いだ。
金は物理金銭、暗号資産から新たな形の『like』になったし、ネット。
人の生き方はその者が社会全体に貢献する一つの歯車に、全体に益するモノになる様に再構築された。
だが、そんな中で俺と来たら──何の役にも立っていなかった。
「迎えにきたよ。賢吾」
「……ん」
扉を開けて入ってきたのは10も離れた我が誇れし兄の倉敷賢造様だ。
今俺が普通に生活できているのは兄ちゃんのお陰だった。
この混乱の世の中で妻子も持ち、普通よりもlikeを稼いでいる方で、少なくとも俺みたいなダメな人種じゃない人間だ。
「荷物はまとめたか? 。駐禁着られるから早く行くよ」
「わかったわかった。ちょっと待てって」
急いでいる様子で俺を急かす兄ちゃんに、俺もベットから立ち上がって荷物を纏めて病室を出た。何をそんなに急ぐ必要があるかと思えるが、何しろ兄ちゃんは農家だ。
農家はいつの時代も食うに困らないと曾婆ちゃんは言っていたが、確かにその通りで兄ちゃんはオールフォーマットの混乱のただ中で強かに生き延びてきた人間で、日々畑を耕し、牛に餌を与え未開の農地を開拓し続け、この辺りじゃちょっとした大地主的扱いを受けている。
そのおかげもあって俺は一年も精神科の開放病棟で悠々自適なヒモ生活が出来ていたわけで、頭の下がる思いだが実際に下げる気にはならなかった。
脛を齧って怠惰を極めるまごう事なき屑男と後ろ指さされ噂される俺に、母さんも父さんも兄ちゃんも優しく介抱してくれたし、それに感謝しているがそれにどっぷり頭まで漬かってそれが当然になってくると抜け出すのは一苦労だった。
病室を後にし病院のエントランスを抜けて、駐車場に停車している豪勢なフォードのピックアップトラックに荷物を載せて、俺はさも当然のように助手席に座った。
もちろん俺は運転免許は持っている。MT免許で。
でも運転する気にはならない。この車は兄ちゃんの車だし、何より俺はこの車の保険に入っていない。そう言い訳して面倒を避けて生活するのに慣れてしまっているのだ。
エンジンを駆けて兄ちゃんが車を走り始めて、すぐに高速に入った。
実家は少し離れた山の中にある。一応メッシュネット通信は通るし、電気も水も牽かれている。
肥沃に土地も余っているし、それもあっての農家だ。
「退院祝いしないとな。今日は寿司取ってるからなー」
「寿司より焼き肉が良かったわ」
「贅沢な奴だな、肉だって高いだぞ。寿司で我慢しなさい寿司で」
寿司は確かに好きな方だがやっぱり肉がいい。まだまだ俺は脂っこいモノでもイケる胃袋をしている。兄ちゃんはそうでもないようだが俺は焼き肉が良かった。
「仕事決まった? 。復職すんの?」
「いいや。少し前に解雇通知来たし、ぼちぼち探すよ」
「なら俺のとこの畑手伝えよ。likeも稼げるし食うに困らないよ」
「畑って……俺はまだ第一次産業に身を堕としたくないの」
「ホント贅沢な奴だなァ」
「ぅるっさいな……」
俺は窓を開けて煙草を咥えようとしたが、兄ちゃんが煙草をさっと取ってバックミラーを叩いた。
『禁煙』と書かれたステッカーにイラっときて、ぶすくれたように畑と田んぼしかない風景にイライラがさらに増し来る。
本当はこんなクソド田舎で腐っていく様な俺ではなかった。
俺は本当は都会生まれだ。東京港区生まれ横浜育ちだ。でも、オール・フォーマットのお陰で物価の諸々が高騰し遂には金銭の意味が滅却され、福岡くんだりのクソ田舎に疎開してきた人間だ。
都会は今失業者で溢れかえっている。それこそまともに生活できている人間よりもホームレスの方が多いとまで言われるほどに東京は、と言うよりどの都会は地獄のようであるそうな。
都会より田舎の方がましな生活ができる。そんなのは百も承知だが、だがあの煌びやかな街並みが、子供の頃の記憶が燦然と脳裏に焼き付いて離れない。
