ガールズトーク・イン・オ島

今野綾子

ガールズトーク・イン・オ島



目の前で何かが弾けた。たまらず私はのけぞった。

パン! パン! パン!

続く破裂音と共に一センチ四方の色紙が舞う。無数のクラッカーがパーティーの始まりを告げる。赤、青、黄、緑。色とりどりの雪がはらはらと落ちる。

―綺麗……。

無意識に伸ばした両腕。手の平に舞ってきた色が溶けて消える。

『風船の中身は小さな色紙なんだ』

説明の通りだった。さっきの音は自分が大量の風船を割ったせいだと思い出す。

『風船を割るのは簡単だけど、その後が少し大変。特に君の場合はね。数もそうだけど、黒いのも混じっているから』

追って頭痛が襲ってきた。頭の中でバケツがガンガン鳴り響く。うずくまっても痛みは和らぐどころか激しくなるばかり。

『キャパオーバーだ。風船を割り過ぎるとこうなる』

煩い。黙れ。キャオーバー? 知った事か。

私はとにかく記憶を取り戻したい一心で『風船』をあるだけ割った。警告された代償についても承知している。

しかし全身にかかる負荷に耐えきれず、ついに膝をついてしまう。げえげえと漏れる醜悪な声は自分のものと思いたくない程だった。

『ゆっくり息をして。そのうち落ち着くから』

背中をさすられる。男特有の大きな、節くれた手。別の気持ち悪さが胃をせり上げた。

私は目をつむり苦痛が過ぎ去るのを待った。脳みそはただ無駄に痛んでいるわけじゃない。奪われた記憶が逆流してキィキィと悲鳴を上げているのだ。

やがて瞼の裏が騒がしくなる。闇の中で色と色と色が集まり形を成す。質の悪いフィルムでも回しているのか、映像がガタガタと揺れながら動き出す。ふっと辺りの音が消え、余韻だけを残し痛みが引いていく。

顔をあげるとそこは暗いワンルームだった。

二人の女が怒鳴りあっている。彼女たちは何かを奪い奪われまいと激しく争い、その手の間には包丁が見えた。やがて刃物は一人の腹に深々と姿を隠し、血しぶきと共に再び姿を見せた。そして、今度はその刃が私の体に埋まる。車に跳ねられたような激しい衝撃を身体は覚えていた。痛みもしない腹を無意識にかばってしまう。

そうだった。そうだったのだ。私は笑みを浮かべた。

瞬きをすると辺りの光景は変わっていた。埃とタイルの床が見えた。

自分が今どこにいるのか、どうしてここにきたのか、何があったのか。全部、全部、思い出した。

私たちは殺されたのだ。

同級生の、藤野泉に―。


***


オ島の夕日が沈んでいく。常夕の島に夜がくる。道路に伸びた長い影が消えていく―。

あの世とこの世の境。朝も夜もない、夕焼け空に覆われた神様の島が藍色に染まるのは実に半年ぶりだ。見慣れた赤い空に暗いグラデーションが混ざる様子はとても綺麗だ。ひんやりした風も、その風が運ぶ祭りのお囃子も特別なもの。

島中が浮かれるこの夜を、私は『待ち人』になって明かす。

三日前の島内放送で藤野泉の死刑が決まった事を知ったと同時に、彼女の死をオ島で待っていた私と友人の浅黄絢は『待ち人』になり、明日の朝、橋を渡りこの島を出る。八年も住み続けたアパートを片付けるのに三日はなかなかタイトなスケジュールだったが、どうにかやるべき事は終わった。あとはこの鍵を返して親友の部屋へ向かう手筈だが。

「…………」

かれこれ十五分、『オ島管理委員会A地区分室』と書かれた建物の前で待ち惚けている。少しお待ち下さいとインターフォン越しに言われてからドアが開くまでの間、手持無沙汰に目の前に佇む錆びた看板を繰り返し眺めた。


みんなで守ろう。オ島のルール

①時計周りで歩きましょう。逆走は厳禁です。

②風船を釣り、現世の記憶を補充しましょう。

③赤い橋を勝手に渡ってはいけません。

④待ち人は黒い風船を割り、死刑執行チャンネルを閲覧しましょう。

その他、不明な点があればお気軽にお問合せください。

オ島管理委員会


―お気軽にお問合せ下さい。

長年雨風にさらされた看板はあちこちで同じ事を言っているが、ここにいる数年の間、委員会に何かを問い合わせた事はない。最低限のルールさえ守っていれば、島での暮らしに不便はなかった。

「すみません、おまたせしました!」

漸く戸が開くと、黒いスーツの男が姿を見せた。この区画の様々な雑務を担っているオ島管理委員会のメンバー。小暮という中年男だった。小暮は申し訳なさそうに、何度も頭を下げた。

「本当にすみません。上の人との通話が途切れなくて……。新しく委員会に入る子が二人もいるんだけど、なにしろ新人なんて何十年ぶりで採用手続きも手順も誰も覚えていなくて……」

「これ、アパートの鍵です。長らくお世話になりました」

特に世話になった覚えはない。形だけのあいさつだ。

小暮は奥で鳴る電話を気にしつつも笑顔は崩さなかった。

「この後も不明な点があればお気軽に問い合わせてください。連絡先は、一昨日お渡しした『待ち人案内』に書いてありますので」

それは軽く目を通しただけで、他のゴミと一緒にまとめて捨てた。言う必要はないから黙っている。

「ありがとうございます」

「良い夜を」

小暮は部屋に戻っていった。慌ただしい足音は扉の向こうからでもよく聞こえた。イレギュラーに舞い込んだ『新人』の迎え入れはなかなか大変なようだ。今夜は祭りもあると言うのに。ほんの少しだけ小暮に同情した。

オ島の全てを管理、運営しているのは彼ら『オ島管理委員会』だ。島での生活のあらゆる事、新しい住民の受け入れや『待ち人』になった魂への対応。そして今夜の祭りの主催も彼らの仕事。のんびりした島の中で委員会はいつも忙しそうだった。

私は商店街に向かって歩き出した。

お囃子が近くなる。太鼓や笛の音が大きくなる。藍色の空に映える提灯が星よりも月よりも輝いて見えた。


ぴーんぽーンぱーんぽーン。


オ島管理委員会からお知らせします。

明朝、現世で死刑が執り行われます。

まだ風船を釣っていない住人は、商店街へお越しください。

まだ風船を釣っていない住人は、商店街へお越しください。

余裕を持った記憶の補充をお願いいたします。


ぴーんポーンぱーんポーン。


調子っぱずれのチャイムに辟易するが、これは住人にとってとても大切な放送だ。

オ島の住民は皆、誰かが死ぬのを待っている。それは家族だったり恋人だったり、或いはもっと複雑な関係かもしれないが、その全てに共通するものがある。

待っている『誰か』が死刑囚と言う事だ。

そして『誰か』の刑の執行が決まると、住人は『待ち人』として赤い橋を渡りその人に会いに行くのだが―。

小さく漏らしたため息はお囃子の音がかき消した。

せっかく『待ち人』になれたというのに私の気分は晴れない。

なぜオ島に行くと決めたのか、成仏せず自分を殺した人間との再会をどうして望んだのか。肝心な事を思い出せずにいたからだ。

祭りの度に何度も風船を割ったが、ランダムに戻る記憶は家族や幼い頃のなんてことない思い出。

おそらく私がオ島に来た理由は黒い風船に閉じ込められている。住人が最も忘れたくない記憶は黒い風船に入っていると聞いた。そして今夜、私はそれを取り戻す。

提灯の橙は目の前だった。私は鳥居をくぐった。


商店街はよく賑わっていた。

いつもは閑散としている景色が一変、派手な看板を前面に出した屋台が連綿と続いている。食べ物や遊戯のそれよりも風船釣りがやたらと目立っている事を除けば、現世の祭りと変わらない。のんびりと一方通行に歩みを進める住人の手には色とりどりの風船があった。

