4.

昔のことを思い出しながら、幸也はカラカラと氷とコーヒーを混ぜた。よくある話。メールを受けた時に、嗚呼、これ知ってるなぁ、と妙に親近感すら湧いた。それが被害者としての親近感なのか、加害者としての親近感なのかは分からなかったが。


悪いのは誰、非があるのは誰。


「写真がリアルのためなら、本名教えてくれたのもリアリティを上げるため?」

「そう、かも。あんまり意識はしてませんでした。」

「そう。」

「あ、あの、」


ふいと泳いだノノの目に、幸也は次の言葉を待つ。散々選び抜かれたと思われる言葉は、オブラートに包むことに些か失敗していた。


「……なんか、ごまかすの慣れてますね。」


思わず小さな笑い声が漏れる。さっきの「家庭教師」の話だろう。


「仕事柄ね。ごめんね、すらすらと嘘ついて。」

「お仕事、探偵でしたよね。」

「あれ?なんで知ってるんだっけ。」


ラジオで話したことあったっけ、と首を捻る幸也に今度はノノが笑い声を上げる。なんで笑うの、と眉を上げた彼に、ノノは笑いを堪えながら答えた。


「やっぱり随分酔ってらしたんですね。」

「え、こないだの電話?待って、あれ、言ったっけ。」

「だって電話かけたら最初に『堺探偵事務所です』って。」

「っあー。そうだ。言ったかも。」


恥ずかしいなと口を押さえる幸也の耳に、ころころと笑い声が響く。


「正直驚いたんですよ、最初。電話の時と全然印象が違うから。声は同じですけど。」

「改めて言わないでよ。俺今日来るの、結構気まずかったんだから。」


逃げるようにアイスコーヒーを喉に流し込む。最初の会話が酔っぱらいの泣き言となればいたたまれない。しかも高校生相手に。


温度の上がった顔をパタパタと扇ぐ幸也に、ノノはイタズラっ子のような笑顔を見せた。


「電話の印象に近づきました。」


敵わないなぁとボヤいてソファに沈む。彼女の言う通り、今更こちらが大人ぶったって手遅れなのかもしれない。


「探偵、ってなんだかドラマか何かみたいですね。」

「そんな派手じゃないけどね。掲げてる看板は探偵だけど結構色々やるから。なんかたまに電球替えてとか壁塗り直してとか言われるし。お金貰えるなら何でもやるって感じかな。」

「それ、いいんですか?探偵のお仕事として開業してるんですよね。」

「まぁ、届け出出してやってる以上看板は探偵だけど。資格がいるようなことには手ぇ出してないから。」


法は守ってるし、公安から通達受けるようなことも今のところないし、と指折り主張する幸也にノノが眉を上げる。そんなものですか、と疑いの滲んだ質問を呟く彼女に、そんなもん、と幸也は力強く頷いた。


「色んなことされるってなると、怪我とかも多いんですか?」


彼女の目線が、一瞬幸也の左手に投げられた。束の間言葉に詰まって、ただ当たり障りなく答える。


「どの仕事でも殉職のリスクはあるでしょ。」

「殉職って……」

「どの仕事でもいつ事故が起こるかなんて誰にも分かんないし。俺の仕事の話はまぁいいよ、何でも屋だと思ってくれれば話に支障はないから。」


本題に入ろうか、と暗に問う。ノノが少し身動ぎして、姿勢を正した。


「分かりました。」

「えぇと、じゃあどこから話そうか。」

「あの、私の我儘みたいなものですから……本当に、全部話さなくてもいいですからね。」


繰り返された言葉。幸也は、ゆるゆると首を横に振った。話すなら、全て話さなくては、意味が無いだろう。


「正直もうどこから間違えたとか、どこから普通じゃなかったとか分かんないんだよね。だから見栄は捨てて全部話すつもりだよ。すんごく軽蔑されるかもしれないけど。」


むしろ聞きたくないなら、途中で止めてほしいくらいだ。


「まぁ、正直に話すけどさ、俺の言うこと信用しないほうがいいよ。人に記憶を話そうとするとどうしても物語になっちゃうでしょ。」


ほとんどが、偶然だったようにも思う。美由紀と知り合わなかったら。夢を諦めていたら。南木と知り合わなかったら。あの日じゃなかったら。かけられた言葉の意味を、理解出来たら。


