6・囚われの天使(松本美空の場合)
とある夜のことである。夏目さんは私が来ているのに、うとうとと船を漕いでいた。
「随分眠たそうですね」
私が言うと、夏目さんは倒れ、むにゃむにゃと寝言を言った。
「ミクちゃん……寝かせてくれなかったから」
「ミクちゃん?」
知らない女の名前をいきなり出されて困惑する。夏目さんはそのまま眠ってしまったようで、返事をしなくなった。
これは、ありがちな修羅場ではないだろうか。一応交際相手とされている私の前で、ミクちゃんなる女の名を口走る。本来であれば、叩き起こして問い詰めなければならない事態だろう。
しかし私たちはあくまで、「心中を前提とした恋人」という奇妙な関係であり、ここで彼に怒りをぶつけるほど取り乱しもしなかった。起きたら訊けばいいか、くらいの冷静さで受け止めている。
さて、夏目さんが寝てしまったし、私は話し相手がいなくなって暇になった。このまま帰ろうかとも考えたが、気が変わった。彼が起きないのを横目で確認しつつ、パソコン机の引き出しに手をかける。たしか、包丁を持った学生の少女の写真があったはずだ。
あの写真がなんだったのか、もう一度よく見ておきたい。私にそっくりだけれど私ではない、あの少女は誰なのか。
引き出しを開けると、中は床同様にごちゃごちゃに、よく分からないケーブルなどの小物が詰められていた。夏目さんは致命的に整理整頓が苦手である。ここから物探しをすることを考えると気が遠くなる。
ガサガサと探ってみるが、目当てのものはここにはないようだ。他の引き出しを開けてみる。同じく物が乱雑に詰まっていたが、こちらは小さな箱が一部を陣取っていた。開けてみると小さなSDカードが入っていた。恐らく、彼が撮ってきた写真のデータが保存されているのだろう。
SDカードを摘み上げ、パソコンに差してみる。地名や内容をタイトルにしたファイルが複数保存されていた。が、ひとつだけ、年度と日付がタイトルになっているファイルがある。恐る恐る、クリックしてみた。
表示された画像ファイルのサムネイルに、セーラー服の少女の姿があった。その黒髪に、どきっとする。サムネイルが複数表示されている。包丁を持っていた少女の写真とは、色味が違う。夏目さんに見せられたもの以外にも、まだいくつかこの子の写真はあるようだ。私はその中の一枚を、ダブルクリックで表示した。
そして表示された画像に、息を呑む。セーラー服の少女は、カメラに向かって微笑んでいたのである。あの血群れた包丁を持っていた姿とは、随分ギャップのある表情だった。
背景は、芝生だろうか。晴れやかな日差しの中、少女は長い髪を靡かせて微笑んでいる。包丁の少女と同一人物に違いないが、あの写真はカメラに気づいていない様子だったのに、この写真は明らかにカメラの持ち主に微笑みかけている。
そしてやはり、この女の子は、私の顔をしている。
でも私にこんな記憶はない。こんなふうにカメラを向けられ、笑った記憶がない。私はふと、以前の夏目さんの言葉を思い起こした。
『ね、椿ちゃん、知ってる? 世の中にはさ、同じ顔をした人が三人はいるんだって。だからあとひとりいるね!』
私と、三枝琴里と、あとひとりが、この少女なのではないか。そんな気がしてしまうくらい、この子は私と似ている。
他の写真も、表示してみた。少し角度が変わったり、背景が変わったりするが、いずれもこの少女が写っている。
そのうちの一枚に、思わず息が止まる。少女が髪をかきあげ、耳にかけている仕草を写したものだ。髪の隙間から覗く、深い傷痕。私の顔の傷と、同じ位置だ。
「……なに、これ」
ずきっと、顔の傷が痛くなった。心臓が暴れ出す。微笑む少女の顔を見ていると、汗が噴出してくる。頭がぐらっとして、思わず目を閉じる。瞼の裏に、また、なにか見えた。
「……ちゃん」
明るい空の下、青々と茂った芝生。晴れた日差しの中で花が揺れ、誰かが名前を呼ぶ。カメラを持った少年が、そこに立っている。これは、写真の中の少女の視線だろうか。
「こずえちゃん」
少年の声がはっきり聞こえたとき、私は急に、我に返った。目を開けると同時に、夏目さんの散らかり放題の仕事部屋が視界に広がり、現実に引き戻される。
パソコンのモニターには、少女の写真が表示されたままになっている。私はひとつ深呼吸して、がくがくする手でその画面を閉じた。
「こずえちゃん」――そう呼ばれた少女が見ていた景色が、まだ頭に残っている。こずえちゃんって、誰? 私は誰? 夏目さんはどうして、こんな写真を持っているの?
