魔王と姉。その四
「え、パスして良いか?」
「「ええええぇっ!?」」
姉者が名乗りを上げたことに対し、牙獣族の中に異を唱える者はいなかった。いるはずもなかった。場の空気が完全にカークァス様によって支配されている状況、姉者が出ることは誰もが納得できることだったのだが……よもやカークァス様本人が異を唱えるとは……。
「あ、あの……理由を聞いても良いかしら?」
「そんな分かりきったことを聞くのか」
「分かりきったこと?よもや私が女だからと侮って――」
「ガウルグラートを除き、この中で最強であるお前を倒してしまえば、終わってしまうだろうが、この至極のひと時が」
やはりカークァス様は慧眼の持ち主だ。叔父上の特異性に対する反応からしても、カークァス様は牙獣族に対する知識を殆ど持ち合わせていなかった。
恐らくは『八牙』の存在も、その中で最強である姉者のことも知らなかったはずだ。それでもなお、牙獣族における姉者の立ち位置を理解しておられる。
「……知っていたというわけではありませんよね?」
「あれだけ長い時間、観察をされていたのだ。最も細かく観察してくる相手くらい見分けがつく」
いえ、つかないと思いますよ、カークァス様。一方的だったとはいえ、叔父上を相手にしながら、自分を見る者達の視線の動きだけで格付けを行うとか、普通は無理かと。
いや、しかしだ吾輩よ。カークァス様はこと技巧に置いて、吾輩の想像を遥かに超えてくる御方だぞ。
「そうですか……。では改めまして自己紹介を。牙獣族『八牙』筆頭、ロミラーヤ=リカルトロープ……お相手を務めさせていただきますわ」
「え、いやだからパスって」
「ダメです、私がお相手を務めさせていただきますわ」
「……せめて、あと十人、いやもう十五人相手してからでは――」
「つ、と、め、さ、せ、て、い、た、だ、き、ま、す、わっ!」
有無を言わさずに前に出る姉者。カークァス様が傍目から見ても分かるほどにションボリとしておられる。姉者を相手にする前にあと十五人くらいと戦いたいとか、本気でおっしゃられているんだもんなー。もう皆ドン引きよ。なのでこちらを未練がましくチラチラと見ないでください、カークァス様。
「――俺は美味そうなものは最後に食べる主義なのだがなぁ……仕方ない」
「まったく……?何をしていますの?」
姉者と戦うことを受け入れたカークァス様は、いそいそと周囲に散らばっている武器を拾い集め、観客席にいる同胞達へと一つ一つ丁寧に渡している。
「片付けに決まっているだろう。散らかった場所で戦うのは好きではないのでな」
「私相手には不要だと?」
「徒手で戦うことを選んだのはお前だろう?」
二人の会話を聞いていると、吾輩の方に鞘に収められたカークァス様の剣が飛んできたので慌てて受け止める。預かっていろということなのだろうが、せめて視線くらいは向けてほしいものだ。
「……ご自身の武器すら手放すので?」
「なに、今朝持たされた土産だ。習熟度でいうのであれば、コレが一番であることはお前と同じさ」
カークァス様は構えることなく、静かに佇む。見事な自然体、状況等に左右されないありのままの姿勢に息を飲む者達もいる。
本来ならばインキュバスが牙獣族相手に素手で戦うなど自殺行為以外の何ものでもない。だがここにいる皆が、そのような考えは捨てている。
叔父上との時に放った掌底から、カークァス様が体術にも覚えがあることは皆が把握している。それでもその奥にある粋は未だに計り知れないのだ。
「――仕掛けても?」
「せっかちだな。気のままにすると良い」
姉者の姿が消え、カークァス様の側面へと現れる。驚きの反応を見せつつも体を反らし、姉者の爪から逃れるカークァス様。
しかし姉者の攻撃は一手で終わるようなものではない。僅かな重心移動から繰り出される高速の膝蹴りが逃げられぬ体へと直撃する。
「――っ」
腕を盾に姉者の蹴りを受け止めたカークァス様だが、その体は何度も回転し、数度地面へと叩きつけられて訓練場の端まで飛ばされた。
