5.

その日の依頼人、南木は近所に住む女性だった。何回か雑務を手伝ったことのある常連で、幸也とも美由紀とも顔見知りになっていた。ただ、彼女はその日、随分と妙な依頼を持ってきたのだ。


三時間ほど恋人の振りをしてくれないか、と。


「えーっと、それは理由を聞くことは出来ないんですか。」

「……はい。」


幸也と美由紀は目を合わせて眉を下げた。どうもきな臭い。


「何度も聞いて申し訳ないんですけど、危険なことではないんですよね?」


念を押すように問う美由紀に、南木は小さく頷いた。


「っはい、ただ三時間一緒にいてくれるだけでいいんです。」


随分と必死な様子に、幸也はまぁ危なくないのなら、と立ち上がる。


「分かりました。でも終わるまで値段決めなくていいですかね?何事もなく終われば一時間最低賃金で平気なんですけど。一応、理由も行く場所も聞けないってなるとこっちも怖いんで。」

「ありがとうございます。それで大丈夫です。」

「じゃあもう行きます?」

「はい、お願いします。」


南木に事務所の入口で待つよう伝え、幸也はラックにかかったコートを取る。美由紀が投げたカバンを受け取って、中身を確認した。


「お前留守の間お客さんどうする?」

「用件だけ聞いといて。」

「おっけー。なんか、怪しくないか?平気?」

「まぁ南木さん顔見知りだし、そんな変な話じゃないとは思うけど。でも目的分かんねぇな、急遽恋人役が必要ってどういう時?」


首を捻った幸也に、美由紀は肩を竦めた。


「知らんがな。友達に見栄張っちゃったとか? 」

「人には会わないって言ってたけど。ま、一応三時間半経ったら電話してくれる?出なかったら迷わず通報しちゃっていいから。」


事務所を出て、南木の要望を確認する。呼び方はそのままでいいけれど、敬語を外して。なるほどと頷いてから、彼女の手を取った。幸也とて場数だけは踏んでいるので、それなりに様になる。


他愛のない話をしているうちに、ふと妙なことに気がつく。幸也は立ち止まって彼女の手を引いた。


「ね、ちょっと耳貸して。」


耳元に口を寄せて、抑えた声量で確認する。


「今回の依頼は、さっきの角曲がった時からつけてくる人と関係あったりするんですか。」


幸也の言葉に、サッと彼女の表情が強ばる。


「誰か、いるんですか。」

「はい、もう少し様子を見ないと確信は持てませんけど、多分、尾行されています。心当たりは?」

「……分かりません。」

「分かりました、様子を見ましょう。大通りに行きますよ。」


嘘つけ、と内心思いつつも彼女から体を離す。手を握り直して、大通りの方へ向かおうと足を踏み出した。軽く手を引かれて立ち止まる。


「っちょっと、待って。」

「なに、」


答える前に思い切り腕を引かれた。口の端に触れた感触に瞠目して、弾かれたように彼女から離れた。今、何故。


「離れろ!」


叫び声が彼女のいる方から聞こえて、幸也は舌打ちと共に彼女を自分の後ろに隠した。彼女の真意はさておき、お陰様でストーカーを刺激する羽目になってしまったらしい。男が角から現れた。


「彼女から離れろ!」

「南木さん?お知り合いですか?」

「知らないです、知らないですこんな奴!」


痴話喧嘩か、一方的なストーカーか。面倒事に巻き込まれたらしい、と目線を走らせた。人気はない。大通りまで大声をあげれば聞こえるか?警察に電話を、と後ろに立つ彼女に低い声で命じた。


「早く離れろ、お前は南木さんのなんなんだ!」


何でもねーわ、と眉を寄せた瞬間、後ろで彼女が叫んだ。


「貴方こそ何なの!私の彼氏を悪く言わないで!」


目を見開く。なぜ今、わざと刺激するようなことを!


