第3話 泣くなよ


 しょうが焼きをつくり、父と一緒に夕食を食べるが、父は忙しいようでもう一度会社(といっても徒歩2分の距離にある)に行かなけりゃと言って食後すぐに作業着を着こむ。


「ちゃんと休めよ」カズヒトは玄関で見送りながらそう声をかけると、「ごはん、うまかった。ありがとうな」と父は笑って出ていった。


 毎朝弁当をつくれるほどまめではないので、大量に夕食をつくり、翌日はその残りものを詰めて自分と父の弁当にしている。 

 そうすると冷凍しておいたごはんを解凍して用意するだけでいいので、楽なことを料理するようになって学んだ。

 自分も父も、幸か不幸かそこまで食事に執着がなかったため、2日つづけて同じメニューになることにはさほど抵抗がない。


 皿洗いをしながら、たまきのことを考えた。


 思えば、自分が成長期をむかえて急激に背がのびたのが中学2年生のあたりだったから、身長差ができてから環とまともに並んだことはなかった。

 並んだというか、自分から抱きしめたことなんて、ちいさいころでもなかったのではないか。


 本当に、ずいぶんちいさく感じた。


 150センチ少々の環との身長差は20センチ程度なので、そこまでものすごく離れているわけでもないのだが、まだ話せていた小学6年生のときに環の背が先にのびてこう言われた。


「ふふ、カズくん、この身長の差がそのままわれわれの人間としての器の差なのだよ」


 腕組みをし、ニチャリと笑って見おろしてくる環の表情を、いまでも思い出せる。


「うっせー、斉藤さんぐらいでかくなってからでかい顔しろ!」


 いま考えると小学生まる出しで恥ずかしい気もちになるが、クラスで一番大きい女子の名まえを出してカズヒトは言いかえしながら逃げようとした。環はマウントをとってきたわりに、クラスの女子のなかで格別大きいほうでもなかったのだ。


 すると環は、うしろから両腕をまわしてむずりとカズヒトをとらえた。


「カズくん、私以外の女の子の名まえを出すなんて感心しないなぁ……」


 どす黒い空気をズモモと噴出ふんしゅつするかのような威圧感で、ねっとりとした声を出す。これでよく人間の器でかいアピールができたもんだなとカズヒトは環の腕のなかであきれる。


 そこでふと、きょう、とっさに環を抱きしめたときのことを思い出すと、あざやかによみがえるのは環からただよってきた甘い香りだ。

 あのとき抱きとめられたときと、きょう抱きしめたときと、そしてあの日環に膝枕をしてもらったときと、同じ香り。

 やはりあれは現実だったのではないかとあらためて思うが、聞けなかった以上、答えは出ない。


 まあ、機会を待っていれば、そのうちまたタイミングもめぐってくるんではと気分を変えることにした。宿題でもするかと、教科書をもってリビングのソファに座る。

 パラパラとめくって課題のページを探していると、また、遠くから妙な音がかすかな反響をともなって耳にとどいた。


 くくるくるくる……


 金属を遠くで打ち鳴らしたような音に混じって、くるくるという奇妙な機械音がだんだんと大きくなっていく。


 また、この音だ。


 気がつき、音の出どころを探ろうと首をめぐらすが、この音を聞いているとふしぎと猛烈に眠くなる。


 くくるくるくる……


 耐えきれず、まぶたが強制的に閉じた。

 一度閉じてしまうと、どんなにちからをこめようとしても、あかない。

 抵抗しようと思う気もちも、眠気におされてどんどんとうすくなっていく。


 そのうち、ガチャリと玄関のカギがひらく音がした。

 シューズボックスがあけられる音、ぽたりとスリッパが床に落ちる音、ペタペタとスリッパが床をこする音がつづいて、カチャリとひかえめにリビングの扉がひらく。


 環か……?


 閉じた視界のなかでぼんやりと考える。

 侵入者は、ひきつづきペタペタという音を立ててカズヒトに近づき、耳もとでささやく。


「きみは私の言うことを聞く。音がやんだらすべて忘れる。きみは私の言うことを聞く……」


 やはり、環の声だ。

 その言葉を聞くと、ゆっくりと、半分ほど目がひらいた。

 環がおだやかにほほえんで自分のすぐ目の前にいる。


「いいかい、効いているなら、ゆっくりと私の名まえを呼ぶんだ」


 環は妖艶ようえんに口をひらいて、つづける。


「気もちをこめて、噛んで、ふくめるようにね」


 命じられると、環から目が離せなくなった。

 まつげが長い。さわりたくなるような、なめらかな頬の曲線と、うす赤いくちびるのふくらみ、少しうるんだ大きなひとみを、まっすぐに見すえる。

 自分の口が、意識せず動いた。


「環」


 環はぶるるとからだを震わして天をあおぎ、「ふふふふ……」と小さくうめいている。


 どうしたんだ、なんで、こんなこと……


 問いかけようとするが、環の名まえは発音できたのに、のどに特殊な弁でも設置されてしまったようにほかのことばがとおらない。


 環は少しそのままでいて、やがて顔をおろすと、真剣な表情になってじっとこちらを見た。


 そのしずかな気迫に、カズヒトはよけいなにも言えなくなる。


 しばらく見つめあったあと、ゆっくりと、環がカズヒトの頭を抱きしめた。


「カズくん、二度と、あんなことしたらダメだよ」


 座っているカズヒトの頭と、立っている環の胸とが重なり、ささやかなふくらみにちょうど顔がうずまるような恰好かっこうになった。

 髪をさわるてのひらや、腕や胸に頭をすっぽりとつつまれている安心感がまず湧き、眠気がいやましに増す。


「カズくんが死んじゃったら、私は……」


 カズヒトを抱きしめるちからが増して、環のふるえが伝わってくる。

 放課後のことだろうか。

 ――いいんだよ、環が無事なら。

 やはりことばにはできず、せめて視線で伝えられないかと、環の側頭部を見ようとする。

 環は抱きしめているのを解いて、カズヒトの手を両手でつつむように握り、自分のひたいに置いた。


「私はカズくんを不幸にしたから、もう、なにも望んじゃいけないのはわかってる。私は、これ以上、カズくんたちからなにもうばえない。あのときの、つぐないさえ、できてないよね。わかってる。あやまることさえ、ずっと……」


 環がなんのことを言っているのか、わからない。

 頭がうまくはたらかないせいなのか。

 しかし、自分は、環に不幸にさせられたことなどないはずだ。記憶をさぐりたいのに、頭のなかのことばや映像が混濁して像を結ばず、もどかしい。環がつづけた。


「それなのに、ずっと、カズくんのこと考えてる……カズくんに知られず、あのころみたいにって、考えてる……あさましくて傲慢で、わがままで、私、ごめんね……ごめんねカズくん。カズくん、カズくん。カズくん……」


 環がひざまずいて、懺悔するように、祈るようにつぶやきながらカズヒトの手をつよく握る。

 ポタポタと、なにかが落ちてズボンをぬらした。環が、涙をこぼしている。


 気づくと、心臓がはげしくあばれた。


 ――きらわれていたわけじゃ、なかったのか。


 環の自分をよぶ声にこもったつよさから、もろさから、そう思えた。涙にぬれた部分が、熱を帯び、決意をこころに伝えた。


 環がなにに罪悪感をいだいているのかわからない。


 いま、なにをしようとしているのかもよくわからない。


 でも、環がのぞむなら、どんなことだってする。


 ただ、おまえのとなりにいられるチャンスがほしい。おまえの涙をぬぐえるチャンスがほしい。いつか、笑って一緒にいられるような、未来がほしい……


 まどろむ意識に強くあらがうと、すこしだけ手が動いた。

 ゆっくりと環の頬に手をのばし、ちからなくひとなでする。

 環は一瞬おどろいた顔をしたあと、うずめるようにその手に頬をこすりつけた。


 変わらず響く音のなか、涙がうつって少し濡れたてのひらを、ぼんやりと感じつづける。


 くくるくるくる……


 くくるくるくる……


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