トラウマ持ちの探偵といじめっこの高校生が半生を語り合う話
黒い白クマ
1.
天気が悪いからか、酷く頭が痛かった。まさか先日の後遺症じゃあるまいな、などと考えが逸れかけて、幸也は慌てて電話口に意識を戻す。
「大丈夫です、もうぴんぴんですよ。ええ、本当に。いや酔っ払いは危ないですね。」
退院したばかりなんでしょうと気遣う馴染みの客に、冗談めかして大丈夫と答える。
悪いことは続くものだ。酔っ払いに殴られるし、そのせいで入院はするし、そのせいで友人には愛想をつかされたし。あぁいや、愛想をつかされたのは殴られたからでも入院したからでもなく、無抵抗にぼーっと殴られていたのが悪かったのかもしれないけれど。
「じゃあそうですね、一週間……はい、じゃあまたお電話しますから。」
依頼の日取りを確認して、電話を切る。踏んだり蹴ったりとはいえどうもここ数日現実味がなかった。鈍った感覚は、開いた手帳を見た瞬間じわじわと心を犯し始める。やっと感情が追い付いてきたらしい。
そうか、本来なら今日は。
「そもそも録音もしてねーもんなぁ。」
誰に言うことも無くぼやいて、幸也はSNSを開く。
『予定では本日が投稿日ですが、今月のラジオはお休みします。しばらく中の二人の都合がつかないので、来月も更新難しいかもしれません。』
ただのお遊びと言えばそれまでだが、毎月の投稿を期待する人が一定数いることも事実。いったい相方……つまり、幸也に愛想をつかしたらしい友人と連絡がつくのはいつになることやら。
ちらりと時計を見、再び手帳に目を落とした幸也はのろのろと立ち上がって手頃な紙を掴んだ。「臨時休業」と精一杯丁寧な字で書いて、ペンを置く。
事務所のドアを少しだけ開けた。顔を出し、腕を伸ばして掛けてある「営業中」の札を裏返す。それからテープをつけた紙を叩きつけるようにドアに張りつけて、またのろのろとドアを閉めた。
頭痛だか心労だかで一挙一動が億劫だ。さっきまでそんなこともなかったのに。病は気からってか。勘弁してほしい、拒否反応を示したところで何も解決しないのに。
アドレス帳アプリを開く。今日この後、引越しのための荷造りを手伝う予定だった依頼主の名前をタップした。続いたコール音が切れて、聞き慣れた声がする。
「もしもし?」
「どうも、堺探偵事務所です。」
「あぁ幸也か、かてぇな。」
大学からの友人がケラケラ笑うのが、頭に響く。人の笑い声が不快となると、これは重症。
「一応仕事の電話だからさ。」
「今日頼んでたやつ?」
「うん、そう。川崎、妹さんの引っ越しって週末だったよな。」
「そうだぞ。」
「荷造り手伝うのって明日でも大丈夫か?体調崩しちまった。」
「あぁ、平気だけど……お前は大丈夫なのか?今どこにいんの、事務所?」
看病しに行ってやろうか、と気遣う声にそこまでじゃねぇさと断りを入れる。通話を切って、スマートフォンを放った。
頭痛と心労と体調を一瞬秤にかける。冷静に回らない思考はすぐに逃げを打って、冷蔵庫に足を向けさせた。
冷蔵庫を開けたまま空の胃に缶ビールを流し込んで、空き缶をシンクに放る。三、四本腕に抱えて冷蔵庫を閉めた。ソファまで戻る気にすらならず、調理台に並べたそれをまた一つ開けた。
「ド昼間から仕事キャンセルして何やってんだ、バーカ。」
ズルズルと壁に寄りかかって座り込んで、自分を叱咤するように叫んだ。想像以上に覇気のない声が床に落ちる。
悪いことは続くものだ。アルコールで流せないことなんて、分かっているのに。インスタントな多福感と吐気が思考を蹴り飛ばしていくのに、幸也はただ乾いた笑い声を上げた。
***
――電話が鳴っている。
意識が浮上して、幸也はしばらく自分がどこに転がっているのか考え込んだ。事務所のキッチン、と答えを出しながら立ち上がって、コール音の元を探す。どうせ川崎だろうと思いながら表示を見ずに耳にあてる。
「はい、堺探偵事務所で、す……?」
視界に仕事用のスマートフォンが入って瞠目する。じゃあこれはなんだっけ、と混乱するうちに高い声がした。
「え、っと、サチさんのお電話で間違いないでしょうか。」
サチさん。呼ばれた自分のハンドルネームにますます思考がこんがらがる。悪酔いした脳味噌はないも同然で、ろくに働きすらしない。
「あ、はい、そう、です。あれ?」
「すみません、企画の時間外なのは分かっているんですが。」