頭の中がしっちゃかめっちゃかだ。私はパソコンの電源を落とし、夏目さんの仕事部屋を後にした。
暗い帰り道を、私は早歩きで進んだ。鞄をぎゅっと胸に抱く。あの写真はなんだったのだろう。どうしてあの少女は私と瓜ふたつで、彼女の記憶が私の中にあるのだろう。夏目さんは、なにを知っているのだろう。
*
あれから一週間、私は夏目さんとの連絡を断っていた。
あの仕事部屋には当然行かないし、彼から来る電話やメールは全部無視した。急に距離を取られて夏目さんは困惑しているだろうし、自分でも酷い仕打ちだとは思ったが、どうにもできない。夏目さんのパソコンにあったあの写真の少女の顔が脳裏に焼きついて、夏目さんと会うと、嫌なことを思い出しそうで怖い。
そうやって夏目さんを拒絶し続けたせいだ、ついに会社の前で待ち伏せされた。
「捕まえた! 全く、完全に無視なんて酷いんじゃないの? 寂しい!」
夏目さんは記事のネタ探しに出かけようとした私の襟首を掴み、離してくれない。
「ごめんなさい! でも今は仕事中なのであとで……」
「そうやっていつまで逃げ惑うつもり? なにを怒ってるのか教えてくれないと、僕も謝りようがないんだけど!」
野外、しかも人通りのあるオフィス街で、夏目さんが私を叱る。人目が気になる私は、観念して暴れるのをやめた。
初めて出会った日と同じ喫茶店に入り、向き合って座る。夏目さんはじっと私を見つめてくる。私は少し目線を外して、テーブルの上のコーヒーを見ていた。
あの写真の少女の件が引っかかって距離を取っていたものの、実際会ってみると、案外平気だ。ちょっと怒ってはいるがいつもどおりの夏目さんに、安心すらしている。
「で、なにを怒ってるの?」
夏目さんが童顔を近づけてくる。私は一旦呼吸を置き、言葉を探した。あの少女の写真はなんですか。どうしてあの子は、私と同じ顔をしているんですか。そこがいちばん気になるのに、声にならない。これを訊いてしまったら、なにもかもが崩れてしまうような、そんな気すらする。
代わりに私は、別の話題で乗り切ろうとした。
「ミクちゃんって誰ですか?」
少女の写真は見ていないふりをして、浮気発覚を怒っているということにしてしまおう。夏目さんは悪びれずに返した。
「そういう名前の女の子」
さらりと付け足して苦笑する。
「もしかしてそれを怒ってるの? 謝った方がいい?」
「怒ってはいないです。私、夏目さんの恋人って設定ですけど、気持ちが伴ってないのは分かってますし。そうやって謝られても、それも気持ちが伴ってないですし」
「彼女、なかなか帰らせてくれなくてね。おかげさまで寝不足になって、うたた寝して起きたら椿ちゃんがいなくなってて、そのまま連絡がつかなくなった。酷い仕打ちだ」
まるで自分が被害者みたいな語り口である。
中途半端に冷静になっていた私は、この話を切り上げて別の話題を探そうとしたが、軽く振れる話題が見つからない。やはり昨日見てしまった少女の写真について、しっかり訊いておこうか。そう考えては怖気づいて、口にしそうになっては吞み込む。気になるけれど怖くて切り出せない。知ってはいけない気がする。
私は夏目さんから顔を背け、ふいに、隣のテーブルの客が読んでいた新聞の記事が目に止まった。「○○区で火災、男性遺体で発見、心中か」という見出しである。ここ一週間、話題になっているニュースだ。夏目さんに振って上手く話を逸らすにはもってこいである。
「先日の火災、心中だったそうですね」
私は自分の携帯で、ニュースサイトを開いた。新聞記事になっている火災はニュースサイトでも大きく取り上げられている。松本龍樹さん、佳代さんという夫婦の家が全焼し、彼らのものと思われる遺体が出てきたという。同じ家に住んでいた娘、松本
