3.

幸也がノノのいじめを見たことは、ない。だいたい、今日が初対面だ。それでもやけに生々しく記憶しているのは、彼女の送ってきた写真のせいだろう。皮肉にも仲良さげに写る四人。ノノ、ユミチ、ミク、そしてその三人から弾かれることになった、カッキー。渾名を添えて送られた一枚の写真データ、それから、その時点で数年前の出来事であった、彼女が中学生の頃のいじめの話。送られたたった一通のメールが、幸也が知っているこの件に関しての全情報だ。


幸也は、咄嗟に返信すべき言葉を見つけることが出来なかった。


俺は純粋な被害者でも、無い。


悩みは自身の記憶と共鳴して、解決もしないのに幻を形作った。見たこともないのにやけに生々しく記憶しているのは、彼女の送ってきた写真と、それから、見た幻のせいだ。


***


あ、夢だな。


視界に黒板を捉えて、幸也は二、三度瞬いた。学校と名の付く施設からはとうに卒業し、こんな景色は長らくお目にかかっていないはずだ。「日直」の文字に、数年前までお世話になっていた大学ですらないことが表れている。


眠りの浅い質だからか、明晰夢を見ることは珍しくない。どうせ夢と分かったところで、思い通りにはならないのだけれど。


己の記憶から生成された教室の景色は紛れもなく見覚えのあるもので、なのに周囲の人間は霞がかったようにはっきりしない。自分は袖を通したことのない制服がやけに鮮明に認識出来て、おや、と首を捻る。


見覚えは、ある。どこで見た制服だったか。近所の高校?親戚?


「またカッキーにやられたんだけど!」


上がった不満げな大声に顔を上げる。教室に入ってきた少女は、緩く片側で結んだポニーテールを揺らしながら眉をつり上げた。誰だっけ、と検索をかけようと常なら働く頭も、夢の中ではただぼんやりとその流れを甘受する。


「またぁ?」

「今度は何?」


自分の真横でした声に、ゆるりと顔を向ける。二人いたその少女達が、きゃらきゃらと笑うその声に、眉が寄る。


ああ、良くない。これは、良くない記憶。


いつか聞いた声が響く。起きてしまえばいいのに、もう幸也はここが夢であることを忘れていた。


「今度は漫画。一日だけっていうから貸したのに、返してって言っても、家に忘れたって。もう三日も経つんだけど、ありえなくない?」

「うっわ、最悪。」


ポニーテールの少女が、ドアから二人が集まっていた机のほうに近づく。なんかもう一周回って慣れてきたんだけど、と楽し気に笑う少女に、椅子に腰かけていた髪を下ろした少女が頬杖をついた。


「私、シャーペン諦めてるわ。もうカッキーに親切とか、しない方がいいね。」

「馬鹿を見るだけっていうか?」


幸也のすぐ傍に立っていた少女が呆れた声で嘆きながら、幸也の目の前の机に腰かけた。さして驚くこともなく、自分がそこにいるけれどいない、という不可思議さを受け入れる。だいたい、周りが制服の中幸也は至って普段通りの服であった。異質なものを許さない教室で注目を集めていない時点で、空気も同然である。まぁ、夢というのは総じてそういうもので、そのことに疑念すら浮かばないのだ。


「なんで私達あんなのとつるんでんだろ。」

「四月の席が悪かったんでしょ。班一年変わらないとはなぁ……」

「おかげでもう二か月ですよ、にーかーげーつー。」

「ねー。」

「まぁノノとユミチと一緒いられんのは良かったけど。」


ノノ。その名前を聞いて、ようやく彼女らの正体が思い当たる。たかだか一枚の写真から形作られた幻は酷く不明瞭で、声はどこかで聞いたことのある声の継ぎ接ぎ。道理で耳障りなわけだとまで考えて頷いたのに、逃げたいという気持ちばかりが募り、目を覚ますという手段のことは頭から抜け落ちていた。そう、夢と分かったところで、思い通りにはならない。


