第15話 話そう
「はっ、えっ!? きみは、なにをしてるんだ!?」
不審そうにカーテンをひらき、ガラスの向こう側からそっとこちらをのぞき見た
カズヒトは息もたえだえになり、ベランダの地面に頬をこすりつけながらスニーカーを指さす。
それで自分の発明品であることをさとった環は、とにかくもカズヒトの足からスニーカーを脱がして、なかなか立ちあがることができないカズヒトをささえながらいったん部屋のなかへ入れる。
部屋には電気がついていなくて、そとの街灯からもれる明かりが部屋をうっすらと照らす。
「これ、さすがに、痛すぎ、だろ……限度って、もんがだな」
カズヒトは環の部屋の床にうつぶせになり、どうにか目をあげて環にクレームを申し伝える。
「いや、それは、これの開発当時健康サンダルにハマっていたから、ついでに足ツボも押してもらえたらいいんじゃないかとやってみたら強さのコントロールに失敗して……」
恥ずかしそうにもじもじと弁明したあと、ハッとして環は、
「いや、ちがう。わざわざベランダから侵入してくるなんて、なにを考えてるんだ。いったい、なにをしにきた」
と床に座ったまま、腕を組んで冷然と言い直した。カズヒトはこたえようと口をひらいたあと、ある部分に目がとまり、
「……パジャマ、かわいいの着てるな」
と小さいねこちゃんのイラストが散りばめられたパジャマを指さした。
「わっ、バカ! 見るな! たまたま、たまたまほかのパジャマがぜんぶ洗濯されていてしかたなくだね……あっ、
「いや、いいと、思うよ。かわいいじゃん」
あわてて両腕でからだをかくそうとする環に、カズヒトは思わず笑ってしまう。
すこしずつ息をととのえながら、ことばをさがす。いま、霧のなかで、時間制限つきの迷路を歩いているようなものだ。道を誤れば、扉はとざされて、二度とたどりつけなくなる。
まちがえるなと、こころに言い聞かせて、ゆるんだ口もとを継続する。
「……変わってないんだな。そういうの、好きなの」
「むぐ、たしかに、まえから好きだったけど……そうじゃない、話をそらすな。こんな時間に、こんな不法侵入までして、なんのつもりだと聞いてるんだ」
「……いつからかな、環が、そんなふうにしゃべるようになったの。中学のときには、もう、そんなんだったかな。環から、つめたい目をされるたび、家に帰ってへこんだよ。一回、怒ったこともあったな。おぼえてるか」
カズヒトは、ゴロリとあおむけにひっくりかえる。
「おれが『理由あんなら言えよ』って言ったらさ、環が、おれに『おぼえがないのか?』ってこたえたこと」目をつむって、ゆっくりと、ことばが流れていくのにまかせる。「何度も、何度も、考えた。でも、何度考えても、ぜんぜんわかんなくてさ、おれはダメだなあって、だからきらわれんのかなあって、考えた」
「きみは、ダメじゃない」
とっさのように、環が応じる。目が合った。そのあと、自分の腕で、自分のからだをまもるように抱いて、環はふっと目をそらす。
「それと、きみが怒って言ってきたことは、三度はある」
「え、そうだっけ?」
「そうだ。最初ははぐらかしてたのに、何度も言うから私だってムキになってしまって……」
「回数はあれだけど、そりゃ言うだろ。好きな人から、きらわれたら」
カズヒトはまっすぐ環を見ながら言う。環はびっくりしたように目を見ひらいて、少しのあいだ目線がまじわったまま硬直した。すごいスピードでまた顔をふせる。
ぼんやりと、そとの明かりが環の赤くなった耳を浮かびあがらせる。
「……す、す、なにを言ってるんだきみは! こ、こんなときに」
「いや、このあいだ、言っちゃったからもういいかなと思って。ずっと、何年だ? 7~8年ぐらいは片想いしてるんだから、これぐらい、ゆるしてくれよ。やっと、口に出せる」
「……やっぱり、そっちの、記憶もあるのか……」
「……環が来てくれて、最初はよくわかんなくて混乱したけど、おれは、ほんとに、うれしかったんだ……死ぬほどうれしかった。おれのこと、ゆるしてくれたんじゃないかって。また、まえみたいに、笑っていっしょにいることがゆるされるんじゃないかって」
「ゆるすも、ゆるさないも、ない」
環は、膝のうえに置いたこぶしを、かためた。ふるえている。
「きみが、わるいんじゃない。私が、ただ私に、資格がないだけだ……きみに、好いてもらうような、資格なんか……」
「ただ、おれがおまえのこと好きなだけなのに、資格もくそもあるかよ」
カズヒトはからだを起こして、ふるえる環のこぶしをやさしくつつむ。
環は、抵抗しない。
すこし、握るちからを強めた。
「……環、いつだったか言ったな。環が、おれのこと不幸にしたって。言っとくけど、おれはおまえに不幸にされたことなんて一度だってないよ。なんのことなんだよ。おれのこと、不幸にしたって」
「…………」
「……うちの、母親のことか?」
環はびくりと、身をこわばらせる。顔から、血の気がひいた。
「……母親のことは、環は、関係ないだろ。うちの母親が不倫して、それが発覚して、出ていった。それだけのことだろ。どうして、環がそれを気に病む必要があるんだ」
「……関係ないわけない!」
すこしこらえたあと、環がキッと顔をあげてさけんだ。涙が、その大きなひとみからこぼれ落ちる。