父親の自殺に巻き込まれた、この美空さんという娘が気の毒だ。
ん? ミク? 私は携帯を持つ手を止めた。
「ミクって……夏目さんが口走った名前と同じですね」
ちらっと、夏目さんに目をやる。彼は口元でカップを傾け、私を見つめていた。
ミクという名前、それだけではない。その漢字にも、胸騒ぎがする。
美しい、空。
背筋を走る悪寒に鳥肌がたつ。
「ねえ夏目さん……美空さんって、まさか」
「ソラちゃんだよ」
夏目さんから発された名前に、脳天を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「それって……」
やっと絞り出した声は、消え入りそうに震えた。
「ソラを助けてくれるって……束縛する恋人から逃げたいソラを、助けてくれるって言ってたじゃないですか」
「うん。あの日記の写真の数字ね、例えば九十円切手の『九』だったら、その記事の九行目の九文字目って感じで、ひと文字ずつ拾っていくと、駅の近くにある店の名前になったんだ。そこが待ち合わせ場所」
夏目さんは平然と笑っていた。
「すごいよね、この子まだ中学生だよ。よくこんなの思いついたよね」
私の方は、焦燥でそんな余裕はなかった。テーブルに前のめりになって、捲くし立てる。
「彼女を死なせることで解放しようとしたんですか? このご両親は? お父さんを唆して心中を促して、ソラも殺すつもりだったんですか?」
「自殺系サイトなんかに頼るくらいだし、本人もこうするしかないって、分かってはいたんじゃない?」
夏目さんがコーヒーカップを受け皿に戻す。私はわなわなと振るえ、言葉を探した。なにを言えばいいのか、分からない。
「説明、してください」
やっと搾り出した言葉が、それだった。同時に目に涙が溜まってきて、ぼろぼろ零れだす。
「ソラの本当の名前も今知ったくらいだけど、彼女は私の友達でした。だから知りたいです。ソラがどうしてこうなったのか。あなたは彼女に、なにをしたのか」
溢れた涙を、袖で拭った。いくら拭っても止まらない。夏目さんがそっと、私の顔に手を伸ばしてきた。
「泣かないで、椿ちゃん」
目を擦りながら見た夏目さんの顔は、困っているような面白がっているような微妙な面持ちをしていた。
「困るよ。僕は涙に弱いんだ」
「だって、ソラが」
「君にちゃんと話してなかったね。ごめんね」
「夏目さん、助けてくれるって言ったのに」
「ごめんねって。ていうか、ピーピーうるせえよ」
穏やかな声のまま彼が口走った言葉に、耳を疑った。
「……え」
夏目さんが徐に携帯を取り出た。数秒待つと、私にその携帯を差し出してくる。渡されるままに受け取り、耳に当ててみる。
「椿?」
知らない女の子の声だった。まだ子供だと窺える、幼い声だ。
「私、ソラ」
「ソラ? ……ソラなの?」
携帯を支える手に、ぎゅっと力が入る。明るくなった私の顔を一瞥し、夏目さんがコーヒーを啜る。私は携帯を両手で支えて、勢いづいて訊ねた。
「ねえ、今ニュースになってる火災。あれ、ソラの家だって……」
「大丈夫。私は死にたくないって、サイトの管理人さんにちゃんと言ったから」
初めて聞いた「友達」の声は、優しく穏やかで、幼くてかわいらしかった。安堵で胸がいっぱいになる。また目が潤んできた。
「今、どこにいるの?」
「パパもママも死んじゃったから、施設に入ることになったよ。でもこのとおり私は元気だから、心配しないで。驚かせちゃったかもだけど、大丈夫だから」
涙声の私を慰めるように、彼女は優しく語りかけてきた。
