魔王と姉。そのニ
自分の想定通りに物事が進んだ時、仄かな高揚を感じることがある。けれどそれは毒だ。万事が思い通りになることなどないのに、自分に万能感を覚えてしまう甘い慢心の毒。
けれど甘い香りのする香料は、少量で使うもの。大量に使おうものなら、香り以外の苦味が混ざってくる。
今の私の気分はそれだ。カークァスの提案の都合の良さに、甘みを通り越して苦味を感じている。
今回の視察を利用し、ガウルグラート……牙獣族の立場を元に戻そうという計画はあった。暗殺を始め、カークァスの信用を貶すための計画など、両の手では数え切れない程度には準備を行っていた。
カークァスに対する弟の評価を、過大から過小の範囲で想定し、様子を見ながら計画の切り替えを行い、適切な処理をするためだ。
けれど蓋を開けてみればこれはどうなの。カークァスは自ら殺される機会を設けてきた。
私が入念に考えた計画なんて全てがまどろっこしいと言わんばかりの行為。そんなことは当たり前。相手のことを自ら死ににくる馬鹿だと想定する者がどこにいるというのよ。
「良い訓練場だな。修復のし易さを考慮した安い造りではあるが、小規模な闘技場を思わせる造形だ」
訓練場にやってきたカークァスは、訓練場の造りやその雰囲気を楽しんでいるように見える。少なくとも内心で自らの命の危機を恐れているような素振りはない。
自分は負けないという自負、そして自らに反対する者を打ち負かすことで私達を納得させようという魂胆……だとしても蛮勇が過ぎる。
「……カークァス様、本当によろしいのですか?」
「良いもなにも、俺は視察にきたわけだからな。兵士の練度を確かめるのも役目の一つだ」
ガウルグラートもカークァスの行動に焦りを感じているのか、不安の色がみてとれる。その理由は明白。挑発に乗って挑んだだけの弟と、これからカークァスを倒そうとしている者達とでは意識に明確な差があるからだ。
カークァスが静かに訓練場の中央へと移動すると、周囲を囲む同胞達の視線が一斉に注がれる。
彼の望み通り、ガウルグラートから立場を奪った彼に不満を持つ手練を集めてみせた。さらには戦えなくとも、不満を持つ者達もその見物に足を運んでいる。
当日に近隣に伝えただけだというのに、その数は千にも届こうとするほどだ。その視線の中に彼を慕う感情は一切含まれていない。
この光景を受け、カークァスにも弟がどれほどの期待を背負っていたのか、少しは理解でき――
「――好奇心たっぷりなのは悪くないが、あいにくと宴会芸の用意はなくてな。ロミラーヤ、早いところ一人目を出してもらえるか?」
「……良いでしょう」
指示を出し、手練達を観客席の全方位へと展開させていく。
これはただの試合などではない。必ず勝たなければならない死合なのだ。
弟の言葉を信じるのであれば、カークァスは弟を凌駕する技術を持っている。インキュバスならば魔法による幻覚などの可能性も考えたけれど、彼の足運びを見るからに近接戦に覚えがあるのは確かなようだし。
最初に宛がう者は敗れるのだろう。けれどその敗北を全て糧にして私達は勝利を手にする。
ここにいる全ての牙獣族の戦士達に彼の動きを学ばせる。体捌き、反応速度、癖や呼吸の深さまで、その全てを。
牙獣族は本能に任せた戦い方を好むけど、事前に得られる情報を活かせないわけではない。むしろ眼前で得た情報に合わせ、本能が最適な動きに調整を行ってくれる。
相手の動きを見れば見るほど、その相手に適した戦い方ができるようになる。理論を不要としながら、理論詰めで得られる解答へと導くことができるのだ。
その対応力は、他の魔族の格言の中に『牙獣族は初動で潰せ』というものができるほど。カークァスは一人ずつと戦うわけではない、一度に全員と戦うのだ。
配置を済ませ、一人目を指名しようと戦士達の方を見る。最初の戦士には若くも、慎重な者を選ぼうと考えていた矢先、私の指名よりも先に前に出てきた者がいた。
「ワシが出よう」
「――叔父上」
周囲から僅かにどよめきがあがる。様子見としての人選が行われると思っていたところに、牙獣族最強集団『八牙』の一人である叔父上が出てきたのだから。
「慎重に事を運びたいところをすまぬ、ロミラーヤ。しかし初見でガウルグラートを倒したというこの男の強さ、同じ立場で味わってみたかったのでな」
「……いえ。構いません」
最初の捨て駒にするには叔父上はあまりにも勿体ない。けれどその戦歴はガウルグラートよりも遥かに長く、熟練の戦士であることは事実。少しでも長く、多くの情報を得るためには悪くない人選ではあるのだ。
