5・社長と部長(飯倉邦夫の場合)
オフィスでコーヒーを飲みながら、記事の編集をする。外注のフリーライターの記事をチェックする作業だ。丁寧に文字を読んでいると、後ろから聞きなれた声がした。
「これ、椿ちゃんの文じゃない」
「うわっ、夏目さん!」
背後から夏目さんが、私のパソコンを覗き込んでいる。見られて困るわけではないが、驚いた。
「気配もなく背後に立たないでください。ていうか、またオフィスに来てるんですか」
「会議に呼ばれたんだよ。僕の意見も聞きたいって」
ここのところ、会社に夏目さんが訪ねてくることは珍しくなくなっていた。私はコーヒーをひと口飲んで、ため息をついた。
「夏目さん、社外の人なのに社内の会議に出るんですね。社員の私以上に気に入られてて羨ましいです」
「椿ちゃんはツンツンしてるから、愛想なく見えちゃうんじゃない? どこに行ってもにこにこしてさえおけば、大体なんとかなるものだよ。そういえばこの前の会議では遠藤くんに会ったよ。椿ちゃんに振られたのまだ引きずってた。いつもどおり冷たく突き放したんじゃないの?」
「冷たくはしてないですよ! なるべく傷つけないようにお断りしました……多分」
遠藤さんを振ったのは、私もかなりの罪悪感を感じている。とはいえ断るしかなかったのだから、仕方がない。夏目さんがおかしそうに返してくる。
「遠藤くん、かなり残酷な顔面になってたよ。そんな顔して営業したって仕事とれないよって声かけたら、そのうち仲良くなった」
「え、仲良くなったんですか? 夏目さんのせいで振られたのに?」
「うん。夕食に誘われたよ」
なんだかもう、訳が分からない。分からないけど、それがこの人の特技でありこの人の持つ魅力なのだろう。私はキーボードに手を置いて、夏目さんを一瞥した。
「遠藤さんのケアをしてくれたのは助かりますけど、その話、あとでもよかったですよね。私、今仕事中なので、邪魔しないでくれます?」
「ほらまたそうやって冷たくする! もっと愛されキャラを演じないと損するよ」
私の背後から覆い被さって、構ってほしがる。鬱陶しい夏目さんをあしらいながら、キーボードを叩いていると、私の元へ駆け寄ってくる気配があった。
「桐谷さん、夏目さんにはお世話になってるんだから、そんな態度取っちゃだめだよお」
鼻にかかった声で媚びるのは宮田さんだ。彼女はさり気なく、夏目さんのスーツの袖を握った。
「夏目さんのお陰で、記事のアクセス爆発的に増えたんでしょ? もっと感謝しなきゃ」
それを言われると、私は夏目さんに頭が上がらない。
先日、ウェブマガジン『キラメキTODAY』の私の担当した記事が、ネット上で話題になったのだ。仙崎先生の絵画教室を取材したときのもので、記事内にふんだんに使われた写真が人目を惹きつけたのである。もっとも、仙崎先生の絵や子供たちの表情など被写体もよかったわけだが、あの絵の美しさと絵画教室の和気藹々とした空気のギャップ、それを最大限に引き出した写真は素晴らしかった。ウェブマガジンの記事用にしておくのが勿体ない完成度だった。おかげで記事は過去最多のアクセス数を記録し、仙崎先生の絵画教室にも問い合わせが増え、会社宛に感謝の手紙が来た。
一時はサービス終了すら視野に入れられていたメディアだったが、この一件で見直されてきた。これ以外の記事にも読者がつき、PVは右肩上がり。写真が変わっただけでこれほどの効果を生み出した夏目さんは会社に注目されはじめ、上司と直接会い、そして気に入られた。他の雑誌にも彼の写真を提供してもらえないかという話まで出ているという。故に今日も、会議に呼ばれている。
「分かりますけどね。私だって、夏目さんの写真のファンのひとりですし」
ぽつっと言うと、夏目さんは童顔をふんわり緩めてはにかんだ。彼のほんわかした表情に、宮田さんはコロッと絆された。
「いいな。私も夏目さんと組みたい。せめて私も、椿ちゃんみたいに梨恵ちゃんって呼ばれたい」
「梨恵ちゃん!」
すかさず呼んだ夏目さんの安っぽさに驚愕したが、宮田さんも安い女なので嬉しそうだ。
「やったー! ね、私も夏目さんを下の名前で呼んでいいですか? たしか翔弥さんでしたよね。じゃあ翔ちゃんとか……」
口に含んだコーヒーを吹きそうになった。夏目さんを下の名前で呼んだことは、私でもまだない。
夏目さんはあははと高く笑って、袖を掴んでいた宮田さんの手を払った。
「それだけは勘弁して。いちばん嫌いな呼び名だから」
*
夏目さんがとある高校のホームページを見ていたのは、その日の夜である。ホームページを目の端に入れた私は、ぱちんと手を合わせた。
「あっ、閃いた。今度の取材、高校生にしようかな。フレッシュな感じでよさそうじゃないですか?」
