4・偶像崇拝の副産物(島田里子の場合)

「桐谷さん、好きです。俺と付き合ってもらえませんか」

 会社の新年会。二次会が面倒で、そそくさと帰ろうとしたときであった。

 逃げ帰る私をわざわざ引き止めたその男は、酔った勢いに任せてそう言った。私は少しの間考えてみたが、結局理解が追いつかなかった。

「へ!?」



 年末年始のばたばたする時期を乗り越え、落ち着いてきた頃である。とある夕方、私は夏目さんの仕事部屋を訪れ、ベッドに腰掛けてノートパソコンを見ていた。この頃は、仕事のあとにこうしてここに来るのがすっかり日課になっている。

「夏目さん、私、告白されました」

「ふうん、なにを?」

 夏目さんがパソコンのキーボードを叩く。

 正月は一緒に過ごそうなどと言っていたくせに、いざ正月に訪ねてみたら留守だった。あとで訊いたら、仕事に出かけていたという。先に言わないのが夏目さんらしい。

「なにをって、好意をです」

「ほう」

 あまりにも興味のなさそうな声色だった。パソコンから目を離さない彼に、私は勝手に続けた。

「先日、会社の飲み会で知り合った営業の遠藤さんから、付き合ってくださいって言われたんです」

「ふうん」

 恋人が他の男に告白されたことを報告しているのだが、随分と冷めているものだ。

「その場では返事を延期しましたが、そうやって冷たくあしらわれると、乗り換えますよ。夏目さんの存在は明かしてませんから」

 ささやかに脅かしてみると、夏目さんはちらとこちらに視線を向けた。

「そっか。じゃ、君は遠藤くんと心中するのか」

 唐突な問いに、私は怯んだ。そうだ、夏目さんとは心中を前提としたお付き合いなのだから、そんな言い方をされるのだ。私は気を持ち直して気丈に答えた。

「いえ、遠藤さんとお付き合いしたらきっと、楽しくて死にたくないです。ていうか、そもそも私は死にたくないです」

「そうかなあ」

 夏目さんは即座に言った。

「遠藤くんはあっという間に君に飽きるだろうから、すぐに捨てられて椿ちゃんは死にたくなっちゃうかもしれないよ」

「なんでそう思うんですか?」

「多分遠藤くん、君の顔が好きなだけだから」

 夏目さんの見透かしたような口調に、私はムッとした。

「夏目さん、遠藤さんのなにを知ってるんですか。会ってすらいないくせに」

「会わなくても想像はつくよ」

 またパソコンに向き直り、彼は淡々と続けた。

「『先日』『会社の飲み会で知り合った』営業の遠藤さんでしょ? それ、君をろくに知らない人でしょ。そんなの、見た目だけに惹かれましたって言ってるようなものじゃない? せめてお友達から始めてほしいよ」

 夏目さんの言うとおり、私は遠藤さんと話したことなど殆どない。正直、顔と名前が一致したのはこの新年会の場だった。夏目さんはカタカタとキーボードを叩く。

「それからこの子」

 パソコンの画面に、黒髪の女性の画像が映し出されている。

「今注目の清純派アイドル、コトリンこと三枝琴里ちゃん。椿ちゃんのことだから知らないと思うけど、ゴールデンタイムで放送してる医療ドラマで初主演してて、かわいいって大ブレイク中だよ」

 マウスをカチカチ言わせながら他の画像も表示させる。

 ふんわり巻いた黒髪から覗く、吸い込まれそうなつぶらな瞳。なにも知らない少女のように無垢なのに、どこか狂気じみた殺意のようなものを感じる。

「ほら、こんなにあどけない目をしてるのにどこか陰があって、なんとなく不気味な感じあるでしょ? 気持ちのいい気持ち悪さというかさ。それが彼女の魅力だよねえ」

「夏目さんって芸能関係もお詳しいんですね。知識の幅が広くて尊敬します」

 皮肉を込めて言うと、夏目さんはニーッと子供みたいに笑った。

「ありがと。でさ、この子、椿ちゃんと似てるでしょ」

 自分ではよく分からないが、そう言われてみればどことなく顔立ちが似ているかもしれない。

「つまり、そのドラマが終わって、アイドルの影が薄くなってきたら、私も同時に飽きられると?」

 先回りした私に、彼は堂々と頷いた。たしかに、夏目さんの言うとおりかもしれない。だが遠藤さんは至って普通のサラリーマンであり、自殺者にこだわる写真家で自殺サイト管理人の夏目さんよりはまともな人間のはずだ。

 そっぽを向いてむくれていると、夏目さんはさらに続けた。

「椿ちゃんって冷静ぶってるわりにすぐ感情的になるし暗いし字は汚いし、遠藤くんの理想のタイプがそれならいいけど、コトリンのようなキャラを期待してるとしたら、ちょっとね。裏切ってしまう結果になると思うんだよな」

「酷い言いようですね。私、夏目さんの彼女ですよね? 一応、名目上は」

 念のため確認すると、彼はパソコンへ視線を戻しながら頷いた。

「そうだよ。けどちょっと葛藤あったんだよね、僕が君と心中しちゃうと、僕も死んじゃうから椿ちゃんと同じ景色は見れても写真に残せないからさ……。ああでも、君の隣で死ねるべストポジションを遠藤くんに盗られちゃうのもなあ」