五歩、いや四歩も奔れば互いの間合い。そこまで前へと出た叔父上は大剣を抜刀し、カークァスの方へと刃先を向ける。ガウルグラートの豪斬牙に比べれば、やや小振りではあるものの、並の戦士では扱えない大きさの剣であることには違いない。
「ワシ等をまとめて相手にしようというその豪胆さ、気に入った。ゆえに初戦はお前さんに敬意を払い、純粋な戦士として相手をさせてもらおう」
「光栄なことだ。開始の合図は……そうだな、そちらが始めの一歩を踏み出した時としようか。好きなように仕掛けると良い」
「一歩を踏み出した時か、良かろう」
叔父上が前へと跳躍した。その場の脚力の勢いのみで、カークァスとの距離を縮める。
まだその足は着地していない。一歩を踏み込んでいない。けれど既にその大剣は振り降ろされている最中。
「――性格の悪い叔父上」
着地、すなわち一歩を踏み出す時と斬撃をほぼ同じタイミングで行おうとしている。
無論カークァスはその攻撃を避けても防いでも構わない。けれど開始の合図は『そちらが一歩動き出すまで、こちらは歩みださない』というもの。意地でも開始前に相手を動かしてしまおうという考えなのだろう。
「いや、愉快だ」
「――ぐぅっ!?」
叔父上の体が後方へと弾かれた。叔父上の剣よりも先に、カークァスの放った掌底が叔父上の胴へと命中していたのだ。
「おいおい、踏み込む前に仕掛けたぞ」
「いいや、今のは相手が上手だった」
手練達は今のやり取りを完全に捉えていた。確かに叔父上は大地への着地と同時に剣が命中するように斬撃を調整していた。しかしカークァスが自らの鞘を前へと突き出したことで、叔父上は鞘の上へと足を触れてしまっていた。
踏み出した足がなにかに触れたのであれば、それは開始の合図に他ならない。地面への着地よりも少しばかり早いその一瞬で、カークァスは先に掌底の一撃を繰り出していたのだ。
「うははっ!やりおるわ!そうでなくては楽しみも――っおぅ!?」
受け身を取り、即座に飛び込み直そうとしていた叔父上の姿勢が崩れる。叔父上の巨体を弾き飛ばす掌底ではあったけれど、鎧には一切の破損は見られない。
穿つというよりも、押し出しに近い一撃だったはず。それなのに叔父上の足がふらついている。
叔父上はとっさに剣を杖代わりに転倒を防ぐも、その足はおぼつかない。その表情から、自分がどのような負傷を負っているのかも精確に判断していないようにみえる。
「アレよ。吾輩もあの技に足の腱を断ち切られたのだ。カークァス様は、鎧はおろか、我々の毛皮や肉をも無視し、我々の魔力強化を乱してくるぞ」
「……そう、本物なのね」
魔力強化を乱すという言葉で、合点がいった。一撃を受けた叔父上は瞬間的に魔力強化を強め、受身の姿勢に入っていた。その状態での着地に合わせ、下半身付近に何かしらの負傷を負った。
しかし魔力強化を乱された状態ならば、それは不完全な状態で受け身を取ったのと同じ。叔父上は自らの魔力強化で、自身の筋肉を痛めてしまったのだ。
弟が絶賛する理由も分からなくはない。今の絶技を狙って放ったのであれば、カークァスの技巧は神域にもあるということになる。
「されど、差し支えなし!」
「――っ」
瞬時に間合いを詰めた叔父上による一閃。カークァスは紙一重で回避するも、つい先程まで剣を杖代わりにしていた男が、何事もなかったかのように飛び込んできたことに少なからずの動揺を見せている。
そう、カークァスの実力が本物だとしても関係はない。これは牙獣族の未来を守る戦い、決してお遊びがてらの手合わせなどではない。
「特異性か」
牙獣族の特異性は獣の因子を解き放ち、純粋な強化を行うものが多い。腕力や体力などの身体能力、五感などの察知能力、その差異は様々であるけれど、手練れともなる戦士達には皆同程度の再生能力が備わっている。
その再生能力は、肉体の欠損でもなければ、即座に全ての傷を塞ぐことができる。
「然り!闘争の場こそ我らが常!本能の望むままに戦う獣の在り方こそが我らが特異性!我らを十全に納得させたくば、我ら十全の力と向き合ってもらわねばな!」
特異性を解き放った牙獣族は、その命潰える瞬間まで戦い続けることができる。たかが腱がねじ切られた程度、かすり傷と何も変わらない。
叔父上は怒涛の勢いで攻撃を繰り出していく。その隙間を縫うように、カークァスの反撃が入っているけど、即座に回復できる以上は手傷となることはない。
「カークァス様……」
同胞達が吠える。叔父上の闘争を見て、皆が高揚しているのだ。その中で一人だけ不安そうな表情をしているガウルグラートがいる。