「あのね、椿。はじめまして」
あ、と間抜けな声を出して私は彼女に続いて言った。
「はじめまして、ソラ」
やや間があって、くすくす笑い合う。ほっとした私は、溢れ出すままに話した。
「なんか、はじめましてって変な感じ。ずっと前から話してるのに。それに私、ソラがこんなに若い女の子だったなんて知らなかった。愛してくれてる恋人が五十代会社役員だっていうから、そのくらいの歳か、歳の差があっても二十代くらいかなって」
「あはは、恋人とは言ってないもん。それ、パパのことなの。私を愛してくれたのは、パパとママなの」
「えっ」
驚く私に、ソラは少し強ばった声色になった。
「でもね、私、椿にひとつ、嘘を吐いてた。『死にたいわけじゃない』って話してたけど、本当は死にたかった。少なくとも、あのサイトに登録した日までは」
彼女はそう前置きし、話し出した。
「二ヶ月くらい前に、ママが出て行っちゃってね。それ以来パパは、私にママの代わりを求めるようになって、思いどおりにならない私を家に閉じ込めるようになったの」
ソラは淡々と、私に経緯を話してくれた。
中学生のソラは、父親から監禁、虐待を受けていた。外部に助けを求めようものなら、父親に「母がいなくなったショックによる妄想」として片付けられ、暴行を受けた。従順な素振りさえ見せていれば暴力は振るわれない。次第にソラは、助けを求めるのをやめ、父親に愛されて幸せな娘を演じて父親の機嫌を取るようになった。
しかし彼女は正気を失ったわけではない。彼女は父親が見てない隙に父親のパソコンでネットを見て、死ぬ方法を探した。この生活から抜け出すには、死ぬしかないと考えた。そして巡り巡って、夏目さんのサイトに行き着く。
サイトに登録したのはログを通じて父親に見つかってしまったが、彼女が書き込んでいたのは幸福な日々の日記や、困っている人への応援メッセージである。父親は最初こそ退会させようとしたが、娘は自分に心酔していると判断したのだろう、自身の監視の下、夏目さんのサイトにだけ、出入りを許した。
あとは私の知ってのとおりだ。ソラは日記や掲示板に縦読みのメッセージを残し、さらに数字のギミックも仕込み、助けを求めていた。
「もう一生外に出られないのかなって思ったらつらくて死にたくなって、あのサイトに登録した。そしたら椿に出会って、誰かと話をするのがこんなに楽しいって思い出したの。この人は私の味方だ、SOSを出せば、きっと助けてくれるって、思ったの。だから今はもう、死にたくない。今日まで、椿のお陰で頑張れたんだよ」
胸がぎゅっと締めつけられた。そうか。私はこの人の命綱になれていたのだ。この人は、私を必要としてくれたのだ。ソラが嬉しそうに声を弾ませる。
「私の暗号に気づいてくれたのも、椿なんだよね。管理人さんが言ってた。ありがとう、椿。あなたのおかげで私、また青空の下に出てこられた」
私はというと、衝撃で言葉をなくしていた。ソラの書き込みに隠されていた真のメッセージ、その背景を、今知った。太陽のようだと感じていた彼女は、私の想像を絶する壮絶な日々を過ごしていた。
「ごめん、そろそろ行かなきゃ。今度、手紙を書くね」
そこでぷつっと、通信が切れる。私は携帯を持っていた手をくったり下ろした。なにもかもが衝撃だった。ソラがまだ子供だったのも、例の男性がお父さんだったのも、こんなに苦しい思いをしていたのも、気づけなかった。でも思ったより元気そうで、それは安心した。どっと疲れが出てくる。
「夏目さん、数字の意味を解いて、ソラに会いに行ってくれたんですね」
夏目さんに携帯を返す。彼は少し不機嫌そうな顔で、それを受け取った。