「あ、カッキーといえば。教科書一週間返してくれなかったから先生に言ったんだけどさ。」


文字で伝えられたその展開の先は何だったか。ノノの口から語られる言葉に耳を傾ける。聞きたくない。知っているから。聞かなくてはならない。知っている、から。


「先生に言われたとたん『今日返すつもりでした』とか言っちゃってさぁ、その場で返してきて。その日の朝は持ってないって言ってたんだよ?」

「さいってー!」

「もうそれわざとっしょ。」

「だよねー。」


些細なきっかけ。教室中に響く笑い声。悪いのは誰、非があるのは誰。ああ、良くない。これは、良くない記憶。


「分かったこうしよ。返してくれるまで無視しよう。」

「あっは、一生かかるかもよそれ。」

「それでいこ!」

「つかそんなことどーでもいいよ、今日の佐々木の課題忘れたんだよね。」

「二人の合わせてそれっぽくすればよくない?」


あっという間に切り替わった話題に合わせて、少女達は机にプリントを広げ始める。教室のドアが開く音がやけに大きく響いて、幸也はのろのろと顔を上げた。


あぁ、彼女が渦中のカッキーか。


「おはよう。」


放たれた挨拶は、明らかに少女達に向いていた。幸也は声を上げようとしたけれど、上手く体の主導権が握れない状態では喉は開かない。少女らはカッキーに目線一つ寄越さない。


「二限までに終わるかな。」

「ギリじゃね?」


聞こえなかったか、と近づいた少女の手がポニーテールの少女の肩に触れる。


その手が、ちらと見られることもなく払い除けられた。


束の間固まったカッキーに構うことなく、少女達の会話は続く。まとわりつく視線。顔すら曖昧な生徒達が四人を注視する。カッキーが逡巡の後、教室を出て行った。


教室中に笑い声が響く。悪いのは誰、非があるのは誰。


幻の教室が歪んで、数年前まで馴染んだ大教室が見えた気がした。


「今の顔見た?」

「絶対無視された理由分かってないでしょ。」

「あいつメンタル弱いし案外学校来なくなったりして。」

「ありそー!」

「来なくなったらさすがに面白すぎんでしょ。」

「で、来なかったんでしょ。夏休み明けたら。」


今度はすんなりと声が出た。目が、こちらを向く。


「そうなの!」


振り返った三人分の声が、楽しそうに答えた。返事があると思っていなくて、瞠目する。すぐに三人は、また幸也を居ないものとして会話に戻った。


「あいつ今日も休み?」

「まじで来なくなるとは思わなかったんだけど。」

「もう夏休み明けて三日だもんね。」

「夏休みでだらけすぎて学校くんのめんどくなったんじゃね。」


きゃらきゃらと笑い声が響く。


「メンタル弱すぎんでしょ。」

「ゆうて無視してたの最初の二週間くらいだよね。」

「その後ちゃんと遊んであげたもんねー。」

「二人はあいつで遊んでたの間違いっしょ。」


ノノの言葉に、二人が手を叩いて笑った。楽しそう、という形容詞が当てはまることが恐ろしい。


「いやてか最後までまじで気が付かなかったね。」

「結局なんも返してくれなかったのウケる。」


話ながら教室を出ていこうとしたノノの手を、咄嗟に掴んだ。彼女は立ち止まったが、振り返ることは無い。


「ダメだよノノちゃんやめとけって。君、これからずっと、」

「知ってますよ。」


強く放たれた言葉に口を噤む。


「でも、もう変えられないことなんです。」


振り返って、彼女は笑った。かくん、と体が下に落ちる。


***


遠くで玄関のチャイムの音がする。誰かが名前を呼んでいた。


「幸也ー?寝てんのか?入るぞ?」


ガチャガチャと鍵を開ける音にゆっくりと目を開けた。開きっぱなしのノートパソコンに表示されたメーラーを閉じて、パソコンの電源を落とす。開いた部屋のドアを振り返れば、美由紀が手を振った。


「ごめん、寝てた。」

「寝癖やべぇよ。」

「まじ?」


幸也が手櫛で整えようとしたのを止めて、美由紀は彼の座るソファの後ろに回る。彼女の手が髪を撫でるのを甘受しながら、幸也は寝起きで重い口をのろのろと開ける。


「ちょー変な夢見てた。」

「へぇ?」


夢の原因は明白だった。数日前に受け取った、リスナーからのメールだ。お遊びで幸也と美由紀がインターネットに投稿しているラジオの、リスナーからのメール。


ノノ、と名乗るメールの送り主とは、オンライン上で以前から交流があった。理由は多分、幸也もノノも犬好きだったから。毎日実家のコーギーの写真を垂れ流していた幸也にノノが偶然リプライを飛ばして始まった会話が最初のきっかけ。


