7・絶好の殺人日和を逃した彼女は(大槻隆彦の場合)

 オフィスは松本美空の話題で持ちきりだった。一見、身勝手な父親に殺されかけた悲劇の少女に見えた、中学生の女の子。それが蓋を開けてみれば、この娘こそが両親を殺害しており、しかもその罪を隠蔽しようとまでしていたのだ。かつて彼女が私に言った言葉を思い出す。「私は死にたいわけではないんですが、こういうところで誰かの命を救えたらなと思ってます」――そんな彼女を、夏目さんは「天使」と形容した。悪魔というものは、天使の顔をしているのかもしれない。

 そしてジャーナリズムもまた、悪魔の側面を持っている。

「松本美空が一時保護されていた施設が特定されたぞ」

「今頃マスコミが押し寄せてるだろうな」

 同じフロアから聞こえてくる会話に嫌気が差す。ソラが少年院に入るまでの間、短期間滞在していた施設のことだ。施設の人たちやそこで暮らす子供は関係ないはずなのに、こうして平穏な生活が脅かされる。同僚たちの会話が耳に入ってくる。

「さざなみ園ってところだそうだ。二十三区から離れてる、都内とは思えないほど寂れた場所で……」

 さざなみ園。その名前を聞いた途端、脳天から殴られたような衝撃が走った。頭がぐらっとして、貧血を起こしたときみたいに、思考が曖昧になる。呼吸が上手くできない。

 眩んだ視界の向こうに、一瞬、緑の芝生か見えた。頭が、痛い。

 体が椅子から崩れ落ちる感覚があった。

「桐谷さん!」

 私を近くで見ていたのだろう。宮田さんの悲鳴が聞こえる。でもその声もだんだん遠のいていって、やがて私は完全に意識を手放した。



 目を覚ましたときには、私は布団の中に横たわっていた。白い天井を見上げていると、間延びした声が降ってくる。

「あ、起きた」

 少し視線をずらすと、こちらを覗き込む夏目さんが見えた。私は慌てて体を起こす。

「あれっ、夏目さん? 私、オフィスにいたはずじゃ……ここは?」

「病院。君、会社で過呼吸を起こして、気絶したんだよ」

 夏目さんは呆れ半分の苦笑で語った。

 周囲を見回すと、たしかに病院の一室だった。四人部屋の広い室内だが、私がいる場所以外のベッドは空いているらしく、カーテンが開いていた。夏目さんは私のベッドの横に椅子を置いて、そこに座っている。

「会社の人、救急車呼んでくれたんだよ。で、君、緊急連絡先が亡くなったおばあちゃんのまま更新されてなかったから、携帯の電話の履歴でいちばん最初だった僕に連絡がきて、こうなった」

「あ……そうだったんですね。すみません、来ていただいて」

「まあ、一応交際相手なので」

 夏目さんは冗談っぽく言ってから、大きくため息をついた。

「にしても、大事に至らなくてよかったよ。このまま椿ちゃんが目を覚まさなかったらと思うと!」

「夏目さんは、私が死んだら悲しんでくれるんですね」

 そうであれば、こういうときの緊急連絡先は夏目さんでいいのかもしれない。彼は名目上の恋人でしかないが、血の繋がった家族がいない私には、今いちばん近くにいる存在だ。だというのに夏目さんはあっさり期待を裏切った。

「悲しいさ。椿ちゃんが僕を残して先に死んじゃったら、心中失敗じゃないか」

「そこかあ……そうじゃなくて、私がいなくなることに心を痛めるかという質問なんですけど」

 言い換えて訊いてみたら、夏目さんはしれっと頷いた。

「あ、そういう意味か。うん、悲しいよ」

 なんだか明らかに感情の篭っていない、薄っぺらな返答である。

「ちゃんと答えてくれますか?」

「模範解答で乗り切ろうとしたのに」

 夏目さんは誤魔化し笑いをして、一秒だけ考えた。

「じゃあ、分からない、と答えておくよ」

「分からない、ですか」

「悲しいかどうかも分からないけど、いちばん分からないのはなんでそんなことを気にするのかだよ。その前提だと君は死んでるんだから、僕がどうしようと知るよしもないし、その後の人生もないからなんの影響もないのに」