赤、青、黄、緑。何を思い出せるのか期待に膨らむ彼らの表情は明るい。

島に滞在する対価に、住人は生前の記憶の一部をこの島に奉納している。祭りの夜は特別に、神様がもらい受けた記憶を風船釣りという形でほんの少しだけ返してくれる。風船釣りは強制ではないが、そうしないと記憶はなくなるばかり。そして全て忘れた住人は亡者になる。波の打ち付ける岸壁や島と向こう側を結ぶ橋の脚にしがみつき藻掻いている黒い影がそれだ。だから、この夜祭は島ではとても大切なイベントであり、発端となる『待ち人』は住人からとても感謝された。

そして待ち人の私にも今夜やるべきことがいくつかある。まずは『黒い風船』を手に入れる。

どこか、並ばずに済む屋台はないか。

道の左右にある屋台を、逆走は許されないから吟味して、右へ左へ視線を移して歩く。人の流れが一定だから、誰かにぶつかったりすることもない。

「あら、あなた『待ち人』さん?」

大きな声で呼び止めてきたのは白い髪に紫色が混じった御婦人だった。

「おめでとう。これお好み焼き。よかったら“お供え”させて」

断る前にお供えを渡されてしまった。それを皮切りに『待ち人』の存在に気付いた住民たちに囲まれ、次々にビニール袋を渡される。あっという間に両手がいっぱいになってしまった。

(今晩のご飯を買い出すのは私のはずだったけど……)

ありがとう、お気持ちだけ。集まる住人達からそさくさと距離を置くうちに、出口の鳥居が目の前に来てしまった。しまった。まだ風船を釣れていない。

どうしよう。島をぐるりと回って商店街に戻るか? オ島の通行は時計回りが絶対。逆走は許されない。でも、約束の時間もあるし、この大量の荷物を持ち歩くのは嫌だ。途方にくれていると誰かが私を呼んだ。

「みきさーん! みきさーん! こっち、こっち!」

右斜め前方。よく通る不快なこの声を私は知っている。

視線を向けるとふわふわとした金髪が見えた。オ島管理委員会の夕木だ。黒いスーツに金髪、そして馴れ馴れしい態度が場末のホストを彷彿させる。

こんなところで何をしているんだ? しげしげと眺めていると、奴のいる場所が風船釣りの屋台である事に気付いた。

おいでおいでと手招きする軽薄な笑顔。心の中で天秤がぐらつく。結局、嫌々ながらに近づいてしまった。

「黒い風船、ここで釣っていきなよ」

どうして分かるんだ。眉を寄せた私に夕木は笑いかけた。

「きょろきょろしていたし、両手はビニール袋だけ。住人に囲まれて風船釣りどころじゃなかったんだろうなって」

私はさらに眉をよせた。

「風船釣りはここが最後。それとも島をもう一周する? けどその荷物じゃ大変だよね」

夕木の態度にイライラした。バカっぽく振舞うクセをして、見透かしたような言動がとても気に入らない。

「はい、こより」

どうぞ。押し付けられた白い紐を見た。

しぶしぶ桶の前に腰を下ろし、こよりをひったくった。

―態度に出しすぎだよ。気を付けな。

親友の絢には何度も注意されたが、嫌なものは嫌だ。理由? 気に入らないからだ。私に馴れ馴れしいのも、絢に対しても近すぎる距離で接しているのも。

私が無言で桶を見つめていると、聞いてもいないのに夕木はべらべらと話を始める。

「本当は小暮さんが屋台の担当だったんだ。でも、管理委員会に新人がくるからって事で業務が交代になってさ。小暮さん知っているよね。みきさんのアパートの管理人。何十年ぶりの新人採用だから手続きとかみんな久しぶりすぎて忘れてんの。しかも厄介なこともあってさあ」

私は遠慮なく話を遮った。

「釣っていいですか」

本当に良く回る舌だ。こんな所にいないで地獄に落ちて切り落とされればいいのに。

「ああ、そうだ、急いでいたね。ごめんごめん。絢ちゃん、部屋で待たせちゃうよね」

は……? 私は顔を上げた。

「……どうして絢の家に行くって知っているんですか」

「昼間、絢ちゃんの部屋で、執行チャンネルが映るようにテレビの設定してきたんだ。その時に聞いた。今夜はみきさんと一緒に過ごすって。本当に君らは仲がいいね」

設定は委員会がやってくれると知っていたが、まさか担当者が夕木だったとは。舌打ちをしたい気分だった。自分の部屋に入られるよりもずっとずっと不快だ。

「チャンネル、きちんと映るんですか?」

死刑執行チャンネルは、現世での死刑の様子が映し出され、待ち人が観る事を義務付けられている番組だ。これもオ島のルールの一つ。もちろん破れば亡者になる。

「大丈夫だよ。俺、ああいう作業は得意」

ああそう。それは安心。これ以上こいつと話をしたくなくて、無言でこよりを水につけた。近くを泳ぐ赤い風船に狙いを定め、釣り上げる。それを夕木に差し出した。

「は~い、ちょっと待ってね」

受け取った風船を夕木は両手で包み込んだ。じわりじわりと鮮やかな赤が黒に侵食されていく。リンゴが腐ってくみたいだった。そうして真っ黒になった風船が私の元へ還された。

「はい。どうぞ」

黒い風船がどうやって生まれるかは聞いていたが、実際に見てみると何とも言えない不気味さがあった。

この中に、私が待ち人になった理由が入っている……。

良い夜を。夕木が言うのを背中で聞き、商店街を出た。長い時間いたわけじゃないのに、なんだかどっぷりと疲れた。最後の夜を過ごそうと約束したアパートが見えた頃には、両腕一杯の荷物に手がしびれ始めていた。


「それで、こんな時間になったんだ」

大量のビニールを受け取った絢は、なんとも言えない苦笑いを浮かべていた。

浅黄絢。一緒に死んで、死んでからも一緒にいる私の親友。彼女はとても美くしく利発で、ラフな部屋着姿でもその美貌はちっとも損なわれない。

サイドで緩く結んだ栗色の髪は夕焼けに透けると金色に輝くし、白い素肌と血色の良い唇は形も配置も完璧だ。すらりと伸びた長い手足はバレリーナにも負けない。加えて服の上からでも分かる豊かな胸は彼女の曲線美を最大限に魅せていた。