まだ高校生の、犬が好きな女の子。最近ハマってる漫画が幸也と同じ。ノノについて幸也が知っているのはそれくらいだ。始めたラジオにこまめに感想をくれることはあれど、リプライではなく公開していたメールアドレスに長文が届いたのは数日前のそれが初めてのことだった。そこで初めて、本名が「野々宮彩花」であると知った。


本名の他に増えた情報が一つ。ノノは幸也の苦手な人種だった。言わば、いじめっ子、だったのだ。


『サチさん、突然のメール、失礼します。先日の放送を聞いて、サチさんに相談したいことがあるのです――』


ノノは、中学生の頃に一人の少女へのいじめに加担していた。実際の渾名に沿って、ノノは手紙にて彼女をカッキーと呼んだ。中心にいたのはユミチとミクと呼ばれる二人の少女、それからノノ本人。間接的にはクラス全体を巻き込んだイジメだったという。


三人がカッキーをいじめるようになったきっかけ。始まった無視、続いた直接的ないじめ。そして、カッキーが学校に来なくなったこと。三年生になった彼女らはクラスが分かれ、結局、いじめの話はなかった事のように流され、皆高校受験へと意識を向けていったこと。ノノの告白は続く。


そして、ノノは高校でカッキーと再会したのだと言う。ノノは幸也に問うた。


『なし崩しに和解した形となっていますが、もっとちゃんと謝罪をすべきでしょうか。今彼女はいじめなんてなかったみたいに私と仲良くしていますが、掘り返していいのでしょうか。』


ノノの手紙は、こう締めくくられる。いじめられていたという、貴方に問いたい、と。


返信すべき言葉を見つけることが出来ないまま、結局、返信の文は書きかけのままだ。


「変な夢って?」


髪をいじって満足したのか、美由紀が荷物を放って幸也の隣に座る。沈んだソファの傾きに身を任せて彼女の肩に頭を乗せて、幸也はちょっとね、と呟いた。


「メールで相談を受けたの。どう返事しようかなぁと思ってたら、夢に出てきちゃって。」


返事がない。目線を上げれば、心配そうに顔を歪めた昔馴染みと目が合った。


「何、怖い顔して。」

「夢に出るほどなら、返事早く書いちゃえよ。お前も辛くならない?」


美由紀のもっともな言い分に、幸也はただ眉を下げた。


「そう、なんだけど。」

「一緒に考えようか?」

「でもほら、俺宛だし。」

「……私には言いたくない?」


幸也はうーん、と小さく唸って目を瞑った。相談しても問題は無い、と思う。けれど。


「これは、俺の問題だと思うんだよね。」


だから、一人で考える。そう言ってもう一度彼女の方を向けば、美由紀は幸也の頭をわしゃわしゃと両手でかき混ぜた。思わず笑い声が零れる。最後に両頬をぺちりと挟まれて、目が合った。


「あんま思い悩むなよ。」

「うん……ごめん。」

「謝るなよ。」


呆れたような声にもう一度謝罪を重ねそうになって、慌てて口を噤む。ただこくこくと首を縦に振った。


「とりあえず録音始めちゃおうぜ。」

「その前になんか飲みたい。」

「あぁ、寝起きだったなお前。」


勝手知ったる様子でキッチンの方に消えた美由紀を見送ってから、さっき落としたノートパソコンを立ち上げる。週に一度、水曜日に集まっては録音しているラジオももう既に四回目になる。