でも、いざ振り返ると断片的な出来事の記憶をわざわざ原因と結果みたいに並べたくなる。全部必然みたいに、考えてしまう。


「じゃあ、あくまでサチさんから見た物語、ってことですね。」

「うんそう。昔々あるところにってね。」


少し強ばっていたノノの顔が緩む。改めて彼女の目を真っ直ぐに見た。


「……幸也でいいよ。」

「え?」

「いや、名前。俺だけノノちゃんの本名知ってるなぁと思って。」

「ユキヤさん、ですね。」

「俺も彩花ちゃんって呼んだほうがいい?」


何気なく問えば、彼女は一瞬目線を落とした。直ぐに、首を横に振る。


「みんなからもノノって呼ばれてるんです。呼ばれ慣れてるから、そっちで。」

「分かった。」


ノノは手元のグラスを少し横に避けた。テーブルの上で、両手をきつく組む。面接みたい、なんて的外れなことが幸也の脳を過ぎった。


「じゃあ、ユキヤさんから見た物語、聞かせて下さい。」


居住まいを正したノノとは対照的に、幸也は背もたれに背中を預けた。どこから、が分からない。


「昔々、そーだな、幸也少年がまだめっちゃ小さい頃。」

「まだ私が生まれていないころ?」

「あはは、その通り!」


一つ目の偶然。幸也は探偵になりたかった。


「物心つく前から、俺は母さんの職場に連れてかれて世話されてた。共働きだったからね。……そこが探偵事務所だった。」

「それで探偵に?」

「そんなところ。で、夢を抱いた幸也少年が大きくなったところから話が始まるわけよ。」


二つ目の偶然。あの大学を、あの授業を、あの席で受けたから、出会った。あと幾つの偶然があって、そのうちの幾つが幸也の罪になるのか。自嘲するように、頬が上がった。


「大学入るとさ、わりと中学高校の奴らとは疎遠になるんだよな。みんな地方行ったり東京行ったり、バラバラになったから。」

「想像はつきます。みんな進路、バラバラですもの。」

「でしょ?だから今度は、大学の同級生の…… 同じ授業受けた人達かな。その中でいつも一緒に遊ぶグループ、みたいなのが自然と出来たのね。」

「それはどこでも同じなんですね。」

「あはは、大人でもきっとそーだよ。」


カランとどちらかのグラスから氷のぶつかる音が鳴る。


「ミーコさんに会ったのも大学でしたっけ。」

「そう。今も仲良いのはあいつとあとまぁ……片手に収まるくらい?減ったね、だいぶ。」

「自然と?」

「いや。」


少し目線が泳ぐ。察したノノが、眉を下げた。


「俺ね、大学四年の時にちょーっと色々あって一部の方々から避けられてたの。これラジオで話したよね。」

「はい。」

「だから美由紀じゃなくて俺にメールくれたんでしょ。」

「ミユキ?ええと、それは……」

「あー、ミーコ。本名が美由紀。しまった、オフレコねこれ。」


相方の本名をうっかり落としてしまい苦笑いを浮べる。彼女は笑って頷いた。


「ミユキさんとは、当時何も?」

「あいつはホントに変わんなかったよ。ま、勿論あいつだけじゃなくて……気を使ってくる奴もいっぱいいたし。疎遠になった奴は、まぁしょーがないっつーか、まぁ無理なら無理でいいやっていうか……」