「お供えはありがたいけど、まさか夕木の所で釣るハメになるとは思わなかった。大事な思い出なのに」

「島をもう一周するよりはマシじゃない」

「そうかなあ……」

「あんた、本当に夕木さんのこと嫌いよね。なにか理由でもあるの?」

はい、と絢はグラスになみなみと注いだ麦茶を寄越してくれた。私はそれを飲み干し、ようやく一息ついた。

「気に入らない、それだけよ。いるでしょう、そう言う奴」

夕木の事を話しているのに、浮かんだのはぼやけた泉の顔だった。

空のグラスを受け取った絢は『仕方ないねえ』と優しく私の髪を撫でてくれた。私はこうされるのがとても好きだった。

「さてと。晩酌の準備をしてくるから、みきはゆっくり休んでいて。最後の夜だからね。お供え物も頂いたし、ぱーっとやろう」

「まだ成仏してないのに“お供え”されるのって複雑」

「私達だって今まで散々渡してきたじゃない」

その通りだ。あの時は何も考えず、無邪気に『待ち人』を祝福していた。だが、不確かな記憶を抱えたまま夜を迎えるこの不安は待ち人にならないと分からない。返って来た苦笑いの意味が今になって理解できた。

なんにせよ買い出し係の仕事はこれで終わり。私は勝手知ったるなんとやらで、手足を伸ばしラグに寝そべった。

絢は今夜の寝床の提供と酒を用意する係だ。『お供え』を皿に移し替えたり、グラスを用意したり狭いキッチンを忙しく動き回っている。私はその様子をじっと見ていた。

部屋着とは言え、絢の恰好は大胆だ。短すぎるショートパンツにトップスはキャミソール一枚。ほっそりとした二の腕やデコルテがむき出しで、かがめばきわどいものが見えてしまう。危なっかしいなと思いつつ、目が離せない。ここにいるのが私だから良いものの……。

―昼間、絢ちゃんの部屋に行ってね。

がばっと起き上がると驚いた絢が何事かと振り返った。

「昼間、夕木が来たんだよね」

「え、あ、ああ。テレビの設定しに来たけど……。何?」

「まさかとは思うけど、その恰好で出迎えたりしてないよね? ね?」

絢はきょとんと目を丸くして、それから声に出して笑った。

「そんなわけないでしょう。あんたが来る前にシャワーを浴びたの。着替えるのが面倒でこの格好でいるだけ」

何を気にしているんだか。手際よくテーブルに食べ物を並べる。

「ほら、冷めないうちに食べよう」

そう言って、ローテーブルに綺麗に盛り付けた屋台グルメと冷えたチューハイが並んだ。私のお気に入りのグラスもある。

「でも、夕木はここに来たんだよね……」

私と絢だけの部屋だったのに、最後の最後で汚された。そんな気分だった。乾杯の酒を一気に空け、温め直したタコ焼きにかぶりついた。

「そんなに嫌いなの? 夕木さん」

「嫌いって言葉じゃ足りないくらい嫌い」

絢は一口サイズに切り分けたお好み焼きをビールで流し込む。咀嚼と共に形を変える唇も、飲み込む時に微かに上下する白い喉にもつい視線がいく。

「具体的に、何かされたとかあるの?」

「そういうわけじゃないけど。……いるじゃない。関わっているだけで腹が立つヤツって。多分それ。合わないんだ、根本的に。めちゃくちゃ馴れ馴れしいしさ。絢にも、私にも」

「まー……、確かに距離感は近いね」

だが、酒を傾ける横顔は少しも気にしていない様子だった。実際、夕木に対し絢はとても親密に応じていた。恋愛関係を疑った事もあるが、そのたびに『そんなわけないでしょう』と冷たく否定される。だけど夕木が、或いは絢がそれぞれの名前を口にするたび胸の奥がざわついた。自分の大切な人形に近所の悪ガキが泥遊びした手を伸ばしてきたような。ああいう嫌悪に似ている。

(アイツが触ったのは、テレビだけか)

世間話に相槌をうちながら、この部屋に男の手垢がついていないかさり気なく確認する。

キャラクターがプリントされたカーテン。傷だらけの学習机も、そこに貼ってある剥がれかけたハートのシールも、うっすらと埃をかぶったぶ厚い辞書たちも。キッチン脇のテーブルは乱雑に雑貨が積まれている。ラグには絢のものと思われる長い髪が落ちていた。私はそれを指先で遊ばせた。開けっ放しの襖の奥にあるベッドもきちんとメイクされている。この部屋はいつも散らかっていたが、寝具周りだけは常に整っていた。綺麗な布団で寝た方が気分がいい、汚いのは嫌いだと言う絢の表情は神経質な程とがっていた。

夕木が触ったと思われるテレビ周りは見た事のないコードがだらりと垂れている。あれが執行チャンネルに繋がるのだろうか。それ以外はいつも通り。いつも通りの絢の部屋だ。

そう、いつも通り……。

はっとした。部屋を見回す。

「引っ越しの準備、全然してないじゃん! どうするの?」

「平気だよ」

「平気って……、次に来る人が困るじゃない」

「どうせ島のものは何一つ持って出たり出来ないんだから。自分で捨てるか委員会が捨てるかの違いでしょう」

そうだろうか。でも、確かに島のものは何一つ持ち去ってはいけない。この島を出る時、待ち人は身一つで旅立つのだ。

「細かい事はいいよ。どうせ、明日には全部終わるんだから。とりあえず、テレビ点けておこうか」

「さすがに……まだ早くないかな」

この夜は現世の時間とリンクしている。刑が行われるのは朝。まだ島を覆う闇は深い。

「チャンネルが映るか確かめておかないと。夕木さんの事だから間違いないとは思うけど、もしも映らなかったら連絡してくださいって言われているの」

「不備があったら思い切り文句言ってやる」

「喋るのも嫌なくせに」

揶揄って笑う絢を無視して、時代遅れのブラウン管の電源を付ける。ザラリとした画面いっぱいに目の痛くなる鮮明な青が映った。白抜きのゴシック体がテロップで表示されている。


―死刑執行チャンネル、間もなく放送開始します。

―待ち人は時間内に黒い風船を割ってください。


おお、と驚きの声が重なる。

島の誰もが存在を知りながら『待ち人』だけが見る事を許された死刑執行チャンネル。本当にその日が来たのだと改めて実感した。私は画面の下で忙しく減っていく数字を指した。