相変わらず汚い仕事部屋で、彼は椅子をこちらに向けた。
「高校生? 記事になるような注目度の子を探すの? いる?」
「いますよ。今まさに夏目さんが見てる、そのページの子とか」
夏目さんにパソコンに表示される、にっこり笑ったジャージ姿の少女。ページにはでかでかと、「部長・飯倉真帆、全国高校生陸上大会優勝」見出しが掲げられていた。
「この実力のある子を取材するなんてどうでしょうか」
しかし夏目さんは苦笑いを浮かべ、私からマウスを奪い返した。
「いいとは思うけど、この子以外の子にしてくれるかな」
「なんでですか?」
「この子、近々死ぬだろうから」
直球な返答に、私は言葉を失ってしばらく固まった。夏目さんが難しい顔で脚を組み直す。
「折角記事を書いても、この子が死んじゃったらお蔵入りになっちゃうでしょ。仮に掲載されたとしても追悼記事みたいになって意味合いが変わっちゃうんじゃない?」
「この飯倉真帆って子……自殺志願者なんですか? 夏目さんのサイトにいるんですか?」
こんな明るい笑顔を見せる快活そうな女の子が、まさか。訊くと夏目さんは、首を横に振った。
「いや、志願者はこっち」
夏目さんはマウスをカタカタ鳴らして『今日のスイッチ』を開いた。真っ先に目に飛び込んできたのは、見慣れたハンドルネームだった。
「社長……」
『恋愛相談室』で仲良くなった、社長。その社長の日記ページだった。
「椿ちゃん、最近は恋愛相談室ばっかりで日記とか他の掲示板とか、全然見てないでしょ。結構よく書き込んでるんだよ、社長さん」
夏目さんが席を立って私に椅子を勧めた。私は座ってマウスを受け取り、読みはじめた。
『経営していた小さな工場が破綻してしまいました。家族にはまだ言えていません』
「社長、工場の社長だったんだ」
お金で悩んでいるのは聞いていたが、工場の経営までは知らなかった。読んでいると、夏目さんがベッドに転がりながら嘆いた。
「『恋愛相談室』で雑談してたのに、気づかなかったんだね。自殺志願者の周りの人間が『なんで相談してくれなかったの』って逆ギレするの、そういうことなんだろうな。隠すのが上手な社長みたいな人、察しが悪い椿ちゃんみたいな人……両方に理由がある」
「で、社長と陸上部部長の真帆ちゃんとどう関係があるんですか?」
「無視かよ」
夏目さんが壁の方を向いて小声で零し、それからこちらに顔を向けて答えた。
「社長の本名は飯倉邦夫。飯倉真帆部長のお父様です」
「え! 社長、家族とのギクシャクでも悩んでるって言ってました。娘さん、真帆ちゃんだったんですね」
「うん。でね、飯倉元社長の希望が一家心中なんだよね」
夏目さんが枕に顔をうずめて、もぞもぞと話す。
「社長は今まで以上に、本気で死ぬ気でいる。真帆部長が死にたくなくても飯倉元社長が家族と一緒がいいって言うんだ、気の毒だけれど、娘さんも巻き添えでしょ」
「そんな、あんまりです」
私は布団にうもれている夏目さんを非難した。
「私、社長が死ぬのも真帆ちゃんが死ぬのも嫌です。分かってるなら、止めましょうよ」
「止めましょうで止まるものじゃないって、椿ちゃんももう分かってるでしょ」
自分のサイトの中で人が死のうとしているのに、夏目さんはドライだ。この人はいつもそうだ。経理おじさんこと鹿島さんのときだって、死んでしまうのを知っていて、事後に現場の写真を撮りに行った。人の命を、なんとも思っていないのではないか。
私は社長の日記にコメントを書き込もうとした。死なないでくれと、なんとか説得しようとした。しかし夏目さんの言葉が私を止める。
「そういうのがいちばん人を殺すって、前に話したよね」
ふんわりした声なのに、私の手を止めるには充分な圧があった。そうだ、学習したはずだった。『死にたい』感情は強い。生半可な覚悟ではないから、他人の言葉では揺るがない。どれだけ考えたか分かってもいない他人である私が、彼の決意を全否定したところで、ただ傷つけてしまうだけ。
「これは社長自らの判断なんだよ」
夏目さんは小さく唸った。
「このまま借金苦に喘ぎながら生きるより、愛する家族と共に終わりを迎える方が幸せだって。この人の人生は、僕ら他人からは想像できない。したがって、幸せの定義も、彼自身が決めるんだ」
私は思わず、息を呑んだ。なにがなんでも生きているのが幸せだなんて、私も思わない。なにが幸せかなんて、どんな最期を選ぶのかなんて、他人である私が押し付けていいものではない。言い返せない私を一瞥し、夏目さんはもぞもぞと布団に包まっていく。
「そりゃあ本当は、全員の賛成あっての心中が望ましいんだけども」
「自殺に『望ましい』とか言わないでほしいですけど……」