「そういやさ、BGM探してた時に懐かしいやつ見つけたんだよ。」


録音の準備を始める前に、フォルダからMP3ファイルを引っ張り出してダブルクリックする。再生ボタンを止めて、彼女が戻ってくるのを待った。


「んー?」

「お前これ覚えてる?」


コップを受け取ってから再生ボタンを押せば、イントロを聞いた美由紀が割合大きな声で叫んだ。


「あー!覚えてる!卒業前の文化祭!懐かしー、何年前?」

「卒業の年だろ?……三年前?」

「なんでやろうってなったんだっけ。」

「川崎が昼飯奢るから出てって言ったからだろ。」

「あはは。そーだ、それだ。」


奢ってやるよという友人の言葉に一本釣りされて、やったことも無いダンスの練習に着手したのは良い思い出だ。前後に忌々しい記憶がくっついているせいで、あまり詳しく掘り起こしたいとは思わないが。いや、掘り起こしたりなんかしなくてもずっと勝手に脳の隅に居座っている。


「ずっと練習してたからさ、あの人、名前なんだっけ、美由紀の彼氏一回怒ったよね。」

「あーあん時。誰だっけ?」

「俺に聞くなよ。」


早ければ一週間で恋人の名前が書き変わるような学生時代を過ごした美由紀に、情とかないのか、なんて聞いたって無駄だ。こいつに告白すれば初対面の奴だって恋人になれた。ま、昔は幸也も人のことを言えなかったが。もう七年近くになる付き合いだ、幸也はそのことを良く知っていた。


大学一年目に出会ってから、割合すぐ一人暮らしの互いの家を行き来する位には幸也と美由紀は親密な友人となった。どうしてそこまで気が合ったのかは分からない。共通項もさしてなく、波長があった、としか言いようがなかろう。紆余曲折は諸々あったが、まぁ、今もよい「友人」である。


長い付き合いだから、よっぽど彼女のすぐ側でずっと見てきた幸也の方が、美由紀の歴代恋人には詳しいかもしれない。案の定、聞くなと言いつつ記憶をひっくり返せば検索結果が出るのだから。


「坂本先輩じゃね?」

「あー、そんな気がする。」


芋づる式に色々と記憶が甦ってきた。そう、あの頃のことはよく覚えている。日頃意識して押し込めているだけで。


***


大学四年生、最後の年のこと。元より就活する気がなかった幸也はいくつかの単位を四年に残していたので、卒業後の準備と並行して週に三コマほど講義を受けに来ていた。片や単位を落としまくった美由紀もまた、週に三コマどころか二、三年生並の講義を詰めていたから、大学内で会うことも珍しくなかった。


その日も、講義のために校内に来たついでに自習用の教室で書類を片付けていた幸也に、どうせここにいるだろうと顔を出した美由紀が話しかけた、いつも通りの流れだった。なのに覚えているのは、幸也はもう二度と彼女から話しかけられないかもしれないと覚悟していたからだ。


理由は単純明快。彼女以外の友人の殆どが、その前日から口をきいてくれなかったから。


無視やらいじめやらを始めるのは簡単だ。ちょっとした理由付けがあればいい。ノノ達は借りたものを返してくれないからカッキーを標的に決めた。幸也の学友達は「普通」じゃないから幸也を標的に決めた。


亮介という男と付き合ったのが選択ミスだったんだと思う。悪い奴じゃないが如何せんプライドがエベレストも真っ青レベルの高さだったもので、ほとほとやりきれなかった。穏便にさようならと振ったはずの翌日、プライドエベレスト野郎はあろう事か大学の友人のみが繋がるSNSの鍵アカウントでこう呟いた。


『幸也に告られたんだけど振ったわ。あいつホモだったんだな。』


幸也がその投稿を目にした時には既によく燃えていて、いっそ感心したレベル。道理で一部の心配するLINEと一部の罵詈雑言LINEが絶えなかったわけだ。特に歴代彼女の皆様の口を揃えた「本気じゃなかったの」には思わず閉口。大丈夫、俺バイです、と返信することすら面倒臭い。信頼が無いことに軽くへこむ。


さておき亮介よ、そんな特大ブーメランあるか?と半眼でTwitterを眺めた幸也は、相手が指一本で殺しに来たのと同じように指一本でナイフを突きつけた。


よぉ色男、アウティングは俺に振られた腹いせにはなったかい。


交際期の数少ないゼロ距離ツーショットを自分の顔だけ知り合いには分かるだろう程度にぼかす。コメントを添えて躊躇ゼロでリプライに送り付け、スマホを思い切り放った。


勿論、大層よく燃えた。


友人の数は思いの外激減した。露骨に何かを言う奴は一人二人だったが、目が合えば逸らされる、程度の奴は山ほどいた。この時代でもこんなものか、と少々驚く。


ただ、亮介の友人はもっと減った。それから幸也は詳しくは知らないが、どうも例の幸也のやり返しリプライから火種が飛んで、いじめに近いことが起きていたらしい。己の知らないところで「幸也が可哀想だろ」と正義執行されているのには驚いた。