「うん。サイトのダイレクトメールで数字書いて送ったら、時刻を書いただけの返事が来て、そのとおりの時間に、彼女が指定した店に現れたよ」
なんだか色んな衝撃に見舞われて、頭を整理する余裕がない。泣きはらした目を擦りながら、コーヒーを啜る。徐々に落ち着いてきた私は、ふと夏目さんに問いかけた。
「あれ? ソラって、監禁されてるんじゃなかった?」
「ん?」
「どうやって待ち合わせ場所まで出てこられたんですか?」
夏目さんは、ちらっと私を見ただけで、答えなかった。私はさらに質問を重ねる。
「それに夏目さん、彼女と会ってなんの話をしたんですか? 結果的にソラはお父さんから解放されたわけですが、それはお父さんが心中を図ったからで……ソラも夏目さんも、なにもしてないですよね」
なにかがおかしい。私はまだ、なにか見抜けていない気がする。
「ソラちゃんに訊いてみたら? 話してくれるか、分からないけど」
夏目さんが気だるそうに目を閉じる。やはり、彼にもどうにもできなかった、ということだろうか。私はそれ以上はもう、訊くのはやめた。
*
後日、私は夏目さんの仕事部屋で、カメラのメンテナンスをしている夏目さんを眺めていた。
「篠宮事件」
ぽつりと呟くと、夏目さんの頭がぴくりと動いた。これまでずっと、避け続けた話題だ。でも、ソラの一件が終わった今、この件についてもけじめをつけたかった。
「なんで、亡くなった人の娘の名前まで覚えていたんですか?」
「篠宮こずえ?」
夏目さんが小さく、その名前を口にした。その名前を聞いた途端、頭がずきっとした。一瞬、夏目さんのパソコンにあった少女の笑顔が、脳裏に蘇る。
「私も調べたんですが、その名前はメディアに公表されていなかったんです。それをどうして、篠宮こずえの名前をどうして、夏目さんが知ってるんですか」
問うても、夏目さんは答えなかった。数秒待っても夏目さんはなにも言わない。私は大人しく、質問を変えた。
「夏目さん、篠宮こずえと知り合いなんじゃないですか?」
データが残っていた、カメラに向かって微笑む少女。そして、同じ少女が包丁を握る姿。何の根拠もないが、仮にあれが、篠宮こずえだとしたら。
夏目さんは返事をしない。また、部屋に深海のような静けさが訪れる。
「ねえ、夏目さん」
声をかけても返事はない。
「私、昔、猫を飼っていたんです」
「猫?」
やっと、夏目さんが返事をする。私は一旦言葉を切って、息を吸い直した。
「最近、思い出したんです。私が飼ってたっていうより、おばあちゃんの家にいたんですけど。私がおばあちゃんの家に居候するようになって、突然現れた私を、猫は警戒してた」
きっと、おばあちゃんを盗られたと思ったのだろう。
「私は猫が好きだったから、この子と仲良くなりたかったんですけどね、猫の方はいつも不機嫌な顔してて、近づくとシャーって怒るんです。私も嫌われてるの分かってからは、向こうが私に慣れてくれるまで、こっちからは近づかないことにしました」
最初の頃は、猫は私を嫌っているから、いつか引っかかれるのではないかと、ちょっと怖かったりもした。しかし急に現れて猫の居場所を奪いに来た私の方が、猫にとっては怖かったのかもしれない。だから私は、君を苛めないよと伝えようと、少しずつ慣れてもらえるよう、距離を保った。
「ある時期から、猫が丸くなって寝てる時間は長くなっていきました。その頃から、折角少しずつ近づいてこられた猫が、なんだかさらに遠くへ離れて行く感じがあって。お別れが近いのかなって」
ふてぶてしい態度の猫の姿は、今でも鮮明に脳裏に浮かぶ。偉そうな顔をして、誰よりも臆病な。