 なるほど、夏目さんにとって私はその程度の価値だったのか。正月に仕事があるという連絡ひとつ寄越さないくらいだ。

「私を大事にする気がないなら、恋人契約は破談です」

 なげやりになって手元の雑誌を手にとり、夏目さんの頭の上に振りかざした。その瞬間、夏目さんが目をぱちくりさせる。

「大事にしないとは言ってない。僕は椿ちゃんのこと大好きだよ」

「えっ」

 思わず、振り上げた手が止まった。夏目さんは真剣な眼差しを私に向けている。

「根暗なところもすぐ怒るところも、そうやって人を殴ろうとするところも知ってる上で、世界でいちばんかわいいと思ってる。君のためなら死ねるよ。遠藤くんはどうか、分からないけど」

 ゆったりとした口調でそう言い、彼はまたパソコンの方を向いてしまった。

 私はしばらく固まっていたが、振りかざしていた雑誌をゆっくりと元の位置に戻した。

 それが、夏目さんの自殺サイトに『ソラ』が現れる二日前の出来事だった。



「恋愛相談室?」

 夏目さんの仕事部屋で、私は自分のノートパソコンから彼のサイトを見ていた。

「こんなコンテンツ立ち上げたんですか?」

『今日のスイッチ』のトップページに、かわいらしい桃色のバナーが増えている。そのタイトルから、恋愛関係の悩みを投稿し、他のユーザーと意見交換をする場と窺えた。夏目さんが自分のパソコンと向かい合いつつ、微笑む。

「そう。遠藤くんにするか僕にするかで悩んでる人がいたから、そこからヒントをもらって新設してみたんだ。こういうのも面白いでしょ」

 面白がられているのは不愉快だったが、折角なので、バナーをクリックしてみた。『恋愛相談室』のトップには、『恋の悩みで死ぬ前に、誰かに相談してみましょう』と嫌な煽りが掲げられていた。相談内容を投稿するとスレッドが立ち、他のユーザーがそこに返事を書き込める仕様になっている。立ち上がったばかりの新コンテンツだからか、まだ相談のスレッドはなく、私の書き込みが事実上の第一声となった。

『椿:彼氏がいますがかなりの変人です。普通っぽい人から告白されましたが、全然知らない人です。普通の人とお付き合いすべきなのでしょうか』

 サイトの管理人である夏目さんが巡回してくるのは分かっていたが、先日散々言われた腹いせだ。変人くらいの表現をしても許されて然るべきだろう。

 しばらく画面を見つめていると、すぐにレスポンスがついた。

『ソラ:楽しそうなコンテンツができたんですね。はじめまして、ソラと申します。告白してきた普通の人のこと、椿さんは好きですか?』

 ソラ。初めて見る名前だった。

『椿:好きと言えるほど殆ど接点のない人です』

 返すと、ソラはすぐに返事をくれた。

『ソラ: 好きでもないのに、普通だからって理由でお付き合いするのは相手の方に失礼ではないでしょうか。でも、これから好きになれる可能性があるなら、しばらく様子を見るのもいいかもしれません』

 ソラの言葉に初めて、自分が遠藤さんの気持ちを微塵も考えていなかったことに気がついた。

『椿:そのとおりですね。まずは彼を知ってから考えてみます。こんな小さな悩みを聞いてくれて、ありがとうございます』

 打ち込んだところへ、新しいレスポンスが入った。

『ソラ:結構、難しい問題ですから。小さい悩みでも、その後の人間関係に大きく影響します。今の彼氏さんを変人と表現していましたが、本当に危険な人なら、別れた方がいいです』

 驚いた。こんなサイトで、自分の悩みをこんなに親身になって悩みを聞いてもらえるとは。いや、こんなサイトだからこそ、悩む人に真剣に向き合ってくれるのだろうか。

 ちらと夏目さんを見ると、いつもどおりパソコンを見つめてぼうっとしていた。この人のことは知っているようで、知れば知るほどよく分からない。ソラの言うとおり、離れるのも視野に入れつつ、もう少し調べる必要がありそうだ。

 パソコンに視線を戻し、再びスレッドに書き込んだ。

『椿:ソラさんはどうして自殺サイトなんかに?』

 彼女に問うと、相変わらずソラはすぐに返事を寄越した。

『ソラ:適当にネットを見ていたら、たまたまこのサイトに辿り着きました。私は死にたいわけではないんですが、こういうところで誰かの命を救えたらなと思ってます』

「天使じゃん」

 パソコンに向かっていた夏目さんが、急に声を発した。

「サイト内の死にたがりが本物の自殺志願者とは限らないのに、真剣に悩みを聞くなんて。骨の折れる作業だろうね」

 どうやらこのスレッドを見ているようだ。

 ソラはこの書き込みのあと、丁寧に退室を告げた。それを境に、その日はぱったりと音沙汰がなくなった。



 さらにそのその数日後である。

「随分入り浸ってるねえ。そんなに気に入った? 『恋愛相談室』」

 私のパソコンの画面に映っているページは、かの『恋愛相談室』だ。夏目さんに覗き込まれ、咄嗟にパソコンの角度を変えて画面を伏せた。

「別に気に入ってなんかないです。ただ、ちょうどいいから使ってるだけで」

「椿ちゃんの最初のスレッド、もはや君たち専用のチャットルームと化してるもんね」

 彼の言うとおり、私はここ最近、『恋愛相談室』の常連となっていた。といっても、タイトルどおり恋愛相談を投稿しているのではない。私が最初に立てた相談スレッドで、他のユーザーと雑談しているのである。