「これ、風船を割るカウントダウン? それとも放送開始時間?」

「おんなじ。黒い風船は放送開始までに割ればいい。あんたさあ、ちゃんと『待ち人案内』は読んだの? 小暮さん、教えてくれたでしょう」

「ええ……、と、」

その親切を無碍にしてゴミに出したとは言えず、私はしどろもどろに言葉を濁した。

「一応、目は通したよ。けど絢と一緒にいれば間違いはないだろうし、別にいいかなって」

「……少しは自分で考えるってことしないかなあ」

はあ、と小さなため息と共に絢は首を振った。私は慌てて話を逸らす。

「だけど、ほんとに死刑が映るのかな。このチャンネル」

「映るでしょう。そうじゃなきゃルール違反で亡者よ。そんなの困る」

そっけない口ぶりだった。気を悪くしてしまっただろうか。他の誰に嫌われても、絢に嫌われるのだけは耐えられない。

「あー……あの、お酒。私、お酒もう一本飲もうかな。絢は?」

「……ストロングがまだあるから、それお願い」

中身のない缶をちゃぷちゃぷ揺らしながら絢が言った。返ってきた声のトーンにほっとした。いつもよりペースが速いのは気のせいじゃない。

「やっぱり、酔わないと死刑なんて見られないよね」

「別にそんな事はないけど」

「違うの?」

「だって、泉が死ぬのは決まっていたじゃない。それが今夜ってだけ。みきはチャンネル観たくないの?」

「私は、その……どういう気持ちで見ればいいのか正直分からなくて」

肝心の記憶が未だに不確かな事、オ島に来た理由がはっきりしない不安を打ち明けた。絢は分かるよ、と同意こそしたが、淡々とした様子で答えた。

「だからその前に風船を割って記憶を取りもどすんでしょう。黒い風船には私達が一番忘れたくなかった記憶が詰まっている。それを割れば解決するんだから」

絢は、泉が死ぬのが嬉しいのだろうか。

泉がいなくなればいい。死ねばいい。

それは、生前の私にいつも付きまとっていた暗い感情だった。

学校でも、放課後でも、絢と私はいつも一緒だった。

見目よく、勉強もでき、人当たりのいい絢はみんなの人気ものだった。そしてみんなに平等に接し、平等に距離を置いた。

私だけが特別だった。彼女の隣が私の居場所だった。

こんな素敵な女の子が私の親友。理由は分からなかったが絢に気に入られた事に私は有頂天になった。誇りですらあった。なんの取り柄もないというコンプレックスでさえこの完璧な女の子の存在は吹き飛ばしてくれた。

だけど揃いのセーラー服がデザインの違うブレザーに変わる頃、私達の間に異物が混じった。

絢と同じブレザーを着て、違う制服の私をじっと見ている暗い瞳。

このあたりの記憶は曖昧なくせに、わき上がるざらざらした不快さだけは鮮明だった。現世で私と泉が不仲だったのは容易に想像できる。

でも、どうして絢まで一緒に死んだのだろう。私は泉に殺された。私はそう思っているし絢もそうだったと言っている。泉は絢にべったりだったはずだ。それこそ鬱陶しいほどに。なぜ殺したんだ? その答えも、黒い風船の中なのだろうか。

私達は二本、三本と空き缶を増やし、あやふやな思い出話に花を咲かせた。

「そう言えばさ、私と泉ってどこで知り合ったか覚えている?」

絢は二本目のストロング缶を開けた。めぐるアルコールは彼女の肌をほんのりと色づかせ、さらに艶っぽく、魅力的にしていた。

「私と泉が同じ高校。みきは別の高校に進学して。まあ、私の紹介よ。……その辺の記憶は戻ってないんだ」

「うっすらとは覚えているんだけどね。風船で釣れたのは家族のこととか、小さい頃のピアノの発表会とかそんな記憶ばっかり。ランダムにしたってひどいよ」

絢は頷いただけだった。

「……そうだ。確か高校の制服が変だったんだよなあ」

「いかにも私立のお嬢様学校って感じのデザインだったよ。襟と胸のリボンがこーんなにおっきくて、漫画みたいで。挨拶にごきげんようとか言いそうな感じ」

「あれはダサかったなあ……。絢のところはネクタイだったよね。シンプルで可愛かった。私もああいう制服がよかった」

「だったら同じ学校に来ればよかったじゃない」

聞いた事のない低い声だった。絢はじっとテーブルを睨みつけ、べきべきと指の形に缶を凹ませた。

「ご、ごめん……」

咄嗟に謝った。何か地雷を踏んでしまったのだろうか。そんな事を言われたのは初めてだった。

「私、あんたが同じ高校に来ると思っていた」

「ごめん……、親がどうしてもって言うから……」

私の家は裕福だったが、それ以上に両親が過保護だった。だから絢と同じ公立に行く事は許されず、父が勧める女子高に進学するしかなかった。

「あんたは私より親を選んだんだ」

「ち、違うよ。それに、ほら、学校が別れても私達しょっちゅう会っていたじゃない。そうだよね? うん、そうだった。同じクラスの子より、私は絢と過ごした時間の方が長かったよ」

「…………」

「絢……」

お願い、何か言って。

沈黙が苦しい。肩が震えている。泣かせてしまったのかと焦ったが、彼女は盛大に笑いだした。

「なーんてね。今更言っても仕方ないでしょ」

「ちょっと……驚かさないでよ」

「だってみきのびっくりした顔を見るのって楽しいし」

「酔っているでしょ」

「本当よ。みきの驚いた顔が好き。バカだけど、すごくかわいい」

「……バカは余計だよ」

「でも、可愛いのは本当」

時々こんな風に揶揄われるのだが、そのたびに妙な気分になる。酷く照れくさくて、胸の奥がくすぐったい。

「……もうすぐだよ。夜が明ける」

「本当だ。窓の向こうが明るい……」

絢はカーテンを開けた。全開の窓から夜明け前のシンとした風が吹き込んだ。じわじわと東の水平線が明るくなる。

泉はまだ布団の中だろうか。自分が死ぬと知らされたその時、彼女はどんな顔をするのだろう。


ぴろーン、ぴろーン。

ぴろーン、ぴろーン。


調子っぱずれの音に合わせてブラウン管の中でテロップが点滅している。


―まもなく刑の執行が始まります。

―まもなく刑の執行が始まります。

―風船を割ってください。待ち人は黒い風船を割ってください。


慌てて風船の存在を思い出す。たしか『お供え』と一緒に絢に預けていたはず……。

リビングのテーブルに黒い丸を見た。

「絢の風船はどうしたの?」

「机の上。テーブルじゃなくて、そっちの」

指したのは学習机の方だった。本人は窓辺から動こうとしない。じっと橋の方をみている。

「いつの間に釣りに行ったの?」

「夕木さんが持ってきてくれた」

「はあ?」

「だってチャンネルの設定にうちくるし。黒い風船は委員会のメンバーから受け取れば問題ないみたいだし」

なんだ、それ。

怪訝な顔の私はそっちのけで絢は熱心に窓の外を見ていた。

動こうとしない親友の代わりに仕方なく学習机を漁った。無造作に置かれた紙の束が雪崩を起こし、その下に黒い風船を見つけた。その紙の束から手書きの文字を見た。妙に気になった。