「貴様ぁ!」


走り出した男の手元が光る。光を受けたナイフを知覚して、反射的に南木を突き飛ばした。彼女がふらつきながらも転びはしなかった事を確認してから男に向き直る。


ナイフが迫る。咄嗟に相手の腕を掴んだ。直後に腹に衝撃が来て噎せ込む。


蹴られたか、殴られたか。体格差があった。あまりにも不利だ。幸也は別に、何か武道に長けているわけでもない。


小柄な体は一撃でふらついて、手の力が抜けた。視界の隅で光が踊る。脇腹に衝撃、一拍遅れて痛みが全身を走った。意味をなさない呻きが零れる。必死に目線を動かす。左の脇腹、多分骨の外だ。肉に刺さっただけだろう。


致命傷じゃない事にいっそ怒りが湧いた。気絶出来りゃ楽なのに。馬鹿みたいに鼓動に合わせて痛みが脳を焼く。


抜かれたナイフを追って左手を伸ばす。柄と刃を掴んだ手から、肉を抉られる感覚がした。喉から勝手に叫び声が上がる。離せと喚く本能を捩じ伏せて、握る手に力を込めた。力が上手く回らない。膝をつく。叫び声。誰の声。


「っ離せ!」


男の怒号。視界がぶれて、頭が痛い。殴られている、らしい。目眩か、殴られている物理的な揺れなのか、もはやよく分からなかった。


腹が。手が。頭が。痛い。痛い。


左手を力いっぱい引けば、ナイフが男の手を離れた。思考が回る前に右手にそれを持ち替えて、ずっと目の前で揺れていた男の足に突き立てる。抉るように振り下ろせば、男は数歩後ろによろめいてそのまま崩れ落ちた。


逃げなきゃ。南木さんはどこだ。


一瞬、視界がブラックアウトする。ガンと全身に痛みが走って、自分がひっくり返ったことに気がつく。もうどこが痛いのかも分からない。脈に合わせて全身が締め上げられるようだった。


「堺さん!」

「南木さ、けい、警察、」

「電話してありますから!」


右手からナイフが取り上げられて、代わりに柔らかいものが渡される。誘導されるままに自分の脇腹にそれを当てた。


手が、暖かく濡れていく。


止血かとそこでようやく考えが回った。上手く力が入らなくて、止血になっているのか分からない。視界いっぱいに広がる青が目を焼いた。瞼が重い。


「堺さん、左手開けますか?」


ひだりて。左手か。強ばって上手く動かない。押し込まれるように渡された布を、何とか握りこんだ。痛みを処理することを脳が諦め始めていたけれど、傷が当たる度に勝手に喉が音を立てた。


「ごめんなさい、すぐ、すぐ終わるはずですから。」


なぜ彼女が謝るんだろう。空の青と白の境目がぼやけていた。酷く寒いような気がした。


自分のものじゃない呻き声が聞こえて、幸也は無理やり頭を動かした。視界に、男にナイフを振り下ろす南木が見えた。


「南木さ、ん、」


何を、しているのかと。問おうとした声は彼女の叫びにかき消される。


「傷に響くから動いちゃダメです!」


走り寄ってきた彼女の手が右手に重ねられる。彼女の謝罪の声と、サイレンの音が混ざる。とうとう目が開けていられなくなって、幸也は意識を手放した。


***


なるべく生々しい表現を避けながら、あの日の事件を伝える。ノノはその間、言葉を失ったように固まって幸也の顔を凝視していた。


「まぁ、後から考えてみれば。俺は南木さんに嵌められたんだよね。」

「その、人を、捕まえるために?」

「多分。だって、じゃなきゃキスされた理由も、わざと煽った理由も分かんない。」

「どうして、そんな方法を取ったんでしょうか。」


無垢な疑問だ、と思った。幸也は落ち着いた声で事の続きを語る。


「ボイスレコーダー持ち歩いてたみたいだから、声さえ録音出来ればと思ったのかも。後から聞いたんだけどさ、一応事務所来る前に、警察にストーカーされてるって相談してたみたいで。ボイスレコーダーも、ストーカーの証拠を集めるために持ってたんだって。」