 ああ、そういう答えを聞きたいのではないのに。

「夏目さんって、時々ちょっと、人間っぽくないですよね」

 でもこの人はこういう人だ。私は妙に、彼のこの冷たい返事に安堵していた。夏目さんは煩わしそうに脚を組んだ。

「どっちにしろ死ななかったんだからそんなイフルートの話は建設的じゃない。それよりなんで過呼吸起こしたのか、そっちの方が大事じゃない? なにか心因的な理由?」

「あ、そうですね。それなんですけど……」

 言いかけて、私は口を噤んだ。オフィスで聞いた施設の名前が頭を過ぎり、私の心臓をどくどくいわせる。思い出したくない。でも、このままでは、先に進めない。

「さざなみ園……」

 搾り出すように、その名前を口にする。夏目さんの顔色が変わった。

「……そこが、どうかした?」

「ソラが一時保護された施設です。その名前を聞いたら、私……」

「なにか思い出した?」

 夏目さんに被せ気味に問われ、私は言葉を呑んだ。まるで、私が忘れている「なにか」を、彼は知っていて、それを思い出すのを待っているかのような口ぶりだ。

 下を向いた私をしばし眺め、夏目さんはふっと息を吐いた。

「ごめんね、ちょっと焦っちゃった。目を覚ましたの、お医者さんに報告しないと」

 夏目さんが椅子を立とうとする。私は咄嗟に、彼の袖を掴んだ。

「教えてください」

 知るのが怖い。でも、知りたい。腕を掴まれた夏目さんは、少し意外そうに目をぱちくりさせて、私を見下ろしていた。私はぎゅっと、掴んだ手に力を込める。

「夏目さんに黙って、SDに入っていた写真、見ました。私によく似た、女の子の写真がいくつか、あった、の」

 語尾がたどたどしくなる。

「あの女の子が、篠宮こずえですか?」

「そうだよ」

 夏目さんはすんなり認めた。

「前に一度話したとおり、僕は所謂みなしごで、『さざなみ園』という施設で育った。で、同じ施設にやってきた女の子が、こずえちゃん」

 彼の声で聞く「こずえちゃん」という名前が、妙に胸に突き刺さる。心の隙間に、冷たい風が通った気がした。

 私はひとつ呼吸を置いて、再度訊ねた。

「写真の子……篠宮こずえは、顔が私に似てるけど、私にはあんな記憶はない。夏目さんは、かつて見た篠宮こずえに似ている私に、彼女を投影してるんじゃないですか?」

 夏目さんは一瞬真顔になったが、すぐに頬を緩めた。

「嫌だな、嫉妬? そういうの大好きだよ」

 大事な話をしているというのに、彼は軽やかに笑って、椅子に座り直した。

「話せば長くなるんだけど、いい?」

 夏目さんが椅子に腰を下ろしても、私はまだ、彼の腕を握っていた。夏目さんも、振り払おうとはしない。

「こずえちゃんは、施設の近くのアパートに住んでる子だった。彼女が施設にいたのは、例の『篠宮事件』で家族を亡くして、母方のおばあちゃんに引き取られるまでの短い間だけ。警察の取調べに応じる間だけの、ほんの数日間」

 三人家族のうち、夫婦が死亡。母親は撲殺され、内縁の夫は包丁で刺されて死んでいた。娘のこずえは、たまたま外出していて、その場に居合わせていない。

「短い間だったけど、比較的歳が近かった僕はこずえちゃんに慕われていた。こずえちゃんはかわいい子だったから、僕も悪い気はしなかったよ。でも彼女はすぐに施設を出て行っちゃった」

