第5話 うさぎちゃんをなでるようにだッ!



「カズくん! カズくぅん! 見たまえ、お肉をたくさんうちからせしめてきたぞ。これでお肉たっぷりカレーとしゃれこもうじゃないか」


 はしゃいだ声でたまきが言う。

 カズヒトはうなずいて、白いプラスチックのトレーに入ったままの鶏肉を受けとる。

 環から「きょうはごはんをつくってくれ。そうだな、カレーがいい!」と、キラキラした目で発せられた命令にしたがってカレーをつくっているところだった。


 意識がぼんやりとしたまま、この状態でつくって包丁をにぎっても大丈夫なものかとすこし心配するが、それは環も同じだったようで台所へ来てカズヒトの一挙手一投足を見まもっている。

 料理は苦手だったはずだから、手伝えはしないようだが。からだを動かす感覚はふだんとほとんど変わらなかった。

 トントントンと包丁が歌うようなリズムで玉ねぎやじゃがいもを刻んでいく。命令されたことにはとくに抵抗なくからだも動くようだ。


 環は、このまえ泣いた日から、ほとんど毎日のようにカズヒトの家へ来ていた。

 カズヒトも、胸のすみで環が来ることを期待していた。

 アルバイトが入ることも多いが、学校が終わったらなるべくすみやかに帰宅する。大戸にもらった数日遅れのマンガ雑誌を読みながらソファで待つ。

 すると、いつもの奇妙な機械音が鳴りひびく。


 くくるくるくる……


 環は安達家にあずけたカギをつかって侵入してきた。

 最初の数回はソファにすわったあと、しばらくうかがうようなを置いていたが、だんだんと大胆にしかけてくるようになった。


 カズヒトの耳もとで、鳥のようにかろやかにさえずる。


「きみは私の言うことを聞く。音がやんだらすべて忘れる。きみは私の言うことを聞く……」


 カズヒトはこの瞬間に、幸福を感じることがあった。

 ささやきが済んで、ゆっくりと目をあけると、環がむかしのようなおだやかさでほほえんでいる。体温さえはかれそうな近さで、自分の存在を許容してくれている。あの冷たい目は、態度はどこにもない。


 環は、カズヒトのほおをそっと人さし指でなぞってひとりごちる。


「催眠にもずいぶん慣れてきたな」


 そうか、これは催眠なのかと思う。「完成させるまでに、3年もかかってしまった」環がつぶやく。催眠の機械をつくれただなんて、大戸が聞いたら狂喜乱舞しそうだな。想像して笑ってしまいそうになるが、表情筋はぴくりとも動かない。といっても記憶がのこってしまうのだから、おかしなことはできないか。

 すぐ目のまえで、飽きもせずに自分のことを見つめる環の大きなひとみを、カズヒトも飽きもせずに夢を見ているような心地で見つめかえす。


 カレーをつくるのにあたってさらに具材を切ろうと、冷蔵庫から大きめのニンジンを1本とり出した。

 皮をむこうとすると、環から「待った」という声がかかってからだがとまる。


「ふぅむ、ニンジンね……なるほどぉ……」


 環はニヤニヤしながらあごに手をあててまな板のうえのニンジンをながめると、おもむろに手にとって「ふむふむ」と言いながら冷蔵庫にしまった。


 こいつ、もしかして、まだニンジンきらいなのか?


 小さいころ、味が苦手で泣くほどイヤがっていたことを思い出す。いじわるのような気もちで、しまわれたニンジンを再度とり出してみた。カレーをつくる一環だから問題ないのか、とくに抵抗なくからだが動く。


「あっはっは、カズくん! それはニンジンだよ!」


 なにがおかしいのか大笑してまたニンジンを冷蔵庫に封印せんとする。


「あっはっは! 赤い、赤いねぇ! いや赤というよりオレンジかなぁ。ニンジン色という色は聞いたことがないが、ねずみ色や松葉まつば色があるんだからニンジン色もあるかもしれないねぇ!」


 近年聞いたことがないほど上機嫌にしゃべる。これはただ勢いでごまかそうとしてるだけだな。思ってひとこと言ってやろうとすると、


「カレーなら、味、わからない」


 カタコトの外国人のようなしゃべりかたで発声することができた。

 環は一瞬目を見ひらき、驚いたように感心したように目をほそめてカズヒトの顔をながめると、「ふぅむ、これは、興味ぶかいねえ」とつぶやき、ふっくらとしたお尻で冷蔵庫の野菜室の扉をふみりとおさえつけた。


「ニンジン抜きでカレーをつくってほしいな、カズくん」


 あやしげにほほえんでカズヒトに命じる。

 その視線に、からだが自動的に動かされ、抽斗ひきだしから圧力鍋をとり出す動作に移行する。おれは好きなんだけどなあ。カズヒトはコンロに火をつけ、鍋を熱しながら断念する。




