悪魔の課題

鳥山ふみ

悪魔の課題

 もし……もしも、あなたはどんな人間かと問われたら、何と答える? 努力家? スポーツマン? 天才クリエイター? 何かしら、これと言えるものがある人が、僕はうらやましい。僕自身は何の才能もない至って平凡な人間だからだ。ただ一つ、他の人にはない特徴を挙げるとすれば、それは……昔から、僕の周りには変わった人が集まってくるということだ。特別に友人が多いというわけでも、人付き合いが良いというわけでもない。「そういう星の下に生まれた」とでも言うのだろうか? 職場の同僚、友人、ちょっとした顔見知り、街でたまたま見かけただけの人……まるで僕が何かの引力を持っているかのように、奇妙な人ばかりが引き寄せられてくるのだ。どのくらい奇妙なのかって? 例えば、そうだな……それなら、昔の友達のことを話してあげよう。これは、僕が高校一年生のときの話だ……。


 彼は城田といって、僕と同じクラスだった。基本的には真面目な男だったが、人付き合いを避けているようなところがあり、学校では孤立ぎみだった。しかし、何より人を遠ざけていたのは、彼にまつわる噂だった。彼と同じ中学の出身者の話では、城田には何十種類もの“奇行”があるというのだ。ぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩いたり、電柱を見かける度に触りに行ったり、他人と目を合わせることを極端に嫌がったり……不思議なことに、それらはいずれも一日限定で、次の日になるとごく普通の振る舞いに戻るというのだった。

 僕が城田と話すようになったのも、彼の奇行がきっかけだった。彼は教室で僕の隣の席に座っていた。数学の授業中、教師が黒板に書いた計算式をみんなが写し取る中、ふと彼のほうを見ると、彼はなぜか両手にシャープペンを持っていた。彼はまず右手でいくつかの文字かを書いたかと思うと、続けて左手で文字を書いた。そしてまた右手と、彼は左右の手を切り替えながらノートに書き取っていたのだった。

 僕は休憩時間になってから彼に話しかけた。

「城田くんさあ、さっきたまたま見かけたんだけど……なんで両手使ってノート書いてたの?」

 すると彼は、こんな質問は慣れっこだと言わんばかりに、いかにも面倒臭そうに答えた。

「ああ、あれね……まあ、大したことじゃないんだ。気にしないでいいよ」

 それきり会話は終わってしまったものの、それ以来、僕は彼に興味を持つようになった。彼を観察するのが楽しくなったと言ったほうが正しいかもしれない。それから一ヶ月ほどの間に、僕はひそかに彼の奇行を三つか四つばかり発見していた。それはちょっとしたパズルを解いていくような感覚で、僕の日常のささやかな楽しみのひとつになっていた。

 ある日の休憩時間、彼は僕の席の前に立って言った。

「もう降参だ、降参」

 .僕が呆気にとられていると、彼は呆れ顔で続けた。

「分かってるよ。俺が何か変な動きしてないかどうか、面白がって見てるんだろ? 落ち着かないからやめてほしいんだよ。理由を知りたいんなら話してやるからさ」

 そうして彼は奇行の理由を僕に話してくれたのだった。


 彼には悪魔が取り憑いているのだという。悪魔は夢の中に現れて、彼に対して一つの課題を出す。目が覚めてから日付が変わるまで、彼がその課題を実行できれば彼の勝ち。実行できなければ悪魔の勝ち。つまり、彼がこれまでに見せた奇行の数々は、全て悪魔に出された課題だったということだ。

「こんな話、信じないだろうけどな。頭のおかしい奴だって、お前もそう思ってんだろ?」

「いや……信じるよ」

 僕は城田に出会うよりも前から、常識では考えられないような不可思議な出来事を目にすることがあった。だから、彼の言うことが真実だったとしてもおかしくはないと思えたのだ。もちろん、彼の妄想の産物ということもあり得るだろう。それで、この時点で僕は半信半疑——文字通り半分ずつ——だった。少なくとも、彼の心底うんざりした表情を見る限り、僕をからかおうと嘘をついているようには思えなかった。