「夏目さんは、そのこずえちゃんに会いたかったんですか?」

 思わず、口を挟む。

「だから、そっくりな私をこずえちゃんの代わりに、傍においていたんですか?」

「捜してたわけじゃないよ。正直、椿ちゃんを見るまで忘れてたくらい。あの子の写真が残ってたのも、大事にとっておいてたわけじゃなくて、単に古いものを整理してないだけ。僕は整理整頓が苦手なの」

 彼は苦笑を浮かべて言い、ここからが長いよ、と前置きをした。

「こずえちゃんと僕がお互いに知り合ったのは施設でだけど、実は僕はその前から、一方的に彼女を知っていてね。施設の消灯時間を無視して、外に散歩に出た夜だった。お気に入りのカメラを持って、星空でも撮ろうかと思って抜け出してたんだよね」

 私は夏目さんの腕を離さず、聞いていた。

「そのときたまたま、見ちゃったんだ。カーテンが開きっぱなしの、アパートの一室。きれいな顔の女の子が、真っ青になって血だらけの包丁を握ってるの」

 聞きたくない! 

 私は目を瞑って奥歯を噛んだ。夏目さんの腕を取る手に、力が入る。

「僕はカメラを持っていたからね、当然、その様子を写真に撮った。当時は面白いものが撮れたと思ったし、これをマスコミに売ればお金になると考えた。でも、そうする前に自分のいる施設にこずえちゃんが来た」

 夏目さんと出会った日に見た、あの写真。やはりあれは、篠宮事件の真相。

「そのあとニュースで知った話では、母親の遺体が包丁を持っていたという。こずえちゃんは包丁を、死んだお母さんに持たせたんだね。お父さんを刺した自分の罪を、被せようとしたんだろうね」

 でも、夏目さんが、こずえちゃんが刺したという証拠の写真を持っていた。

「あの写真でこずえちゃんを脅して、僕のおもちゃにしてもよかったんだけど。そうするメリットがあんまりなかったから、とりあえず、僕は懐いてくれるこずえちゃんに写真のことは言わず、様子を見ていた。彼女は焦燥しきっていて、近い境遇の僕になんでも話してくれた」

 こずえちゃんの母の内縁の夫、名前は大槻隆彦。こずえちゃんと出会った当初の彼は、こずえちゃんの目にはとても優しい理想のお父さんに見えた。まだ籍が入っていなくても家族として接してくれ、三人で大阪に旅行に行った。願いが叶う言い伝えがある神社に出向き、三人で同じ願い事をしようとした。そんな楽しい思い出があった。

 しかしそんな大槻とこずえちゃんの母がなかなか入籍に踏み切らなかったのは、実は大槻が、ある詐欺事件の容疑者だったからである。正式に結婚を申し込んだ大槻を、こずえちゃんの母は受け入れなかった。そのあたりから荒れはじめて、酒に溺れてはこずえちゃんの母に暴力を振るうようになった。酔って割れた日本酒の瓶を振り、こずえちゃんの顔に傷を作った――。

 夏目さんの話を聞いていると、心臓が痛いほど、動悸が激しくなる。髪の中に隠れたこめかみに手を添えると、傷跡がざらついた。

 夏目さんが虚空を見上げる。

「でね、これはあとで手記が出てきてニュースになったんだけど、この大槻さんという諸悪の根源、本人も自分が悪いのを分かっていたんだよ。詐欺事件を起こし、内縁の妻、そしてその娘のこずえちゃんまで、自分が不幸にした。後悔してた。自分なんていなければよかった。アルコール依存を直すために病院にも通っていた。それなのに、荒れる自分を止められない」