 また別の日。


 環が、

「カズくん、私のうしろにまわりたまえ」

 と催眠中に命じてきた。


 ふしぎに思いながらソファに座る環のうしろにまわると、いつも着ているだらりと袖ののびたカーディガンを持ちあげる。

 指のつけねまで隠れた袖を、指の先でつまみながら言う。


「こ、この袖をだね、くるくると、折りたたんでくれないか」


 意味をはかりかねながら、そっと腕をのばす。

 ちょうど、ソファに座る環を、うしろからだきしめるような恰好かっこうになった。

 やさしくカーディガンの袖をつまむ。


「ちょ、ちょっと大きいサイズを買ってしまってね。めんどうだから、そのままにしてるんだが、ときどきじゃまになるんでまくっておくんだよ。他意はない」


 袖に指を入れると、環の手の甲にふれた。ずいぶんとすべすべしていて、自分と同じ物質で構成されているとは思えない。どさくさにまぎれて手の甲で手の甲をなでてみると、「あひゃ」と環がちいさなさけび声をあげた。


「な、なに、なんでもない。つづけてくれ」


 1回、2回と折ると、環の白くほそやかな手首が見えるようになった。

 右の袖を終えると、そのまま左の袖に腕をのばす。

 カズヒトの腕が、環のやわらかな二の腕により密着して、うしろからぎゅっとハグをしたような体勢になった。


 環はぶるると身ぶるいをする。するとなぜかまくった袖をていねいにもどし、


「お、おや、もどってしまった。もういちど、たのむよ」


 とカズヒトを上目づかいでふりかえった。




 また別の日。


 今度は、環の要望で膝枕をすることになった。


 はじめにしたように、カズヒトが横たわるのではなく、逆に環が横たわってカズヒトの太ももに頭をのせた。「ふふ、ふふふふふ……」環は終始ぶきみな笑い声をあげて天井を見やる。


 長いまつ毛を見つめ、きめこまやかな頬をながめる。左目の下に、ちいさなほくろがあった。ボサッとのばした髪の毛の先を、手ですいてみる。


「ずいぶん、のびたな」


 催眠状態にもなれてきたのか、ぽつり、ぽつりとであれば、話せるようになってきた。

 環はじっとカズヒトを見たあと、ぷいと顔だけ横を向いて髪の毛をいじりながら、


「カ、カズくんは、長いのと短いの、どっちが好きなのかな?」


 とひとりごとのように問うた。


「あんまり、環の短い髪、見たことない気がする」


「いや、私がどうとかじゃなく、カズくんの好みがどっちなのか、という質問だよ」


「おれの好みは、環だよ。長いとか、短いとかは、かんけいない」


 環は「ひゅ」とどこから出たのかわからない音を発して、呼吸がとまったように見えた。

 みるみる赤くなっていく。

 そのまま、髪をゆっくりすいていると、十秒ほどしてぶはぁと息を吐き、高速でからだごと横を向いた。


「な、は、そういう、ことじゃないんだなあ! 会話が、キャッチボールがね、てきせつに、できてないんだなあもう!」


 からだのかげで、環は髪の毛の先をくるくるとまわしている。


「まったく。そういうことね。まあその、そういうことねまったく……」


 まだぶつぶつとつぶやいている。

 カズヒトは、環が横向きになることで後頭部があらわになったので、なでてみた。

 なかなかかたちのいい頭蓋骨をしている。ひょっこりとあらぬ方向へ流れる髪の毛を、あるべき場所におさめるようになでていく。


「え、へ、は、」


 環はガシリとカズヒトの腕をつかみ、目を大きく見ひらくと、驚愕したような顔つきでこちらを見た。


「な、なでなでを許可したおぼえはないぞ!」


 制止するようにさけぶので、カズヒトは腕からちからを抜いた。

 命じられ、ちからが抜けた、というほうが正しいかもしれない。


 環ははあはあと息をととのえていたが、3分ほどしてようやくおちつくと、またポテンとカズヒトの太ももに頭をおとした。

 つかんでいたカズヒトの手を、また自分の頭のうえに置く。


「ただし、やめてくれとも言ってない!」


 妙にちからのこもった口ぶりに、思わず口もとがゆるんでしまう。「なでなでを、ゆるそう」おごそかに下知げちをくだす。「心臓が停止するとこまるから、少しなでては休み、休んではまたなでなでするんだ」顔は見えないが、どんな表情で言っているのかと想像して、また笑ってしまう。


「やさしく、カズくんがむかしわんぱく広場でうさぎちゃんをなでていたときのようにだ!」


 カズヒトの父が帰ってくる可能性を考慮しているのか、環は毎回30分から1時間ほどで帰るのがつねだった。

 この日、環はたっぷり30分ほども頭をなでさせたあと、あおむけに姿勢を変え、帰るけはいも見せず下からじっとカズヒトの顔をながめていた。


 深呼吸をくりかえして息のみだれがおさまったころ、すこし真顔になって「ねえ、もしかして」ポツリとつぶやくが、どれだけ待ってもつづきは聞こえてこない。

 カズヒトの腰に手をまわし、ぎゅっと腹に顔をおしつけると、またしばらく動かずにいたが、やがてスッと立ちあがって帰っていった。


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