飛ばされるように威力を逃したカークァス様もそうだが、姉者の膝蹴りの威力も流石だ。牙獣族の巨体であっても、あの膝蹴りは骨と臓物を破壊する威力があるからな……。
カークァス様は何事もなかったかのように軽やかに起き上がり、服についた砂を軽くはたき落としている。
「不意を突いたのに、驚くほどに軽く、柔らかい感触ですこと。よくもそこまで脱力ができますことね?」
「――そちらこそ、よく鍛えられた柔軟な脚だ。ガウルグラートと勝手が違い過ぎて、壊し損ねてしまった」
「っ!」
姉者の姿勢が僅かに崩れる。打ち込んだ膝が負傷したのだろう。吾輩としたことが見誤っていた。カークァス様は姉者の膝を防ぐためではなく、壊すために腕を回していたのだ。
動かさずとも相手の方から高速で迫ってくるのだから、触れた瞬間に魔力を流し込めばそれは打撃にも等しい。
だが腱まで捩じ切れた吾輩とは違い、姉者の負傷は捻挫程度のものだろう。そこは肉体の違いというところか。
「おまけに毛並みも良い。ガウルグラートはもっとこうモフモフしていたが、お前はサラサラとしているな。おまけに混ざっている香料の匂いも悪くない。日頃から細かな手入れを――」
「そういう感想は不要ですわよ!?」
「そうか。まあ感覚は分かった。次は壊そう」
姉者の周囲の空気が張り詰めていくのが分かる。カークァス様の発言にハッタリはないと、次にカークァス様の手が触れた部位は確実に破壊されるのだと。
こうなると武器を持たない姉者にとっては不利な話だ。自身の攻撃は受け流され、触れた箇所は腱ごと捩じ切られてしまう。同じ条件なのにも拘らず、随分と理不尽な展開だ。
……だがそれはただの手合わせの範疇ならでは、だ。
「元より出し惜しむつもりもありませんでしたが……良いでしょう。貴方を『足る』相手だと改めさせていただきますわ」
姉者の魔力が変質していく。牙獣族の特異性は獣の因子を解き放ち、その肉体を強化するもの。だが吾輩や姉者のソレは少しばかり性質が異なる。獣の因子を解き放つことには違いないが、得られる効果は肉体の強化ではない。肉体の創り変えだ。
紫電が奔る。それが姉者の移動の軌跡であると理解したカークァス様は攻撃を防ごうとする。
「――っ!?」
だが襲いかかるのは衝撃だけではない。全身を貫く雷撃の奔流も同時に襲いかかるのだ。
牙獣族の特異性の中で固有名を与えられるのは、肉体そのものを完全に変質させられる者だけ。だがそういった特異性を持つ者全てが強者となれるわけではない。
誰とも似つかぬ力と向き合い、一人でその獣の在り方をものにしなくてはならない。稀有な力を持ち、それを理解する強靭な本能が合わさって初めてその姿は成ることができるのだ。
「お望み通り、至極の時間を与えて差し上げますわ。至福の時か苦悩の時か、私には分かりかねますが」
奔る雷撃に空気が悲鳴を上げる。それはどの獣の咆哮よりも痛々しく、悍しい。
姉者の特異性『嘆き、唄う紫電の金狼』。殲滅力だけならば、吾輩すら超える牙獣族最強の矛。
牙獣族はその特異性の関係上、その闘志が尽きぬ限り戦い続けることができる。だが姉者の一撃はその闘志をも刈り取る。どれほど強靭に鍛えた肉体であれども、その雷撃は意識を容易く遮断するのだ。
姉者の特異性の強みはソレだけに留まらない。その力を内包した魔力を全身に巡らせることで、肉体の限界を超えた速度、それこそ神速の域で駆けることができる。
雷撃から意識を守るには、頭部への魔力強化を強め意識が飛ばされないように覚悟を決める必要がある。だがその状態では神速で繰り出される姉者の攻撃をまともに防ぐことなどできないのだ。
現状姉者への対抗策は二つ。多勢で攻めて姉者の体力が尽きるのを待つか、強固な特異性を持って耐えきることのみ。
この状況下で前者は不可能。後者も……あまり期待はできぬだろう。
「二重の意味で雷に打たれたな。なるほど、そういうものもあるのか」