 私は深く、ゆっくり、息を吸って吐いた。落ち着け、と自分に言い聞かせないと、壊れてしまいそうだ。そんな私の顔を窺い、夏目さんは言った。

「自分を止める方法は、死ぬ以外にない。だから彼は、大量の薬を酒で飲んで、自殺した」

「え、じゃあ……」

 喉から掠れるような、声にならない声が出た。

 そんな……。

「けど実行前にも暴れまわったんだろうね。不安だったのかな。勢い余って内縁の妻を撲殺したあと、最低な自分を悲観しながら、彼は薬を飲んで死んだ」

「待って」

 私の声はもう、震えていなかった。

「それじゃ、あの男は勝手に死んだの? 私が殺したんじゃなくて?」

 夏目さんがようやく、私に視線を向けた。

「おはよう、こずえちゃん」

 その名前が、すとんと私の胸に落ちてくる。

 そうだ私は、椿であり、夏目さんが呼んだその名前の主でもある。

「あなたは知ってたの? 翔ちゃん」

「ちょっと。その呼び方、気持ち悪いからやめてって何度も言ったのに」

 夏目さんは、ははっと苦笑した。

「こずえちゃんは、全然やめてくれなかったよね」

 思い出した。

 思い出してはいけないこと。


 人を刺した事実を隠して施設にやってきた私を、じっと見つめていた少年。三つ歳上の彼は、細い体には大きすぎる、お気に入りのカメラを持っていた。彼にどこか惹きつけられて、私はその少年について歩いた。

「こずえちゃん」

 彼は私に、そのカメラを向けた。

「写真、撮ってもいい?」

 彼にカメラを向けてもらえるときだけは、私は笑っていられた。


「思い出しました。猫の名前、『椿』です」

 夏目さんの腕を握った手は、いつの間にか添えているだけになっていた。

「事件以来、私がずっとぼんやりしていたから、おばあちゃんが、全部やり直そうって。一から新しい私になるために、私はおばあちゃんの苗字を名乗って、下の名前も変えた。新しい名前は、すぐ馴染むように、私もおばあちゃんも大好きなものの名前から取ったんです。だから、かわいがっていた猫の名前をそのまま貰った」

 二重人格、というのとは、少し違う。「なにがあったのか知らない」と自分についた嘘を信じて、本当になにも知らない桐谷椿と、なにがあったのか本当のことを知りたい椿を押さえつける篠宮こずえが、同時に同じ人格の中に存在していた。

 桐谷椿は事実を知りたいのに、篠宮こずえは思い出さないように嘘をつかなくてはいけない。私はひとりで、その葛藤の中にいた。

 篠宮こずえの目を覚ましたのは、夏目さんだった。彼が、私の中の篠宮こずえを呼んだ。神社の札にその名前を書いたのも、もしかして、私が覗き見るのを織り込み済みだったからかもしれない。

「そっか」

 私は小さく、深呼吸した。

「翔ちゃんは私が人を殺してたのを知ってたのに、その上で、優しくしてくれたんだ」

「だから、その呼び方……まあいいや、そもそも君は人を殺してはいなかったでしょ」

 大人になったかつての少年は、困り顔でそう言った。私はふうと、ため息をつく。

「そうだった。どうして? 私が殺したつもりだったのに」

「知らないよ。君が勝手に、寝てるだけだと見間違えたんでしょ」

 夏目さんが雑に答える。

 彼のいうとおり、私、篠宮こずえは、大槻を殺すつもりで、すでに死んでいた彼に包丁を刺した。包丁からは私と母親の指紋が検出されたが、おばあちゃんが捏造したアリバイのお陰で、私は殆ど疑われずに済んだ。私は忙しいお母さんに代わって料理をする習慣があったから、包丁に指紋がついていても不自然ではない。