「もし、課題を守れなかったらどうなる?」

 僕は尋ねた。すると、彼は自分の右耳を指で差して言った。

「俺はこっちの耳が全く聞こえないんだ。最初、俺はこんなこと信じてなくて、課題なんて守るつもりもなかったよ。誰だってそうだろ? そしたら次の日の夢の中で、悪魔は俺の右耳をつかんで引きちぎったんだ。奴は笑いながら言ったよ。これはただの警告だって。次に守れなかったら、お前の全身を奪ってやるって……。目が覚めてみると、ちゃんと耳は残っていたけど、音が全く聞こえなくなってた。俺はそこで初めて信じるようになったのさ」


 城田と仲良くなるにつれて、彼はさらに詳しいことを話してくれるようになった。悪魔が最初に彼のもとに現れたのは数年前、彼が交通事故で生死をさまようほどの大怪我をしたときだった。夢か現実かも定かではない曖昧な意識の中、悪魔が現れて彼に取り引きを持ちかけたのだという。「もしこの先ずっと俺の言うことを聞くのなら、お前を助けてやる」と……。そうして城田は一命を取りとめたが、それから先は彼が説明した通りだ。

 課題の頻度はまちまちで、ひと月に二、三回のこともあれば、十回を超えることもあるのだという。内容は気まぐれとしか思えないようなデタラメなものばかりで、「物を手でつかんではいけない」とか、「時計を見てはいけない」のように比較的シンプルな場合もあれば、「北向きに進んだ距離が西向きに進んだ距離よりも長くなってはいけない」のように複雑な場合もある。これまでで最も難しかった課題は、「自分の名前が呼ばれるのを聞いてはいけない」というもので、目が覚めるなり彼は家族と顔を合わせないようにして家を飛び出し、そのまま学校も休んだという。家族は彼のことを一種の精神病とみなしていたが、一応、理解はあるようで、おおむね彼の好きなようにさせているらしかった。

 実際、城田は学校を休むことがよくあった。僕のいた高校では、どの科目であっても年間授業数の三分の一以上を欠席してしまうと落第になってしまう。城田はどの科目を何回欠席したかを全て手帳に書き留めていて、課題の難易度と天秤にかけて、その日の授業を欠席するかどうかを決めていた。そんなことで、彼は悪魔の課題をこなしながらも何とか高校生活を送っていたのだった。

 

 事件が起こったのは、三学期が始まって少ししたころだった。その日、学校では実力テストが実施されていた。一年間の勉強の成果を見るというもので、一限から六限までの時間いっぱいを使ったハードな試験だ。全ての科目が終わり、生徒たちの喜びや不安の声でざわつく教室では、帰りのホームルームが開かれていた。ふと城田のほうを見ると、徹夜で試験勉強でもしていたのだろうか、彼は机に頬杖をついて居眠りをしていた。

 ホームルームが終わり、僕は友人たちと少し話したあと、家に帰ろうと荷物をまとめていた。教室を見渡すと、生徒たちが続々と部屋を出ていく中、一人だけポツンと席に座っている男がいる。城田だ。彼はまだ頬杖の姿勢のまま眠っていた。僕は彼の肩を揺さぶって、「起きろよ」と声をかけた。

 目を覚ました瞬間、城田は「うおっ!」と声をあげ、飛び跳ねるように立ち上がった。彼は慌てた様子で周りを見渡すと、すぐさま教室の隅へと駆け寄った。そこで壁にぴったりと背をつけて、クマやライオンにでも遭遇したかのような怯えた様子で僕を見つめた。

「おい、どうしたんだよ」

 彼の奇行には慣れていたつもりだったが、それでもなお予想外の行動に僕は困惑した。

「来るな、それ以上、近づくな!」

 城田は両手を広げて前に突き出し、必死に僕を制止する。教室に残っていた数人が何事かと僕たちのほうを見た。僕は言った。

「どういうことだよ。説明しろって」

「説明する。説明するから、絶対に近づくなよ……。いいか? 絶対にだぞ。そこだ、そこの席に座ってくれ」

 彼は二メートルほど離れた席を指で差して言った。僕が席に着いたのを見て、ようやく彼は少し落ち着いたようだった。

 聞けば、城田はさっきのわずかな間に夢を見ており、そこに例の悪魔が現れのだという。

「奴はまず、俺の両腕をぴんと伸ばして水平に上げさせたんだ。それをじろじろ見て、体からだいたい六十センチの距離だと言った。そこで奴は課題を出した。目が覚めてから明日の零時になるまで、体から六十センチの距離に他人を入れてはいけない。猶予は三秒間。それ以上の時間を過ぎて、ほんの一部分でも他人の体がこの距離の内側に存在した場合は、奴の勝ち。そう言ったんだ……」