タイミングよく絢は『トイレ~』と席を外した。

人の手紙を盗み見るなんてダメなのに好奇心が勝り、また『見える所に置いておく方が悪い』という責任転嫁と言い訳をして私は手紙を一枚抜き取った。

短い文章が、走り書きで綴られていた。


あなたにもう一度会えることを信じている。

私が行く先にあなたが待っていると信じている。

いつも、いつも、私はあなたに会いたい。


「…………」

どう控えめに見てもラブレターだ。

絢が書いたのか? いや、字が違う。それなら誰の字だ? こんなものを寄越すのは夕木くらいしか思いつかなかったが、あの男が女を口説くのに手紙なんてクラシカルな手段を用いるだろうか。

また胸がざわついた。私の知らない所で、誰かが絢に好意を寄せている。横取りしようとしている。

―ムカつく。

見知らぬ誰かを重ね手紙を握りつぶした。

パタン、と扉の締まる音を聞いて、慌てて紙を放る。

私はなんて事ないフリをして風船を渡した。

「……ねえ、この部屋のもの、本当に捨てちゃっていいの?」

「何よ、急に」

あの手紙を絢がどうするのか気になった。送り主の想いに応えるのか、それとも―。

「委員会に言えば大事なものは一つくらい持たせてくれるんじゃない?」

「そんな事をしたら亡者になっちゃうよ。第一、この島に大事なものなんてない」

この島に大事なものなんてない。

つまり、あの手紙も手紙の主も絢にとっては取るに足らないもの。

よかった。見えないよう俯いてき私は笑った。


―まもなく執行チャンネルが始まります。

―まもなく執行チャンネルが始まります。


テロップが忙しなく点滅し始める。

外はさっきよりも白んでいた。

「さあ、風船を割ろう。それで全部思い出してすっきりして、ここを出よう」

私は頷いた。

風船を割る。そうすれば私がオ島に来た理由も分かる。泉に会うその理由も自分の目的も全てが明らかになる。

絢はキッチンから持ってきた調理用のハサミを分解した。鋭利な切っ先の左右を二人で分け合う。

ラグの上に風船を置き、私達は刃物を黒い風船に向けた。

「今まで風船を割ったのと、やり方は同じでいいんだよね」

「黒いのを割ると頭が痛くなったり吐き気がくるって」

「何それ、聞いてない」

「うん。待ち人案内には載ってないよ。夕木さんから聞いた」

またあいつか。でも絢はオ島に大切なものはないと言っていた。ざまあみろ。お前の事なんてなんとも思っていないんだ。

「いくよ」

「うん」

ハサミを構え、黒いゴムにステンレスを刺した。

凹む、凹む。丸が形を変える。歪んでいく。

沈む、沈む。切っ先が黒に、沈んで、沈んで―。

ぱぁあん!

驚いた私はハサミを落とし、のけぞった。

耳を割るような大きな破裂音。しかしそれよりも目の前に散る無数の色たちの美しさに心を奪われた。

赤い風船を割った時とも、青い風船を割った時とも違う。単色の色紙が舞うよりも、極彩色がひらひらと舞い降りるのは幻想的ですらあった。だが、いつまでも見惚れているわけにもいかない。予告通りやってきた頭痛と吐き気に襲われ、私は亀のように身体を丸めた。

脳みそに記憶がしみ込む、この何とも形容しがたい感覚は今までも何度か味わったが、今回は特別だ。特別に、異常。三半規管がぶっ壊れるのかと思う程ぐるぐると目が回る。胃がせり上がる。吐きたいのに吐けない。

口を覆い、息を整えた。

大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせ、落ち着かせた。

やがてほんの少し苦痛がマシになってきた所で目を開ける。

毛足の長いラグの代わりに、真新しいフローリングが見えた。

ここは、どこだ? 痛みの余韻が響く頭を押さえて顔を上げた。

こざっぱりとした部屋はモデルルームのようだった。二人掛けのアイボリーのソファ。沈黙したテレビとシンプルなデザインのカーテンに少しだけ乱れたベッド。観葉植物だけが青々と色を持っていた。

ソファに人影があることに気づく。黒い髪の女だった。ひどい猫背で腹を抑えている。

泉……!

とたんに記憶が蘇る。そうだ、そうだ、そうだ……!

泉が座っているあのソファは、私が絢のために選んだものだ。

母親と折り合いの悪かった絢は、高校卒業後に就職し、同時に家を出た。彼女の門出を祝い私はあのアイボリーを贈ったのだ。

まだ大学生でアルバイトもしていなかったが、友達へのプレゼントだと言えば母親は喜んでカードを切った。

絢の部屋で会う時は、泉も付いてきたけど私はどうにかしてアイツをこのソファに座らせないよう仕向け続けた。この二人掛けは、私と絢のものだ。それなのに。

―何であんたが座ってんのよ……!

ぎりぎりと奥歯を噛み締める。

やがて、その後ろに影ができる。色紙が集まり人の形を成したそれは間違いなく『私』だった。『私』はソファを指していた。そこに座るなと激しく喚き散らし、片手に持ったブランドロゴの紙袋を揺らしていた。

そう、この日は、絢の誕生日。

あの濃紺の紙袋に入っているのは小さなダイヤのネックレス。白く華奢な首によく似合うだろうと、あちこちの店を歩き探し回った。

私はうきうきと親友の喜ぶ顔を想像しながら『内緒ね』と渡された合鍵を握りしめてここにやってきた。

それなのに、部屋には泉がいた。一人だけだった。

こいつも合鍵を貰っていたんだ。

私が、私だけが特別だと思っていたのに。

だけど、絢に嫌われたくない一心で私はぐっと堪えた。認めたくないけれど、絢が泉を気に入っているのはどうしたって否定できなかったから。

私は何度も何度もソファから降りるように言った。泉は動かなかった。たまりかねて引っ張り上げようとすると、ものすごい剣幕で手を叩かれた。

驚いた。だって、こいつはいつも大人しかったから。少し強く言えば、いつだって反発せずに言う通りにしていたのに。

どこか様子がおかしかった。泉はソファから降りず、うつむいたまま私に言った。

―プレゼントは何を用意したの?

ぬっと長い前髪を割って出た顔は、勝ち誇った笑みを浮かべていた。そして大事そうに抱えているのは大きな封筒。

それは、何。

聞くと、血の気のない薄い唇が動いた。

―あのね、妊娠したの。

何を言っているのか分からなかった。

―あのね、絢は子供が欲しいって言っていたの。あのね、だから私が産んで赤ちゃんをプレゼントするの。あのね、これ、エコー写真よ。でもみきにはまだ見せてあげない。絢に真っ先に見せるの。

言葉の一つ一つが通り抜ける。

のっぺりとした声が脳みそを行き来するうちに腹の底からどす黒い感情がわき上がった。顔が熱い。

―あのね、私達、三人で幸せに暮らすの。

不揃いな歯を見せて女は笑った。

サンニンデ、シアワセニ、クラスノ。

私も笑ってしまった。

こいつの言う『幸せに暮らす三人』に私は入っていない。たちまち、数年にわたり蓄積されてきた怒りが燃え盛った。

泉は陶然とエコー写真をかざしていた。私の存在を無視し、まるでそれが本当に絢と自分の子供であるようにうっとりと、幸せそうに目を細めていた。私はそれを叩き落とした。それまで慈しみに溢れていた泉の瞳が色を変えた。

その事が私を更に苛立たせた。こいつは、戦う気だ。

いいよ。やってやろうじゃない。この異常者め。

気が付けば、シンク下に仕舞ってある包丁を構えていた。

泉は私の行動を理解したらしく、取っ組み合いになるまでそう時間はかからなかった。

やめて、殺してやる、やめて、許さない、ゆるさない、あんたなんか死んでしまえ!