 夏目さんは少し不思議そうに言った。

「大槻さんの自殺、当時ニュースになってたんだけどな。でも君は当時の記憶が曖昧だから、今まで知らなかったんだね」

「うん。事件から目を逸らすために、わざとニュース観なかったから」

 今ならはっきり分かる。私に、中学以前の記憶がない理由。私自身が蓋をして、なかったことにしてきたからだ。

 夏目さんが苦笑いする。

「ニュースで見て驚いたよ。僕はこずえちゃんが大槻さんを刺し殺したと思ってたのに、検死の結果、包丁は死後に刺されたものだなんて報道するんだもん」

 そうだった。

 せめて私の手で殺したつもりでいたのに、勝手に自殺されていた。死ぬときまで自分のタイミングで、勝手に。

 やりきれない反面、自分は人殺しではなかったことに少しだけ安堵していた。とはいえ私は人を殺そうとした。少なからず、殺意はあった。それは間違いない。そして私を押入れに隠して、私を必死に守ろうとして亡くなった母に、包丁を持たせた。無抵抗の母の死体に、自分の罪をなすりつけて逃げた。

 それが恐ろしかった。

 そんな自分が全部忘れて、他人として平然と生きていることが、なにより恐ろしかった。

 償い方は分からない。誰にも疑われないのならこのままかわいそうな少女を演じてしまおうか。そんな図々しい生き方をするの? それならいっそ全てから逃げ出して、死んでしまえばいいのだと、十三歳の私は思った。

「夏目さん」

 私の声は、自分でも情けないほど震えていた。

「私、あのときずっと、『死にたい』って思ってました。お母さんに罪を着せた。私を守ろうとして死んじゃったのに。それだけじゃない、私、大槻さんを刺したし、おばあちゃんにもずっと嘘をつかせてた。たくさんの人を騙したの」

「君は、椿ちゃん? それともこずえちゃん?」

 夏目さんは穏やかな目をしていた。分からない、私は誰?

「ソラが人を殺して、それを隠蔽しようとしたって知って、私だ、って思いました。同じことを……ううん、私のほうが、もっと酷い。私がいちばん世の中のクズだった。のうのうと生きてていい人間じゃなかった!」

 私は夏目さんの腕に縋り付いた。

「どうしよう、死にたい。死ぬべきなのは私だった。ずっと前から。今も」

「でも、死ななかった」

 夏目さんははっきり、私の目を見て言った。

「当時、僕にはすぐに分かった。この子、死にたいだろうなって。でも君は無理して表情を作って、生きている人間の世界に馴染もうとしていた」

 頭にフラッシュバックする。曖昧に浮かぶ、施設の風景。知り合いがいなくて居場所がなかった私は、自分と似た目をしていた、カメラを持った少年に近づいた。誰でもいいから、一緒にいてくれる人が欲しかった。そうでもしないと、自ら死んでしまうと、無意識のうちに分かっていたから。

 ただ寂しさを埋めたいだけだったし、表情は全部作り笑いだ。それでも気が紛れた。少年がカメラを向けてくれる間だけは、嘘でも笑っていられた。

 一瞬で終わったあの関係が、私の命を繋いだ。それを思い出したら、涙が溢れてきた。

 夏目さんが困ったような笑顔を浮かべてから、そっと私を抱き寄せる。

「十五年、ずっと我慢してたんだよね」

 冷たい手がふわふわと私の背中を撫でた。私は手を突き出して、彼の胸から逃れた。

「優しくしないでください。余計に、余計に死にたくなる」

 こんな自分が生きている、世界が嫌いだ。自分が生きている限り整わない。

「こんな私に気を遣わせてしまった、あなたに申し訳なくなる。優しくされたら死にたくなる。でも突き放されても死にたくなる」

 気持ちを率直に言葉にして、私は俯いた。

「じゃあどうしろって言うんだよ、って思いますよね。私も分からない。どうしたらいいのか分かっていたら、とっくに自分でなんとかしてる。死にたいのを忘れようとして、罪もなにもかも全部忘れたりなんか、しなかった」

 声が震える。息が、苦しくなる。夏目さんはしばし無言で私を見つめ、それから言った。

「そうだ、ねえ椿ちゃん。今度おいしいコーヒーを飲みにいこうよ」

「へっ?」

 突然の提案に、私は思わず顔を上げた。夏目さんはにこーっと明るく笑っている。

「なんか僕ら、喫茶店に入るとき、いつも不穏な感じあるじゃない? だからたまには、普通にコーヒーを楽しむ目的でコーヒー飲みに行きたいんだよね。いいお店知ってる?」

 あまりにも唐突だ。唐突すぎて、思考が止まった。

 多分、わざとだ。夏目さんはそういう人だ。私がこれ以上考えすぎないように、わざと私の思考の邪魔をした。

 絶句したまま固まる私を、夏目さんはもう一度、ふわりと腕に包み込んだ。

「それからさ、そのあともまだ耐えられないくらい死にたいなら、僕が心中でもなんでもする。でもその覚悟がないなら、もう少し考えてからでもいいんじゃないかな」

 こうして抱きしめられると、夏目さんの心音が聞こえる。とく、とく、というゆっくりした間隔で微かな音を繰り返していた。

 彼が嘘つきなのは知っている。もう錯覚でもいい。こうしていたい。

「翔ちゃん」

「だからあ、それやめてってば」

 夏目さんが笑う。

「本当に、奇跡だったね。十五年前に仲良くしてくれた子に、街角でコーヒーぶっかけられる偶然なんて。そうそう経験できるものじゃないよ」

 罪を重ねた私が、人から抱きしめられるなんて、図々しい。生きてもいいと言ってもらえるなんて。こんなに好きな人がいて、その人の腕に抱かれて安心してしまうなんて、なんて図々しいのだろう。

 思えば、写真家・夏目翔弥に惹かれたのも必然だったのかもしれない。私は彼が写真家になる前から、この人が好きだったのだから。



 その日、少しの検査のあと、私はすぐに病院から自宅へ帰された。

 ベッドの上に身体を投げ出して、ごろんと仰向けになる。無機質な天井が私を見下ろしていた。

 ひとりでいると、不安と罪悪感がどうしようもなく胸にまとわりつく。

 私は人を殺そうとした。

 男を殺したと思い込んで、その罪を死んだ母になすりつけた。

 祖母を巻き込んだ。必死に嘘をつかせた。

 私も嘘をついた。自分自身まで騙し続けた。

 世の中に対して嘘をついた。私はかわいそうな被害者遺族になった。

 死体損壊の時効はとっくに過ぎ、完全犯罪が成立した……。


 いや、していない?


 だって目撃者が出てしまったのだから。証拠写真まで出てきてしまった。

 あの人が、全て知っているではないか。

 法的に時効が成立していようと、私の罪は消えない。彼が全てを知っている限り。


 胸の奥でなにかが溶けた気がした。

 天井を見つめて、私はひとつの決意をした。



 後日訪ねた夏目さんは、なにごともなかったかのように、いつもどおりに接してきた。

「いつか海外旅行に行きたいね。野生のインコの写真を撮ってみたいんだ」

 雑誌を捲りながら私にどうでもいい話を振ってくる。あのときの話といえば、私の目覚めと退院について、会社には夏目さんから連絡しておいてくれたという話だけで、他にはなにも触れてこなかった。ワイシャツとネクタイのスタイルで、相変わらず布団の上にうつ伏せに転がって雑誌を眺めている。うとうとしていると思ったら、そしてそのままかくんと頭を布団の上に埋めて、またハッと顔を上げる。余程眠いようだ。夏目さんが、まどろんだ声を出す。

「僕さあ、眠りに落ちていくときの沈み込むような感覚が大好きなんだよね……」

 話しながら、こくんこくんと舟を漕いでいる。

「死ぬときも、惰眠を貪るように眠って、そのまま目を覚まさない死に方が理想的だなって思ってるんだ。そこで思ったんだよね、よく眠れる薬があれば、死ぬ間際に眠るように気持ちよく死ねそうだって。ただ、強すぎる薬は副作用で体調が悪くなるから、少しずつ適量を探して、体に慣らしていく必要がある……」