 彼は両手で顔を覆い、狼狽した声で続けた。

「最悪だ……こんな課題だったら、最初から休んでたさ。なんて間抜けだったんだ……学校で眠っちまうなんて」

「これからどうするんだ? 家に帰れるのか?」

「俺は電車通学だから……無理だ。電車は危なすぎるし、歩けるような距離でもない」

「親に電話して迎えに来てもらったら?」

「車か……。運転席から一番離れた席に座れば……いや、それでも危険だ。うちの車なんて、たいして大きくもないんだ」

「うーん……」

「どこか人が来ないところを見つけて一晩過ごすよ。公園とか、橋の下とか……」

 一月の寒空の下、食べるものも買えず、人の往来に怯えながら時が過ぎるのを待つ彼の姿を思い浮かべて、僕は不憫になった。それに、学生服姿の高校生が夜間に出歩けば、警官に呼び止められるかもしれない。他に何か良い案はないかと考えているうち、僕はあることを思い出した。昨年から僕の兄が大学生になって家を出たために、うちの家には一つ空き部屋ができていたのだ。高校から家までは自転車で十五分ほど。城田は自転車がないので一緒に歩くとしても、一時間もかからないはずだ。うちの親には適当に説明して、日付が変わるまで城田には誰も近づけないようにすればいい。僕は彼にそう提案した。

「いいのか、そんな世話になって……」

「大したことじゃないさ。気にするなって」

 僕は家にいる母親に電話をして、友人が一人泊まることを伝えた。そして、校内にいる生徒が少なくなるまで、僕たちは教室で待つことにした。


 午後四時半過ぎ、僕たちは行動を開始した。まず僕が先に教室を出て、城田はその数メートル後ろをついてくる。廊下にも階段にも生徒の姿はなく、僕たちは安堵のうちに歩みを進めた。下駄箱が見えたあたりで、僕は城田を振り返って言った。

「とりあえず、学校は問題なく出られそうだな」

「ああ、待ったかいがあった」

 城田はこわばっていた顔を少しだけほころばせた。

 ふいに、廊下の曲がり角の向こうから人影が現れた。数学担当の教師、山岡だ。僕たちの学年主任でもあり、その口うるささから、生徒から煙たがられている男だった。山岡は僕たちの姿を見るなり口を開いた。

「なんだ、お前たち、まだ残ってたのか」

「今から帰るところです」

 僕は歩みを止めずに素っ気なく答えた。山岡の目線が、僕の背後にいる城田を捉えた。

「あっ、おい城田。お前また授業休んでただろう」

 城田は山岡に進路を塞がれて立ち止まった。その距離、約一メートル。城田は目を泳がせ、後退りをしながら言った。

「あの……スイマセン。体が弱いもので……」

「それは聞いてるけどな。大丈夫か、お前? このペースで休んでたら、留年もあり得るぞ」

「ああ、それは大丈夫です。ちゃんと計画してるんで」

「計画ってお前、どういうことだ」

 山岡の声が不機嫌になった。

「いや、そういうことじゃなくて……その……」

 山岡が城田に詰め寄る。城田はさらに後退りをする。

「お前、なに逃げようとしてるんだ。どういうことか、言ってみろ」

「つまり、その、将来の計画のことです。ボクの将来設計を実現させるために、体調が悪くてもなんとか頑張って勉強していこうって、そういうことです」

「なに?」

 山岡は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに大きく頷くと、明るい声で言った。

「そうか。なかなか偉いじゃないか。俺は去年、三年の担任やってたが、進路を聞いてみるとな、三年生になってもまだ何も考えてない奴がいるんだよ。『先生、大学に行くならどの学科が良いと思いますか?』なんて聞いてきてな、じゃあお前はどうしたいのかって——」