「ある日、座布団の上で丸くなったまま、私とおばあちゃんに看取られながら、冷たくなりました」
ん、と夏目さんが微かに唸った。
「私が一緒に暮らすようになったときには、すでにだいぶ歳が多かったんです。老衰だった。ついに、私に心を開かないままでした」
夏目さんは静かだった。
「その猫の名前が、思い出せそうで、思い出せない」
猫との日々は鮮明に思い出したのに、名前が出てこない。記憶の海を漂うそれは、手が届きそうなのに、すり抜けていく。
「夏目さんといると、こんなふうに、忘れていたものを断片的に思い出すんです。私はなにか、大事なことを忘れてる。早く思い出したいのに、思い出すのが怖い。猫の名前を思い出したら、私、自分が自分じゃなくなりそうで……」
そこまで言いかけたとき、ふいに夏目さんが顔を上げた。
「ねえ椿ちゃん、今朝のニュース見た?」
「えっ?」
急に話を逸らされ、私は目を剥いた。夏目さんはカメラを大事に世話しつつ、にこっと笑う。
「夫婦の遺体が発見された○○区で火災について、亡くなった松本夫妻の十三歳の娘が殺人及び放火容疑で逮捕されたんだよ」
ニュースを読むような口調で言われ、私は体が石になった。慌てて携帯を手に取り、ニュースサイトを開く。真っ先に見つけた見出しから、私はその文面に目を滑らせた。
「亡くなった松本さんは、火災前から連絡が取れなくなっており、初期化されていた携帯電話のデータを復元したところ、火災の一ヶ月前から殺害されていたことが明らかになった。殺人及び放火の疑いで逮捕されたのは、松本さんの娘で、父親が寝ている隙にゴルフクラブで殴って殺害し、目撃した母、佳代さんも同様に撲殺したと、容疑を認めている。警察によると、娘は『両親が過保護で鬱陶しかった』と供述しており――」
燃えた一軒屋の写真が添付されている。私はしばらく、呆然としていた。篠宮こずえも猫のことも、全部頭から消えた。
「ソラ……?」
「捕まっちゃったねえ」
カメラを柔らかい布で撫でつつ、夏目さんがため息をつく。
「椿ちゃんは騙せても、優秀な日本の警察官各位は欺けなかったか。ま、まだ中学生だしな」
「夏目さん。あなたはどこまで知ってたんですか」
私は携帯を伏せて、夏目さんに向き直る。彼はカメラを置き、目を閉じた。
「そのうち全部明らかになるとは思うけど、しつこく訊かれるの面倒だから話しておくね。監禁とか虐待とか、あれ全部嘘だよ。僕ら大人を同情させて、おびき寄せるための」
夏目さんは呆気なく、真相を語った。
「報じられてるとおり、あの子は両親を殺した。でもあとになってからお金に困ると気づいて、両親の死を自殺に見せかけようと考えたみたい」
自殺と判断されれば、生命保険の免責期間によっては保険金が支払われる可能性があるし、自分が殺人の罪に問われるのも回避できる。ソラはそこまで考えたのだろう。
「自殺系サイトを利用したのは、サイトの管理人である僕とコンタクトを取るため。あんなサイトを運営してるくらいだから、自殺に詳しいと踏んだみたいでね。なおかつ法的にグレーゾーンだと思っていたらしくて、僕を脅せば利用できると考えてた」
ソラは真の目的を達成するために、DVの被害者を装っていた。ああいうサイトなら、苦しむ人を救おうと真剣に動き出す人がいる。まさにあのときの、私と夏目さんがそうしたように。彼女は敢えて回りくどい方法で被害者を装い、管理人に報告される機会を窺っていたのだ。
夏目さんは自嘲的に苦笑いした。
「向こうから待ち合わせ場所を指定してきてるから、監禁は嘘だろうと気づいたし、そんな嘘をつくくらいだから裏があるのは分かってたけど。まさか未成年とはね……。おじさんがひとりで会うのは、あらぬ誤解を受けそうでスリリングだったよ」