「え、それなら警察が動いてたんじゃないですか?」


目を丸くする少女に、幸也はゆるゆると首を横に振った。そう、物事上手く回らないのだ。


「ああいうのって、ことが起こらないと何も出来ないみたい。つけられてることは分かってたけど、ほんとにそれだけで。南木さんはそいつの顔も見たことないし、証拠もないし……」

「でも、でもそんなのって変ですよ。ことが起きてからじゃ遅いじゃないですか。」

「つけられてる、ってあやふやでしょ。妄想と区別がつかないんだよ。南木さんは心当たりがあったから、ストーカーが誰か予想がついてた。でも、誰がそれを立証してくれる?」


誰も悪くなんかない。冤罪を避けることと、事件を防ぐこと。どうしてもそこに、隙間が出来る。


「それで、彼氏がいれば、嫉妬して出てくるかもしれないって、賭けに出たってことですか。」

「多分。分かんない。その後南木さんとは一度も顔合わせてないし。」

「え?」

「不起訴処分になってすぐ、南木さん引っ越しちゃってさ。俺が受け取ったのは事務所のポストに直接放り込まれてた、名前だけ書いた封筒のみ!金ばっかりアホみたいに入ってた。今どうしてるのか……」


ストーカー事件に巻き込まれたのは、初めてのことじゃない。悪意を向けられたこともナイフを向けられたこともあったけれど、明確な殺意を向けられたのは初めてだった。話を最後まで聞けなかったのも、初めてだった。何が起きていたのか。それは分からなかったけれど、一つだけ明白なことがあった。


「あの……その、ストーカーは、」

「笹野っていう南木さんの昔の同級生。警察に相談した時に名前を上げていたみたいだから、予想通りだったんだろうね。」


そう、偶然。偶然ストーカーの証拠がなくて、偶然白羽の矢が立ったのが幸也で、偶然幸也が避けきらずに刺されてしまった。何が原因かなんて、防げたのかなんて分からないけれど、一つだけ、そう一つだけ明白なことがあった。


「刺されて、無事、だったんですか。」

「死んだ。」

「え、」


死んだよ、と幸也は繰り返した。


刺されて、反撃して、幸也は助かって、一人死んだ。


誰のせいで?


「南木さんが刺した傷の一個が心臓に届いたんだって。あの後俺意識飛んでたから、もしかしたらその後にも刺したのかもしれないし、俺が最後に見たあん時に死んじゃったのかもしれない。分かんない。」

「ナギさんは、ことが起こる前に殺すつもりだったんでしょうか。」

「どうだろ。まぁ、賭けだったんだろうね。何か起こる前に、録音出来れば警察も動くかもしれない、みたいな。笹野がナイフを持ってたから、計画が狂った、のかな。」


沈黙が降りる。幸也はテーブルの下で、レザーを撫でた。


言いにくそうに、ノノが口を開く。


「死んだんですよね。なんで、不起訴に?」


幸也はしばらく言葉を探して……結局、正直に事実を告げることにする。人の多い喫茶店だ。あまり大きくない声で話す二人の声は、周囲に漏れ聞こえることもないから。


「知人と外出していた時、ナイフを持って笹野が襲ってきた。刺された知人は意識朦朧、彼が奪ったナイフが私の手元に飛んできたので必死に抵抗した。……これがね、俺が確認された『事実』。南木さんの供述。」