 僕は山岡の背中に向かって大声で言った。

「先生! 僕たち、塾に遅れそうなんです! これで失礼します!」

 その隙に城田は山岡の脇をすり抜けた。「すみません」と頭を下げその場を離れる僕たちに向かって、山岡は「おう、頑張れよ!」と声をかけた。


 僕たちは校門をくぐった。僕は手で自転車を押し、城田はその後ろを歩く。距離を空けていることで、会話をする僕たちの声は自然と大きくなる。

「さっきは助かったよ。ありがとな」

「城田の嘘も面白かったよ。将来設計がどうのってやつ……そんなこと、ホントは考えたこともないだろ?」

「うるせえよ」と城田が答え、僕たちは笑い合った。

 僕はできるだけ人通りの少ないルートを選んで歩いた。何度か自転車とすれ違うことはあったが、三秒間を超えて接近することなどまずあり得ない。しばらく危なげのない道のりが続いた。

 学校を出てから三十分ほどが経ち、あたりはすっかり暗くなっていた。

「これから広い通りに出るから、気をつけろよ」

 僕は城田に声をかけた。そこは五本の道路が交わる大きな交差点で、車がひっきりなしに通っていた。周囲には飲食店やコンビニ、雑居ビルなどが立ち並び、歩道には通行人の姿もちらほらと見える。歩行者用信号が赤になり、交差点の一角に鎮座するファミレスの前の歩道で僕たちは立ち止まった。

 ここの信号は一度捕まると長い。おまけに、五叉路のために歩行者用信号は二方向が赤になっている。幅二メートルほどの狭い歩道に、一人、また一人と、信号待ちの人が増えていく。城田の顔にも次第に緊張が広がる。彼はガードレールにぺたりと尻をつけ、通行人から一ミリでも距離を取ろうとするように上半身を車道側へとよじらせた。車道の端を走っていた原付バイクが驚いて脇に逸れ、罵声とともに去っていった。城田は怯え、あたりに居場所を探して奇妙なステップを踏んだ。

 背後のファミレスでは、会計をしている数人の若い女性がガラス越しに見えた。彼女たちは間もなく店を出てくるだろう。さらに、僕たちが来たのと別の道から、スポーツバッグを抱えた男子中学生らしき集団が歩道いっぱいに広がって歩いてくるのも見えた。歩行者用信号は依然として赤く光り、変わる気配もない。

 これは、まずいぞ……。僕がそう思った次の瞬間、城田は車道に飛び出していた。悲鳴のような急ブレーキの音。城田のわずか数センチ横で車が停止した。彼は右へ左へふらつきながら、車の流れの隙間を縫って進んでゆく。けたたましいクラクションが交差点に響き渡った。僕はその場に棒立ちになり、息を飲んで彼の行く末を見守っていた。車と車の、そして車と人体の衝突音。地面に投げ出された学生服の体。近づく救急車のサイレン……。そんな悲惨な光景が僕の頭をよぎった。

 城田は対岸の歩道に辿り着いた。身をかがめて両膝に手をつき、肩で息をする彼を見て、僕は胸を撫で下ろした。僕の近くにいた誰かが「おいおい、何やってんだよー」と呟いた。

  

 僕たちは片側二車線の道路にかかる歩道橋に差し掛かった。

「ここを越えれば、あと十分じゅっぷんくらいだ。頑張れよ」

「おう……」

 人ふたりがようやくすれ違えるほどの狭い階段。右側には申し訳程度に三十センチほどの幅の自転車用スロープが設けられている。僕は自転車を押す手に力を込めてスロープを登らせた。階段を上りきったあたりで、城田の不安そうな声が聞こえてきた。

「後ろから人が来てる」

 振り返ると、スーツ姿の若い男が四人、これから階段を上がろうとしているのが見えた。僕たちは足早に通路を渡った。ところが、下り階段まで辿り着いた僕は愕然となった。階段の中腹ちゅうふくに、七、八人の男女がひしめきあっている。彼らのうちの何人かは老人で、それよりも少しだけ若い者が隣に付き添って手を貸していた。彼らは一歩一歩、ゆっくりと僕たちのいる場所へ向かって階段を上ってくる。僕はその場に立ち止まるしかなかった。先頭にいたおばあちゃんが、僕の姿を認めて「すみませんねえ」と優しそうな声で言った。

 城田は階段を覗き込んで状況を理解したようだった。慌てた様子で首を振って前後の状況を見比べる。後ろからは男たちが迫ってきていた。ものの十秒もしないうちに、この狭い通路は大混雑になるだろう。城田の顔に焦りがありありと浮かび上がった。