怒鳴り合ううち、いつの間にか血相を変えた絢が佇んでいるのを見た。

ああ、驚かせてしまった。ごめんね、おかえりなさい。この気持ち悪い女はすぐに始末するから。そうしたら二人で誕生日を祝おう。

しかし―。

腹に強烈なパンチを喰らった。そう錯覚するほど重い衝撃が走った。このやろう。反撃を試みるも身体に力が入らない。え、え、と広がる痛みの元に視線を落とす。刺さっていた『それ』を泉は引き抜いた。潰したホースから吹き出すみたいに赤が散る。崩れた身体がフローリングに叩きつけられる。

掠れる視界の中で、泉が絢に近づくのを見た。


***


気がつくと目の前にあったのは毛足の長いラグだった。ぽたぽたと雫が落ちる。手の平がじっとりと濡れている。息が、苦しい。

「みき、みき、大丈夫……?」

「絢……」

アイボリーのソファも観葉植物もない見慣れた2DKだった。

「記憶、戻った?」

聞かれるまま、頷いた。

「なんで殺されたのか……思い出した」

「……私が死んだ所は見えた?」

そうか、絢も同じシーンを見ていたんだ。

「その前に目の前が真っ暗になった。多分、絢が殺されるときには死んでたんだと思う」

「そう……か」

「ねえ、やっぱりあの子はおかしいよ。異常だよ。誕生日に妊娠してきて、赤ん坊がプレゼントなんてあり得ない! 絢の事、そういう目で見ていたのはなんとなく気づいていた。だから親友の私が邪魔なのも分かる。けどあいつは、おかしい。狂ってる!」

「私は、泉を止めようとした。でも、……ダメだった」

容易に想像できた。

あのぞっとする笑顔は自分の気持ちは受け入れられて当然という自信の表れ。拒否されて、逆上して、絢を殺したんだ

「オ島に来た理由、分かったよ。泉に復讐しようって、そう約束したんだよね、私達」

目を覚ました三途の川のほとり、絢から聞いたオ島の存在。泉への復讐を持ち掛けられ、私は頷いた。殺された怒りもあったが、何よりもまた、たとえ得体の知れない場所でも絢と二人、邪魔者のいない時間を過ごせるチャンスを逃したくなかった。

絢は黙って視線を移した。

画面のカウントがゼロになっていた。

ざらりとした青は消え去り、画面に映ったのは独房。一人の女が正座をしていた。

かつーん、かつーん。かつーん。

遠くから硬い音が聞こえてきた。

狭い独房の中。女は粗末なグレーのジャージを着て、机に向かい一心不乱に鉛筆を走らせている。猫背で書きものにいそしむ姿はひどく不格好だった。

かつーん。かつーん。かつーん。

女は不審そうに眉を寄せ、辺りをきょろきょろと見回した。目は窪み、肌の色艶は悪く、しかし八年の月日を経てもなお藤野泉という人間の面影は残っていた。

「泉……!」

絢は前のめりになり、目をぎらつかせていた。握った拳が震えている。

早く死んで……!

掠れた声がそう言った。

かつーん、かつーん、かつっ。

足音は止まる。泉はじっとドアの方を見ている。

扉が開く。刑務官たちが現れた。そのうちの一人が何かを告げた。音声は聞こえない。しかしそれが泉に対する死の宣告である事は理解できた。

私は泉が無様に泣き喚く様を期待した。ところがどうだ。あの女ときたら迷いもなく立ち上がり、軽い足どりで刑務官の後に付いていくではないか。二度と戻らないはずの部屋は鉛筆も、便箋も、辞書も出しっぱなし。未練なんてこれっぽっちもないと、主の代わりに部屋が言っているようだった。

いや、まだだ。これから、これからきっと自分が死ぬ恐怖に打ちのめされ、みっともなく暴れ、取り乱すに違いない。

しかし私の期待と予想は悉く裏切られた。

祭壇のある部屋に連れてこられても、泉は落ち着いた態度を崩さなかった。死がすぐそこに迫っていても眉はぴくりとも動かない。教誨師が立ち去っても、刑務官が最後の水やたばこを勧めても変わらなかった。

私の心は今にも爆発しそうだった。

暴れろよ。泣いて、喚いて、許しを乞えよ!

叫びは全て拳に込められた。

目隠しにより一人では歩けなくなった泉は両脇を抱えられ、いよいよ刑場に足を踏み入れる。

首に縄をくくられても抵抗はない。それどころか―。

「笑ってる……、ねえ、泉ったら笑ってるよ、」

絢は私の服を引っ張った。だが互いに視線は画面に釘付けのまま。あまりの異様な光景に目が離せなかった。

あいつは自分の首に縄のかかった状態で笑って見せたのだ。

ぞっとした。そしてあの笑い方には見覚えがあった。

―プレゼント。

あの時の、笑顔。

場面が切り替わる。

何もない、殺風景な部屋が映った。線の入った天井が割れると何かが降って来た。

巨大なてるてる坊主だった。

揺れる、揺れる、揺れる。

縄で束ねられた足元に刑務官が一斉に飛びつく。ビクビクと跳ねる身体は次第に動きを小さくし、しばらくすると静かになった。ぐったりとした身体に医師が触れ、死亡を告げる声と共に画面は暗転した。

終わった。

沈黙したテレビの前で私と絢は手を繋ぎ合っていた。

窓からはさんさんと朝日が降り注いでいる。爽やかな、新しい朝だ。

「……行こう」

「うん」

散らかった部屋を放り、私達は駆け出した。


***


アパートを出てしばらく、絢は力強く私の手を引いて走っていた。だが、運動の得意でない私はすぐに息が上がってしまう。それに、進行方向も気になった。

「ねえ! これって逆走にならない?」

絢は振り返らなかった。

「待ち人案内には“橋へ向かう場合は逆走も許される”って書いてあった!」

スピードは緩まらない。しばらく走り、橋の近くまでやってきてようやく足の運びは鈍くなる。

「……ダメだ、私も疲れた。歩こう」

私の方は息も絶え絶えだった。

目と鼻の先にある赤い橋。ルールに従えばひどい遠回りになるのに、逆走してみればあっと言う間だ。反時計回りで見る島の姿はとても新鮮だった。

鳥居の前に着く。そこから赤い橋がまっすぐ、霞に隠れた遠くまで続いている。この橋を渡る。そうして泉に会う。会って、復讐をする。でもどうやって? 絢は姿勢よく、橋の向こうを見つめていた。