 なにを企んでいるのだろう。しっかり問い詰めようと思ったが、あまりにも眠そうなのでやめた。

「眠かったら無理に私の話し相手しなくていいですよ」

「ありがと。ごめんちょっと眠る」

 夏目さんが静かになった。もぞ、と寝返りをうって身体を横に向ける。正面を壁に向けて、私に背中を向ける姿勢になった。

 パソコン椅子に座って、私は夏目さんを観察していた。息が細くて身体が殆ど動かない。むしろ、息をしているのか分からないほどだ。

 死んでいるみたいだ。

 浜に打ち上げられた魚のような、車にはねられた猫のような、訳も分からず命を落とした生き物を彷彿とさせる、残酷なあどけなさが滲み出ている。

 数分、丸まった背中と猫っ毛の髪を交互に眺めていたが、私はそっと、自分の鞄を手に取った。仕事用の鞄の薄いポケットから、そっとそれを抜き取る。くるんであったタオルが解けると、きらりと、研がれた刃がきらめいた。

 自宅から持ち出してきた、包丁である。

 眠る夏目さんの背中を、もう一度眺めた。警戒することなく、壁に額をつけて丸くなっている。あどけない。かわいそうになるくらい、無垢な後ろ姿に見える。

 いつか海外旅行に行きたいね。そんな無邪気な言葉が、突然頭の中に浮かんだ。

 包丁を持つ右手がガタガタと震えてきた。はあ、と息を吸い直して、震えをおさえようと左手で右手を握りしめる。両手で握っても、包丁の刃先は焦点が定まらずにぶるぶると震えていた。彼の背中にぴたりと先を当ててみる。呼吸が乱れる。隙だらけの後ろ姿を見れば見るほど。

 戸惑っている暇はない。この人は私の秘密を知っているのだから、生かしておけない。包丁の刃先が蛍光灯の光りにぎらついた。

 私を抱きしめた彼の胸から聞いた、心臓の音が脳裏に蘇る。

 どきん、どきん、と高鳴るのは私自身の心臓の音だ。大丈夫、一度やったことがある。そのときは成功しているのだ。恐れる必要なんてない。床にはタオルが落ちている。指紋はあとで拭えば大丈夫。

 シナリオはこう。

 かわいそうに、この人は突然押し入ってきた強盗に殺された。私は後になってここを訪ねた恋人だ。まさかこんな惨劇になっていたなんて、と警察に駆け込む。犯人の顔は見ていません。捕まえて! 

 生憎か幸いか、悲劇の主人公は演じ慣れている。


 もう一度、彼の背中から心臓のあたりに包丁を当てた。

 ごめんね夏目さん。


 もぞ、と夏目さんの頭が動いた。私はびくんと包丁を上げて一歩飛び退く。小さな呻き声がして、彼はまた静かになった。

 手の震えが止まらない。涙がぼろ、と布団の上に落ちた。

 包丁が急に重くなり、自分の膝の辺りまで下ろした。ままならない深呼吸で息を整える。

 夏目さんが、掠れかけた小さな声を落とした。

「椿ちゃん……」

 私の目から、ぼたぼたと涙が数滴零れた。夏目さんの寝言のような呟きが、むにゃむにゃと続きを加える。

「僕ね、基本的にあんまり人間が好きじゃなくて、ポートレートを撮るのは苦手なんだけどさ。生きた人間を見て初めてきれいだな、撮りたいなって感じたのが、こずえちゃんだったんだ」