「コンビニ寄ってくんね。祝ってくれるなら、ビールの一つも買わせてよ」
「ハイハイ」
兄ちゃんは手近な道の駅のコンビニに入り、駐車する。
ハーっと息を吐くと白く煙る。雪も降らないのによくまあここまで寒くなるものだ。親世代の子供の頃だと温暖化温暖化と騒がれていたようだが、現在はどちらかと言うのなら寒冷化が叫ばれ食糧問題が深刻化している。
アラスカの方では例年にも増して寒さが酷く、ここ一ヶ月マイナス一℃を記録し続けてる。
コンビニに小走りで駆け込んでよく冷えたビール棚に直行する。合成増殖麦芽ビールもいいが、やっぱり祝いと言うのなら瓶のバドワイザーだろう。
三本程手に取って店を出る。スマートグラスに300like消費と表示され所持like残高が表示される。
「よくもまあそんなに飲むねえ。病み上がりだろ?」
「鬱のお供に煙とアルコールに万歳……」
プシュッと王冠を開けて俺はバドワイザーを煽って車に再度乗り込んだ。
世界の通貨危機から緩やかなようで素早く高速に世の中は変わり始めている。
資本主義の資本は個人価値『like』こそが信用通貨価値となり、固定資産を持たない者たちは悉く無一文になり果てた。
運よく固定資産を持っていた俺たち倉敷一家だが、病気にばかりはやはり弱い。父方からの隔世遺伝なのか鬱病を患った俺は会社を休職して一年、復帰の見込みがないと会社から思われ解雇通知を受け取って一ヶ月。
次の転職先を探すのも一苦労な時代だ。
兄ちゃんの言う通り一緒に畑を耕していれば確かに生きてはいけるだろう。だが果たしてそれでいいのだろうか。沸々と己の裡に潜んだ野望を、というか願望を吐露するのならば、実質の所は何もしたくはなかった。
本当に何もしたくはなかった働きたくはないし、日々の生活の料理洗濯排泄に至るまで一切何もしたくはなかった。
しかし人は料理洗濯し、排泄を満足に行って尚且つ働かなければならない。
それが生まれ落ちた時に人間に科せられた義務であり、全体の幸福希求の為であり、そうであれと求められ強制されなくとも強要される。
自分の事で手一杯の俺に他人を慮れというのは無理な話であり、ハッキリと言おう。他人と話すのすら、兄ちゃんと話すのすらキツイのだ。
コミュニケーション障害だとかそう言ったたぐいの話ではなく、躁鬱気味で、頭の中の精神がゴリゴリと削られていく感覚が分かるのだ。
身内でこれなのに、赤の他人なら尚更ひどいし、そんな事もあってか俺は何度か自殺未遂まで起こしているくらいだ。
いつもの不眠症で処方されているフルニトラゼパムを鯨飲し緊急搬送された経験もあるくらいで、それでもしぶとく生きているのは偏に両親とお医者様のお陰で、余計な事をしてくれたと言おう。
「……死にたい」
「それ二十回は聞いたな……そんなに死にたいわけ?」
「倫理がそれを許してくれるのなら、苦しまずに安楽死したいね……スイスに行かないと……」
ハアとため息を吐いた兄ちゃんは僅かばかり心配そうな顔をして、そして厳しい顔をした。
「俺だって身内の情けで今迄面倒を見て来たけど。これ以上お前の自殺願望に付き合ってやれるほど。俺は甘くないぞ」
「何急に?」
「働けって言ってんの。俺も何もしないごく潰しに食わせる飯はないし、食わせる気がない。住まわせる気もない」
「何だよ、本当に急に。住まわせる気がないって、あの家は俺の家だぞ」
「その維持管理をしているのは誰だ。俺だろ? 。なら少しは働いて家に入ろよ」
「なにいってんだこの──!」
カッとなって言っちゃいけない事を言いかけてグッと堪えた。
――親父の連れ子の癖して何を偉そうに。
そう言いかけたのだ。今の持ち家は母方の曾祖母の家で、相続権で言うのなら俺にその権利があった。
だが俺は重度の鬱で今迄その固定資産税諸々をすべて兄ちゃんに払わせていた。
俺と兄ちゃんは腹違いだ。母親が違って兄ちゃんは乳がんで死んだ親父の前妻の連れ子であったと知ったのは俺が中学の時で、少し衝撃的だった。