カークァス様は体を小刻みに動かしながら、負傷の程度を確認しておられるようだ。あれほど吾輩の攻撃を捌き切っていた御方でも、姉者の攻撃は効いたようだ。
比較的軽症に見えるのは、あの焦げて穴の空いたマントに原因があるのだろう。あの御方は姉者の特異性を知らなかったというのに、その脅威を察し素手で受けるのではなく、マント越しに受けていたのだ。
「次は壊す、でしたかしら?切った啖呵を飲み込まないでくださいまし?」
「そうだな。四肢を壊すつもりがその程度では、興醒めも仕方あるまい」
「……っ!?」
姉者の胸部にあった服の飾りが砕ける。そこは心臓の上、姉者の雷撃によって体が硬直していなければ、その攻撃は更に奥に届いていたというのか……恐ろしい集中力だ。
「しかし雷撃を纏う特異性……か。少しばかり骨が折れそうだ」
「別に弟に頼み、剣を投げ返してもらっても構いませんのよ?」
「その雷、多少は効果範囲を広げられるのだろう?槍を握っても然程変わりはしまい」
今姉者はかつての我輩と同じ気分なのだろう。カークァス様は揺らがぬ瞳のまま、真っ直ぐに姉者を見つめている。
好奇心、感動、敬愛、殺し合う敵に向けるにはあまりにも実直な視線。その異質さには否応なしに心が揺らされることだろう。
「長く付き合うつもりはありません。一気に終わらせますわっ!――っ!?」
姉者が紫電となってカークァス様の元へ飛び込むのと同時に、カークァス様は横に飛んでいた。いや、同時ではない。先にだ。
姉者の移動速度は見てからでは回避が間に合わない。それが回避できたということは、カークァス様は姉者が動く直前には跳んでいたということになる。
姉者も紫電の速度には体こそついていけるが、合間に思考を挟む余地は殆どない。回避するのであればそのタイミング以外にないだろう。
その行動に反応しきれないのであれば、その起こりを察知して先んじて対応する。言うのは容易いが、実践するのは至難の業だ。そんな離れ業を二度、三度と平然とやってのけてしまうのだから、もう感服する他にない。
「っ!いつまでも避けられると思わないことですわっ!」
「このまま紙一重を続け、疲労を待つのも手だが……それでは奥の手を披露してくれたお前に失礼だな」
またもや攻撃を回避してみせたカークァス様は、姉者の方へと向き直り初めて構えらしい構えを見せた。
腰を僅かに落とし地に足をしっかりとつけ、まるで握手を求めるように右腕を腰の高さから少しだけ前に。
その構えの真髄は測りかねるが、一つだけ分かることがある。あの構えでは姉者の攻撃を回避することはできない。カークァス様は回避を放棄しておられるのだと。
「それは、なんの真似ですの?」
「いやなに、珍しい特異性を見せてもらった礼だ。こちらも応えようと思ったまでだ」
「……私の攻撃を正面から受け止められる特異性を持ち合わせていると?」
思わず体が前に出る。カークァス様の特異性!興味を持たないはずがない!あの創生の女神ワテクア様が我々を押しのけて推薦するほどの御方の特異性、一体どれほどの――
「いいや。俺の特異性はこういう時にはなんの役にも立たん」
少しばかり残念な気持ちと共に、元の場所へと下がる。それはそうなのだ。カークァス様の特異性が姉者の特異性を打ち破れるものならば、初撃の時に反射的に解放していてもおかしくはない。命を奪いかねない一撃をマントで受けるよりも、本能で特異性を解放した方が遥かに無難なのだから。
「なら、どういう――」
「――奥義を見せてやろう」
思わず体が前に出る。カークァス様の奥義だと!?あれ程の超絶技巧を平然とやってのける御方が、奥義と言わしめるような技、一体どれほどの――
「おい、ガウルグラート。視界の隅でちょこちょこ動くな。煩わしいぞ」
カークァス様に叱られ、すごすごと元の場所へと下がった。
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