 変人と別れ、新しく全うな人とお付き合いすべきか――最初にその質問に答えてくれたのは、ソラだった。そのあと、「さとこ」と名乗る人物がやってきて、ソラに同意するコメントを書き込んだ。さらにそのあと、「社長」というハンドルネームの人が迷い込んできてサイトの使い方を教えてほしいと書き込んできた。場違いなところに場違いな質問をしてしまう「社長」は明らかにサイトに不慣れだったので、心優しいソラとさとこが丁寧に教えてあげていた。

 これがきっかけで、私とソラとさとこ、社長は、このスレッドで他愛のない雑談をする仲になっていったのである。

「椿ちゃんって仕事仕事で友達いなそうだもんね。こうして顔の見えない相手と軽い感じでお喋りできるのが楽しいんでしょ」

 夏目さんが意地悪な笑みを浮かべる。悔しいけれどそのとおりだ。ここで出会った三人はいずれも顔も本名も知らない人たちだが、大切な友人だ。ソラは実直で優しく、さとこもいい人で、社長はこんなハンドルネームなのにちょっと頼りなげで、放っておけないかわいらしさがある。

「で、そのお友達も、こんなサイトにいるくらいだから、なにか深い悩みを抱えてる人たちだよね?」

 夏目さんに問われ、私は小さく頷いた。

「ソラはこの間言っていたとおり、人助けをしたくてここに出入りしているだけみたいですが、さとこと社長は、それぞれ悩んでるみたいです」

 友達になったこの人たちをもっと知りたくて、私は三人のマイページを覗いた。さとこは仕事の人間関係に悩んでおり、不特定多数の人の声が怖いとのことだった。社長は、お金の問題や家族間のギクシャクに疲弊している。今すぐ死にたいわけではないが、ふとした瞬間に「死んでしまえたらどれだけ楽だろう」と考えてしまう、と日記に記していた。

「この人たちの悩みは、私には解決してあげられないかもしれません。どこにいる誰なのかも分からないし、分かったところで、どうにもできない」

 私は画面の中の三人の名前を眺めていた。

「でも、こうしてこのスレッドでとりとめのない話題で盛り上がって、ちょっとでも気が晴れたらいいなと思うんです」

 以前、夏目さんが話していた。

『死にたい人ってね、死のうという決意はもう揺らがないんだよ。ただ、今日死ぬか、明日以降にするか、その選択を毎日繰り返している。毎日、明日以降にするなんらかの理由を作って、一日ずつ引き伸ばしてるだけなんだよ』

 もし、さとこと社長もそうだとしたら。「明日もまた、この四人で恋愛相談室で話したいから」――それが「明日以降」を選ぶ理由になるかもしれない。そうだったらいいなと、期待だけしてみる。

 パソコンを見ている私の横に、夏目さんが移動してきた。私の隣に腰を降ろし、じっとこちらを見つめてくる。そして急に、手を差し出してきた。夏目さんの異様に冷たい手が、私の頬に触れ、するりと髪の中に入っていく。私は小さく息を呑んだ。夏目さんの指が髪に絡みつく。

「ん……なんですか?」

 肩を強ばらせる私を、夏目さんの瞳が射抜く。いつの間にか間近にあったその端正な顔に、また、息が止まる。ひんやりした手の甲が私の頬を滑り、髪を優しく撫でた。心臓がどきんと跳ねる。

 彼は人差し指に髪の束を絡めて、くるくると指に巻き、ふっとその指を引き抜いた。

「うん、やっぱりこうすると似てる」

 パッと身体を離して、夏目さんは再びパソコンに飛び付く。

「ね、椿ちゃん、知ってる? 世の中にはさ、同じ顔をした人が三人はいるんだって。だからあとひとりいるね!」

 突然放置された私は、その場でぽかんとしたまま動けずにいた。

「……なんなんですか、一体」

 声を絞り出す。放置した張本人はにこにこしながら言った。

「椿ちゃんも、なんらか違う道を通っていたらアイドルになってたかもしれないんだな」

 そう言って夏目さんが私に見せたのは、パソコンに映した黒髪の女性の画像だった。カメラに向かって微笑むその女性は、たしか。

「ええと、三枝琴里さん、でしたっけ」

「正解」

 開いていたページは、三枝琴里の公式ブログ、『ことりんにっき』である。数行程度の短文と、写真が掲載されている。

 夏目さんは少年のように無邪気な顔で言った。

「今月の初頭に、僕この人と会ったんだけどさ。メディア越しに見るのとだいぶ印象が違ってさあ」

「え、アイドルの三枝琴里さんに会ってるんですか?」

「うん」

「随分あっさりしてますね。芸能人に会ったんですよね?」

「そうだよ、コトリン本人。アイドルが専門職の人と対談するラジオ番組があって、僕はその専門職の方としてインタビューに呼ばれたんだ」

 全然知らなかった。今月の初頭ということは年始ではないか。訪ねたら不在だったのは、この仕事があったからなのか。そんなイベントがあったのなら、私にひと言くらい話してほしかった。夏目さんは人懐っこい性格のわりに、どこか壁を感じる。