ざまぁねぇなと当時は思い止めもしなかったが、冷静になれば幸也は加害者でもあったわけだ。殴られたからと殴り返したのは、間違いだった。お陰様で幸也は未だ「反撃」という行為が苦手だ。


話を戻そう。この経緯で目を合わせれば逸らされ友人の五割近くから連絡先をブロックされるという惨状の後だったので、幸也は美由紀がけろりと話しかけてきた時割合本気で驚いた。なんなら、ちょっと警戒した。その直前だって、教室に踏み入れた顔見知りが幸也の顔を見るなり気まずそうに回れ右したところだったのだ。


美由紀は騒ぎの中も全く連絡を寄越さなかったから、そもそもこの話を知っているのかすら分からなかった。


「幸也!やっぱここにいたな。」


ポカンと間抜け面で彼女を見つめる幸也の様子に構うことなく、彼女は幸也の隣に腰掛けて会話を続ける。


「お前文化祭暇?出し物の数が足りねぇらしくてさ、一緒に踊ろーぜ。五分だけだし、な!枠埋めたら川崎が昼飯奢ってくれるって言うから。」


あまりにいつも通り。幸也は混乱した。気を使うことすらしないのか、こいつ。


振り返っても、イマイチ分からない。彼女の性格故に、態度が変わらなかったのか。それとも。彼女も「同じ」だから、変わらなかったのか。


混乱する脳内を見せぬように、幸也は努めていつも通りに言葉を返すことにした。


「お前就活は?」

「いいでしょ、ちょい踊るだけだって。」

「坂本先輩誘えよ、踊る坂本先輩ぜってぇおもろいよ。」

「いやそれはそうなんだけど、先輩と練習してても面白くねーよ。」

「言うねぇ。」


坂本先輩、と呼ばれる彼は彼女の恋人で、一昨年まで本当に先輩だった。三年でダブった故に、今は同じ学年だが。次は何ヶ月もつかな、と内心呆れ笑いを浮かべながら、はなから冷めきった様子の美由紀の言葉に相槌を打つ。


「なんか最近めんどくさいんだよね、あの人。」

「坂本先輩は前からめんどくさいよ。」

「ますますってこと。ま、それは今いーや。なー、頼む!昼飯のために!」


パンッと音を立てて手を合わせた美由紀に言葉を探す。今、大衆の前に立てと言われてはいはいと頷ける気分ではない。


「……川崎も困るよ、俺じゃ。」

「何が?」

「何、て。」


やっぱ知らねぇのかな、と思いながら目を泳がせる。何、と言われると。なんと言うべきなのだろうか。何も言わない幸也に、美由紀が言葉を重ねる。


「川崎も幸也なら踊ってくれるって信じてたぞぉ。」

「まじで?なんで。」


反射的に噛み付くように聞き返せば、美由紀は首を傾げた。


「今何かに熱中したいんじゃねーかって言ってた。なんでかね。」


亮介はダメだよ、お前、あれはクズ。別れて正解、おめでとう。


昨晩そうLINEを寄越した川崎の顔を思い浮かべて、思わず笑った。


「……そう。」

「やる⁉」

「分かった。やるよ、やる。」

「っしゃぁ!タダ飯ぃ!」


お前ほんと食い意地が張ってるな、と苦笑いを浮かべながら答えようとした幸也の言葉を遮ってそう言えばと美由紀が身を乗り出す。何、と気を緩めたまま尋ねれば、彼女がいつも通りの様子で口を開いた。