それでも半分は血が繋がっている。母さんも自分の腹を痛めて産んだ子じゃないのに、兄ちゃんをよく面倒を見ていたし立派にこうして育て上げた。だからうちでは親父の連れ子という兄ちゃんのレッテルはタブーで、言うことも憚られた。
それがついぞ口に出そうになって、グッと堪えたのを見逃さない兄ちゃんは言う。
「家の相続権は支払者の下に来るって法改正で決まったそうだ。賢吾、お前払ってないだろ。土地も家も、相続権は俺にあるんだ」
「墓の管理できんのかよ……あそこに兄ちゃん入る勇気あんのかよ」
「ああ。胸を張って入ってやる。俺は立派に一族が大事にしてきた土地を守り抜きましたって言って入ってやる」
「……止めろよ」
「あ?」
「車止めろよ」
路肩に止まり俺は車から降りた。
「どこ行くんだ。まだ話は終わってないぞ」
「歩いて帰る。どっこも行かないよ……頭冷やして帰らせろ、時間が欲しい」
「そうやって結論を先伸ばす。悪い癖だ」
兄ちゃんはそう言い車を走りせ消えて行った。俺はそれを見送る。
やっぱり待ってくれとか、俺が悪かったとか、明日から頑張って兄ちゃんを手伝うとか、そんな事も一言も言わず、ビュンビュンと過ぎ去っていく車たちを横目に俺は路肩に座り込んで煙草に火を付けた。
全く、理解しろとは言わない。
理解されたくもないしきっと理解はできない。鬱病の精神を健常者はきっと正しく理解を示さない。そう言ったものだし、それが苦痛の一つでもある。
ただでさえ鬱自体で苦しんでいるのに睡眠導入剤の離脱症状や、抗鬱剤の副作用に苦しみと戦い、その二重苦を背負っているのに兄ちゃんの態度は余計に俺の精神を苦しめる。
俺だってまともになりたい。こんな甘ったれた性格を直してシャッキっとしたスーツを着て働いて回りたいさ。
誰よりも、誰よりもだ、この俺がそう思ってる。
「……くそっ。どうしろってんだ」
座り込んでハーっと煙草の紫煙を吐いて煙の絶妙な苦味の塩梅にひと心地の余韻も、鬱の苦しみは容易に握りつぶしてくる。
嗚呼そうかい。働きゃあいいんだな。分かったよ。働いてやる働いてやるとも。
爺婆のクソ小便を啜って、雑草を毟って豚でも何でも殺して、人間の死体だって処理してやらあな。
俺はスマートグラスのメッシュウェブを立ち上げ仕事求人欄を一気に開いて、金になりそうな、likeになりそうな仕事を片っ端から見て回った。
このクソド田舎、老人ホームやら薬剤師やら看護仕事ばかりが出てきやがる。
どれも最低likeのものばかり、一likeたりともいい稼ぎになりゃしない。
もういっその事社宅のある所を探すか、っと調べる範囲を広げて、求人を探す。
するとどうだ出るわ出るわ。県外の大都会に社を構える大企業やらなんやら。
採用要項を見るとまあ難しそうな資格がわんさかある。どれもこれもダメだ。俺が企業側の要望に応じれていない。
「クソ求人ばっか。もっとないのか……」
県外から他地方にまで範囲を広げると──。
「……お?」
採用要項の欄に『身体的に健康な者』とだけ記載されたページが表示され、それを注視する。
試用研修期間は三か月、国内での研修施設にて指導……本研修期間二年、海外での研修、翻訳機、衣類品等々は会社負担で支給。
社宅付き、給与──。
「月に50万like! 。初任給で! 。嘘だろ!」
中身を見れば見るほどまるで詐欺みたいな内容だが、ホームページにアクセスするとただの警備会社のページが出てくる。海外企業と提携した立派な企業様だ。
もうここまでくればもう当たって砕けろだ。応募フォームに俺のプロフィールを打ち込んで。
「どうとでもなれ……」
送信した。
その企業の名前はホーク・ディード社だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます