8.紅葉?

 会社は大人の集まりだが、中身は案外小中学生と大差ない。面白い噂話があると、あっという間に広まる好奇心の溜まり場だ。

 玲香ちゃんが池田に想いを告白したらしいという話も、一週間もすれば誰もが知っている話になっていた。玲香ちゃんもそんなことは割り切っていて、人前でも池田にちょっかいを出す姿も見られるようになった。池田の方はというと、返事を先延ばしにしているらしく、人懐っこい玲香ちゃんに戸惑いながらも満更でもなさそうだった。

 噂というのは恐ろしいものだ。驚異的な感染力を見せつけられて、ぞっとさせられる。


 *


 そんな恐怖を他人事として思い知った日の、昼休みのことだ。

 外回りのついでにコンビニに立ち寄り、営業車の車内で済ませられるような食事を選ぶ。最近はずっとこんな昼を過ごしている。ここ一週間は、クードラパンから足が遠のいていた。

 ほとぼりが冷めるまではあの店には行かないようにしようと決めたのだ。まさか自分があそこまで「桜ちゃん」に翻弄されるとは思わなかったし、オーナーだって引いたことだろう。行かないように、というよりは、俺自身が気持ちの整理をつけて行けるようになるまでは行かないのである。

 パンとコーヒーを買おうとしたそのときだ。鞄の中で携帯がバイブ音を鳴らした。会社からかと思って慌てて取ったが、画面を見て余計に慌てた。ふざけて登録した「マイスイートハニー桜ちゃん」という表示名が出ている。つまり、涼太からだ。

 スルーした方がいい気も一割くらいはしたが、それよりも残りの九割で考える暇もなく応答ボタンを押していた。

「どした?」

 平常心を装って出ると、いきなり怒鳴り声が叩き込まれた。

「どした、じゃねえよヘタレ! チャラ変態ヘタレ! 何日サボる気だよ!」

 残りの九割で聞きたかった声が、耳にじんじん届いてくる。

「なんだよ、俺に会いたかったの? ごめんごめん。最近はコンビニがブームでさ」

 いい加減なことを言って誤魔化しておく。一度カゴに入れていたパンを、棚に戻した。涼太がイライラした口調で言う。

「ご飯作ってくれる彼女ができたわけじゃないんすね」

「それいいね。そういうことにしておこう」

「とにかく、今日はこっち来い。やばいことになったっす」

 涼太が深刻な声を出した。

「やばい?」

「会って話します。俺もこれから、学校から戻るので」

 一方的に約束を取り付け、涼太は通信をぶち切った。ちょっとまだ会いたくなかったのだが、ただならぬ様子の声を聞いて心配になった。俺は買い物を中止して、クードラパンへと急いだ。


 *


 クードラパンには五分くらいで着いた。オーナーが俺に笑いかける。

「あっ、チャラ変態ヘタレくんだ」

「折角命名してもらいましたが、長いんで今までどおり『圭一くん』でいいですよ」

 入ってきた時点では、涼太はまだ不在だった。

「涼太に呼ばれて来たんです。なんかあったんですか?」

「ん? 僕は特に何も聞いてないよ」

 オーナーがきょとんとする。俺は首を傾げながら、何となくカウンターの席に座った。

「お、珍しいとこに座ったね」

 オーナーが老眼鏡の奥で微笑む。俺はカウンターから彼を見上げた。

「気が向いたんですよ。たまにはオーナーを正面にしてみようかと」

「いいよ。僕も暇だし、お喋り相手が欲しかったんだ」

 オーナーは俺に、サンドイッチとコーヒーを差し出した。

 先日のことを言及させられるかと思ったのだが、オーナーは何事もなかったかのように接してくる。むしろ彼は、全く関係ない話を蒸し返してきた。

「会社の同僚の女性に振られたんだって? この店によく来てた、玲香ちゃん? だっけ?」

 俺は彼をじろっと睨んだ。

「振られてはいないです。こっちだってそんな気なかったですから」

「あれ? 涼太が『圭一さんが振られた』って喜んでたから、てっきり片想いしてたんだと思ってたよ」

「喜んでんのかよ、性格屈折してるな……」

 ははっと乾いた笑いが出た。オーナーは柔らかい声色で言った。

「喜んでるけど、悲しそうでもあったよ。圭一くんが振られたのに同情してるという意味じゃなくて、振られた事実があっても何も変わらないのを思い知った、という感じかな。感情のいうものはとても複雑だね」