 城田は歩道橋の柵から顔を突き出して下を眺めた。まさか——。僕が止める間もなく、城田は両手で柵をつかむと、手すりに足をかけ、そのまま柵を乗り越えた。城田の姿が見えなくなる。ドンという衝撃音が後に続いた。

「おいっ!」

 僕は慌てて下を覗き込んだ。歩道のアスファルトの上に城田の体が横たわっている。僕は自転車をその場に立てかけると、人の隙間を強引にすりぬけて一気に階段を降りた。城田は地面に倒れたまま身をよじらせ、足首のあたりを手で押さえながら「痛え……」とうめいていた。駆け寄ろうとする僕に向かって、彼が「止まれ!」と叫ぶ。心配するあまり、危うく六十センチまで近づくところだったのだ。僕は足を止め、距離を保ちながら彼に尋ねた。

「大丈夫か? 骨を折ったのか?」

「わからん……足が痛え……」

 彼は涙声で答える。近くにいた通行人や、歩道橋の上にいた人たちが続々と集まってきた。

「おーい、大丈夫かあ」

「あんたたち、どうしたの?」

「あの人、歩道橋から飛び降りたんだよ」

「えーっ、マジ?」

 その中にいた初老の男が一人、手を差し出しながら城田に近づいた。

「お兄ちゃん、立てるか?」

 城田はその手を避けるように体をひねり、立ち上がって逃げようとするが、バランスを崩してふたたび地面に倒れ込んでしまう。

「やめてくれ! 来るな!」

 城田は半狂乱になって、その場を離れようと手の力だけでずりずりと地面を這った。その異様な光景を前に、人だかりはなおも増えていく。僕は城田に近寄ろうとする人々を遮るように両腕をばっと広げて叫んだ。

「近づかないで下さい! 彼は病気なんです! これ以上、近づかないで! 近づくと死にますよ! どいてどいて!」

 群衆は驚いて静まり返った。前のほうにいた何人かがぽかんと口を開けて僕を見つめた。視界の隅で、城田が地面を這いながら細い路地のほうへ逃げ込むのが分かった。


 城田は足を引きずりながら僕の後ろを歩く。幸いにも、彼の怪我は軽い打撲か何かだったようで、少し休息をとると彼はなんとか歩けるようになったのだった。

「本当に大丈夫か?」

「ああ……まだ痛むけど、だいぶマシになった」

「肩を貸せれば良かったんだけどな」

「ははは……ありがたいけど、今は無理だな」

 とうとう、僕たちは家まで辿り着いた。僕は母親に説明したあと、兄のものだった部屋まで城田を案内した。兄がいる大学の寮は家具が備え付けられているらしく、ベッドや勉強机などがそのまま部屋に残されていた。城田はよろめきながらベッドまで行くと、腰をおろして深く息を吐いた。

「ああ、助かった……助かったんだ……」

 彼はそのままベッドに倒れ込んだ。学校で目覚めて以来、初めて彼の顔に安堵が広がるのが分かった。

 僕は夕飯を皿に盛り付けて、彼のいる部屋まで持っていった。ドアを空け、部屋の入り口あたりに皿を置きながら僕は言った。

「十二時になったら、また部屋に来るからな。その時はお祝いしよう」

「何から何まで、本当にありがとう。お前がいなかったらどうなってたことか……」

 城田は神妙な顔つきになって言った。僕は照れ臭くなり、「いいって」と返すと、すぐに自分の部屋に引っ込んだ。


 僕はベッドに寝転がって今日あったことを思い返していた。山岡をかわして学校を脱出し、赤信号の交差点を突っ切り、歩道橋から飛び降りて……城田にとってあれはまさに命がけの冒険だったのだろう。彼の言う悪魔が本当に存在するのかどうか、それは分からない。しかし、僕なりに彼の助けになれたことに対して、僕は心から喜びを感じていた。

 突如、くぐもった悲鳴が僕の部屋に届いた。城田だ! 僕はベッドから飛び起きると、彼のいる部屋へと走った。勢いにまかせてドアを開け、そこで僕が目にしたものは……その恐ろしい光景を、僕は生涯忘れることはないだろう。

 フローリングの床の上に、城田の上半身だけが突き出していた。胴体の周囲の床は、空間が圧縮されたり引き延ばされたりしたかのように、マーブル模様にゆがみながら揺蕩たゆたっていた。それはまるで、別世界に通じる裂け目が床の上に出現し、そこに城田の下半身がすっぽりと入り込んでしまったかのようだった。城田は蒼白になった顔面に苦悶と恐怖の入り混じった表情を浮かべ、僕に向かって叫んだ。

「助けてくれ! 引っ張られる!」

 僕は目の前の光景に理解が追いつかず、部屋の入り口で立ちすくんでいた。彼の体がゆっくりと裂け目の中に沈んでいく。彼は両手の爪を床に突き立てて必死に抵抗をはかる。城田の胴体のどこかがボキボキと鈍い音を立てて、彼は苦痛に満ちた悲鳴を上げた。両の目から涙が溢れ出す。手から力が抜け、城田の体はさらに速度を上げて沈み込んでゆく。腹が見えなくなり、胸が見えなくなり、いまや肩から上がようやく床の上に出ているだけになった。

「助けて……手を……」

 城田は弱々しく声を上げ、震える手をこちらに伸ばす。僕はようやく我に返った。彼に駆け寄って手を取ろうとしたその時、ふいに城田の背後から真っ黒な二本の腕が現れた。その細長く骨張った指が彼の顔にまとわりつく。そして、彼の顔をぐっとつかんで下向きに引っ張ったかと思うと、次の瞬間にはもう城田の姿は跡形もなく消えていた。一秒か二秒ほどの間、床には水面の波紋のような模様が現れていたが、それが止むと元どおりの何の変哲もないフローリングに戻った。後に残ったのは、城田の爪が床につけた傷跡と、ベッドの足下に置かれた彼の通学用の鞄だけだった。悲鳴を聞いた僕の両親が駆けつけたが、僕はしばらくの間、その場に呆然とへたり込んだまま何も答えられずにいた。


 その後がまた大変だった。警察にも通報したものの、まさか悪魔に連れ去られたと言うわけにもいかず、僕が悲鳴を聞いて部屋に行ったときには既に彼はいなくなっていたと証言するしかなかった。警察は家の中を色々と調べたが、結局、何らかの理由で自ら窓から出て行ったという結論に落ち着いたようだった。

 彼が行方不明になったことはあっという間に学校でも知れ渡り、最後の目撃者である僕もしばらくは奇異の目に晒されることになった。しかし、もともとの彼の奇行の噂も手伝って、彼が消えたことについても「ありえる話」だと思われたようで、僕に対する同情的な目線も少なくなかった。学年が変わる頃には、もう彼のことは話題に上がらなくなっていた。

 そう、課題を守っていたはずの彼が、なぜ悪魔に連れ去られたのかだが……。彼がいなくなった後、僕は兄の部屋を見渡してその理由に辿り着くことができた。兄の部屋と僕の部屋は隣同士で、兄のベッドも僕のベッドも壁際に置かれていた。つまり、僕が自分のベッドに寝転がったあのタイミングで、僕は知らず知らずのうちに、壁一枚を隔てて彼から六十センチの距離に入ってしまっていたのだ。悪魔が言ったのは「三秒以上の時間、体から六十センチよりも内側に、他人の体の一部でも存在してはいけない」ということだけで、間に壁があるかどうかは無関係だったのだ。城田を助けようとしていた僕が、結局は彼を死に追いやってしまったとは……なんという皮肉だろう。


 これで彼の話は終わりだ。悲しかっただろうって? まあ……そうだな。でも僕はこう思うことにしたんだ。彼はもともと交通事故で死んでいたはずの人間だ。だから、それが少し先送りになっただけなんだと。なにより、あんなに無茶な課題ばかり出されていたのでは、彼はいずれ近いうちに死んでいたに違いない。悪魔にとっては、ただの暇つぶし。一種のゲームのようなものだったのだろう。彼の死は最初から決まっていたんだ。

 実は、僕の周りでいなくなった人間というのは彼だけじゃない。死んだ人、行方不明になった人、僕の目の前で文字通り消えてしまった人……。色々な出来事があった。城田もそんな中の一人に過ぎないというわけだ。もしかしたら、僕の特徴というのは、奇妙な人が集まってくることだけではないのかもしれない。その人たちに恐ろしい最期をもたらす……それこそが僕という人間なのかもしれない。他にどんな事件があったか? それはまた次の機会に話すことにしよう。そのときまで、あなたが無事であることを祈っているよ……。

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悪魔の課題 鳥山ふみ @FumiToriyama

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