「これからどうするの?」

「オ島のルール、覚えている?」

「逆走は絶対ダメとか、そういうのでしょう」

「それをね、させちゃえばいいかなって。何も気づかない間に、例えばちょっと呼び止めて一歩でも逆走させればさあ」

あは。と絢は笑った。

「亡者になるでしょう? あんな風に」

指したのは、赤い橋脚に群がるいくつもの黒い影。島のルールを破ったがために現世にもあの世にも島にも戻る事もできず、成仏もできないまま永遠をさまよう救われない存在。

なるほど、泉に似合いじゃないか。想像すると、少しだけ胸がすっとした。

「いい気味」

「あそこで、ああやって、永遠に苦しむの。成仏もできず、島に上がることもできず、波に揉まれてずうっとね。薄情で、人でなしのクソ女に似あいの末路」

冷淡に吐き捨てる笑顔に対し、私は共犯者のように頷いてみせた。

「……私達、成仏してもまたきっと会えるよね」

「成仏なんてしないよ」

「え……?」

絢は私に近づき、華奢な白い腕を背中に回してきた。抱きしめられた驚きよりも触れる柔らかさと温もりの心地よさに息をのんだ。大きな瞳がじっと見つめてくる。絢の顔が近づき、まつ毛が触れそうになる。

途端、思考にノイズが入る。

夕焼け。公団の2DK。

セーラー服の私と絢。手を繋いで、額を合わせて―。

記憶と今が混同していた。なんだ、私は何を見ている?

そして、次の瞬間。

「……ああっ!」

鈍い痛みが足首に響いた。視界が反転し、重力に遊ばれて身体が浮いた。そうして、落下。下手な受け身のせいで腕にささくれた木が擦れてしまった。足に走ったのは明らかに蹴られた痛みだ。たまらず食って掛かった。

「なにするのよ、いきなり!」

「これで大嫌いな泉と会わなくて済むよ」

「はあ?」

「自分の立っている場所、分かる?」

悠然とした笑み浮かべるその人が立つのは橋の手前。そして私は橋の上にいた。

「起き上がるとき、一歩踏み出したよね。逆走しちゃったね」

慌てて足を引っ込めた。

いや、いや、だけど、だけど!

「逆走って……だって、いきなり転ばされて……。違う、待ち人は逆走しても大丈夫なはず!」

「それは島の中だけ。橋は違う。“待ち人は委員会同行の元で橋を渡る事”。ちゃんと案内に書いてあったのにやっぱり読んでなかったんだ。あんたは今、一人で橋を渡った上に逆走までしたの。バカなところは可愛いけど、度が過ぎるとマジでウザいよ」

「なんで……、どうしてよ、私と橋を渡るんじゃないの? 泉に復讐するんでしょう!」

「私が復讐するのはアンタ。薄情で、人でなしの、クソ女」

何を言われているのか分からなかった。なぜ亡者になるのが私なんだ。なぜ絢は私をそんな目で見つめるんだ。

答えは、不気味に変化する身体に代えられた。

「やだ、嘘、なにこれ、いや、いやぁあああ!」

手が、指が黒く変色していく。赤い風船が腐っていったのと同じだ。

「いや、いやあぁあ! ナにコレ、なンなのお!」

足元がほろほろと黒く崩れていく。海からの風をもろに受けるこの場所で私の輪郭がどんどん削られていく。

なんで、なんで、どうして?

どうして私が亡者になるの? どうして絢は笑っているの? どうして泉じゃないの?

絢は私の崩れていく様子をじいっと見つめて言った。

「あんたが私を裏切ったからよ」


***


みきの狼狽えっぷりったらなかった。

黒くなった身体がほろほろと崩れ、風にもっていかれるのを必死で抑えつけている。下手な踊りを見ているようで笑えてくる。実際、この女は昔から私の手の上で踊っていたけれど。

確かに、私にとってみきは特別だった。

容姿と頭脳に恵まれた自覚はあった。それを磨く努力もした。男に依存して酒浸りになった母親の二の舞はごめんだったから。だから努力した。結果は面白いくらいについてきた。妬まれもしたが、羨望の眼差しの方がずっと多かった。みきもその一人だった。他の有象無象と違って可愛がったのは、あまりにも純真に、私だけを見つめる目が気に入ったからだ。自分だけを愛してくれる存在を求めていた私にとって、みきが向ける視線や感情は心地よいものだった。一緒にいた理由はそれだけだった。

「なんデ、泉は……あヤを、コロした、のに、」

膝まで黒くなった足でしぶとく立っているのはもう『みき』じゃない。顔も随分と崩れているし、あらら。右目なんてどろどろに溶けてちゃっているじゃない。うーうーと唸る黒いバケモノにどこまで話が通じるか。最後の情けに教えてあげる事にした。

「私、オ島に来てすぐ全部の記憶を取り戻したの。看板に書いてあったでしょう。不明な点があればお問合せください。だから問い合わせた。記憶ってすぐに取り戻せるんですかって。委員会の人はちゃんと教えてくれたよ」

「ソンな、こト、知ラない……」

「看板に書いてあったじゃない。私はやった。あんたはやらなかった。それだけ。……嫌だったのよ。自分の記憶を奪われるなんて。だから聞いた。そうしたら希望すれば取り戻せるって答えが返ってきた」

黒い風船だってそうだ。

あんなもの、いつ割ったってよかった。島の住人の勝手な憶測が口から口へと伝わって夜にしか釣れない、待ち人にならないと手に入らないと勘違いされてきただけだ。本当はなんてことない。決まっているのは執行チャンネルのカウントダウンが終わるまでに割る、と言う事。それ以前ならいつ割ったって良かったのだ。私がみきと一緒に割ったのは、なんの変哲もないただの黒い風船、フェイクだった。

「みきさあ……私のこと好きじゃないでしょ?」

「スキ……す、き……だいすきぃい……アやとイっしョにイたぃイ……」

こんな仕打ちを受けてまで私を好きだという。

それなら、どうしてあんなに大切な思い出を忘れたままなのだろう。

「思い出さないじゃない。今だって、全然。ねえ、私が何に怒ったか、昨日の夜から、ううん。オ島に来る前からずっと怒っていたのも気づいていないよね」

あの部屋は、あんな部屋は私の趣味じゃない。だけどみきが思い出すかもしれない。きっかけになるかもしれないと八年、あの部屋に居続けた。

母子家庭、二人暮らし。めったに帰らない母親。

男好きでだらしなく、いつも酒の臭いをまき散らし、偽物のブランド品であふれた片づけもままならない部屋。

何年も替えていないカーテンの子どもっぽい柄も、ちっとも片付かない狭い部屋も、母親が八つ当たりしたものが傷つけた学習机も。自分の力ではどうすることもできない環境は私を惨めで恥ずかしい気持ちにした。だけどみきは何も否定しなかった。絢と二人きりになれるからここが好き。そう言ってくれたのが嬉しくて、放課後はいつもあの狭い2DKで過ごした。

