2.
ゲームだったら良かったのに。「最初から」を押し続けて、君の顔が曇らない選択肢を探すことが出来れば良かった。でも、きっとそれでも上手くいきやしないんだ。だって、俺、いったいどこの分岐から間違えたかすら、分からないんだから。本当に、分からないんだよ。
***
何もかも現実味がなくて、はっきりとしない心地がする。本当に、今から赤の他人に洗いざらい話すんだろうか。電車にぼんやりと揺られながら、幸也は窓の外を見た。ほとんど折れた心は判断力を失っていて、差し出された手を後先考えずに掴んでしまったように思う。おかしいな。最初は助けようと思って手を伸ばしたのに、気がついたら助けを求めていたらしい。
助けを求めた両者が手を取っても、結局一緒に溺れるだけかもしれないが。
県外に出かけることは久々だ。いや、最近は依頼も室内で済んでいたのだから外に出ること自体が久々か。道理で太陽が目に染みる。少し引きこもり過ぎたなと自嘲した。ただでさえ成人男性にしては小柄で線の細い自覚がある。その上体力まで落ちればこなせない依頼も増えよう。
幸也の仕事は名こそ「探偵」とついているが、その実、便利屋のそれだ。それ故、人より動けることが強みとなる。気が滅入ったからと、あの日から久しくトレーニングをしていないのは良くなかった。衰えては、いけない。鍛えていても大の男には敵わなかったのだから、せめて。
思考が嫌な方に逸れて、幸也はするりとレザーを撫でた。左手だけを覆う手袋が熱を貯めて、夏はこればっかりは参るものだとため息が落ちる。じゃあ外せばいい、と何回自分に言い聞かせたものか。薄いペラペラの布一枚で、気が狂れるのを防いでいるのだから笑えない。
頬にかかる髪が鬱陶しくて、耳にかける。適当に結いた髪が解けてきているらしい。一度ゴムを引き抜いて、手櫛で結び直す。さらさらと指から逃げる髪質に、毎度の事ながら苦笑いが浮かぶ。細くて髪量の多い生来の質のせいで、ゴムはまたすぐにずれて解けてしまうに違いなかった。切ってしまえばいいのだろうが、この髪が好きだと笑う顔のせいでその思い切りもつかない。本当に、馬鹿馬鹿しい。
一日に何度も結び直すから、この行為自体には慣れている。もう左手が邪魔をすることも無くなった。最初は革に阻まれた感覚で細かい作業をするのに苦心したが、今となってはもう肌の一部のように馴染んでいる。外さずとも、髪が絡むことはない。再び綺麗に首の後ろで括って、肩から左に流す。
電車が止まった。立ち上がりながら、駅に着いたと待ち合わせ相手に連絡を入れる。すぐにカフェの前についていると返信があった。先に入っているように伝え、地図アプリを見ながら目的地を目指した。初めて歩く道だが、どこもビル街は似たような面をしている。
見た事のあるロゴ。コピーとペーストで量産したビル。
コーヒーチェーン店の自動ドアをくぐって、店内を見回した。カウンター席の奥、入口向かって右側。分かりやすいメッセージに感謝しながら目線を動かして、目印の白いパーカーを確認する。
「あの、」
昨日確認した写真の顔より些か成長してはいたものの、目当ての人物に違いないと当たりをつける。服装を伝え合ったとはいえ、相手は自分の見た目を知らない。こちらから話しかけるのが筋だろうと正面から目を合わせる。職業柄散々慣れた人当たりの良い笑顔を、幸也は常ならまず関わらないであろう年の少女に向けて浮かべた。
「ノノちゃんですか?」
「……サチさん?」
お互いのハンドルネームを確認して、幸也は彼女の正面に座った。一瞬の間はきっと長い髪のせいだろう、と容易に想像出来る。小柄で、華奢で、長髪。反して低い声。女性かと思って気がつかなかった、と事前に電話などで話した依頼人に驚かれることは多い。自分の容姿は、声と性別だけで打ち立てられたイメージとは一致しないらしい。案の定、前に流したポニーテールを彼女の目線がなぞるのに、気が付かないふりをした。
「ごめんね、少し待たせちゃって。」
「いえ、わざわざここまで来ていただいてありがとうございます。」
「いーのいーの、受験生の時間取ってる時点で申し訳ないくらいなんだから……ノノちゃんは何か飲む?俺、一緒に頼んできちゃうよ。」
緊張していてもペラペラとよく回る自分の口に感謝する。とりあえず匿名で知り合った相手が申告通りの見た目をしていることに胸の内で息を吐いた。向こうもおそらく同じようなことを考えているのだろう、力の入っていた肩が下りたのが分かった。
高校生って何歳だっけ、と思考が脇に逸れる。年が離れていることは事実だが、「社会人」という自分のカテゴリーと「高校生」という彼女のカテゴリーの隔たりは、年齢の隔たり以上に大きい気がした。
「お互い長い話になるだろうし。まだお腹も空かないでしょ。」
「そうですね、えぇと……カフェモカをお願いします。」
長い話になる、という言葉に一瞬泳いだ目線に、幸也は少し困ったように笑った。
「今更だけどさ、別に話さなくてもいいし、聞きたくなきゃ言ってね。」
「それは、そっくりそのままお返しします。」
真っ直ぐこちらを見つめた目は、己よりも余程強い力を持っていた。助けを求めてきた相手。そして、助けを求めた相手。
「うん。そうだね、そうする。」
スマートフォンだけ掴んで立ち上がる。荷物をここに置いていくことに一瞬躊躇したが、警戒していないことを見せた方がいいかと判断した。そうやって相手の感情を推し量る自分はあまり好きではないが、染み付いた習慣というやつだ。