「何が、あったんですか?」


だいぶ曖昧な言い方になる。でも初対面の少女にカミングアウトするにはいささか抵抗があった。しかも、「いじめっ子」に。


「内緒。『色々あった』の。」


ノノが何か言おうとして、結局目線を落とした。言葉を待てば、囁くような声が届く。目は、まだ合わない。


「やっぱり、無視されるのってつらいですか。」


何について問うているのかは明白だった。彼女は、カッキーに同じことをしたのだから。


「俺は完全に無視されたわけじゃないけど、それでも痛かったよ。」


上げられた目線とかち合う。不安げな色。幸也は肩を竦めた。


「でもそれは俺の話。君がその質問をする相手は、俺じゃ、無い。」

「そう、ですよね。」

「だから、今へこんでもしょーがないよ。」


笑いかければ、少女はぎこちなく頬を上げた。


「まぁなに、だから美由紀とは腐れ縁って感じなわけだ。残念ながら今は愛想をつかされたわけだけど。」


初めてじゃない。以前にも同じように彼女が隣からいなくなったことがある。仲直りと言うにはあまりにも何事も無く隣に戻ってきた彼女は、再び隣から消えた。


「そういえば、ミユキさんはユキヤさんの彼女さんって訳では無いんですか。」


実に何気なく、といった様子で投げられた言葉に噎せそうになる。ぎりぎり平気な顔をして、幸也は首を傾げた。


「どうしてそう思ったの?」

「ラジオ聴いた時、てっきりそうなのかと思って。」

「それは……仲の良い男女、だから?」

「だけではないですけど。なんとなく。」


会話で分かるわけが無いのだ。だって、一方通行なのだし。でもまぁ、仲が良いと言うだけで邪推が入るのは不思議では、無い。


「まぁ、普通の友達だよ。……と言いたいところだけど、元カノなんだよね。」

「……えぇ?」

「ふふ、やたら驚くねぇ。」

「ぎすぎすしてない元カップルって周りにいなくて。」


理解出来ないとばかりに少女が目を見開く。別れたカップルが総じて不仲という環境もまぁ、それはそれで気になるが。


「気まずくならなかったんですか?」

「や、元に戻っただけというか。付き合う前から割といつも一緒にいたし、別れた後も一緒にいるし。」

「そんなもんですか。あまり長くお付き合いなさってなかったんですか?……あ、なんかすごい遠慮のない質問になりますね。」

「いいよ、その辺は気にしない。えっと……大学卒業前に付き合いはじめて、で、卒業した後俺が事務所始める時に別れたんだよね。だから一年ないかな?」


***


確か、交際のスタートはクリスマスだった。毎年何故か、そう何故か毎年一緒にケーキを食う日。


例え美由紀に彼氏がいる時であろうとも、何故か彼女は幸也に声をかける。多分美由紀は恋人とのイベントがめんどくさかっただけだし、街にケーキが沢山並ぶからケーキが食べたくなっただけだ。そんなことは当時も分かっていたし、今はもっとよく分かる。で、幸也は恋人が居ようとその誘いに頷いていた。不誠実だと自覚があるだけ、多分幸也の方が、質が悪い。


彼女の中の友人の最高位は幸也だったのだ。そして友人の最高位は、とりあえずOKした恋人よりも共に時間を過ごしやすい存在だったらしい。


「チーズケーキかチョコケーキ、どっちがいい?」

「……チーズケーキ。」


文化祭前のアウティング騒ぎがあったせいで、情緒のジェットコースターがいつもにもましてとち狂っていた。おまけにあの後じゃ次に恋人を作る気にもならず、友人も減り、美由紀と過ごす時間は相対的に増えた。


「だと思った。」

「だってお前、チョコケーキ食べる気でしょ。」

「チーズケーキも好きだよ。」

「じゃ半分にしよ。」

「そーすっか。」


美由紀の家のソファに転がりながら、幸也はケーキの箱をこっちに見せる彼女にジト目を向ける。こっちの気も知らないで。いや、知らせる気もないこちらが悪いのだけれど。


立ち上がってグラスと皿を取りに行く。


「美由紀、絶対ショートケーキ買ってこないね。」

「幸也っていわゆる生クリーム嫌いだろ。」

「よく知ってんなぁ。」

「知ってるさ。何回一緒に飯食ってんだよ。」

「そーだな。」


こっちの気も知らないで。踏み込んできて、真隣に座り込んで、こいつばかりがケロッとしている。


「もうちょい彼氏に時間を割くべきでは?今日も誘われたろ。」

「いや、ちょっと前に振られた。」

「またぁ?」

「そうそう、幸也のせいで。」

「俺なの?」

「だってさぁ、今回だってお前幸也が好きなんだろ、って振られたんだぜ。」


カシャンと皿がぶつかって不快な音を立てる。


こっちの気も、知らないで。あぁくそ、馬鹿馬鹿しい。知らなくて当たり前だ、隠しているのだから。良くて一ヶ月のこいつとの縁が切れるのにビビって、逃げ打って、自分も同じくらい相手を取っかえ引っ変えしてるのは俺だろうが。