「ガウルグラート、貴方は特異性を使うことを許可されたのにも関わらず、敗北を認めたのよね。貴方の特異性ならば、叔父上をも軽く凌駕する力を得られる。その力こそが皆が貴方を牙獣の頂点と認めたものだというのに」
「……」
「カークァスの実力は本物なのでしょうね。もしかすれば叔父上は敗北するかもしれない。だけど、なんの問題もないの。獣の牙は一本ではないのだから」
技の冴えだけならば、カークァスにも勝機はあるでしょう。特異性を使用した牙獣族でも殺せないわけではないのですから。
けれどその時には次の者達がその技を覚えて挑む。意表を突くような技も、知っていればただの児戯でしかない。
体力も、技の数も、その全て底をつかせてしまえば良い。そうなればカークァスにはもう誰も倒せ――
「浅はかだな、姉者。なぜ吾輩が特異性を使わず、敗北を受け入れたのか。その理由を考えようとはしなかったのだな」
「……は?」
ガウルグラートの言葉の意味を理解しながら、視線を向ける。そこには少しだけ寂しそうな表情を浮かべている弟の顔があった。
普段のデリカシーの欠片もない言葉の刺突とは違う。今ガウルグラートは本心から、申し訳無さを抱きながら私を侮辱した。
握った拳を弟に叩きつけるよりも先に、周囲のざわめきが大きくなったことに体が反応する。
「っ!?」
視線を戻すと、そこには鞘から剣を抜いたカークァスと、右腕を斬り落とされた叔父上の姿があった。
叔父上の腕が斬り落とされたことに驚きはあったが、周囲のどよめきからして何か別の要因があったかのように思える。
「見逃した姉者のために説明しておくが、今この場でカークァス様の抜剣を目視できた者はいなかった。このどよめきはそれによるものだ」
「抜剣が見えなかった?誰も?どうしてそんなことがわかるのよ?」
「カークァス様の実力を最も知る吾輩が、一瞬たりとも目を離さずに集中して見ていた。それで見えなかったのだから、他の者に見えるはずもなかろう」
周囲の者達の反応が弟の言葉の真実を裏付けている。なにより、特異性を使用している叔父上が距離を取っていることが、今の攻防の異常さを物語っている。
剣を再び鞘へと収め、落ちている腕を拾い上げて、叔父上の傷と交互に見比べながら観察するカークァス。
「ふむ、腕は再生しないのか?部位の過度な欠損はダメか。繋げていれば治るのか?」
そういってカークァスは拾い上げた腕を叔父上の方へと放り投げる。
叔父上はカークァスから視線を逸らすことなく、その腕を受け取り、切断面へとあてがった。数秒もしないうちに、その腕はくっつき、元通りとなる。その様子を見てカークァスは喜びを顕にする。
「おお!凄いな、瞬時に治るのか!」
「……わからぬ奴よ。ワシを仕留めるまでの道のりをワザワザ遠くするか」
「両腕だろうと隻腕だろうと、さして変わらないだろう?それに急いで決着を付ける必要がどこにある?」
「……何?」
「ガウルグラートと手合わせをした時、あいつは早々に降参してしまってな。特異性も使ってくれなかったし、死力も尽くしてはくれなかった。領主としては正しい行動だったのだろうが、俺としては物足りなさを感じていてな」
ぶるりと、隣で弟の体が震えたのが分かった。あのガウルグラートが、どれだけ私に怒られ、殴られても穏やかな表情を崩さなかった牙獣族最強の弟が、一人の男を前に怯えている。
「だがっ!今日はツイているっ!だってそうだろう!?お前たちは特異性を余すことなく発揮し、全員が命を賭して最後まで戦おうとしてくれているのだ!思う存分戦い続けられるのだぞ!?」
明らかに精神が高揚しているカークァスがぐるりと周囲を見渡す。その視線の先には私が配置した部下達がおり、その数名が彼と視線が合ったことに驚きの反応を示してしまっている。
皆がカークァスの変化に戸惑いを見せている。牙獣族にも戦いを愉しむ者は少なくない。かくいう私も戦うことは嫌いじゃない。だけどここまで性格が豹変する者はそうはいない。
「戦闘狂か……応とも!牙獣の牙はワシ一本にあらず。お前さんを満足させてやろうとも!」
「――っ!ありがとうっ!俺は本当嬉しい!だから約束するっ!お前達の本気に全力で応え、可能な限り戦いを長引かせてみせると!」
「……?長引かせ――」
私はカークァスと叔父上から目を離していなかった。それでもカークァスが叔父上の正面に滑るように移動したことに体が反応できず、叔父上の首を跳ね飛ばした剣がいつ抜剣されたのか、全く分からなかった。