「それで、印象が違ったというのは?」

「うん、メディアで見る彼女はちょっと退廃的な、操り人形のような妖しさが美しいんだけどね。実物はもっと、人間くさい有り触れた人だったんだ」

 夏目さんが画面の中の琴里さんを一瞥する。

「もちろん、世間向けにプロデュースされた偶像の姿を信じていたわけじゃない。ただ、接してみると“ひとりの人間”なんだよなあって実感しちゃったよ」

「どんな会話をしたんです?」

「会話自体は、番組用のインタビュー以外は挨拶程度しかしてないよ」

 彼はふらりと立ち上がって、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。パソコン前の椅子が空いたので、私はそこへ腰をおさめた。マウスを転がして、琴里さんのブログを読む。最近のエントリーの中に、「写真家・夏目翔弥さんとの対談」という記事があった。インタビューの内容と放送日についてだけさらっと書かれ、スクロールで画面を送ると埋め込まれた写真が表示された。見返りの角度の琴里さんと、スーツ姿の青年が写っている。スーツの人物は顔が見えないように胸元から下しか見えないが、夏目さんであると私には分かる。

「彼女ね、隙間時間に携帯見てたんだけどさ。開いてるページが、横からちらっと見えちゃってね」

 キッチンで水を飲む夏目さんが言う。

「それがなんと、『今日のスイッチ』だったんだよね」

「はあ!?」

 私は思わず、今日いちばん大きな声を出した。

「見間違いじゃないですか? 彼女は人気絶頂のアイドルなんでしょ。自殺サイトになんの用があるんですか」

「どうかな、芸能界の闇は深いっていうし。気になって調べてみたら、この子、界隈ではいろいろ言われてるみたいだったよ」

 ペットボトルを持ってベッドに腰掛け、夏目さんは続けた。

「地下アイドル時代の枕営業写真が流出して、ネット掲示板で晒されてたんだって。話題が大きくなる前にもみ消されてるけど、その一件もあって、アンチはものすごく激しく誹謗中傷してる」

「うわ、本当にあるんですね、そういうの」

 よく「芸能界の闇」なんて言われて、面白半分に取り上げられがちな話題だ。琴里さんも例外でないと思うと、やるせない気持ちになる。夏目さんはペットボトルを両手で持って、膝に載せた。

「でも反対に、ブレイク前から応援してる熱狂的なファンは、少しでもコトリンを否定したら集団で追い詰める攻撃性を孕んでいる。これはもはや一種の宗教戦争。コトリン教と、それを邪教とする者たちの戦争」

 それを聞いたら、なにも言い返せなくなった。人気アイドルが自殺サイトを閲覧しているなんて信じられなかったが、不本意な枕営業なんてさせられ、しかもその証拠が公衆に晒された。清純派で売っているアイドルには大きな痛手だっただろう。さらに心ない誹謗中傷、質の悪いファン層ともなれば、気が滅入ってしまうのも無理もない。

 私は少し、呼吸を整えた。

「そうとは言っても、彼女は大勢の人に愛されていて、夢も叶えて、恵まれているじゃないですか。それなのに、ごく一部の過激なファンとアンチのために自殺なんて……するんでしょうか?」

「愛されていて恵まれていたら、死にたくなっちゃいけない?」

 夏目さんがもうひと口、水を飲んだ。彼の問いかけに、私は思わず、息を止める。

 罪を犯した人には必ず天罰が下る。苦労した人は必ず報われる。愛されている人は、必ず幸福である。それは、「そうであってほしい」という他人目線の願望でしかない。事実はそのとおりとは限らないのだ。私も無意識のうちに、琴里さんは幸せであるはず、死のうなどと考えたこともないはず、と、思い込んでいた。彼女の心の内なんて、私には一生分からないのに。

 夏目さんがペットボトルをパソコン机に置いた。

「さて、このコトリンと椿ちゃん、そっくりでしょ。むしろ椿ちゃんの方が美人でしょ。となると、もしかしたら、椿ちゃんがアイドルになっていた可能性もなきにしも非ずなわけで」