不誠実だと自覚があるだけ、絶対、幸也の方が、質が悪い。


「……なんでだろうな?文化祭で一緒に練習してたから?」

「いやそれは坂本先輩だろ。智樹。その後の彼氏。」

「あ、そっか。え?破局スピード早すぎない?」

「坂本先輩は文化祭前に振られたよ、なんか幸也と二股してることになってたらしくてな。」

「あの人被害妄想逞しいから。」


へらりと笑って皿とグラスを並べる。シャンパンを開けてグラスに注ぐ。この頃から既に逃げ癖はあって、幸也は黙ってグラスを持ち上げた。


「乾杯前に飲むなよ。」

「喉乾いてた。」

「お前マジでそのうち肝臓ぶち壊して死にそー。」


カン、と形だけグラスを合わせる。そのまま中身を全部呷れば、美由紀があからさまに顔を顰めた。何か言おうとして、結局話を戻す。


「んで、こないだ智樹に幸也が好きならそう言えよ!って言われて意味分かんねーってなったから別れました。」

「二ヶ月くらい?」

「いや、ギリ経ってないと思う。確か。」

「そこは覚えといてやれよ。ていうか、俺巻き込まれすぎでしょ。」

「ま、誤解は生むよな。ずっと一緒にいるから。世間は男女が並んでるだけでアベック扱いするんすわ。」

「アベックて。それ死語だろ。」


ケーキを皿に盛って、雑に半分に割る。形が崩れた方を自分の方に引き寄せれば、さすが、なんて言って美由紀が笑う。


「大学入ってからずっとだもんな、四年間。」

「長い付き合いですよ。」


そう、ほんとに長い付き合い。もうその辺も全部ひっくるめて総括すれば「こいつこっちの気も知らないで」に集約されるわけで。集約された結果、幸也の方が口を滑らせた。


「俺だって、振られる時はいつも『まぁ幸也美由紀のこと好きだもんね』だぞ。なんなら憐れみの目がセット。」

「あは、断定系。」

「まぁ、うん。」

「なに、なんだ水臭い。言い淀むなら言えって。」


グラスに二杯目のシャンパンを注ぐ。手に炭酸で弾けた泡が当たって、何気なく舌で舐める。


行儀もクソもなく振舞ってしまう相手に、四年間片思いしてるって言ったら、お前どうする?


「……大学入ってからはさ、別に本気で付き合った人いないっていうか。」


ケーキを摘まめば、美由紀から座れよと声が飛んだ。椅子を引いて、崩れるように腰掛ける。今日は酔いが回るのが早い。


「まじ?誠実そうなツラしてんのにな。」

「んだ、そりゃ。告白されたら断らなかっただけだよ、性別関係なく。」

「性別関係ないのは事実なの?」

「実際ね、バイなのは事実。じゃなきゃ付き合わねぇよ。」


これで俺が同性愛者ならまだ分かる。が、なんでこいつは俺が女性も好きになると分かった上で俺を家に上げて、酒を飲ませて、泊まらせてくれるのか。友達だからだな。信用されてんだわ。あぁ惨め惨め。


割り切ったはずなのに、ダメだった。どうも、あの日はダメだった。


「じゃあ大学入ってから好きな人出来なかったってこと?」


明らかに酔った幸也を面白がるみたいに美由紀が尋ねる。なんなら、二杯目の入ったグラスを彼の方に押しやった。何も考えずに押しやられたグラスを取って、半分くらい流し込む。いつもは十二%二杯ごときで酔いやしないのだ。やっぱり、あの日は変だった。