「叔父――」
そして驚愕はさらなる驚愕によって塗りつぶされた。カークァスは跳ね飛ばされた叔父上の首を掴み取り、元の場所へと押さえつけたのだ。
「っ!?」
「さぁ、繋げろ!できるのだろう!?」
首を斬られることは、牙獣族にとっても命を失う危険をはらむこと。ましてや首を完全に切断されたのだから、叔父上の本能は全力で特異性を発動し、その傷を再生させてみせた。
カークァスは叔父上の首が繋がったのを確認するや、一度蹴り飛ばして無理やり距離を作った。
「良しっ!次だっ!」
「なっ!?」
そのまま状況を掴みきれていない叔父上へと距離を詰め、今度は肩から脇腹までを斜めに切断した。
カークァスは剣を放り、崩れ落ちる叔父上の体を両腕で抱きしめるようにして支える。そしてその体が再生するのを確認すると、再び剣を拾いながら距離をとった。
「っ、ク、お、お!?」
叔父上の体はほぼ完全に再生を終えている。破損しているのは斬撃を受けた鎧だけ。けれど二度の致命傷を受け、それを強引に立て直された影響で心と体のバランスが歪んでいる。
「どうした、ただ斬られるだけでは面白くないだろう?再生前後は反応が遅れるのか?もう少し間隔を設けたほうが良いか?まどろっこしいな!いっそお前から仕掛けてこい!」
ここにきて客観的に現状を把握していた周囲が、その異常さを理解し始めていた。今カークァスは叔父上を二度殺した。そして二度命を繋ぎ止めてみせた。
この場にいる者達を全員相手にすると言っていた男が、たった一人の戦士との戦いを可能な限り長引かせようとしている。
叔父上は呼吸を整えると咆哮を上げ、カークァスへと斬りかかる。いつもならば皆の士気を向上させる雄叫びが、まるで追い込まれた獣の振り絞る断末魔のようにも聞こえた。
「心に響く、良い咆哮だ!ならばこちらもその獣の流儀に付き合おう!」
叔父上の斬撃の上を滑るように移動し、距離を取ったカークァスが大きく息を吸い込み、咆哮を上げる。
彼は牙獣族ではない。けれどその小さな体から放たれた咆哮は、訓練場を揺らし、同胞達の腹の中まで響き渡るほどだった。
いや大きさは問題ではない。そこに含まれた意思こそが異質だった。カークァスはこの状況で歓喜に打ち震える感情の昂りを咆哮で飛ばしている。
味方の力強い咆哮は士気を上げるが、敵の咆哮は精神への攻撃となる。あるものは気圧され、あるものは高揚とは違う意味で震えた。
「姉者、これがカークァス様だ。牙獣族ではなくとも、その内には我らよりも遥かに凶悪な獣の性を飼っている。誰よりも戦いを愉しみ、求め続ける純粋なる獣よ」
「――っ、それがなんだというの!?相手が時間を掛けてくれるのなら、それは好都合なこと!私達は今、全員であの男と戦っているのよ!」
そう、叔父上は一方的に斬られ続けている。けれどどれほど致命傷を受けても、相手がそれを取り返してくれている。
その間に私達はカークァスの剣技を学んでいる。完全に見えなかった抜剣も、その剣の仕組によるものだととっくに看破している。
前に出る時の呼吸のとり方も、移動の速度も、攻撃を防ぐタイミングも、一つずつ丁寧に把握している。
叔父上が対応できていないのは、この異常な状態で心身のバランスが崩れてしまっているから。それでも私達の本能は確かにカークァスの動きを覚えているのよ。
二人目や三人目で、完全に捉えるまではいかなくとも、私達は着々と彼を追い詰めているのだから、何も心配するようなことはないのよ!
「そうか。では次に誰が戦うか、早めに決めておくことだ。もう叔父上のように名乗り出る者はいないだろうからな」
「名乗り出る者がいないって――っ!」
戦いを周囲で観察している戦士達の表情を見る。彼等はその役目を放棄していない。瞬きも最小限に、その戦いを目に焼き付けている。
焼き付けてしまっているのだ。自らと同格以上の叔父上が何度も斬り殺される光景を。
彼等は叔父上と共に戦っている。あの場に立っているのが自分だと想定しながら、カークァスと向き合っているのだ。あの場にいるのが自分なら、叔父上と同じように斬られ続けているのだろうと実感しながら。
私が名指しをすれば、彼等はその命を差し出して戦ってくれるだろう。そして今の叔父上と同じように、カークァスと戦い続けることを受け入れる。
けれどその役目を買って出る者はいるのか。自分の死力を尽くした闘争を、あそこまで純粋に愉しむような獣を相手に。
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