 ボトルの中の水が、窓の光できらっと星を宿す。

「もしもアイドルになっていたら、君もこんな運命を辿ったのかな」

 妙な仮定だ。仮に私にアイドルになれる素養があったとしても、私にその意思はない。

「私は幼い頃から一度たりとも、アイドルになりたいと思ったことはないです。万が一スカウトされていたとしても、断ります」

「そうかな」

「アイドルって性格じゃないし。第一、顔に大きい傷痕があるんですよ? 顔が売りのアイドル業で、これは不利じゃないですか」

 私は頬の横の髪を、手の甲で掬った。こめかみの傷痕があらわになると、夏目さんはじっと、こちらを見つめた。

「うーん、傷痕も含めて芸術点が高いと思うけど」

「夏目さんの感性ではそうかもしれませんけど、大衆受けしませんよ」

 自嘲気味に言うと、彼は相変わらずじっとこちらを見ていた。

「聞いてもよければ教えて。その傷、どうしたの?」

「うーん、事故? だと思います」

 私はまた、髪で傷痕を隠す。

「小さい頃の怪我なので、覚えてないんです。でもショッキングな出来事なら覚えてるはずなんで、多分大したことじゃないんですよ」

「なんだ、よかった。訊いたはいいけど暴力とかが原因で、地雷だったらどうしようかと思ったよ」

「暴力って、そんな……」

 そこまで話した途端、突然、ずきっと頭痛がした。咄嗟に頭を抱える。

「痛っ……」

 目を閉じると、瞼の裏に人のシルエットが見えた。こちらに振りかざされる、割れた日本酒の瓶。身が縮こまる感覚と、弾け飛ぶ自身の血。

「……違う……」

 私は小刻みに息を切らし、呟いた。

「暴力なんて、なかった」

「どうしたの椿ちゃん」

 夏目さんが暢気な声で言い、口元でペットボトルを傾けた。私は息を整えて、頭から手を離した。一瞬の激痛はもう去って、通常どおりに戻っている。

「すみません、取り乱して。なんなんでしょうね、この傷。私も知りたいです」

「なんか椿ちゃんって、記憶力、乏しいよね」

 夏目さんが冗談っぽく笑う。

「修学旅行を覚えてないとも言ってたし、過去の話がいつも曖昧だよね。日本の義務教育って結構記憶力がものをいうと思うんだけど、君、大丈夫だった?」

 言われてみれば、自分でも訳が分からないくらい曖昧だ。中高生くらいのときの出来事は人並みに覚えているのに、それより前がぼんやりとしか頭にない。誰もがそんなものだと思っていてさして気にしてもいなかったが、どうも妙だ。時々なにか思い出しそうになっては、それがなんなのかはっきりしてしまう前に、記憶が遠のく。そんな出来事が、ここのところ何度か起きている。先程の頭痛もそうだ。明らかになにか、誰かの記憶が蘇りかけた。

「まあいいや。なににせよ僕はその傷に魅せられて、椿ちゃんに惹かれた。チャームポイントだと思うよ」

 夏目さんはにこっと、屈託のない笑顔を見せていた。



 家に帰ってからも、私は携帯から『恋愛相談室』を覗いた。夏目さんの部屋で覗いた以降新しい書き込みは増えていない。私はスレッドを遡り、ここ数日のやりとりを読み返した。

『ソラ:誰もいない?』

 ソラは他の三人以上に書き込む頻度が多い。これは一昨日、私たちの内誰かが来るのを待っていたソラの書き込みである。数分後に、社長が応答している。

『社長:お待たせ。今、ログインしました』

 私は自室のソファに腰をうずめた。このやりとりの時間は、私とさとこはスレッドを見ておらず、ソラと社長ふたりで話している。

『社長:このスレッド、「恋愛相談室」なんでしたね。ソラさんは、恋愛の悩みはないんですか?』

『ソラ:しいて言えば、愛されすぎてること。彼は私をとても大切にしてくれるので。これは「恋愛の悩み」とは言わないかな』

 思い切りのろけだ。充実しているようでなによりである。

 サイトに投稿されていたソラの日記を読んだことがあるが、彼女の日常は至って幸福そうで理想的なものだった。部屋に飾った花の写真や、ティーカップとお菓子を写したティータイムのひと時など、まったりした写真ばかりがアップされている。かわいらしいことにソラは写真を撮るのがちょっと下手で、いつも被写体の横に関係ないものが見切れて写り込んでいる。私の傍には完璧な写真を撮る夏目さんがいるせいか、ソラの写真慣れしていない感じが微笑ましくて、なんともいえない温かな気持ちになる。隙のあるかわいい写真に、幸せそうな日記の文章。そんな満たされている彼女だから、人に優しくできる。陰気なこのサイトの中では、太陽のような存在だ。

『ソラ:テーマソングをつけるとしたら、三枝琴里さんの『恋の鳥籠』! 明後日の夜八時から、生放送の歌番組でコトリンがこの曲を歌うんです』

 三枝琴里という名前を見て一瞬どきっとした。

『社長:そうなんですか。うちの娘もコトリンが好きで、ドラマを観ているようです。確か歌番組の次の日に最終回でしたね』

 私は携帯の画面の右上、表示されている時計に目をやった。一昨日の書き込みで「明後日」と言われているのだから、ソラが話す生放送の歌番組は今日だ。携帯に表示されていた時刻は十九時半過ぎ。歌番組は、あと二十分足らずで始まる。

 コトリンこと三枝琴里さんは、夏目さんも話題にしていたし、私は似ているとまで言われたが、この人の歌は聴いたことがない。社長もソラもこう言っているし、観てみようか。私はリモコンをとり、テレビを点けた。画面には歌番組の前に組まれていた短いニュース番組が映し出された。タレントの不祥事が報じられている。

 そういえば琴里さんも、過去に問題を晒されたと聞いた。それがきっかけでファンとアンチが二極化したと、夏目さんが言っていた。さらには、彼女が『今日のスイッチ』にアカウントを持っていた、とも。

 ニュース番組に取り上げられたタレントは、暗い顔で頭を下げ、活動自粛を宣言している。芸能人は、イメージが大事な職業だ。テレビ番組は企業がスポンサーとなって放送しているものだから、イメージの悪い芸能人は番組に起用されない。芸能界における不祥事は、一般人のそれとは重みが違う。

 琴里さんもきっと、苦しんでいるのだろう。多くのものを背負った彼女は、一般人の私には想像できないくらい苦しかったはずだ。それこそ、築いてきたものを全て捨てて、死にたくなるくらいに。

 頭を膝につけてぐったりと力を抜いてテレビを眺める。と、手元で携帯のバイブ音が聞こえた。画面にはアドレス帳に登録のない番号が表示されている。知人でないのなら無視しようかとも思ったのだが、なんとなく嫌な予感がして、私は携帯を耳に当てた。

「はい、もしもし」

 やや間があってから返事があった。

「桐谷椿さん、ですか?」

 透き通った声をした、女性だ。

「私、三枝琴里という者です」

「三枝琴里? え? アイドルの?」

 私は思わず、ソファの上で姿勢を正した。驚いた、人気絶頂のアイドル、あの三枝琴里だ。だがすぐに冷静になる。琴里さんは今、生放送の直前のはずだ。大体、私になんの接点もないアイドルが私に電話等かけてくるはずもない。悪質ななりすましによるいたずら電話だろう。電話の向こうの彼女はふふふっと笑った。

「信じてもらえないかもしれませんが、それでもいいです。それでもいいので……話を聞いてもらえませんか?」

 いたずら、にしては、妙な雰囲気だ。私は黙って、電話に耳を傾けていた。電話の向こうの自称「三枝琴里」はゆっくりと切り出した。

「自殺系サイト、『今日のスイッチ』。椿さんもよくご存知ですよね。私、『今日』を選んだんです」

 彼女のその言葉の意味が、一瞬分からなかった。数秒後、夏目さんの言い回しを思い出す。「今日にするか、明日以降にするか」。

 テレビがCMに切り替わる。私は少し、呼吸を整えた。電話越しの琴里さんの声が続く。

「以前、サイトの管理人さんとお会いしました。私が自分のことを話せば話すほど、管理人さんが『見た目は似てるのに性格は椿ちゃんと正反対だ』っておっしゃるんです」

 心地のいい凛とした声が、電話から流れてくる。サイトの管理人さんといえば、すなわち夏目さんだ。夏目さんと琴里さんが、インタビュー番組で共演したのを思い出す。

「だから是非、あなたと話してみたかったんです。こんなわがままに付き合わせて申し訳ないんですけど、私、友達いないし……もうすぐ死ぬので、最期くらい誰かに私の想いを聞いてほしい」

 琴里さんが柔らかな声で言った。

「私ね、子供の頃からいろんな人にいろんな期待をされてきたんです。かわいいね、きれいね、きっと有名人になれるねって……でも、寄ってくる人は皆、私を容姿しか見てないんです」

 彼女は、感情の篭らない平板な声で話した。

「結局、私という人間を好いてくれる人なんていなかった。容姿だけで浅はかに近づいてきて、飽きると勝手に離れていくんです」

 ふと、夏目さんから聞いたコトリンアンチたちの話を思い出した。彼女を応援していたはずが、自分の理想のアイドル像と違うと分かった瞬間、掌を返して扱いが酷くなる。かわいさ余って憎さ百倍、好きだった分だけ、反動が大きい。

「今、私を応援している人たちだってそう。私が理想どおりでない行動をとったら、歳をとったら、流行が過ぎたら……皆、私なんかどうでもよくなる。そして忘れる」

 自嘲気味の声に、ぞっとした。この電話が本当に三枝琴里のわけがない、そう思っているのに、聞き入ってしまう。

 アイドルとは、夢を売る仕事だ。きらきらした姿を見せて、まるで幸せ以外の感情がないかのように、人形として振る舞う。でも、彼女は人間だ。ファンもアンチも気がついていないが、彼女にも感情がある。攻撃されれば傷つき、離れられる恐怖に常に葛藤している。なにか声をかけたいが、一般人の私がなにを言っても薄っぺらくなってしまう。詰まっている私に、琴里さんはまるで幸福な思い出でも語るかのように、彼女は軽やかに話した。

「期待に応えなきゃと、芸能界で頑張ってきた。でも出る釘を打ちたがる人ってたくさんいて、皆と一緒じゃないと陰口を言われちゃう。芸能界はそういう場所だって覚悟はしてたけど、覚悟してるからって傷つかないわけじゃない。未熟な私はその都度傷ついて、何度も死にたくなった。だから希死念慮とはもう長い付き合いで、いつの間にか、恐怖なんてなくしてしまいました」

 心臓がどくどくする。

「私みたいなのがこんなこと言ったら、きっと世間知らずで、命の重さが分からない、軽薄な女だと思われてしまうんでしょう。それでもいいです。そんな先入観で私を決めつけるこの世界で、無理して生きていたくない」

 琴里さんの甘く、優しい声が、私を胸をひやっとさせる。

「ただ、ひとつ気になることがあって」

「なんですか?」

「私が死んだあとの世界に、興味があるんです」

 琴里さんは残念そうにため息を吐いた。

「容姿だけで私を好いてくれたファンは、容姿しか知らない私のために涙するのか。後追いは出るのか。私に『死ね』と罵ったアンチは、実際に死んだらどんな反応をするのか。面白おかしく私の過去を晒したメディアはどんな態度を取るのか。とても気になります」

 皮肉というより、純粋な好奇心、といった声色だった。彼女は淡々と話し続ける。

「そこで椿さん。お願いがあります。私が死んだあとの世界、あなたに見届けてほしいんです」

「え……なんで私?」

「うーん、なんとなく。あなた、私とそっくりらしいし、他人とは思えないから」

 言葉を探しているうちに、電話の向こう側で三枝さん、と呼ぶ声が聞こえた。

「あ、行かなきゃ。結局、私ばっかり話しちゃった。椿さんの話も聞きたかったのに」

「じゃ、自殺なんかやめて、今度ゆっくり話しましょう」

 もう一度引き止めてみたが、琴里さんの意志は固かった。

「それはだめです、今日死にたいの。今日が絶好のチャンスなの。だって明日ドラマが最終回で、私の人気も絶頂で、今日がいちばん注目を集める。だから、『今日』を選んだ」

 琴里さんの甘い声が私の鼓膜を擽る。

「ありがとう、椿さん。かなり一方的になってしまったけど、あなたと話せてよかった。自分の正直な気持ち、こんなに吐き出せたの初めて」

話したら絶対に引かれるし、と自嘲的に付け足して、彼女はくすくす笑った。

「他人とは思えない他人の椿さんだからこそ、こんな風に話せたの。本当にありがとう」

「琴里さん、」

 そこで、彼女の電話は切れた。呆然と携帯の画面を見つめる。通話終了の画面が物悲しく私を見つめ返していた。

 なんとも言えない虚無感がソファの上の私を包む。今のはきっと、嫌ないたずら電話だ。そうであってくれ。そうでないとしたら、私はどうすればいいのか。人がひとり、死ぬ宣言をしたのだ。なんとかして止めなくてはならないのに、なにをしたらいいのか、全く分からない。警察に連絡すればいいのだろうか。でも、芸能人を名乗る電話で自殺を仄めかされたと連絡したって、警察にも動きようがないのではないか。

 私は携帯の通話画面を見返し、着信履歴から夏目さんの携帯にかけた。彼は琴里さんに直接会っているし、琴里さんの携帯から自分のサイトが見えたと話していた。彼なら、なにかどうにかできるかもしれない。しかし携帯の電源が切られているようで繋がらない。体が動かない。呆然とする私の耳に、華やかなファンファーレが届いた。

「音楽が彩る夢の二時間! トップバッターは今をときめくこの人!」

 テレビが広い音楽ホールを映し出している。カメラが切り替わって、ふんわりした黒髪の華奢な女性が映った。私より少し若い、二十代前半くらいだろうか。白いナース服風の衣装から伸びる、色白の細い腕と脚。ふわりと巻いた黒い髪。スタンドマイクの前に立って、カメラに向かって微笑む。舞台のきらきらした装飾が彼女を包み込んで、そこに一種の亜空間が生まれたように感じた。

 病的なまでに白い彼女の手には、ナイフが握られている。ぎらっと光ったその刃に、思わず仰け反る。いや、恐らく本物ではない。演出上の小道具だ。だというのに、体が強ばる。

 と、そこでまた、私の携帯が鳴った。テレビから目を離して、携帯を取る。画面には夏目さんの名前が表示されていた。すぐさま応答すると、夏目さんの間延びした声が聞こえた。

「椿ちゃん、ごめんね、携帯見てなかった。着信くれたみたいだったから折り返したよ」

「夏目さん! さっき私の携帯に、三枝琴里さんを名乗る人から電話があって!」

 事の一部始終を報告しようとしたのだが、先に、耳を劈く悲鳴がそれを遮った。

「キャー!」

 びくっと、悲鳴の方を振り向く。テレビからだ。しかし画面はカメラが激しく揺れて映像が乱れ、やがて砂嵐に切り替わった。先程まで流れていた歌番組が、突如止まったのだ。ぽかんとしていると、電話の向こうで夏目さんが言った。

「あれ。椿ちゃんも観てた? 今日の生放送」

「……はい」

「今の映像、観た?」

「いえ。携帯とってて、テレビから目を離していたので……」

「そっかあ、ならよかった。観ない方がいい」

 夏目さんは朗らかに、ほわほわと話した。

「彼女は椿ちゃんに似すぎてる。見た目だけ。それでも自分と重ねて見て、発狂でもされたら困るもん」

 なにを言っているのだろうか。脈絡がないのに、頭の中では結びついて、理解してしまう。

「彼女を追いかけるファンにとって、彼女を罵るアンチにとって、コトリンと椿ちゃんのなにが違うのかな」

 夏目さんが呟く。

「コトリンは偶像だ。同じキャラ付けでプロデュースすれば、見た目が変わらない椿ちゃんでも同じじゃないか」

 画面の砂嵐がザアアと耳障りな音を立てている。私はその灰色の画面を、ぼんやりと眺めていた。



 休み明けの月曜日、私は夏目さんの仕事部屋で携帯を見ていた。薄暗い部屋の中で、画面は煌々と明るい。

「さとこ、今日もいない」

「ああ、仲良し四人組のひとりか」

 夏目さんはちらっとだけ私に目をやった。

 少なくとも丸二日、さとこを見ていない。ソラと社長もわざわざ触れてこないので、私も自分からさとこの名前を出しはしないが、こうも現れないと不安になる。

 夏目さんはパソコンと向かい合い、マウスを操作しながら言った。

「いいんじゃない? そもそも自殺系サイトに出入りしてる方が不健全なんだ、来なくなったのならネットの外の世界でもっといい場所を見つけたんでしょ」

 そう言われてハッとした。夏目さんの言うとおりだ。『今日のスイッチ』は自殺系サイトなのだから、来なくなるのはいいことだ。こんなところに二度と戻ってきてはいけない。そうか、だからソラと社長も、惜しむような発言をしないのだ。