「逆。好きな人は一年の頃から一人。俺の好きな人ずっと彼氏途絶えないから、二年辺りにヤケ起こして。」

「あー、一年のころお前フリーだったね。」

「うん。そう。そーなの。ヤケ起こして告白全部OKしてた。でもやっぱしんどいからすぐ振っちゃう。」

「難儀な三年間だな。」


そう、口が滑ったんだ。本当に。


「お前のせいだよ。」

「あ?」

「お前のせいだバーカ!」


ギャンと叫んで、残りの半分も全部呷った。後は黙ってもしゃもしゃとケーキを食っていたら、フォークを持った手を美由紀が掴む。


顔を上げて、面白いこと聞いたという顔でこっちを見る遊び人を見て、幸也は思い切り目を見開いた。


待て待て、今俺なんて言った。この、交際申し込みに対してNOの選択肢を地中に埋めたかのごとくオールオッケーした挙句長続きしない遊び人に、今なんて。


「なし、今のなし。」

「まぁ待てってちゃんと言おうぜ。」

「タイムタイムタイム!」

「聞くからちゃんと、ほれほれ。」

「面白がってるでしょお前、あー嫌い嫌いほんとお前のそういうところ世界で一番嫌い!」


手からフォークが滑り落ちる。ガシャンとなった金属音を厭わず手を離さない相手に、幸也は目線を下に固定したまま喚いた。


「じゃ分かった、先に私も一つ白状するわ。」


相変わらず楽しそうな声音だったけれど、真面目なトーンだった。喚くのをやめて、のろのろと顔を上げる。


「私も好きじゃない人と付き合ってたよ。今まで好きな人、出来たことないからな。一人も。私も告白されたらOKしてただけ。」


多分この先も出来ない。そう言って目を細めた美由紀を、幸也はぽかんとして眺めた。そういえばそういう人もいるらしいな、と自身の性指向を把握するため色々と調べた際の記憶が過ぎる。


ていうか。


「それさぁ、俺その後言うわけ?ちゃんともう一回?もう振られてない?」

「やだなぁ、初めてなんだよこんな話したの。幸也がそれでもいいならいいよ、って意味。」

「は?ご、めん分かんねぇんだけど。」

「別に今までみたいに告白されたからOKって訳じゃなくてさ、幸也は人としては好きだし。お前の好きと違ってもいいならいいよって。」


手が離れる。にっこり笑って、美由紀はシャンパンを一口飲んだ。


「ちょ、待ってほんと……え?」

「はい、幸也の番。ちゃんと言って。」

「まじ?」

「まじ。」


なぁ、どうしてそんなにお前は俺のことが気に入ってるんだよ。他の奴にはそのこと言わずにただOKしてた癖に、俺には事情を説明した上で、人として好きだからとかいうのは、何なの。特別扱いが、どれだけ毒か知らねぇの?


立ち上がった彼女が、幸也の真横に来て上から彼を見下ろした。喉をこじ開けるように、白状する。


「……一年の頃から、ずっと好きです。」

「誰が?誰を?」

「俺が!美由紀を!やっぱ面白がってるで、」


言葉は途中で切れて、視界が暗くなった。喋りかけだった開いた口から呼吸を奪われる。散々好き勝手思考をかき混ぜられて、あぁいつだって俺ばっかりさぁ、と幸也は諦めて目を閉じた。


「幸也。」

「な、に。」


乱雑に幸也の口元が拭われる。袖汚れるよ、と気の抜けた言葉が口から転がり出た。美由紀がくすくす笑う。


「今日泊まってける?明日日曜だけど。」

「うん、予定はねーよ。」

「そう、じゃあ今日はベッドだな。」


いつもは、幸也がリビングのソファを借りていたから。言葉の意味を汲んで、思わずテーブルに片肘をついて頭を抱えた。追い打ちがかかる。


「ゴム手持ちあるだろ、どうせ。」

「……あ、る、けど……ムード!」


そう、あるのだ。悲しきかな、遊び人なので。あるのが当たり前みたいに言うな。目の前で爆笑してるこんな奴のキスで目が回っている自分が恨めしい。


「いや、幸也ならいっかなって。そういう好きじゃないってばらしちゃってるし。」

「それでも、さぁ!」

「あ、そういえば冷蔵庫にいちごあるんだった。食べるっしょ?」


怒涛の展開に脳は白旗を振っていた。こいつ、こっちの気も知らないで、あぁくそ、知ってるぞ、どうせ一ヶ月だろ!


結局色々言いたいことを飲み込んで、幸也はいちご食べる、と力なく返事を投げた。


***


で、まぁ、続いたわけだ。半年以上。関係ほぼ変わらず、肉体関係が付与された程度の変化だったから、続いて当たり前だったのかもしれないけれど。


そして、結局幸也の方が「好き」の食い違いに音を上げてその関係は終了した。あまりにも変わらなすぎて虚しかったのかもしれないし、行為の意味することが両者であまりにも違うからだったかもしれない。何に耐えられなかったのかは、幸也自身よく分かっていない。ま、付き合ったら付き合ったで「こいつこっちの気も知らないで」、だった訳だ。彼女の場合、こっちの気を知らないんじゃなくて、理解出来ない、が正しいが。