「昨日のTwitter見たぞ。」


思わず動きが止まった。


「お前ぇ、私より男運ねぇな。亮介はああいう奴だよ、付き合うもんじゃねぇ。まぁお前が振ったなら良かった良かった。」


川崎と同じようなことを言いながらケラケラ笑う美由紀の顔を凝視する。


「……なんか、ないの?」

「ん?」

「なんか他に、ないの?」

「え?なんかって?亮介に嘘言われて災難だった?な?」


本気で分からない、と顔に疑問符を貼り付けて焦る美由紀に、だんだん力が抜けてくる。黙ったままの幸也にますます焦って、彼女は必死に首を捻った。


「何が⁉え?意外と傷心なのかお前、てっきり図太く反論するくらいだから亮介に振られたくらい、」

「振られてない。」


つい口を挟めば、亮介に振られたって言いふらされたことくらい、と言い直して彼女は身振り手振りつけながら励ましを重ねていく。


「気にしてないと思ってた!なんだ気にしてたのか、大丈夫大丈夫、今や誰も亮介の『幸也に告白されたから振った』なんて嘘信じてないから、な!」

「いやさすがにあんだけ写真出してまだ信じてもらえてなかったら泣くよ。」


なんだか笑えてくる。幸也が必死に笑い声を噛み殺して答えれば、やっと美由紀はいつも通りの彼の様子に肩の力を抜いた。


「ちなみにどんくらい付き合ったの?」

「三ヶ月。」

「なげぇな。」

「っふ、くく、いや短ぇよ。」


平均一か月を切る美由紀の交際期間に比べればまぁ長いかもしれないが。言えばはたかれるので笑いを堪える。


「告白してきたのは?」

「亮介。」

「振ったのは?」

「俺。」

「ウケる。」

「いや、そういう話じゃなくてだな、」


言いたいことは沢山あった。でも、何、と首を傾げるこいつには全部些事ということも、明らかであった。


「なんでもない。本来なんでもないはずなんだよ。」

「変な奴。やっぱり傷心か?」

「まさか!」


笑いながら首を横に振る。距離を取られて当たり前だ、と思っていた自分に呆れる。結局幸也自身も、「普通」に固執していたのだろう。


「あ、もう逃げらんねぇからな。川崎に幸也が出るってLINEしたから。」

「早いな……じゃあ曲でも決めるか?」

「ごめん、今は無理だわ。この後言語テストなんだよね。」

「え?次のコマあと二十分くらいだよ。」

「そうヤバいの。」

「留年は笑えねぇぞ……」


また単位落とす気かと眉を上げれば、彼女はケラケラ笑いながら教室を出ていった。


***


文化祭参加を決めた日のことを思い返しながら、幸也はかけていた曲を止める。この曲で文化祭に出ることにして、二人で練習するうちに、放っておかれた坂本先輩は美由紀を振ったんだったか。


その頃から、お互い振られる時のフレーズは決まりつつあった。


どうせ幸也の事が好きなんだろ。

どうせ美由紀の事が好きなんだろ。


幸也に関していえばそれは百点満点の正答であり、美由紀に関していればそれは零点どころかマイナスを行く誤答であった。


「そういや今彼氏いんの?」


何気なく、コップをテーブルに置きながら問う。立ったままコップを傾けていた美由紀が、笑いながら首を横に振った。


「いないいない、長続きするもんじゃないって分かったのでね。お前は?」

「いたらお前をこの時間に事務所に上げないよ。」


それなりに遅い時刻だ。元彼女と二人きりになったら恋人からお咎めの目線の一つや二つ飛ぶ時刻だろう。


「確かに。」

「お前と別れたきりですけど。」


口が勝手に、余計な音を紡いだ。あぁしまった、これは言ったってどうしようもないことなのに。でも声に出してしまったからには、言葉を続けるしかない。小さな声だ、聞こえなかったかもしれないと思った直後に、何が、と美由紀が聞いてくる。乾いた笑い声が出た。


「お前以降、そんな相手いないって言ってんの。」

「あー……」


気まずそうに泳いだ目に、罪悪感が募る。だから言ったじゃないか、無駄な事だと。


「いいよ。俺が言い出したんだし。この距離間でいいんだよ、ほんとにさ。」


嘘に慣れた口から、思ってもいない言葉が滑り出る。


分からない。分からないよ、美由紀。


それでもこれ以上、噛み合わないのに此奴に「恋人」という名前を付与することが得策には思えなかったから。

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