 私は初めてさとこと対話した日を思い浮かべた。会社の遠藤さんか、変人の夏目さん、恋人にするならどちらか、という相談がきっかけだった。あの一件も、今ではひと区切りついている。

「遠藤さんとの交際、お断りしました」

 今日の就業後、遠藤さんに直接話した。あなたにはもっと、いい人がいると。その報告に、夏目さんは機嫌よさげにニヤニヤしていた。

「振っちゃったんだ、君が好きなんていうけったいな……いや、貴重な人材を」

「いいんです、容姿しか見られてないの、分かってるので」

「容姿しか取り柄がない方が悪いじゃん。僕だって椿ちゃんのこと『死んだらきれいそうだから心中して』って言ったんだし」

 酷い言われようだが、そう話す夏目さんはどこか満足げだったので、私が遠藤さんに奪われずに済んで一応ほっとしてはいるのだろう。

「ところで夏目さん」

 声をかけると、んー、と間延びした応答が返ってきた。

「私のために死ねるって、言ってくれたけど」

「ああ、言ったね」

「今でも変わらず、そう思ってくれていますか?」

「もちろん」

 夏目さんは即答した。私は深呼吸し、改めて訊ねる。

「じゃあ、質問を変えます。私のために生きることは、できますか?」

「いやあ、それは絶対にないね!」

 夏目さんは動作を止めるわけでもなく、呆気なく即答した。

 ……私の選択は正解だったのだろうか。誰かのために生きるのは、死ぬこと以上に難しい。安易に「できる」と断言されるよりは信頼できるかもしれないが、ここは嘘でもきれいごとを言ってほしかった気もするし、複雑である。

『続いてのニュースです。昨日、都内○○区のXXホールで、アイドルの三枝琴里さんが舞台装置から転落した事故で――』

 夏目さんのパソコンから、ニュースキャスターの声がした。テレビのないこの部屋では、彼はパソコンで動画サイトをテレビ代わりにする。

「転落事故? これはまた下手な嘘をつくね」

 夏目さんが目を丸くした。

「自ら首を掻っ切ったじゃないか」

 アイドル、三枝琴里が自殺した。生放送の舞台で、小道具のナイフを本物にすり替えて、自身の首に突き立てたという。私は、観ていなかったが。

「大勢の人々の前で死んだし遺書も出てきたし、これで『転落事故』は苦しいと思うんだけど……。でも有名人が自殺すると、ファンが後追いするわ事務所の責任問われるわで面倒なんだろうね。無理やりにでも事故として終着させようとしてる」

「酷い……」

 私はこの捻じ曲がった報道に、そんな感想しか出せなかった。夏目さんがニュースを流し見る。

「早速、何人か後追いが出たみたいだよ。やっぱり信者は違うね」

 生放送で全国に見せた以上、自殺ではないなどという嘘は到底意味がない。これからも後追いは増えるのだろう。ネットを見ると、アンチたちの間に気まずい空気が流れていた。死ねと罵っていた彼らでも、本当に死んでしまうとは思わなかったのだろう。しかしそれでも「死んだ、嬉しい」とか「こんなことで死ぬんだから所詮その程度だった」なんて不謹慎な書き込みも耐えない。メディアの報道は、夏目さんの言うとおりご都合主義の偏向報道をしている。これが、琴里さんが死んだあとの世界だ。琴里さんが望んだ結末なのだろうか。

 私は、あの夕方の電話の声を思い出していた。アイドルの琴里さんが、なんの接点もない私に連絡してくるはずがない。そう思ってはいるのだが、サイトの管理人である夏目さんは彼女に会っている。私の連絡先を漏洩できないこともないのだ。

 もし、あれが本物の琴里さんだったとして。私はなにができたのだろう。いや、なにもできなかった。電話を切ってすぐ、番組が始まった。私には、どうにもできなかった。人がひとり死ぬと分かっていたのに、なにもできなかったのだ。

 ニュースでは当然、当日の映像は流れない。ナイフで首を切ったというのも、あとからネットで知った情報だ。夏目さんは観ていたらしいが。

「死ぬ間際に見た景色は……ステージから見るサイリウムの海か。さすがにこれは、写真に残せそうもないな。でも想像はできる。きれいだろうな」

 名残惜しそうに呟く夏目さんに、私は慎重に問うた。

「彼女、どんな死に方だったんですか」

 夏目さんは、パソコンの灯りを浴びた涼しい横顔で答えた。

「皆の偶像コトリンではなかったね。ひとりの人間・島田里子だった」

「島田……里子?」

「琴里は芸名。人間である彼女の本名は、『里子』だよ」

 ニュースが追悼ドラマの放送を報じている。ゴールデンタイムで放送されていた琴里さん主演のドラマは今日が最終回らしい。ドラマの注目と大きな音楽番組で世間の関心が琴里さんに向く。だからこそ、彼女は昨日を逃したくなかったのだろう。

 夏目さんはふらっと席を立って、私の座るベッドに横になった。布団に埋もれていた雑誌を読みはじめる。

 私は空いた椅子に腰掛けて、マウスを手に取った。関連動画のリンクには先日の番組、彼女の自殺シーンが表示されている。夏目さんが雑誌を見ていることを確認して、恐る恐るクリックしてみた。が、動画は削除されていた。

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