勉強もした。流行りの音楽も聴いた。思春期らしい好奇心から友情と言えないほど濃密なスキンシップも交わして、私達の関係はどんどん深まっていった。

みきは拒まなかった。拒まなかった彼女こそが私が求めていた唯一だと信じた。

だけど、次の春に私達は別々になった。私と違う高校にみきは進学したのだ。親に勧められたからと、お嬢様学校と名高い私立にあっけなく行ってしまった。

裏切られたと思った。こいつは唯一なんかじゃなかった。それでも寂しいと一日と置かず連絡をしてくるこの女の情に縋る自分が情けなかった。

これじゃ男に依存しきっていた母親と一緒じゃないか。

でも、寂しい。私をだけを愛してくれる人が欲しい。

意気消沈と桜の季節を過ごすとき、教室の隅にぽつんと座る猫背の女の子と目が合った。それが藤野泉。

彼女と私の家庭環境は酷似していて、いや、泉はそれよりもっと酷かった。彼女はいつもどこか怪我をしていて、特に服で隠れる場所に集中していた。母親の『カレシ』がやったのだと、反吐の出る話を打ち明けられた時に見た深く黒い瞳が印象的だった。

私達は共鳴し、あっと言う間に親密な関係になった。みきがそうであったように、泉も私を特別に思ってくれていた。違ったのは、泉は私以外の人間と関わりを持とうとしない所だった。

それに気づいた時、黒い優越が滲んだ。

自分に向けられる好意を、彼女たちを天秤にかけたいという欲望。そしてそれを私は実行した。現世で二人を引き合わせ、嫌がる彼女たちの気持ちに気付かないふりをして三人で遊んだ。時々それぞれに『内緒ね』と言って二人だけの時間を作って『飴』もやって―。

「私との思い出なんてさっぱり忘れていたじゃない。その程度だったんでしょう」

「ツギ……、つギに、割レば……」

「記憶は大切な思い出から返されるの。ランダムって言うのは住民同士のトラブルを避けるための嘘。あんたにとって私は家族以下だった。それだけだったのよ」

「いや、だぁ……、アや……、たすけ、」

ボロボロに崩れていく顔の中で唇だけがわなわなと震えていた。

「……ごめん。何言ってるかわかんないや」

さああっと吹いた風が黒い影を海へ散らした。


***


「こえ~。ほんとにこれでよかったんですか?」

草むらからひょっこり現れたのは夕木だった。

友人と話を終わるまでは姿を現さずにいてくれるか? 私の『お問合せ』に夕木はケロリと『ご要望がありましたら応じますよ』と笑った。目的もその結末も分かっているくせに。この男はなかなか性根が悪い。何しろ公共サービスの名目の元、私の様々な『問い合わせ』にも応じるくせに下衆な見返りも求めてくる。まあ、無理を承知でこちらも色々と頼んでいる。望みを叶えるためなら身体の関係くらいどうという事はない。泉だって、私のためにそうしてくれた。

「管理委員会のメンバーになる手続きは進めてくれた?」

「おかげで小暮さんは大忙しだったよ。いきなり二人で、しかも一人はまだオ島にも来てない死刑囚。まーじで前代未聞」

「制度としては問題ないはずよ」

「そこを突いてきたのは絢ちゃんが初めて。いくら理屈が通っていても前例がないのを上の人は嫌うからねえ」

「くだらない。なんだって最初は前例なんて無いじゃない」

「そう言われると、何も言えないね」

私は今日、ここで泉を迎えて二人で管理員会のメンバーに入る。

採用基準についても『問い合わせ』をした。オ島に五年以上居住し、かつ待ち人を経験した者。若しくは管理員会のメンバーから推薦された者。

私が先に委員会に入れば、泉を推薦できる。成仏なんかしたらそれこそ、今度こそ離れ離れになる。一緒にいるためにはこれが最上の手段だった。

「ところでさあ、あの子が君との甘酸っぱい日々を思い出していたら、どっちを選んだ?」

あ~あ、気の毒に。

口先だけの同情と視線の先。波打ち際に飛ばされた黒い影が必死に島に這い上がろうともがいているのが見えた。

「私を愛してくれる方」

「傲慢だなあ」

夕木にしては珍しく冷ややかな口調だった。

勝手に言ってろ。心の中で吐き捨てた。

あの日、泉が私の子供を妊娠してくれた時からきっと心は決まっていたのだ。

私のために反吐が出る程嫌っている男に身体を許し、子どもを作って『プレゼント』しようとしてくれて。孤独な独房で届かないはずのラブレターを何通も何通も綴ってくれた。死ぬ間際の、約束とも言えない約束を信じて、忘れもせずに。これが愛でなければ何だと言うんだ。

「一応、礼は言っておく。泉の手紙とか、色々都合してくれてありがとう」

「お安い御用だよ。さすがに現世の手紙を持ち込むのは無理だけど、内容くらいはどうにでもなる。俺だっていい思いさせてもらえたからね」

「もう、次はないけどね」

「わかってるって。恋人がいる子にまで手は出さない。あ~……次は誰に相手をしてもらおうかな」

私はこの男から現世での泉の様子を聞いていた。死んだ私に宛てた手紙を複写してくれたりしたのも全部そう。代償は分かりやすく身体の関係。

男に抱かれるのは不本意だが、みきが気づくかも、気づいたらどんな顔をするのかと思うとそれはそれで悪い気はしなかった。

痕跡は所々に残した。昨日もそう。テレビの設営に来た夕木とベッドで絡み合い、その後不自然にそこだけを片付けて、分かりやすくシャワーを浴びた。夕木に抱かれた後はいつもそうした。けれど、最後の最期まで気付かなかった。

結局、あいつが大事にしていたのは私ではなく、私というアクセサリーだった。それに比べて泉はどうだ。あの子は愚直に、真っ直ぐに、私を愛してくれていた。

誤ってみきを殺してしまった事にショックを受けた泉。発狂し自害しようとして取り上げた包丁。混乱と血の滑りと悲痛な叫びの中、結末は私の死を持って迎えた。

不慮の事故だった。

ごめん、ごめん。お気に入りだと言っていた白いワンピースを真っ赤にしてぼろぼろと涙をこぼし泉は言った。

腕の中は温かいはずなのに、身体はどんどん冷えていく。返事をしたくても声はかすれて言葉にならなかった。それでもどうにか最後の言葉を振り絞った。

―死んでも、待ってる。

事切れる直前の言葉だ。まともに取り合う方がどうかしているのに泉は嗚咽混じりに『会いに行く、待ってて。待ってて』と応えてくれた。

天国も地獄も信じていなかったけれど、オ島の存在を知り私は泉を待つ術を持てた。泉は八年間、届かないラブレターを綴ってくれた。私が『待っている』と言ったのを信じて。

狂っていようが、異常だろうが、ひたすらに一人を想う、それが私の求めていたものだった。

「あれ、泉さんじゃないすか?」

橋の向こう。遠くに人影が見える。こちらに気付いたのか手を振ってくれた。私も振り返す。

影は少しずつ、少しずつ大きくなる。

真っ白な服を着た泉は間違いなく、私が焦がれたその人だった。

「夕木、ついてきて」

「はいはい。ご随意に」

赤い橋の上を私は走り出した。

そして今日、新しい夕焼けを迎える。

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ガールズトーク・イン・オ島 今野綾子 @yamamori-un5

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