第8話 ぜんぶ、私がこわした――環1


「おとなりのあの子、変わってるわね」


 カズママがそう言っているのを、たまきは聞いたことがあった。


 幼稚園にいたときだったと思う。

 それはだれあろう自分のことで、こころにトゲを埋めこむようなその口調から、自分がカズママから好ましく思われていないことを知った。


 カズママというのは、カズヒトのお母さんのことで、本人が周囲に自分をカズママと呼ぶよういた。

 おばさんと、呼ばれるのがイヤだったのではないかと、近所のおばさんたちがウワサしているのを聞いたことがあるが、事実がどうだったのかはわからない。


 環は、ごくちいさいころから周囲に「なんで」を連発するこどもだった。


 気になったことがあれば、とにかく口に出して聞いてしまう。

 カズママに言ったときも、笑顔をくずしはしなかったが、「私はわからないから、自分のパパかママに聞いてみて」といなされた。

 環はあとになって、内心では面倒に感じていたのかもしれないと、思い出すことがときどきあった。


 それでも、父親同士の仲がよかったため、むかしから家族ぐるみで出かけることも多かったし、おたがいの家を行き来することもしゅっちゅうだった。

 ただ、カズママは外出のときひとりだけ来ないこともよくあった。


「あなた、行っておいてよ。あなたのお友達なんだから、私はいいでしょ」


 こどもたちのまえでも、夫婦のあいだでそのような問答がなされるのを、環はしばしば聞いた。


 小学3年生の終わりごろのことだった。

 環は、駅の近くにあったお城みたいな建物から、カズママと知らない男の人が車で出てくるのを見かけた。


 環は、


「カズママ、あのお城、なにがあるの? 私も行ってみたい!」


 と、目をかがやかせて、カズヒトや自分たち家族のまえでカズママに聞いてしまった瞬間を、そのときのおとなたちの空気がこおりつく瞬間を、いまでも鮮明におぼえている。



 歩いているとき、

 カーディガンに腕をとおすとき、

 おふろで髪を洗っているとき、

 夜、ベッドに横になって布団をかけたとき、

 生活のなかで、その瞬間をふと思い出してしまい、奇声をあげて髪をかきむしることがいまでもある。



 そのお城みたいな建物というのは、ラブホテルのことで、そこからカズママの不倫が発覚し、時間をかけた話し合いのすえ、ふたりは離婚することになった。


 環がはからずも告発をしてしまったその日から、カズヒトの家庭はみだれた。


 カズヒトはよく泣くようになった。

 おじさんは、目に見えてやつれた。


 環がカズヒトの家へ遊びに行ったとき、いつも柔和にゅうわな笑顔でやさしくむかえてくれるおじさんが、こっそりトイレで吐くことがあるのを知った。

 うめくような、のろうような、胃からものがせりだす苦しみに満ちた声が扉ごしにかすかに伝わってきたとき、環はふるえた。


 私が、こわしてしまったんだ。



 それでも、半年もしたら、すくなくともカズヒトは以前のくったくのなさをとりもどすようになった。


 それはもしかしたら表面上だけのものかもしれない。

 環はそう疑念をいだいたが、かといって、自分にかけられることばはなかったから、せめて自分も変わらぬふるまいになるよう努めた。


 おじさんに会うときは、いつも、どこにももっていきようのない申し訳なさを胸に湿らせた。



 それからさらに時間がたった、小学6年生の秋ごろだった。


 ある日の授業で、「おとうさんおかあさんとそれぞれどれぐらい話すかを教えてください」と家庭科の先生は言った。


「では、まずはおかあさんから」


 先生はクラスを見渡す。


「週に、1時間以上は話すよという人?」


 先生が声をかけると、クラスの子たちはパラパラと手をあげた。


「では、3時間以上は?」


 クラスの子とともに、環も手をあげる。


「では、5時間以上?」


 クラスで2人の子が手をあげ、先生が「おーすばらしい」と拍手する。


「では逆に、30分も話さないよ、という人は?」


 ここでも数人の子が手をあげた。

 先生は、「もしできたらでいいので、なにか話したいことを見つけて、すこし話す時間を増やしてみてくださいね」とさとすように語りかける。


 それから、最前列にいたカズヒトがいずれにも手をあげていないのを見つけ、


「若林くんは、おかあさんと話さないの? もしかして、そろそろ恥ずかしくなっちゃうおとしごろかな?」


 と、こたえやすくしようとしたのか、すこし冗談めかして声をかける。


 カズヒトは目をふせて、


「いや、話さない、というか……」


 とぼそぼそとこたえたあと、一旦目をあげ、なにかを言おうと口をひらいて先生のことを見た。


 すると、その目からひと粒の涙がおちた。


 そのあとはつぎつぎにあふれる涙をとめることができず、しゃくりあげてことばにならない。


 先生は突然泣き出したカズヒトにあわてた。「先生、若林くんは……」近くにいたクラスメイトが、先生に耳打ちをする。


 ――担任の先生から、聞いていなかったのか。


 環はななめうしろの席から、カズヒトの涙を見て、烈火のようないかりを感じ文句をつけようとした。


 が、声をあげるよりまえに、自分の内側から「おまえだよ」という声がひびいた。



 カズくんを傷つけたのは、おまえだよ。

 カズくんがいま泣いているのは、おまえがよけいなことをしたからだよ。


 おまえが、ずっと、気づかないままならよかったんじゃないのか?

 あるいは、せめて、カズくんの目のまえであんな不用意な発言をしなければ、カズくんがこんなにも傷つくことはなかったんじゃないのか。


 あわてるカズママの、狂ったような怒声どせいと、自分を見るいかりに燃えるまなざし、投げ飛ばされたティッシュボックス、蹴りたおされたダイニングのイスを思い出す。


 そして、そのすがたを見る、放心して、こころのスイッチを切ってしまったようなカズくんの表情を思い出す。



 ひっく、ひっくという、カズヒトのひきつるような呼吸音が耳にはいって、私が、こわしたんだ。という自分の声がまた聞こえた。


 カズくんのこころを、家を、生活を、ぜんぶ私がこわしたんだ。


 カズくんの近くにいられる、権利なんてとっくにうしなってた。


 とりもどすことのできないものが、この世のなかには、あるんだ。



 時間がたてば、それだけで傷が癒えるわけではないことを知った。


 もう、カズくんのそばにはいられない。


 そうしたあきらめの気もちが、環の胸ににがくうすく広がった。


 ときどき、父親同士のうちあわせで家にくるおじさんが、やつれたままの疲れた顔で、それでも環を見てニッコリと笑って手をふってくれるすがたを目にするたび、かためたこぶしに爪をくい込ませて刻みつけた。


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