布団の塊がくぐもった声を出す。
「そういうわけだから、真帆部長の取材はやめてね」
「いえ、むしろ話したくなりました。社長に直接会って、助けられるなら助けたいです」
夏目さんの言うとおり、幸せの定義は社長本人にしか決められない。でも、工場の借金苦や家族とのやりづらさも、解決できるかもしれない。そうしたら、死ななくてもよくなる。幸福な人生をやり直せるかもしれないのだ。
「そもそも真帆ちゃんの意思に関係なく死なせるのは絶対おかしいです。かといって真帆ちゃんを遺すのもかわいそうだし、父親も自殺なんてさせるべきじゃありません。親子ともども、未来に向かって立て直していくべきです」
私の声に、夏目さんが布団の中からぽこんと頭を出した。
「それは社長と真帆ちゃんを想っての発言? それとも、他人の命を救う正義の味方になりたい自己愛?」
ぼさぼさになった髪を掻きながら彼は首を傾けた。
「なんて質問をしたら、前者だと思いたいものだよね。エゴなら尚更、世のため人のためを主張したいものだ。本心は無意識、自分にだって分からないものだしね」
夏目さんはまた、ばさっと布団の中に潜り込んだ。
「なにそれ、そのとおりかもしれないけど、なんかむかつきます」
「ごめん、眠いだけ」
それだけ言って夏目さんは静かになった。
不摂生な生活をとる彼は、本能のままに眠いときは寝る。唐突に寝る。先程の夏目さんの発言を頭の中で反芻する。社長の無理心中を止めたいのは、私のただのエゴなのか。親しくなった社長に幸せになってほしい、そう感じるのが自然ではないだろうか。それでも私がしようとしたことは、単に彼から「死」という逃げ場すら奪おうとする行為になるのか。
私はまたパソコン椅子に戻った。キーボードを叩き始めると、眠りかけていた夏目さんがもぞもぞぞ起き出す。
「椿ちゃーん、僕の話聞いてた?」
「聞いてましたよ、だから、直接社長にはコメントしません」
『今日のスイッチ』の社長の日記を読み返す。
「でも真帆ちゃんには接触します。なにができるか分からないけど、このまま無視なんてできません。彼女に直接会って話せれば、社長を救うヒントを得られるかもしれません」
もちろん、難しいのは分かっている。取材の名目で近づいたところで、真帆ちゃんからしたら私はただの記者で、家庭の事情にまで踏み込める立ち位置ではない。それでも自殺以外の、もっと平和な解決策が見つかるかもしれないなら、この一縷の望みに賭けたい。
私の横で、夏目さんが気だるそうに唸る。
「あのね椿ちゃん。君がそうして動いた結果、結局社長も真帆ちゃんも死んじゃったら、傷つくのは椿ちゃん自身なんだよ。止められなかった、或いは、自殺を後押ししちゃったって、自分を責めてしまう。こういうのは、なるようになるんだから、他人が手を加えるものじゃないんだよ」
「でも私、ここでなにもしなかったら、そっちの方が後悔します。あのとき私が声をかけていれば、って、一生悔やんでしまいます」
エゴかもしれない。自己満足かもしれない。でも、なにもしないわけにはいかない。
「夏目さんだって、そうじゃないんですか? 死にたいと感じている人がここにいて、これからどうするのか分かっているのに、放っておけますか?」
「僕は……」
夏目さんはなにか言いかけて、途中で口を噤んだ。そして目を伏せて、ため息をつく。
「分かったよ。もうどうなっても知らないからね」
夏目さんを無理やり納得させ、私は日記に戻った。社長の日記からは、怒りや悲しみより疲れが滲み出して見える。
『娘とは、一緒にいて息苦しさを感じます。妻が亡くなって以来、まともに会話をしていない。よかれと思って再婚しましたが、余計に嫌われた気さえします。まるで不潔なものでも見るかのように、私たちから離れていく。高校卒業後の進路も、私たちには相談もなく自分で決めたようです』
『恋愛相談室』で話していても気がつかなかった、家庭環境が見えてくる。私はぽつっと、感想を洩らした。
「再婚かあ。真帆ちゃんからしたら、複雑な気持ちもあるんでしょうね」
「真帆ちゃんが小学生のときに、産みの母親が亡くなったんだっけか」
夏目さんはもう社長の日記に目を通しているようで、彼の環境をおおまかに把握していた。彼は整理するように口にする。
「現在、家にいる母親が産みの親じゃなくて再婚相手。飯倉元社長と真帆ちゃんは、血が繋がってるんだよね。うーん、篠宮事件の家族構成を彷彿させるね」
「篠宮事件?」
私が聞き返すと、夏目さんが意外そうに言った。
「あれ、知らない? ちょっと名の知れた未解決事件だよ。忘れもしない、僕が十六のときだから……十五年くらい前かな」
私は黙って聞いていた。
「篠宮さんっていう家で起きたから、通称『篠宮事件』。ちょうど飯倉家と同じ、父母娘の構成の三人家族で、でも父親は正確には母親の内縁の夫でさ。で、その男と母親が死んじゃって、たまたま静岡のおばあちゃんの家にいた娘のこずえちゃんは、帰ってきたら家が惨劇。かわいそうにひとり、残された」
なんだろう。
「篠宮こずえ……」
なんだろう。
なんだか無性に胸糞悪い話だ。
「男の胸には心臓をひと突きした傷があって、撲殺されてる女は手に包丁を握ってた。刃の形は男の傷と一致。殴られた女が抵抗して刺したと考えるのが自然だけど……」
「やめましょうか、この話」
私は咄嗟に、声を張り上げて彼の話をぶち切った。夏目さんが子供みたいにむくれる。
「君から聞いてきたくせに!」
ごめんなさい。だがどうしても、聞きたくなかったのだ。
「でも、なんで椿ちゃんが篠宮事件を知らないんだろうね。あんなに話題になったのに。中学生でしょ、もうニュースの中身くらい分かる歳頃だよね」
夏目さんがまっすぐ私を見据えてきた。たしかに、こんな大きなニュースになりそうな事件をこの歳まで知らずに生きてきたのは不自然だ。だが知らないものは知らないし、聞きたくもない。私はなんとなく、目を背けた。
「中学生くらいまで、記憶が曖昧なので」
「そういえばそうだったね。学校行事の記憶がなかったりとか」
「ええ。多分、高校に上がる前くらいのタイミングで、頭をぶつける怪我でもして記憶が飛んだんですよ。それも覚えてないですけどね」
私は髪を掻き上げるついでに、こめかみの傷を撫でた。
*
真帆ちゃんを訪ねた日、グラウンドからは激しい怒号が響き渡っていた。
「大会まで三ヶ月しかないんだよ。強豪校はもっと前から練習詰めてるの!」
体育着の上にジャージを羽織ったポニーテールの少女が、鬼の形相で後輩を叱り付けている。後輩生徒は怯えて小さくなっていた。私の横で、夏目さんがわあ、と感嘆する。
「あれが真帆ちゃんか。強気な子だなあ」
私が真帆ちゃんの取材に反対していた夏目さんだったが、こうしてついてきている。真帆ちゃんは、近くにいた同級生が宥めに入ってもさらに声を荒らげた。
「個人戦だからあんたがどんな順位だろうと私には関係ないけど、校名に泥塗らないで」
「ちょっと真帆、言い過ぎだよ」
「だってこの子が練習サボるから」
私と夏目さんの一歩手前で、老紳士風の先生がため息をつく。グラウンドを案内をしてくれた、陸上部顧問の先生である。
「すみません……飯倉は真面目故にああなりやすいんです」
グラウンドでは真帆ちゃんが荒れ、後輩生徒はぐずって立ち尽くしていた。止めに入った生徒は結局なにをするでもなく狼狽しているし、他の部員は黙って下を向いている。とんでもない修羅場のタイミングだったようだ。
楽しそうなのは夏目さんだけだ。
「いいねえ、あのキレっぷり。ああいうの大好きだよ」
人が感情を剥き出しにしているのを見ると、夏目さんは喜ぶ。
気まずい空気の中、顧問の先生が真帆ちゃんに声をかける。
「飯倉! 取材の方が見えたぞ」
「はあ、はいはい」
真帆ちゃんは面倒くさそうにこちらを振り向いた。彼女が部員たちの中から離れると、他の陸上部員が真帆ちゃんの背中を見てひそひそ話をはじめた。
「真面目なのはいいけど、真帆はプライド高いから自分の主張を絶対曲げないんだよね。社長令嬢って感じ」
「社長令嬢ったって、あの飯倉部品工業でしょ。もう潰れたんじゃなかった?」
部員の声は多分、本人にも届いていただろうが、彼女は全く取り合わず強かに立っていた。
「すみません飯倉さん。お忙しいところお時間をいただいて」
私が頭を下げると、真帆ちゃんは気難しそうな顔をふっと緩めた。
「そんなに畏まらないでよ。真帆でいいよ」
それから私たちは、校舎の中の面談室に通された。真帆ちゃんと顧問の先生と、私と夏目さんでテーブルを挟んで座る。真帆ちゃんが背もたれに体重を預ける。
「なんでも訊いてよ」
「よろしくお願いします。桐谷と申します。早速ですが、真帆さん、全国優勝おめでとうございます。どんなお気持ちでしたか?」
メモを取り出して訊くと、真帆ちゃんは準備していたかのようにあっさり答えた。
「嬉しかったけど、内心ちょっと微妙。どうせ陸上やめるのに、なんだかなあ、みたいな」
これは、ちょっと意外な返答だ。
「陸上、やめちゃうんですか? じゃ、真帆さんは将来、陸上を極められる学校への進学や、スポーツ関係のお仕事に就きたいとは考えてないんですか?」
「だって大学とか専門学校行くの、面倒くさいしお金かかるんだもん。あたし程度の才能なんてざらにいるよ。調子に乗ってそれを仕事にしようったって倍率高くて無理でしょ」
あんなに部活に真剣な真帆ちゃんが、そんなことを言うなんて。少し驚いたが、将来を見据えて真面目に考えている彼女は、漠然と大学に入ってやりたいことを見つけないまま卒業するよりよっぽどしっかりして見えた。
「飯倉の才能は非凡なんだけどな」
顧問が呟いたが真帆ちゃんは聞き流した。
「もう進路の希望も出したんだ。スポーツ関係ない地元企業で、会社員として働く。スポーツはまあ、やれれば趣味で続けてく」
そう言ってから彼女は肩を竦めた。
「ごめんね、こんなつまんない話で。夢を追う若者の方が、いい記事書けるよね。記事には、私はオリンピックを目指してるって書いていいよ」
こちらに妙な気遣いをし、真帆ちゃんは自嘲的に言った。
「これ、『キラメキTODAY』の取材でしょ。うちの部員にも読んでる子いるんだ。だからつまんない記事にしたくない。ライターさん、なんかいい話にしといて。面白く書けるなら本当のこと書いてもいいけど」
その後も、真帆ちゃんはやけに達観した様子で私の取材に応じた。取材をひととおり終えて、私たちが面談室を後にしたのは、三十分程度後のことだ。
グラウンドに鬼の部長が再び姿を現すと、部員たちは一瞬ざわついてすぐに静まり返った。「鬼のいぬ間に」という言葉が私の頭を過ぎる。私は、練習に戻ろうとする真帆ちゃんを引き止め、メモ帳を引きちぎって手渡した。
「私の携帯の番号です。今後また連絡するかもしれないので、連絡先を交換してもらえますか?」
真帆ちゃんは無言で、メモ用紙を受け取った。彼女にペンを差し出すと、真帆ちゃんは走り書きで携帯の番号を書き、私に返した。
周りの部員たちのそわそわした様子など意に介さず、真帆ちゃんは堂々と練習へと戻った。
*
「真帆ちゃん、なかなか強かな子だったね」
取材のあと立ち寄った喫茶店で、夏目さんがご機嫌な様子で言った。
「あのなにをも恐れない立ち振る舞い。潔さ。ちょっと勿体ない感じもするけど」
「お父さんの会社の事情を考えて、進学を諦めたのかもしれませんね」
私は注文したシナモンコーヒーを啜った。夏目さんが頷く。
「なんだかいろんなことを諦観してる感じがあったもんね」
部員に怖がられようと、真帆ちゃんは堂々としていた。「泣かすつもりはなかった」とか、そういった言い訳もしない。あれは自分がどう振る舞おうと他人は変えられないのだと、諦めているようにすら見えた。取材中も、本音を語りつつ、面白くなるように嘘を書いてほしいなどと言う。世の中は建前やら虚像やらで脚色されていると、開き直っているみたいだった。夢を見ないで現実に向かい合うのも、彼女のそういう性分の表れかもしれない。
夏目さんがノートパソコンを開いた。
「さてと。飯倉社長の様子でも確認しとくか」
その名前を聞いて、気分が重くなった。
真帆ちゃんは、父親が自分を巻き込んで死のうとしているのを知らない。真帆ちゃんはああして、諸々を受け入れ、諦める子だ。父親に殺されてしまうそのときも、死を受け入れてしまうのだろうか。
途中まで考えてから、首を振る。いや、私はこの親子を死なせたくない。社長に考え直してもらうためにも、策を練らなくてはならない。
私も、自分のパソコンの電源を入れた。真帆ちゃんの記事を書く準備だけでもしておこう。と、ふと思い出して、私は動画サイトにアクセスした。パソコンにイヤホンを繋いで、『三枝琴里・恋の鳥籠』で検索をかける。ソラがこの曲を聴いてほしいと書き込んでいたのを思い出したのだ。クリックしてみると、数週間前に放送されていた歌番組の画面が映った。先日見たものと似たナース服風の衣装で、琴里さんが司会者と話している。
あれ以来さとこは現れないままだし、社長の日記も追えていなかったが、ソラとはかなり打ち解けてきている。今では呼び捨てで呼び合う仲だ。雑談を重ねる中で気づいたのだが、ソラはどうも私と同じく、東京在住のようだ。彼女を愛してやまないという人は、大企業に勤める会社役員、五十代の男性らしい。そんなソラが、恋人との関係を表現するにあたってタイトルを出したのが、この曲だった。
イヤホンをつけて観ているのが気になったのか、夏目さんが椅子を立って私の横にやってきた。画面を覗き込んで、彼は動画のタイトルに目をやった。
「この曲、ドラマの主題歌らしいね。この子の歌、興味ある?」
「ええ、ソラの紹介なんです。ほら、恋愛相談室のスレにいる人」
司会者との会話を終え、琴里さんがステージに上がった。
「彼氏さんととっても仲がいいそうで、この曲の歌詞みたいな関係だって自慢するんですよ」
私が苦笑すると、夏目さんは、えっ、と呟いて眉を顰めた。
画面の中の琴里さんがマイクを手に歌いはじめた。
僕だけの美しい小鳥、どこにも飛んで行かないで
僕の傍を離れないで
もしも僕の元を離れようとするならば、その翼をもいであげよう
僕の鳥籠から逃がさない……
「こんな歌詞みたいな関係?」
夏目さんの真剣な表情がパソコンの光に当てられている。
「この歌は、恋人を異常に愛しすぎた人が相手を束縛する歌なんだって。それが愛する人の幸せだと信じ込んでね」
琴里さんの澄んだ歌声が、ぞわりと背中をあわ立たせた。
「ソラちゃんと彼氏の関係がこれなの? 本当なら気持ち悪い彼氏だね」
夏目さんの言葉に目が泳ぐ。
「まさか……比喩だと思いますよ」
私は動画を停止させた。
「そのくらい愛されてるって意味ですよ」
「だといいけどね」
夏目さんはにこりと口角を上げて、席に戻った。
私は、夏目さんにはああ言ったものの、無性に嫌な予感がしていた。ただの大袈裟な比喩だと信じたい反面、ソラの「彼から愛されていることが悩み」という書き込みが嫌な仮説を裏付ける。
動画サイトを閉じて、『今日のスイッチ』へアクセスし、恋愛相談室のページを開く。画面をスクロールして遡り、ソラの書き込みを読み返した。監禁や束縛、そういった気配を見落としていないだろうか。
読み返してみても、ソラの書き込みはいたって平凡なものだった。さとこや社長が愚痴めいた書き込みをして、ソラがそれを慰めている。彼女自身が悩んでいる様子は見られない。
しかし私はふと、気がついた。
『ソラ:誰もいない?』
『社長:お待たせ。今、ログインしました』
『社長:このスレッド、「恋愛相談室」なんでしたね。ソラさんは、恋愛の悩みはないんですか?』
『ソラ:しいて言えば、愛されすぎてること。彼は私をとても大切にしてくれるので』
『ソラ:テーマソングをつけるとしたら、三枝琴里さんの『恋の鳥籠』! 明後日の夜八時から、生放送の歌番組でコトリンがこの曲を歌うんです』
「誰……だれ、『だ』、『し』、テーマソングの『て』」
ソラの書き込みの最初の一字を拾うと、「出して」と読める。いや、しかし不自然な文脈ではないし、偶然かもしれない。私はさらに前の日の書き込みも、一字目だけ繋げて読んでみた。
「か、ん、し、さ、れ、て、る。け、い、さ、つ、こ、な、い」
そして私とソラが初めて出会った日。
「た、す、け、て」
読み上げる私に、夏目さんが静かに目を上げる。
私は思わず頭を抱えた。気のせいではない。ソラはずっと、私にSOSを送ってきていたのだ。なかなか気がつかない私に、琴里さんの歌という分かりやすいヒントまでくれたのに、私ときたら、ようやく意味を理解した。
再び、夏目さんが椅子を立った。私の横に来て、マウスを横取りする。私に代わって画面を操作し、ソラの日記ページへと飛ぶ。コーヒーやお菓子の写真など、自殺系サイトになっているこのポータルサイトでは珍しいくらいに平和な日記が投稿されている。しかしよく見れば、『恋愛相談室』と同じく縦読みが仕込まれている。『恋愛相談室』より長い文章を書き込める分、縦読みメッセージも長くなっていた。
『このにっきもよまれてる』『DVそうだん、だんたいにれんらく、わたしのひがいもうそう、おいかえす』――日記の文章は至って幸せそうな日常なのに、隠されたメッセージは恐ろしいものだった。彼女の行動は監視されていて、相談できる団体に問い合わせても、彼氏なる男によってソラの被害妄想ということにされて、救助に来る人を追い返してしまうと読める。
ふいに夏目さんが、ソラの日記に埋め込まれた写真にカーソルを当てた。
「これが気になるな」
テーブルに置かれたネックレスの写真だ。夏目さんがカーソルを置いた場所は、端に写り込んだ封書らしきのもである。封書自体の左角、切手の一部だけが写っている。
「ネックレスとは関係ないものなのに、どうして写真を撮るとき退かさなかったんだろう。写真のノイズになるじゃないか」
「ソラの写真って、いつもこういう感じでなにか写り込んでるんです。もしかしてこれもなにかのメッセージでしょうか。正確な住所を割り出すヒントがあるとか」
私も目を凝らして、封書に注目した。しかし写っているのは切手のみ、それすら欠けて、切手の端しか見えないのだから、住所どころか消印すら読み取れない。
私は夏目さんからマウスを取った。この一日前の日記の写真を見ると、お菓子の写真の端っこに値段のシールが見切れて写っており、ネックレスと切手の次の日の日記には、やはりメインに写っているネイルとは無関係のキッチンタイマーが写っている。
「もしかして、数字かな」
夏目さんの言葉に、私はあ、と呟いた。そういえば、この変な写り込みは共通して数字が入っている。お菓子の横の値札は金額の末尾の五、切手の九、キッチンタイマーはゼロ秒。その翌日の日記にはチラシが、さらに次の投稿にはカレンダーが、次の日は時計が、中途半端に写り込んでいる。それも、ひと桁だけ数字が見えるよう、微妙に見切れて。
見つかった数字は全部で六個あった。だが、なんの数字なのかが分からない。ソラにはっきり訊きたいくらいだが、彼女はこれまでもストレートには助けを求められないくらい、徹底的に監視されている。私とのやりとりも監視されているとなると、直球に訊いたら彼女がこうして暗号を用いた意味がなくなる。
いつの間にか、夏目さんが私からマウスを取っていた。彼はさらに日記を遡り、へえ、と呟く。
「数字の意味が分かったかも。椿ちゃん、メモ用紙、一枚頂戴」
夏目さんに言われ、私はわけも分からずメモを差し出した。夏目さんは日記を振り返りながらそこになにか書き出し、メモをカメラバッグに忍ばせてにっこり微笑んだ。
「椿ちゃん、この件は僕に預けてくれるかな。解決するまでソラちゃんと関わらないでもらえるとありがたい」
しばらくソラと話せないのか。仲良くなってしまっただけに、少し寂しい。でも、それがソラのためなら。
「……分かりました。でも夏目さんになんとかできるんですか?」
「完全に管轄外だよ。とはいえこのサイトに来た以上は僕のお客さんだ。やってみる」
夏目さんが席に戻り、自分のパソコンを見つめはじめた。私もキーボードに手を添えたが、そのまま手は動かなかった。
*
三日後の夕方、私は職場で記事を書いていた。あれきりソラとは話していない。社長がどうなったかも、分からない。『恋愛相談室』を覗いても、更新がない。夏目さんからソラと関わらないよう言われているので、私から書き込みもしなかった。
記事の文章に煮詰まり、一旦手を止める。給湯室でコーヒーを淹れて、休憩する。検索エンジンを開いて、文字を打ち込んだ。
『篠宮事件』
私は完全に忘れているのに、夏目さんがやけに詳細に覚えていたその事件が気になって仕方ない。考えるだけで背中がぞわぞわと気味悪くあわだつのに、どうにも惹きつけられてしまう。
そっと「検索」をクリックする。検索結果がいくつか表示された。いちばん上に表示されている、未解決事件をまとめたサイトへアクセスした。事件の概要が記されたページが表示される。
一九八九年七月二十日、東京都××区で女性とその内縁の夫と見られる男性が遺体で発見された。
女性は頭部に打撲痕があり、男性は胸に包丁が刺さった痕があった。包丁は女性の遺体が握っていた。女性には身体じゅうに殴られた痕があり、男性に日常的に暴力を振るわれていたことが分かった。今回もその暴力の末に、抵抗しようとした女性が包丁を持ち出したと考えられた。
気分が悪くなってきた。
内容の殆どを読み飛ばし、最後の一文に目をやる。
また、女性には当時中学一年生の娘がいたが、娘は事件前から静岡県の祖母の家に泊まっており、帰宅後、その凄惨な現場を発見したという。
なんだろう。胃の中が気持ち悪くなる。画面からそのページを畳んで、コーヒーを飲み干した。
もう一度、書きかけの記事に戻る。真帆ちゃんの記事だ。私は画面とにらめっこしたのち、携帯を片手に席を立った。オフィスを出て階段を上り、屋上のドアを開ける。冬の冷たい風が頬を刺す。時刻は四時過ぎ、もう外は暗くなりかけていた。
私は白い息を吐いて、握っていた携帯を掲げた。真帆ちゃんにもらったメモの番号を打ち込んで、耳に当てる。部活の真っ最中かなと思ったのだが、彼女はすぐに応答した。
「桐谷さん?」
「うん。突然ごめんなさい。真帆ちゃん、今、どこにいますか? 電話、大丈夫?」
お父さんはどうしているのか、様子だけでも聞きたかった。真帆ちゃんが面倒くさそうに返す。
「家にいる。話すのはいいけど、取材で言ったことが全てだよ」
「うん」
「私が話したままに記事を書くか、夢を追う若者の物語を書くか、決めた?」
どこか皮肉っぽく、彼女は問いかけてきた。私はうん、と呟く。
「進学しないで、自分で働いて、お金を稼ぐって言ってましたよね。それって、なにか理由があるんですか?」
「なにが訊きたいの?」
真帆ちゃんの方から、訊き返してきた。それから自分で先回りする。
「まあ、桐谷さんは記者さんだもんね。あたしの身の回りのこと調べてるでしょうから、うちの工場の状況も知ってるよね」
自虐的な声色で、彼女は言った。
「なるほどね。経済状況が理由で夢を諦めた、悲劇のヒロインの美談を書きたいんだね。その裏づけのために、この電話をかけてきたと」
なんだか、棘のある言い方だ。だがこの子がこういう感じなのは、先日会った感触で分かっている。真帆ちゃんはいろいろなことを諦めているから、他人に期待していなくて、見下したような言い方をする。
