第11話 雨の降る日にあの音を待つ


 あの自白剤を打たれた日から、どれだけ待っても、たまきが催眠をかけにくることがなくなってしまった。


 記憶がのこっていることを知られてしまったのだから、当然かと思いつつ、カズヒトは「いまひとりだぞ」ということをアピールするため、むだにリビングのカーテンをひらいたり閉じたり、玄関から出て帰り直したりしてみたが、いっこうに反応がない。


 こんどこそ、きちんと、話をしようと環のもとへおもむく。

 が、環は前のようなひえびえとした態度をとるというより、ただ無反応に、無表情になっていった。


「なあ、環」


 学校の廊下で、声をかける。


 環はちらりと黒々としたひとみをむけるが、焦点がさだまらないまま、興味をうしなったように視線をはずしなにも言わず去っていく。

 話をしたいんだけど、とつづけようとしたことばは、どこへも行けなくなる。


 部室に行ってもだれもいないし、そもそも、環が学校を休むことも多くなっていた。

 朝のホームルームがはじまるまで、カズヒトは後方から環の席を見まもるが、その空間はぽっかりと空白のまま担任が環の病欠を告げる。


 耐えきれず、安達家あだちけへ出かけていった。


「環、学校、休んでたんで……」


 玄関口で、対応してくれたおばさんに歯切れわるく伝える。おばさんはカズヒトの顔を見て、ほっとしたような表情を見せたあと、


「あの子、ぐあいがわるいとしか言わないし、部屋にこもっていてごはんのときも出てこないのよ。置いておくと、夜なかに食べてるみたいだけど。ごめんなさいね、カズくん」


 とこまったようにため息をついた。


「カズくん?」


 話していると、奥から妹のかすみが出てくる。ずいぶん不安そうに顔をくもらせている。


「カズくん、お姉ちゃんが……」


 あとは、ことばにならない。だまって歩み寄ってきて、泣くのをこらえるような顔で、カズヒトの服をつまむ。


「なにか、あったのか?」


 霞は首をふる。「最近、こわいの」もともと姉妹の仲はよかったので、ようすが変わると、不安になるのかもしれない。「なんだか、いなくなっちゃいそうで……」


「ごめん、おれのせいかも。わからんけど」


 カズヒトは、ポンと霞の頭に手をおき、なぐさめのことばをかける。顔をあげ、おばさんに声をかけた。


「すみません、また来ます」


「カズくん、心配してくれてありがとね。また来てちょうだい」


 ふたりと別れ、となりの自宅へ帰る。


 別の日、学校がおわって帰ろうと、大戸に「帰ろうぜ」と声をかけるが、大戸は挙動不審になり「あー」とうめくような声をあげると、


「ごめん、ちょっと用事があって」


 とそそくさと逃げるように去っていった。ここのところ、やけに大戸の反応がつれない。大戸に関しては、本当にきっかけになるようなことがあったおぼえもなく、どうしてこうなったのかと疑問が胸にともる。


 もともと、大戸の交流は広いので、友人は自分だけではない。

 カズヒトの視界のすみに、大戸が移動教室でべつのクラスメイトと廊下へ出るすがたが映る。

 孤立しているわけでもないが、親しい友人をあまりもっていない自分とはちがう。


 突然、ひとりになったように感じた。

 あるいは、もとからそうだったことに、気づいていなかっただけなのかもしれない。


 カズヒトは帰宅すると、リビングでひとりソファに座って、天井の照明をぼうと見あげた。

 どんなに待っても、あの奇妙な機械音は聞こえてこない。


 くくるくるくる……


 声まねをして、つぶやいてみた。

 あたりはしずかなままだ。

 リビングには、西日が射しはじめている。

 強く、あきらかなオレンジの光。自分のからだまでは、とどかない。


 ――バイト、行かないとな。


 カズヒトは制服から着がえて、アルバイトに出かけた。町の中華料理屋のデリバリーの仕事で、バイクをつかって注文のあった家庭へ配達をする。

 父の商工会だとかの知りあいのお店で、相場よりすこしだけ高めの時給で雇ってくれているのだった。


 その日は、じょじょに雲が黒く厚くなり、「降るなよ」と念じたにもかかわらず無情にも強い雨が降った。

 いまいましいことに、雨の日ほど注文が多くなる。


 鳴る電話に出て、注文や住所を聞き、厨房に伝え、できたらバイクではこぶ。


 注文がかさむと、厨房もピリピリとするし、自分もあせる。なるべく最短距離で、信号のない道を行こうと、裏道を駆けた。

 雨の粒が顔にあたって痛い。


 注文ラッシュをさばいて、終盤まで来ると、ゆるみが出たのかぬれたマンホールにすべってバイクごと転んだ。

 雨にうたれながら、急いで立ちあがり、待たせている車に頭をさげ脇へバイクを転がしてよける。


 バイクに積んであるチャーハンを確認した。皿は割れ、きれいに半球をえがいていたはずのチャーハンは、悪意をもって踏みにじられたようにくずれている。


 厨房の店主に「このクソいそがしいときに!」と叱られ、運がわるく粗野なお客さんで「遅いじゃねぇか!」とどなられる。


 終わったあと気づいたら、ひざから血がにじんでいた。なぜか、意識しはじめたとたんズキズキと痛みだす。


 なにも、なにも、うまくいかない。


 雨にまぎれさせて、泣こうかと思ったが、涙は出てこない。


 ただむなしい気もちだけがある。


 空を見あげると、黒く、重くて、ざああと雨のはじける音しか聞こえない。眼球にでかい雨粒が直撃して「くああ」とうめく。

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