 オーナーの話し方は、時々分かりにくい。

 日本語が変というのではなく、理解に時間がかかるものの言い方をすることがあるのだ。一旦頭の中で解体し、ひとつひとつの単語を砕いて、自分なりに受け取る。が、どう解釈すればいいのか、やはりよく分からなかった。

「まあ、複雑ですよね」

 最後の部分だけを、無難に繰り返した。オーナーがこくこく頷く。

「バカだしね……思考回路が僕らと違うから、難しいとこあるよ。あ、圭一くんは共感できるのかな?」

 これの意味はストレートに理解できた。

「バカは認めますけど、流石に女装癖の考えることは分かんないです」

「自分で自分のことかわいいと思ってんのは分かるね」

 オーナーの見解に俺は大真面目に同意した。

「それはそのようですね。実際すごくかわいい」

「そうかな? 僕はもうちょっとポチャポチャした肉っぽい子の方がいいな……」

「オーナーのそういう正直なとこ、好きですよ」

 俺はサンドイッチを口元に運んだ。

「人から理解されにくいことでも、本人が自信持ってるならいいんじゃないすか。俺も最初はびっくりしたけど、あいつが堂々としてるから流されましたよ」

「逆! 圭一くんがかわいいって言うから、涼太が調子に乗ったんだよ」

 オーナーが楽しげに言った。俺はサンドイッチをひと口飲み込んで、聞き返した。

「俺のせいですか!?」

「そうだよ、お前のせいだ。よくも僕の甥っ子を女装癖にしてくれたな。あの子の実家の両親にどう説明すればいいか」

「かわいいからヨシで押し切ってください」

 強行突破を勧めて、俺はふと、オーナーに尋ねた。

「オーナーはどう思ってるんですか? 涼太にああいう格好させたのはオーナーですけど……それが思いのほか長引いて、本人も気に入っちゃって。まずいとは思ってるんですか?」

 叔父として、やめさせたい気持ちはあるのだろうか。両親に説明しなくてはならなくなる前に、終息させたいものなのだろうか。

 オーナーは自身の顎に指を添えた。

「面白いなって思ってるよ。涼太が楽しいなら好きにすればいい。このまま成り行きに任せる」

 このおじちゃんも随分といい加減である。放置を宣言した後で、彼は取って付けたように言い足した。

「ただし、あの子が不幸にさえならなければ、ね。理解されにくいということは、生きづらいってことだから。好きなことをしたいがために苦しむようじゃ、本末転倒だものね」

 放っておいているというよりは、目が届くところで自由にさせている、という感じがした。この人が放つ安心感の正体は、こういう根っこの誠実さなのかもしれない。

「オーナーって、大雑把というか……心が広いですよね」

「そう?」

「うん、心が広い。だだっ広い」

 個人の嗜好を否定しないスタイルは、真似しようとしてもなかなかできない。オーナーはあははと笑った。

「そんなに立派な考えじゃないよ。放任主義という建前の面倒くさがりだよ」

 謙遜なのか本当に面倒くさがりなだけなのか分からない言い方をして、オーナーはゆったりと語った。

「僕ね、若い頃いろんな仕事を転々としたんだ。夜の繁華街の厨房にいたこともあるよ。それはそれはいろんな人がいたさ」

「へえ、初耳。どんな世界でした?」

 興味深い話に、前のめりになる。オーナーはうーんと腕を組んだ。

「まず、本物のオネエの方たちでしょ。その逆で女性から男性になった人もいた。傷つけられるのが好きな人もいたし、ただならぬ関係の人たちもよく見た」

 壮絶な世界をさらっと紹介して、オーナーは柔らかに微笑んだ。

「でもね。そういう人たちこそ、強いんだよ。悩んだり迷走したりして辿り着いた幸せに、誇りを持ってるから。歪なのもマイノリティなのも自分の弱さも批判も、全部受け入れた人たちは、他人にも寛大になる。それはとっても格好いいことだよ」

「はあ」

 俺は間抜けな相槌を打った。社会の理解が進まないが故に俺も踏み込めずにいた領域に、圧倒された。オーナーが続ける。

「もちろん、強いといってもきっと人知れず弱ってるときはあるんだと思うよ。それでも貫いてるというのが立派なんだ」

 そうか、と、俺は納得した。オーナーが涼太の女装を大して問題視していないのは、そういう価値観だったからなのだ。様々な人に出会ってきて、様々な考えや悩みを知ってきたから、否定的になったりせず受け入れられるのだ。

「いろんな人がいるって事実を受け入れられないことや、不快に思うのだって自由だ。でも傷つける言葉ばかり発する人間はみっともないね。とはいえ、僕自身はどこにでもいるつまんないマジョリティだからね。完全には理解しきれていないよ。分かったふりをするなって怒られるときもある」

 オーナーは苦笑いして首を傾けた。

「とにかく、涼太もいろいろ考えた末のクロスドレッシングなんでしょうから、僕からは口出ししないことにした」

「そっか……」

 上手い返事が思いつかず、俺は間抜けな顔で呟いた。

 この人は傍観者の立場で、いろいろと学んできたのだ。甥っ子を女装させてみようなどと思いついてしまうほどにだ。

「だから僕は圭一くんにも口出ししないよ」

 オーナーがニッコリした。俺はたまごサンドイッチをもぐもぐ噛みながら、彼を見上げた。オーナーが再び口を開く。

「涼太に触れてみて、どうだった?」

 サンドイッチを喉に詰まらせるところだった。

 一切触れてこないから油断していた。ギリギリなんとか飲み込んで、噎せてから俺はオーナーを見上げた。

「だから、あんなのふざけてただけですよ! 俺たちがじゃれてるの知ってるでしょ」

 大人の余裕ぶって笑い飛ばす。オーナーもあははっと楽しそうに笑った。

「あれー。圭一くんのことだから、許容範囲広くて男もOKなのかと思ったよ」

「流石にそこまでは……」

 背中に変な汗をかいた。

 語尾を弱めて時間稼ぎをするのは、自分の中でこたえが見つからないからだ。

「俺は、涼太が好きですよ。かわいいです、弟みたいで。ただそれは、恋愛ではなくて親愛です」

 なぜ俺はこんなに、焦っているのだろう。

 自分でも分からない自分の隠れた感情を、オーナーに悟られないようにしている、変な焦りだ。まるで、部屋の中でなくした私物を他人に先に見つけられないように、わざと部屋を散らかしているような。

「大丈夫です、オーナー。涼太も俺も、お互いそう思ってるはずなので。オーナーはいろんな人に会ってきたというから、そういう可能性も考えたのかもしれないけど」

 変に早口になる俺に、オーナーは逆にのんびりと微笑んだ。

「よし。合格」

「何の試験だよ!」

「いやあ、圭一くんっていつもヘラヘラしてるでしょ? だから時々、困った顔を見たくなるんだよ」

 オーナーがふふんと不敵に笑む。

「変な質問をされて取り乱す姿が見たかったんだ」

「酷い……! そうやって他人を翻弄して遊ぶとこ、涼太とすごく似てる。DNAの力ってすごい」

 心臓がばくばくして、胃がひっくり返りそうだ。知ってはいたがオーナーはやはり変人だ。驚かされることが多くて困る。

 と、そこへ店の扉がバンッと開いた。大きな音にびくっとする。扉の方を見ると、でっかい鞄を肩にかけた涼太が青い顔をしていた。

「お帰りー!」

 オーナーがいつもどおり和やかに迎えたが、俺は思わず息を止めた。一週間も保留していたが、本人を前にすると脳裏に蘇る。艶めかしい素肌と熱っぽい目が、未だに頭にこびり付いている。

 先程のオーナーの話が気になってしまう。オーナーのことだから俺を困らせて遊ぶために冗談で言っただけなのかもしれないが、もし仮に、涼太が本当にそんな気持ちを持っているのだとしたら。オーナーなら涼太の感情にいち早く気づいて、俺の方の様子を窺うかもしれない。

 そんな、余計なことを考えてしまう。

 涼太は俺がいるのを確認すると、真っ直ぐにこちらに向かってきた。俺は首を竦め、それでも動けずにいた。涼太の強ばった神妙な表情が近づいてくる。

 そしてガシッと、俺の両肩を掴む。

「最悪っす、圭一さん!」

「なっ……なんだ、どうした」

「油井が……油井が、俺と圭一さんのこと『付き合ってると思ってた』って!」

 オーナーのあの話の後だ。俺は何も言えずに固まった。反対に涼太は、大騒ぎで俺の肩を揺すった。

「そんなことあって溜まるかよ! よりによって圭一さんっすよ? 屈辱の極みじゃないっすか!」

 涼太の激しいシェイクで、俺はだんだん冷静になってきた。やはり考えすぎだったようだ。こいつはやはり、俺を弄んで面白がっていただけだ。オーナーの質問はタチの悪い冗談だ。

「屈辱ってお前な……俺の歴代彼女に謝れ」

「悪趣味尻軽女の皆さんすみません、同情します」

 涼太はようやく手を離し、ずるっと鞄を床に下ろした。

「この前、ショッピングモールに一緒に行ったじゃないですか。そのとき油井に会ったでしょ」

「ああ、でもそのときは顔を見せないようにして、涼太とは他人の桜ちゃんということで突破しただろ」

 デートごっこでモールに行った日を思い出す。涼太は崩れ落ちるように隣の椅子に座った。

「ところがどっこい! 油井はそれより前から、俺たちが一緒にいたのを見かけてたみたいなんです」

「マジかよ」

 全く気が付かなかった。涼太も同意して項垂れた。

「女装アイテムの服を選んでた辺りから、向こうは気づいてたみたいです。ゲーセンでも見てたって」

 服を買っていたときというと、俺が試着室をぶち開けて涼太の男物の下着が見えたイベントがあった。ゲーセンでは涼太がはしゃぎすぎて思い切り男の声、男の仕草で遊んでいた。

「じゃあ、俺らが油井くんに気づいて直接話したときには、あっちはとっくに桜ちゃんが涼太だって分かってたのか」

「そうみたいです」

 涼太はぐったりとカウンターに突っ伏した。

「俺が女装してるし、圭一さんはそれを普通に連れ歩いてるって光景ですから、油井の方もやばいもの見たと思ったみたいで声をかけずにいてくれたんだそうです。でも、目が合っちゃって、挨拶せざるを得なくなった」

「それで……俺は誤魔化すために、あんなことを」

 額につうっと汗が浮かんだ。あのとき俺は、涼太とは赤の他人「桜ちゃん」として、連れを「彼女」と紹介した。涼太は突っ伏した顔をくりっとこちらに向けた。

「そうっす。油井からすれば、女装した涼太を彼女と紹介された……イコール、圭一さんと俺が付き合ってる、という方程式に」

 俺は慌てるより先に感心してしまった。油井くんが先に気づいていたという事実を見落として、俺と涼太は却って誤解を招くリアクションをしてしまったというのだ。油井くんサイドからの見え方を聞いて、パズルがいきなり解けたみたいに納得した。

「なるほどー。でも、それはそれで受け止めてくれてる辺り、見られたのが油井くんでよかったよな」

 油井くんはゲイだと聞いている。涼太のことも自分と同類として、偏見の目は向けないで大事にしてくれることだろう。

「そんな脳天気なこと言ってる場合ですか? こんな誤解されて……学校で噂になっちゃったら、俺もうキャンパス行けないですよ」

 涼太が悲観的に頭を抱える。俺はサンドイッチの付け合わせのポテトを摘んだ。

「大丈夫だろ、油井くんって口固そう。実際、あれから数週間経ってるのに噂になってないんだろ」

「でも、いつ洩れるか分かんないです」

「まあ……万が一洩れたら一瞬だろうな」

 社内で玲香ちゃんの噂が広まった件もそうだった。噂というものは水面に落としたインクのようなもので、あっという間に浸透してしまう。こちらの回収など追いつかなくなっていくのだ。

「俺だけの問題じゃないですよ? 圭一さんだって、十も歳下の青少年を女装させて白昼堂々連れ歩いてたと噂になったら、会社にいられなくなりますよ」

 涼太の表現にハッとなった。そうだった、これは俺に関わる問題でもある。下手したらお巡りさんのお世話になるレベルの話だ。

「ていうか、そんな変態みたいに言うな」

「事実じゃないですか! あんたは変態ですよ。俺も変態です。そして圭一さんは、油井に向かってはっきりと恋人宣言をしたんです。もはや運命共同体ですよ」

 はっきりと言い切られ、俺は言葉を呑んだ。

 変態なのは女装癖の涼太の方だと思っていたが、彼を女装させてかわいいかわいいと愛でている俺ももしかして同じ穴の狢なのか。

「嘘……俺、そんなに変態なの?」

「あらら、気づいちゃった」

 反応したのはオーナーだった。俺はバッとカウンターの向こうの彼を振り向いた。先程この人が語った、出会ってきたマイノリティたちの話は、もしかして俺もそちら側の人間なのだと気づかせようとしていたのか。それは深読みのしすぎか。

 俺は一旦、コーヒーに口を付けた。落ち着け。落ち着いて考えるんだ。

「油井くんには、もう事実を話した方がいいんじゃないか」

 俺はそっと提案した。カウンターテーブルにほっぺたを付けている涼太は、ちらりと俺を見上げた。

「俺が女装癖で圭一さんはその姿が好きで、その日はデートごっこをしてただけ。本当は付き合ってない。って話すってこと?」

「付き合ってるという誤解よりは、事実の方がインパクトが弱いからな。女装癖と女装好きがスリリングな遊びをしてただけって方がマシだろ」

「信じてもらえますかね」

 心配そうに、且つ芯の通った声で、涼太が確かめる。俺は自分の考えに自分で首を傾げた。正直、俺が油井くんの立場だったら、そんなに中途半端に訂正されても言い訳っぽく聞こえて、「やっぱ付き合ってるだろうな」と思ってしまう気がする。

 他人事のオーナーはケタケタ楽しそうに笑った。

「いっそ本当に付き合っちゃえば?」

 まさかの提案に俺は言葉を失った。口を半開きにして凍った俺の隣で、涼太がガタッと席から立ち上がる。

「なっ……何言ってんですか!」

 勢い余って、椅子がひっくり返って倒れた。

「それは絶対だめでしょ! 俺は最短でもこの先四年はこっちで過ごして、就活だってある。ちょっとでも一般からはみ出すと不利になるじゃないすか」

 現実的な主張で涼太がまくし立てる。

「絶対嫌です!」

「おい、なんで被害者面なんだよ。そもそもお前が女装なんてややこしい趣味してたから悪いんだからな」

 オーナーに立ち上がって訴える涼太を、俺は横から見上げた。

「巻き込まれたのはこっちなんだよ」

「なっ! そっちが無責任に『かわいい』って言ったからエスカレートしたんですよ」

 涼太がこちらを振り向いて反撃した。だが俺も怯まない。

「かわいいもの見てかわいいっつって何が悪い。桜ちゃんという女の子はたしかにかわいかったんだよ。中身が涼太だったというだけで」

「何ですかそれ……!」

「こっちは騙されたんだ。はじめから涼太が女装なんてしてなければ、はじめて会ったときから男だって分かってれば、ここまで拗れなかった」

 こんなそもそも論は言っても無駄だと、言った後に思った。その出会いの過去からは何も変えられない。そう分かっていたのに、なぜか口に出してしまった。

 その結果、俺は目の前の涼太を怒らせた。

「ふうん……そんなこと言うんですか。がっかりですよ」

 思った以上に静かな声で、涼太は言った。

「もういいっす。夕方からの講義で油井と会うので……全部圭一さんが悪いという設定で吹き込んでやる」

 彼は鞄を引っ掴み、氷の目で俺を睨みつけた。

「無理矢理女装させられて淫らな行為を強要されていると……言っておきます」

「は!? 嘘だろ、なんだよそのエグい捏造」

 その設定だと、俺だけが一方的に悪いことになって涼太は被害者で通ってしまう。涼太はふいっと俺から視線を外した。

「叔父さん。今日のバイト休ませて」

「仕方ないなあ」

 オーナーはやはり傍観者で、この流れを見ていても涼太を引き止めようとはしない。涼太は、鞄を肩に引っ掛けてスタスタと店から出ていってしまった。バンッと閉まった扉を、俺は見ているしかできなかった。

「なんだあいつ。そんな怒ることないだろ」

 俺も残りのサンドイッチを口に詰め込んで立ち上がった。追いかけて説得しようという気にはならなかった。どうせあいつは気が小さいから、そんな嘘を油井くんにつけるはずもない。涼太のことなど無視して、外回りに出かけることにした。

 立ったときに、慣れないカウンター席で脚をガンッとぶつけた。衝撃でカウンターの上にいたウサギのぬいぐるみが倒れる。

「あっ、すみません」

 ウサギを立て直そうとしたら、オーナーが先にウサギの向きを正した。俺は彼の優しげな手を見て、ふいに尋ねた。

「オーナー、ウサギ好きなんだそうですね。店の名前がクードラパンなのも、そこから来てるんですか?」

「うん、ウサギは好きだよ。特に茶色い立ち耳のウサギ」

 俺と涼太の口喧嘩なんて聞いていなかったみたいに、穏やかな声でこたえられた。オーナーは左手に包んだウサギの耳を撫でた。

「正しくは、僕の娘が好きだったんだよ、ウサギ。僕はその影響でね」

「娘?」

 初耳の存在が出てきて、目を丸くした。オーナーに娘がいたなんて知らなかった。今までこの店にかよってきて、一度たりともそんな話は出たことがない。

「娘さんいたんですか! 美人? 見たい見たい」

「あははっ、圭一くんにだけは見せたくないな。愛娘なんだから」

 オーナーは俺をピシャリと制して、笑顔のまま言った。

「もういないしね。あれから三年になるんだよ」

「えっ……」

 途端に、俺は表情が消えた。こちらが何か言う前に、オーナーは包み隠すような素振りも見せず続けた。

「僕、結構早くに妻と別れててね。ひとり娘の楓の親権は僕にあった。長いこと父子家庭で二人三脚で来てたんだけど、それが三年前の秋口に交通事故でいきなり死んじゃったんだ」

 びっくりするくらい、軽い口調で話す。でもそれはどうでもいいから軽いのではなく、この人が話し方を選んで、敢えて落ち着いて話しているという軽さだ。

 反応に困った俺は、咄嗟に謝ることしかできなかった。

「すみません……知らなくて、そんな話をさせてしまって」

「いいんだよ、不幸や不運は自慢に変えることで少しずつ楽になるからね。聞かされる方は溜まったもんじゃないだろうけど」

 オーナーの中では、気持ちの整理がついた過去なのだろう。だからこんな風に話せるのだろう。でも、言葉尻から嫌でも察してしまう。

 彼の中で整理がついていようと、「終わったこと」ではないのだ。

「楓はずっと、茶色い立ち耳のウサギと暮らしたいって言っててね」

 オーナーの指が、茶色い立ち耳のウサギのぬいぐるみを撫でる。

「でもそう簡単にペットを飼いはじめることなんてできないからさ、何だかんだで先送りにし続けちゃったんだ。そんなさなか、この店をオープンすることになった。『ウサギのしっぽ』を意味する『クードラパン』は、楓のメールアドレスに使われてたフレーズなんだよ」

 それはまるで、今でも楓さんが元気でいて、その場にいない彼女を自慢するみたいな話し方だった。

 ウサギのしっぽ。その言葉が妙に胸に突き刺さる。もう触れることのできない、先にいってしまった人の後ろ姿のような、そんなニュアンスすら感じる。

「反抗期のときは大変だったけど、楓も高校を卒業するくらいのときには僕に優しくなったからね。一緒にこの店で働いてもらってたんだよ。惜しかったね、圭一くんが三年前からこの店を知ってたら楓に会えたよ」