事務所を始める時に別れた、と言えば、ノノは納得したように手を打った。


「あぁ、忙しくなって会えなくなったからですか?」

「と思うでしょ?実は別れた後のほうが一緒にいたの。」

「え?」


キョトンと目を見開いた少女に、苦笑いを浮かべながら幸也は美由紀との関係を説明する。


「美由紀ってラジオでもたまに言ってるように、漫画家志望なんだよね。その関係で、就職して定時勤務は嫌だったみたいでさ。ずっとバイト勤めなんだよ。」


元々のバイト先に気に入られていたことも相まって、彼女はそこのバイトを続けながら夢を目指すことにしたらしい。二人とも所謂「就活」をしなかったからこそ四年の秋に呑気に文化祭に出られたという話もある。


「実は一年位、掛け持ちで俺の事務所でもバイトしてたんだよ。」


だから事務所開けた後、わりと一緒にいる時間は長かったって訳。そう話を締めくくった幸也に、ノノが片手を額に当てて、もう片方で小さく挙手をする。


「え?待って下さい。」

「はいどうぞ。待ちます。」


想定内のリアクションに、幸也は笑いを噛み殺す。


「お付き合いが始まったのが四年生の時?」

「そうだよ。『色々あった』後。」

「で、別れたのが、事務所を開業した時?」

「あってるあってる。」

「で、ミユキさんと一緒にお仕事をしてたのは……」

「開業してすぐから一年。」

「え、ええー。」


信じられない、という顔で体を引いた少女に今度こそ声を上げて笑った。


「なん、むしろなんで別れたんですか。」

「方向性の違いかなぁ。」

「バンドじゃないんですから。」

「似たよーなもんよ。」


似たようなもの。音楽性の違いじゃなくて、恋愛趣向の違いだった訳だが。「好き」の意味だけで、やっぱり上手く機能しなかった。


「付き合う前は親友だったから、また親友に戻っただけだよ。」

「それ、凄い関係性ですね。相棒みたいな。……あ、話の腰折っちゃいましたね。大学でミユキさんと出会って、それから?」


ノノの問いかけに幸也は視線を天井に投げて唸った。最終的に彼女に話したいのは、目下の愛想をつかされた状況だ。その説明をするなら、やっぱり一度目も話しておくべきだろうなと腕を組む。


「どう話そうかな……えぇと、今俺が『大丈夫じゃない』のは美由紀と喧嘩したからなんだけど。」


喧嘩?喧嘩なのか、と自分で言いながら自信がなくなる。きっかけは分かるが、原因は正直分からないのだし。まぁ兎角、便宜上喧嘩と呼ぼう。


「喧嘩したから昼間から飲んでた、と。」

「めちゃくちゃ掘り返すね。」

「あはは、印象に残ってるもので。」


笑いながらグラスを持ち上げた彼女に倣って、ストローを咥える。少し味が薄くなっていた。


「実はね、初めての喧嘩ってわけじゃないんだ。さっき美由紀がバイトしてたのは一年って言ったでしょ。」

「やめたきっかけがあるんですね。」

「ご名答。……こっから、今回の喧嘩まで、結構えぐい話だけどいい?」


まだ幸也にしてみれば相手は子供だ。十分な年齢だとは思うが、とはいえあまり聞かせたい話ではない。反面、ここでこちらが全部明かして、彼女もまた全部明かすことがお互いのためであるようにも思う。


ノノが力強く頷いた。


「ユキヤさんのしんどいこと全部話してもらうために来てもらってるんです。ユキヤさんが話したいこと全部話して下さい。半分持ってくれるんでしょう?私も半分、持ちます。」


そのやや不思議な言い回しに、幸也は眉を上げる。思い当たる節があって、彼は笑い声を上げた。


「はは、それ俺確かに言ったね。」

「私の半分、持ってくれるんでしょう?」

「うん。あぁでも俺も半分あげたら、ノノちゃんの軽くなんないわ。」

「でも化学変化があるかもしれませんよ、先生。 」


ニィと意地悪い笑みを浮かべる少女に、幸也は目を見開く。


「何その、先生って。」

「私の家庭教師らしいので。」

「はは、そーだった!」


化学反応、ね。現役高校生らしい発想だ。小さくなった氷を手元で弄びながら、幸也は小さな声で礼を言う。


「……ありがとう。」

「ふふ、なんのことでしょう?」

「良い生徒を持って先生は幸せ。」


ノノがころころと笑った。


「よし、じゃあしんどかったらさ、すぐ止めてよね。」

「はい。」


どこまで伝えるか悩みながら、幸也は二年前の春の記憶を手繰り寄せた。

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