 壁に向かったまま、寝息を吐くように言う。

「あの子がいるときの僕の見てる景色は、間違いなく、すごくきれいで」

 涙で包丁が濡れた。

「彼女が目の前にいてくれるなら、彼女になら殺されてもいいなと思ったんだ」

 夏目さんがむくりと上半身を起こした。びくっと私は包丁を握り直して彼に向けた。

「やめて!」

 夏目さんがゆっくり、こちらを振り向く。眠たそうに目を細め、柔らかに微笑んでいた。

「君がいる、ファインダー越しの世界は、死ぬ間際まで見ていたいくらい、きれいだったから」

「やめて、変なこと言わないで!」

 包丁を彼に向けたまま私は後ずさりした。夏目さんの声に、静かな笑みが差し込んだ。

「心中じゃなくてもいいかも。君に殺されて見る景色も、きっときれいだ」

 手に力が入らない。包丁の柄が手からするりとすり抜けて、カンと音を立てて足元に落ちた。

 だめ。やっぱりできない。

「……ごめんなさい」

 夏目さんが目をぱちくりさせた。

「どうしたの、椿ちゃん」

「ごめんなさい、私……どうかしてた。ごめんなさい」

 私は、なにを考えていたのだろう。

 がくんと膝をついて床にしゃがみこむ。袖で顔を覆いながら嗚咽を洩らした。夏目さんがずるずると、重たそうにこちらに身体を向ける。

「なんで謝るの、別に死んでもいいんだけど。わりと生きてるの飽きてるし」

 彼はベッドから降りて、私と目の高さを揃えて座りこんだ。

「謝るのは僕の方じゃない? 僕は放っておけば幸せだった椿ちゃんに、つらいことを思い出させて、人生を狂わせてしまった。君にとって不都合な事実の証拠も持ってる」

「でも、私の罪です。無責任に忘れてただけで」

「そうだけど、それを知っていてほっといてる僕も、まあまあ同罪」

 冗談かのように軽やかに言うので、私は数秒固まったのち、ふっと噴き出した。

「まあまあ、って」

「完全に同罪だとは思ってないんで。隠蔽に加担してるだけで」

 夏目さんも笑い出し、私もなんだか可笑しくて、泣きながら笑った。それからしばらくして、ため息をつく。

「なにやってるんだろ、私。後悔してるのに、もうこんなの嫌なのに、どうして罪を重ねようとしたんだろう。なんで変われないんだろう」

 私がそう言うと、夏目さんは無言で立ち上がった。引き出しを開け、ごちゃついた中から一枚、写真を取り出す。床から見上げた私の目にも、その画が見えた。私には見つけられなかった、包丁を持った篠宮こずえの写真だ。

 と、夏目さんは突然、その写真を眺めるでもなく徐ろに破った。

 私は思わず、固まった。

「……えっ」

 包丁を握った私の写真は真っぷたつに裂かれ、それが夏目さんの手に重ねられ、また半分にちぎられる。写真はみるみるうちに、細かいパズルのピースのように砕けていった。

 ばらばらになった写真を見つめ、しばらく凍りついていた私は、震える声で訊ねた。

「……なんで……?」

「うーん、すごくよく撮れてる珠玉の一枚だから、勿体ないんだけどね」

 夏目さんがちぎった写真をゴミ箱に放る。

「椿ちゃん、僕の写真が好きって言ってくれるけど、この一枚だけは嫌いでしょ。これを理由に僕を殺したくなるほど。僕はファンの希望は大事にしたい主義なんだ」

 最後の方は冗談っぽく言って、夏目さんはニッと笑った。

「で、『後悔してるのになんで変われないのか』だっけ? 分からないけど、後悔しても反省しても、それだけでは変われないんだろうね」

 穏やかな声を、私はぽかんとして聞いていた。

「変わるのにも時間が必要。或いは、そんな自分も受け入れていく。生きていくって、そういうことなのかもね。面倒くさいね」

 きっと変われない。私は多分、一生、このままだ。

 それでもあなたは、こんな私を受け入れてくれる? 問いかけようとして、それはやめた。代わりに、落ちている包丁に目を落とす。

「私、幸せになってもいいんでしょうか」

「いいんじゃない? 知らないけど」

 夏目さんは無責任にそう言って、再びベッドで雑誌を眺めはじめた。

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