「それは……もったいなかったです……」

 オーナーが自然に笑うせいで、こちらは余計にぎこちなくなる。オーナーは左手を置いていたウサギから、そっと手を離した。

「圭一くんを困らせるのは好きだけど、そういう気まずそうな困り顔はあんまり好きじゃない。これはもう過去の話だから、君がそんな反応をする必要はないんだよ」

「でも……」

 反論しかけて、俺は声を詰まらせた。オーナーがあーあ、と大きなため息をついた。

「バカみたいだね。まだどこかであの子の面影を探してるみたいだ」

 心臓がずきりとした。

 あのウェイトレスの制服も、きっと。

「……ごちそうさまでした」

 俺がようやくそれだけ言うと、オーナーはにっこり微笑んだ。俺は携帯と営業鞄をギシッと握って、外へ飛び出す。

 桜の木はすっかり葉桜になって、初夏の風にさわさわ揺れていた。明るい町並みにぱらぱら人が出ていて、空いている道を車がのんびり走っている。

 鞄から携帯を取り出して、涼太の番号にかけた。向こうは数コールであっさり応答した。

「どした」

「どした、じゃねえよ」

 いやにまったりした無感情な声に、俺は呆れたように返した。

「もしかして、もう油井くんのとこ行っちゃった?」

「ちょうど今、油井と電話してたとこですよ」

 涼太は桜ちゃんが発する冷ややかな声と同じ声色で言った。

「おいおいおい……マジかよ。俺を社会的に殺すつもりなのか」

「そんなとこっすね」

「今、どこにいんの?」

 尋ねると涼太は、案外すんなりこたえた。

「店の裏の、公園にいます」

「今から行く。話すことがある」

 電話口に真剣な声を吹き込む。

「俺に構ってないで働け」

 涼太は冷たく意地悪に言った。


 *


 自分で言っていたとおり、彼は店の裏の公園にいた。ベンチに前屈みで座って、地面をつつく鳩を眺めている。

「涼太」

 名前を呼ぶと、涼太はくるっとこちらに顔を向けた。傷ついているのかとも思ったが、何も感じていないみたいな無表情だった。

「マジで来やがったんですね。ストーカーみたいっす」

 こうやって邪険にされるのは、ウェイトレスの桜ちゃんのときによく味わった。

 寂れた公園には子供を連れたお母さんが数人と、その子供たちだけしかいなかった。無駄な広さの中、子供の笑い声が反響しないで消えていく。砂場に放置された砂山は、子供たちに忘れ去られている。親たちは、日陰に集まってお喋りしていた。

 涼太のいるベンチは相当放置されているようで、細かいさらさらした砂が積もっていた。俺はその砂を払うでもなく、涼太の隣に腰を下ろした。

「油井くんと電話したんだって?」

「しましたよ」

 涼太はのそりと上体を曲げて、鳩を見守った。俺も同じ方向を見つめる。

「油井くんにとっての俺の印象、最悪になっちゃうじゃねえか……」

「電話はしましたけど、その話はしてないですよ。本当に圭一さんのせいにしたわけないじゃないですか。そんな嘘つくほど子供じゃないです」

 足元を鳩が歩き回っている。

「なんだよ、焦ったじゃん」

 こいつがそんな嘘で油井くんを巻き込むはずがないことくらい、本当は分かっていた。俺はちらと、隣の涼太の横顔を見た。朽葉色の髪が微風に揺られている。

「お前が桜ちゃんで、先輩は楓ちゃんなんだな」

 ぽつりと言ったら、涼太は頷きもせずに返した。

「そうなんですよ。叔父さんのネーミングセンスが手に取るように分かりますよね」

 そしてゆっくりとまばたきをする。

「その話、聞いたんですね」

 聞いてしまった。俺は迂闊にも、彼にあの事実を話させるような発言をしてしまったのだ。あの人の深いところまで、切り込んでしまった。

 オーナーの娘の楓さんは、三年前まであの店で働いていたという。きっとウェイトレスの制服は、彼女のものだったのだ。

「はじめから涼太が女装してなんかいなければ」……そんなことを言ってしまったが、着せたことにも、着続けることにも意味があったのだとしたら。とんでもなく軽率な発言だったかもしれない。

「何を懸念してるか、何となく分かりますよ。でも安心していいです。それはハズレですよ」

 涼太がいきなり人の心を読んできた。俺は黙って俯いた。

「叔父さんの名誉のために言っておきますけど、叔父さんは俺に楓さんの分の人生を背負わせようとしてるわけじゃないです。あの人はああ見えてしっかりしてるんで、俺は俺だってちゃんと割り切ってます」

 涼太はこちらを見ずに淡々と話す。

「たしかに俺も、彼女が着てたウェイトレス衣装を俺に着せようとしたときは、お酒に酔った勢いで俺を楓さんと見間違えてるのかと思いました」

 風の音がして、子供たちの笑い声が霞む。母親たちの談笑も、遠く聞こえた。

「でも今なら分かる。あれはただ単に似合うと思って面白がって着せただけだ。俺なんかで補えるものじゃないですからね。実際、名前を呼び間違えられたことは一度たりともありません」

「うん」

 俺は横顔に向かって、掠れた声を出した。

「ごめんな。そういう事情も知らず、女装癖の変態扱いして」

「それは事実なんで構わないです」

 涼太ははあ、と息をついて続けた。

「叔父さんの過去を知ってたからって、俺は叔父さんの娘になる気はないです。女装は、楽しいから好きでやってるだけです」

 彼は一切の淀みなくはっきりと言い切った。俺は乾いた笑い声を出した。

「安心したよ、ただの変態で」

「普通逆ですよ。理由あって変態の方がまだ救いがあるじゃないすか」

 涼太はふはっと笑って、それから再び鳩をじっと眺めた。

「叔父さんも、少しくらい俺に楓さんを投影しててくれれば……俺の行動も、意味があるものになるのになあ」

 子供たちの無邪気な笑い声がする。晴れ渡った空から涼しい風が吹いて、涼太の髪をふよふよと撫でた。

「叔父さんは俺を楓さんに置き換えることなんて望んでないし、俺も代わりになるつもりなんかない。でも、時々無性に申し訳なくなるときもあるんですよ」

 鳩たちがバサバサと飛び立った。一羽飛ぶと、群れを成して全員飛んでいく。

「年に二、三回くらいだけど、俺も楓さんのお世話にはなってた。叔父さんの娘だからやっぱあんな風にのんびりしてて、ちょっと毒舌で、そんで心根は優しい人でした」

 舞い上がった鳩の群れは、数秒だけ空を旋回した。

「亡くなったとき、葬儀の関係で叔父さんと会ったとき……どう接すればいいのか分かんなかった。奥さんもいなくなってて、その上娘まで亡くして、そんな人になんて言葉をかけたらいいのか分かんなかったんです」