「それ、は、」


幸也は乾いた笑い声を上げた。何に対する笑いかは、もう自分にも分からなかった。


「俺は何もしてないことになってた。最初に刺したのは俺なのに。見てたから、南木さんが必死に抵抗した、わけじゃないのはよく知ってた。」


必死に声を抑えながら、喘ぐように幸也は言葉を紡ぐ。祈るように手を組んで、目を閉じたまま彼は嘘を告白する。


「でも、ねぇ?刺された後のことは見ていませんが、揉み合う声は聞きましたって、俺言ったよ。だって、さ、無理だよ。無理。ホントの事言ったら正当防衛じゃなくなって、南木さんは人殺しになるんだから。」

「っ実際!」


ノノが立ち上がってテーブルを叩いた。ガラスがぶつかる音がする。直ぐに注目を集めかねないことに気がついて、ノノは崩れるように座った。


「実際人殺しじゃないですか。ユキヤさんを危険に晒して、それで……」


――実際人殺しじゃねぇか!お前のこと危険に晒したのも、南木さんだろうが!


ノノの呟きに、記憶の中の美由紀の叫び声が重なって響く。


「うん、そう、そうだよ。でも、ずっと誰も助けてくれなくて、なんとか自力で解決しようとして、それで、憎い相手が目の前に転がってきたらさ、誰でもああなっちゃうんじゃないかな、って。」


刺されて、反撃して、幸也は助かって、一人死んだ。


誰のせいで?


「その状況作ったのは俺なのに、どう頑張ったって俺はその罪を肩代わり出来ないの分かってたから、分かってたから……」


***


「お前が?お前が何したってんだよ。」


あの日、病院で胸倉を掴まれたまま叫ばれて、幸也は彼女の言葉の意図も上手く汲み取れずにただ彼女を睨み返した。


「したさ。俺が笹野のこと刺したのがそもそも悪かったんだろ。それに、その前に依頼の理由をもっとちゃんと聞けば、何かやりようが、」

「言わなかったのは相手のせいだろうが!何度も聞いただろ。それに刺したのだって正当防衛だ。」


幸也は美由紀の言葉に、視線を床に落とした。


「……正当防衛って、なんだよ。」


反撃して、人が一人虐められた。反撃して、人が一人殺された。確かに幸也の身は守られた。でも。


「お前が死ぬとこだったんだぞ。死にたいのかお前!」

「っ笹野は、死んだんだぞ。俺が殺したんじゃなくても、俺が、片棒担いだのは、紛れもない事実だろ……!」


首元から彼女の手が離れる。やっと顔を上げて見た美由紀の顔は、なんだか泣きそうだった。


「お前さ、ずっとこうしていくのか?自分が関わって、なんかある度に、自分のせいだって、そうやって。……なんとか言えよ、おい!」


左腕を強く掴まれて、脇腹に痛みが走った。呻いて刺された場所を押さえた幸也に、美由紀が顔を歪める。


「なぁ……それをさ、私は、ずっと近くで見るわけ?」

「ごめ、」


咄嗟に出かけた謝罪の言葉は、酷く優しく掌で口を塞がれて途切れた。


「変えられないなら、頼むから、謝るなよ。」


***


「自身の罪を償えない代わりに、嘘をついたんですね。」


当時の記憶が過って言葉に詰まった幸也に、ノノが掠れた声で問いかけた。


「そう。君と同じようにおかしいと叫んだ美由紀とは、それから一年くらい音信不通になった。」


ノノの目線が落ちる。そのままテーブルに投げ出された彼の左手を見た。


「その時の怪我は、もう何ともないんですか。」

「うん、ちょっとかかったけど、ちゃんと治った。」


嘘ではない。治ったのだ。治っている、はず、だった。誤魔化すように、幸也は笑う。


「もう二年も経ってるのに、はっきり覚えてるんだよね。ノノちゃんは覚えてる?中学の頃とか、高校入ったばっかの頃とか。 」

「うーん。どう、だろ……忘れたいことばっかり覚えてる感じですかね。 」


苦笑いを浮かべたノノに、幸也はそれもそうかと息をつく。彼女もまた、辛い時間を過ごしてきていることを知っていた。

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