「そんなつもりはありません。私はただ、真帆ちゃんの本当の気持ちを知りたいんです」
「本当もなにも、あたしは最初から、嘘なんてついてないし」
彼女は息を吐き出すように、ゆっくり言った。
「お父さんも、お母さんも、全部あたしが守る」
それは、私に言ったというより、決意表明のように聞こえた。私はフェンスに寄りかかり、訊ねた。
「高卒で就職するっていうのは、お父さんの会社を立て直すため?」
「まさか。あんな会社、もっとさっさと潰れちゃえばよかった」
真帆ちゃんがため息まじりに笑う。
「お父さんが大事に守ってきた会社なのは知ってる。あんなものにこだわってたばかりに、お母さんに苦労させて、それでもまだ固執して……あの会社が、お父さんの人生そのものだったんだって、分かってる」
冷気が髪を撫でる。遠くの空に星が見える。
「でもあたしには要らないよ。あんな……お父さんを苦しめるだけの会社なんて」
「うん」
「あんなのなくたって、もっと別の場所で仕事して、もっと大事なもの見つければいいんだから。お父さんが安心して新しい仕事探せるように、あたし、いっぱいバイトするし、卒業したら就職する。産みのお母さんを思い出にするつもりはないけど、新しいお母さんとも仲良くやるよ。あたし、頑張るから……」
語尾だけ少し、震えていた。私はこのときようやく、真帆ちゃんの気持ちがちょっとだけ分かった気がした。
「ごめんなさい、真帆ちゃん。私、勘違いしてた」
真帆ちゃんの言うとおり、経済状況が理由で夢を諦めた、悲劇のヒロインなのだと思っていた。やりたいことを我慢して、夢も、自分の環境も、他人が変わらないことも、諦めているのだと思ったのだ。けれどこの子は、自分で運命を変えられるときは、諦めないのだ。かといって夢見がちなわけではない。自分にできることを現実的に考えて、ひとりで地道に、策を練ってきたのだ。この子の夢は、陸上の世界で生きることではない。家族の幸せが、叶えたい夢なのだ。
と、そのときだ。携帯の向こうで、真帆ちゃんがいきなり大声で叫んだ。
「わあっ! お父さん!? いつからそこに……えっ、どこから聞いてたの!?」
ゴト、とノイズが入って、真帆ちゃんの声が遠のく。どうやら携帯を置いたらしい。遠いけれど、真帆ちゃんの声は大きいので音が拾われてくる。
「ちょっ、泣かないでよ! 分かった、分かったって。はあ!? 死のうとしてた!? お父さんがバカなの知ってたけどそこまでバカだったとは……」
真帆ちゃんの怒声に、私はつい、ふっと笑いがこみ上げた。切れていない通話を切ると、突き抜けて洩れていた少女の声が止まり、屋上に静寂が戻った。
他のことが全てどうでもよくなるような、安堵と達成感だ。私は携帯をスカートのポケットに入れて、オフィスに戻った。
*
その日、夏目さんのアパートへ赴くと、彼はパチパチと拍手をした。
「すごいよ椿ちゃん。まさか本当に、社長一家の心中を止めるとは」
あのあと、社長のマイページに新着日記がアップされた。偶然、愛娘の本音を聞いて、彼女が前向きに家族を守ろうとしているのを知ったのだという。社長も、会社以上に大事なのは他でもない娘なのだと、娘本人に話したそうだ。会社に執着しなくなった彼のハンドルネームはもう「社長」ではなくなり、「元・社長」になっている。
一家心中を止められず、罪悪感に苛まれる結果になる……という夏目さんが予想していたシナリオは、見事回避されたのである。
「いや、一家心中を止めたのは私じゃなくて真帆ちゃんですよ。私が電話してなかったとしても、真帆ちゃんは多分そのうち、お父さんに自分の気持ちを話したはずです」
「分からないじゃないか。『明日話そう』と思っていた夜に寝ているうちに殺されちゃってたかもしれない。君が救ったんだよ」
夏目さんの飾り気のない激励が面映い。私は目を伏せて、唸った。
「夏目さんも、これからはそうしましょうよ。あなたはいつも、死にそうだって分かっている人がいても、自分が止めることじゃないって言って放っておきますけど……こんなふうに、助けられる命もあるんです」
自殺系サイトを見ていれば、死にたい人はわんさかいる。全員に声をかけるのは困難でも、ひとりくらいは、こうして助けられるかもしれない。それが、社長の一件で証明されたのだ。今まで動かなかった夏目さんも、これを機会に考え方を変えてくれたら。
夏目さんの、私を見る目が少し、冷たくなった。
「僕は……」
ぽそっと、でもはっきりと、彼は言った。
「僕は、助けたいなんて思ってない。社長が家族と見る、最期の景色を知りたかった」
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