「関係ないわけ、ないだろう……私が、見つけなければ、あんなところで、不用意に、みんながいるところで、きみが、霞がいるところで、言わなければ、きみが傷つくことは、なかった……」
「……だれが見つけようと、時間の問題だったんだよ。あの人、おれが学校行ったり、親父が仕事行ったりしてるとき、相手をうちに連れこんでたんだってよ。あとでわかったけど。むしろ環が見つけてくれて、よかったんだよ」
「そうだとしても、みんながいるところで、私の無知のせいで、カズママに、恥をかかせてしまった。そうじゃなければ、あんなに、カズママが怒ることだってなかったはずだ。母親の、あんなすがた……」環に添えたカズヒトの手に、ポタリと涙が落ちた。「だれだって、見たくなんて、ないだろう」
「それは……知らなかったんだから、しょうがないだろう。ラブホテルなんて、あのころは存在自体わからないんだから、わからないものを、すべて知っておけなんて、言わないよ。おれだって親父だって、みんなそうだ」
「そうだ、おじさん……」環はハッとしたようにつぶやいた。「おじさん、家で、吐いてた……すごくやつれちゃって、私、そんなにいけないことしたんだって、そのとき、ちゃんとわかって……」
「親父は、たしかにそのときしんどかったみたいだけど、なあ、それでもあれはうちの母親がわるいんだよ。だれかを傷つけた当人がわるいんであって、そのまわりのだれかが、その責任を負う必要なんてこれっぽっちもないんだよ。うちの母親だけがわるいんだよ。いや、もしかしたら、親父も、おれにも、当事者として反省すべき点はあるのかもしれない。でも、それは、ぜったいに」カズヒトはことばを区切って、伝える。「ただ見つけただけのおまえが、背負うべきものじゃあないんだ」
環はことばもなく、ただ泣いていた。そのすべらかな手の甲を、うっすらと浮かぶ骨のあいだを、なぞるようにさすってカズヒトはつづける。
「きょう家を出るときにさ、親父とすこし話をしたんだ。母親と離婚したときのこと。離婚したあと、はじめてかもしれない。
親父はさ、『環ちゃんに、つらい思いをさせてしまったかもしれないことを、ずっと後悔してる。自分が気づいていればうちうちで済んだのに、仕事にかまけて、あいつにもさびしい思いをさせて、あげく、こどもたちみんなに見せるべきではない場面を見せてしまった』って言ってた。
ほんとはもっとできたはずのことなんて、あとから考えればいくらでもあるんだろうけど、いまは、親父はただ環のことを心配してるんだ。怒ってるんでも、責めてるんでもない、ただ、みんなおまえのことが心配なんだよ」
「……でも、私は……」
「……なあ、おぼえてるか。母親が怒りくるったあと、おれは情けなくずっと泣くことしかできなくて、そんな自分がきらいできらいでしょうがなかったけど、でも、あのとき環がずっとそばにいてくれたんだ。背なかをさすってくれて、おれを抱きしめてくれて、涙や鼻水で服がよごれても気にせず、自分が頭をケガしたのにそのことはなんにも言わず、ただ環がずっとおれのそばにいてくれたんだ。そのときはことばにできなかったけど、あのとき、おれはおまえのことが好きになったんだって、ふりかえって気づいた」
カズヒトは、ぎゅっと環の手を握って、環の顔を見つめる。
「おまえはおれから奪ったんじゃない、与えたんだ。ずっと与えつづけてくれた。そのあとも、何年たっても、よく泣いてた情けないおれのそばに、不満も言わずにずっといてくれたのはだれだよ。何度でも涙をぬぐってくれたのはだれだよ。環だろ。環しかいないだろ。あのときから、ずっと、おれはおまえのことだけが好きなんだよ」
「好き……」ぼうぜんと、環はくりかえす。「私は、ただ、むかしをとりもどしたかっただけで……」
「おれはいまも! 環のことが、好きなんだよ。いまのおれの気もちを、見てくれよ。環が、おれのこときらいって言うなら、好きになれないって言うなら、あきらめるよ。でも、むかしのこととか、そういうのはいったん全部捨てて、いまの環の気もちを、聞かせてくれよ」
カズヒトは、手をとってまっすぐに環のことを見つめる。胸の鼓動が、はげしく内側をたたいてやまない。この手をとおして、視線をとおして、熱よとどけと願った。
「好き……好きだよ」いちどうつむいた環は、うるんだひとみをあげてカズヒトのことを射抜いた。「私だってきみのこと、ずっと、ずっと、ずっと……!」
そのことばを聞いて、安堵から、全身のちからが抜けるのがわかった。「うれしい……」噛みしめるように、つぶやく。
環の両手を握って、言った。
「……なあ、『きみ』じゃなくて、『カズくん』って呼んでくれよ。あのころみたいに、あのときみたいにさ」
言うと、環はまた泣いて、カズヒトにしがみつくように飛びついてきた。
「カズくん、カズくん、カズくん……」
カズヒトのことを抱きしめて、うわごとのように、名前と、ごめんねと、ありがとうをくりかえす。カズヒトも、ゆっくりと抱きかえした。もうはなすものかと、はなさないですむようにと、願った。
ほのかな明かりが、ふたりを照らす。部屋のすみには、ちいさな丸い機械が、しずかにねむるようにころがっている。
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