企画、と言われてやっとこのスマートフォンがプライベート用のものであることに辿り着く。そうだ、電話番号を変えるから最後に、と番号を公開したんだった。つまり相手は「ラジオ」のリスナーか。そういえばキャリア変更やろうと思ってしてないな、なんてまた思考が一人歩きを始める。
「あー、いや、まだ電話繋がるようにしていたのは俺の不手際なんですけど、えぇと、どうしたんですか?企画は終わっていますが。」
暗にもう切ってもいいかと尋ねれば、声が思わぬ言葉を続けた。
「えっと、あの、私、ノノです。メール、返してもらった、野々宮彩花です。」
「……ノノちゃん?」
「あの、メールで話すと、すごく長くなってしまうような気がして、それで……今、お話出来ますか。」
戸惑いを含んだ自分よりも幼い声に、返すべき言葉を探して目が泳ぐ。
「うん、言った。聞いてあげたいんだけどごめん、めっちゃ申し訳ないんだけど今俺ガッツリ酔っちゃってて、どうしよ、」
「あ、すみません、」
「いやいやこれは俺が悪い、こんな昼間っから、っあー、ちょっと待ってね情けないな。やだねいい大人が自己嫌悪でこんな……」
言い訳を探すように溶けかかった思考からボトボトと言葉が落ちていく。かけ直すから、と言いかけたが、相手の言葉に遮られた。
「どうか、なされたんですか。」
「いや、」
なんでもないよ、と。そう言えば良かったのに。ふと我が身を省みて、幸也は言葉を失った。
どうかした、んだよな。どうしたって言うんだろうか、一体。
「あの、」
心配そうな声にハッとする。
「いやごめん、ごめんしか言ってねぇな俺、じゃなくて……」
「サチさん、あの、ホントに、大丈夫ですか?」
「あはは、大丈夫だよ、ちょっと、ちょっと色々立て込んだから、だから、えーっと、」
大丈夫、初めてじゃない。きっと、何とかなる。
本当に?
なぜか視界が滲んだ。
「……あれ、俺大丈夫じゃねぇのかも。」
自分の口から出た音が自分の耳に入って、幸也は慌てた。どうもさっきから、思考が制御出来ない。これじゃあ話にならないだろうと、誤魔化すように言葉を重ねる。
「待って取り消し、ごめん、ごめんほんと、またかけ直してもらってもいい?先いってくれれば絶対時間空けとくから、さ。」
返事がない。おや、と思って言葉を切った。
「ノノちゃん?あれ、聞こえてる?」
「あの、すみません、迷惑かもしれないんですが……私と同じで、話したら楽になりますか。」
何が、と溶けた脳が尋ねる。束の間彼女の言葉を頭の中で転がして、幸也は掠れた声で問う。
「……俺が、楽になるかってこと?」
「はい。誰にも言えないからしんどいんじゃないですか。私も、貴方に大丈夫かって聞かれて気がついたんです。大丈夫?って言われて、やっと大丈夫じゃないって、思ったんです。多分、同じです。」
大丈夫か、と立ち止まって我が身を振り返るきっかけなどなかった。あったのかもしれないが、見て見ぬふりをして来た。
大丈夫じゃないなら、話したほうが楽になりませんか。そう重ねて問う声に、幸也は酷く頼りない声で質問を返した。
「ノノちゃんは、話したら、楽になる?」
彼女を助けてあげたいと、思っていた。最後の意地みたいに、自分一人が楽になるのが嫌で、己が彼女を救えるのかと問う。束の間、沈黙が落ちた。
「分かりません。でも、話さないと、重くて潰れそうで。」
返された言葉は、説得力を持ってストンと幸也の胸に落ちた。重くて潰れそうという感覚は、今正に自分の状況であった。
「そっか。そだよね。うん、じゃあ俺、ノノちゃんの話聞くよ。半分持たせて。」
話しても何も変わらないかもしれない。でも、誰かにもこの重さを持っていて欲しくて。覚えのある感情の救い方はよく分かる。自分が望むことと、同じだから。
「長くなるなら、電話でも話しにくいかな。」
「そう、ですね。サチさんは?やっぱり長くなりますか。」
「俺、も、長いかも。あれ?俺どっから大丈夫じゃなかったんだろ。」
話すって、いったいどこから?振り返ってみても、何がきっかけなのかすら分からない。そのことに初めて気がついて、自分が一体いつから、何から目を逸らしていたのか愕然とした。
言葉に詰まった幸也の耳に、恐る恐る、ノノが尋ねる声が届く。
「サチさんさえ良ければ、直接会いますか?」
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