「あ、先にお金、」
かけられた声を、目線で止める。笑いかければ、子供扱いに少女が眉を寄せた。
「出させてよ。十近く年下の子に財布出させるのは、俺の見栄が許さなくってさ。」
「ふふ、今更じゃないですか。」
ノノが笑った理由は、すぐ当たりがついた。幸也が彼女と初めて電話した時のことだろう。醜態を晒した自覚があるから、彼は苦笑いを浮かべて今更だからこそなの、と言い募った。ころころと笑う彼女から離れて、レジに向かう。
途中すれ違った少女に見覚えがあって、幸也はさりげなく目で追いかけた。真っ直ぐにノノに近寄った姿に、思い当たる節があって目を見開く。
「カッキー、どうしたの?」
届いたノノの声に確信を持つ。その渾名は、確かノノの友人で……かつて、ノノがいじめていたという少女のはず。人より良い耳が、あの年代独特の、高い周波数を拾い上げる。盗み聞きのようで嫌だったが、つい意識はそちらに寄った。
「今日はちょっと、知り合いと会ってて。」
「そっかぁ。ちょうどいいから数学聞きたかったんだけど。」
「夏休み大抵暇だし、連絡してくれれば会えるよ。」
「ほんと?やっぱさ、みんな勉強してるだろうから連絡取るの遠慮しちゃって。」
「分かる分かる、そっちこそ今日はどうしたの?」
レジでカフェモカとアイスコーヒーを頼む。店員と会話をしていても向こうの声を拾えるのもまた、慣れのようなものだった。
「ここで勉強してたの。家でやるより集中出来るし。お金ないからそうそう来られないけどさ。」
「バイトも出来ないしね。でも、今あんまりお金使わなくない?遊ぶ時間も相手もいないしさ。」
「マサトとは会ってないの?」
「なんか連絡するタイミングもなくて夏休み入ってから全然話してないや。」
「だよね。やっぱり塾、忙しそうだし。」
注文の品が用意されるのを待ちながら、記憶をひっくりかえした。マサト。誰だったか。これも聞いた名前のはずだった。商品を受け取る時に意識が一旦持っていかれて、盗み聞きは一度途絶える。そのままトレーを持って席の方へ近づいた。話はいつの間にか自分の話題になっていたようで、幸也は苦笑いを浮かべる。
「さっき誰かと一緒にいたでしょ。あのお兄さん誰かなって。」
「あーっと。」
「まさか彼氏?」
なんでこういう時に限ってちゃんと男性に見えるんだか、と肩を竦めた。勿論ここで女性に見えたところで、下世話な邪推はいくらでも出来ることは身をもって知っているが、やはり世間のバイアスは男女の連れに激しくかかることも、また事実だ。一つ息を吐いて人畜無害な笑みを貼り付ける。
「彩花ちゃんのお友達ですか?」
声をかければ好奇心を隠さない目がこちらを振り返る。微笑ましい限りで。
「はい、そうです。こんにちは。」
「こんにちは。」
「えっと、お兄さんは、」
どう説明するべきか困惑するノノの目線を感じながら、幸也は口を開いた。開くだけでいい、慣れた口は意識半分でも勝手にペラペラとそれらしい事を吐き出すようになっているから。
「彩花ちゃんの元家庭教師です。まぁあくまで元っていうか、彩花ちゃんのお母さんにちょっとお世話になっていたものですから。その縁で僕が大学一年の頃、だから小学生のころだよね?彩花ちゃんの勉強を見ていて。」
同意を求めた視線にノノは一瞬目を見張って、すぐに微笑んだ。
「そうなの。だからその、今どういう関係かっていうと、何とも言えなくて。」
「なるほどね。」
「彩花ちゃん今年で受験だし、また夏休みだけでも勉強見ようかなって話になったんですよ。」
邪魔してごめんね、と納得して笑った少女が店を出ていく。
「今のが、カッキーだよね。」
「そうです、よく覚えてますね。」
目を丸くしたノノに思わず頬が緩んだ。流石に一年近く前に見た写真の顔を今日まで記憶している訳では無い、と訂正する。
「ノノちゃんの顔思い出しとこうと思って来る前に最初に貰ったメール見返しただけだよ。ま、十代の顔はすぐ変わっちゃうね。ノノちゃん写真よりシュッとしてる。」
「そうですか?たいして変わってないと思いますけど。」
「結構印象違うよ。」
そうかなぁと首を傾げた少女に頷く。本人達は毎日鏡を見ていれば気にならないのだろう。さすがに二十歳を過ぎれば顔の印象は固定されるが、十代の顔は思いの外変化する。
「あ、そうだ。ダメだよ、ああやって友達の写真知らない人に送っちゃ。おかげで俺はノノちゃんの顔が分かったけどさ、悪用なんていくらでも出来んだから。」
インターネット越しにそれを自分か注意するのも間抜けた感じがして、当時はそのまま受け取ったけれど。一応大人としてコメントしておこうと咎めれば、ノノは眉を下げてきまり悪そうに笑った。
「後から思いました。でも……あの時、必死だったんです。あったほうが、なんていうか、リアルかなって。」
「リアル?」
「だって、よくある話でしょう。変な言い方ですけど。」
よくある話、ね。
「……そうかもね。」
彼女から初めて連絡を受けた時、自分も同じような感想を抱いたのを覚えている。そう、よくある話。数か月前に彼女から助けを求められた頃の事を思い出しながら、幸也はアイスコーヒーのストローを意味もなく回した。
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