それからうんざりした様子で続ける。
「彼女は僕に全ての事情を話して、父親の死を自殺に見せかける方法を教えてほしいと相談してきた。生憎僕はただの写真家さんで、別に法に触れてるわけじゃないし、自殺の偽装なんて専門外なんだけどね。他殺の現場には完全に興味ないし」
「それで、計画に加担したんですか?」
「まさか。どうして僕がこんな悪趣味な事案に協力しなきゃならないの?」
夏目さんは子供みたいにむくれ、折り畳んでいた膝に顔をうずめた。
「関わりたくないから通報もしなかったけどね。あんまりしつこいから、『燃やせば?』とだけ言ったかな。本当に燃やしたし、詰めが甘くてばれちゃってるし」
はあ、と重いため息が聞こえる。
「僕はそういうのが、大嫌いだ」
ソラは、遺体のある家に火をつけた。或いは、ガソリンを撒くなりして一定時間で火がつくように仕掛けて、火が回る前に自分は逃げていたのかもしれない。いずれにせよ、ソラは龍樹さんたちの遺体を含め家の中を燃やしきることで、あらゆる証拠を隠滅しようとした。しかし結局、携帯電話の履歴から真実が明らかになった。夏目さんの言葉を借りれば、「詰めが甘い」。
私は、一気に押し寄せるいろんな感情に、頭を抱えた。
ソラが私を騙していたことへのショックもあった。だがその衝撃だけではない。ソラは人を殺していて、なおかつそれを隠し通そうとしていた。
「うっ……」
私は椅子から落ちかけた。夏目さんがぎょっとする。
「大丈夫?」
「いや……」
なにか、引っかかっている。記憶の奥の、鍵を閉めた引き出しが、壊れかけている感じがする。怖い。
視界が赤く濡れる。
震える手に握った包丁、真っ赤に染まった部屋。人を刺したときの、感触。
「いや!」
「椿ちゃん!」
気がつくと、夏目さんが私の肩を押さえていた。珍しく焦りの滲んだ顔が、間近にある。私は乱れた呼吸を繰り返し、彼を見ていた。夏目さんがはあ、と息をつく。
「だから教えたくなかったんだ」
私の肩を掴んでいた夏目さんの手が、ふっと離れた。
「僕はいっそのこと全部、椿ちゃんには内緒にするつもりだったんだよ。完全犯罪が成立していれば、君はなにも知らずに済んだから」
夏目さんは疲れた顔でそう言った。
そのとおりだ。ソラの性根を知って、ソラがしたことを知って、悲しくなった。いっそ、知りたくなかった。
「私が傷つかないように、黙っていようとしていたんですか?」
「そういうことにしておこうかな。単に面倒だっただけだけど」
夏目さんがはっきりと言って、カメラのメンテに戻る。私はその横顔を眺め、少し冷静になった。
「私、なんてバカなんだろう。ネット上の書き込みだけで、ソラを純粋で優しい女性だと思い込んでた。電話で話した内容が全部嘘だったのも、なにも見抜けなかった」
俯く私に、夏目さんがゆっくりと語りかける。
「昔からの知人に、病的な虚言癖の人がいてさ」
こちらは見ずに、カメラの世話を続けている。
「その人はもう、自分の言葉が嘘か本当か、分からなくなっちゃってる。ソラちゃんは罪を認めてるだけ、自分までは騙せなかったんだろうな」
これは、異常な束縛男からか弱い女性を助けるプロジェクトだったはずだった。それがいつからおかしくなって、どこからこうなってしまったのだろう。
「でも椿ちゃんはあの子のお友達だもんね。またどこかでお会いできたらいいね」
夏目さんがいじわるくにやついた。
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