 数秒飛んだ鳩たちは、すぐにまた地面へと降り立った。元どおり、気ままに足元をつつきはじめる。

「でも叔父さん、哀しくないのかと思っちゃうくらい落ち着いてました。あんな人だから、最悪な気分を人に見せることすらできなかったのかもしれない。『大丈夫?』って聞かれたら、『大丈夫』ってこたえちゃう人なんですよ」

 あの人らしいな。俺は口の中でそう呟いた。

「そんな叔父さんに何もできなかった。そして今、ひとりぼっちになってしまった叔父さんの元に、俺は来てる。あのとき楽にしてあげられなかった分、今の俺なら何かできないかって、考えることくらいあります。見た目を女性に寄せたら少しはいいのかとも思ったけど、それだと女装してる甥っ子でしかなくて。結局は俺は、自分自身のために着続けてるんですけどね」

 オーナーの心の穴を埋められるわけではないことまで、涼太はちゃんと分かっている。きっと手詰まりだと思っているのだろう。

「……喋りすぎました。忘れてください」

 バカのくせに難しく考えてしまっている涼太は、笑い方さえ忘れたみたいな無表情をしていた。

 見ているとモヤモヤしてくる。どうにかして、その固まった表情筋を解したくなる。どうやら俺は、涼太のこういうつまらない顔が嫌いみたいだ。

 俺はその仮面のような横顔に、そっと声をかけた。

「そんなの、涼太が考えてどうにかすることじゃないだろ」

 こんな言い方で合っているかは、部外者の俺には分からない。

「お前じゃ楓さんにはなれないって涼太もオーナーも分かってんだろ? じゃあ考えたってどうしようもないじゃん」

「だから困ってんだろ」

 涼太が無神経な俺に苛立って眉を寄せている。そんな顔をされても、俺は喋るのをやめなかった。

「多分だけど、オーナーはそのままの涼太がいてくれるだけで嬉しいんだと思う。血縁の近さとか男か女かとか、楓さんかどうかとかじゃなくて、涼太でいいんじゃねえの」

 女装している甥っ子でしかない、と涼太は言った。でもきっと、女装している甥っ子でいいのだ。

 そうだ、だってあの人はいつも、こいつを刺激しない距離で見守っている。楓さんの代わりになるかどうかなんて関係なく、涼太が大事なのだ。

「オーナーってさ、涼太を悲しませるような人は認めない、って顔してるだろ。今の心の拠り所は涼太なんだよ」

 そこまで言うと、ようやく涼太はこちらに顔を向けた。唇を数ミリだけ開いて、目から鱗みたいな表情をしていた。

 俺はそのびっくり顔を見つめて続けた。

「オーナーは勘が鋭いから、涼太がそんなことで悩んでるのも気づいてるかもしんないな。きっとオーナーは、涼太には楓さんのことで悩まれたくないと思う」

 しばらく呆然と何かを考え、やがて、ははっと笑った。

「そうかもしんないっすね。こんなことでモヤモヤしてたら、叔父さんにも楓さんにも失礼ですよね」

「そうだよ。だから桜ちゃん、そんな顔しないでー。美人が台無しだから」

 ほっぺたを指先でちょんちょんしたら、涼太の視線はいつもの氷の眼差しに戻った。

「ひと言余計なんすよね」

 それから涼太は、気だるげに立ち上がって砂のついたお尻をはたいた。

「やっぱ暇だし、店出ようっと」

「自由気ままにやってんな」

「圭一さんこそ真面目に働いてください」

 引き止めたのはそっちのくせに、涼太はそう言って俺を公園に残し去っていった。冷ややかな台詞を残していったが、その清々しい表情を俺は見逃していない。

 あいつの中で、何かが変わった。吹っ切れたのだろう。

 その背中を見送っていた俺まで、自然と頬が緩んだ。

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