7.男子?

 図らずとも玲香ちゃんの背中を押した日から、二日が経った。

 週明けの月曜、いつもどおり昼にクードラパンに訪れると、店の前に愛くるしいウェイトレスの後ろ姿があった。

「桜ちゃん! 後ろから抱きしめていい?」

 気持ちの悪い声のかけ方をしたら、涼太は害虫を発見した顔で振り向いた。

「死んでも嫌です。それより残念ですね。今日はもう店じまいですよ」

「え!? なんで?」

 月曜日の昼はいつもなら通常通りに営業している。涼太は扉に貼った貼り紙を指さした。

「この貼り紙、五日も前から貼ってましたよ。今日は町内会の用事で叔父さんが出かけちゃうから、午前中だけ開けてたんです」

 貼り紙には今日の日付と、営業時間の変更のお知らせが記されていた。ドアノブには「closed」と書かれた札が引っ掛けられている。

「マジかよ。その貼り紙、全然見てなかった」

「叔父さんはもう出かけちゃいましたし、俺じゃ厨房のことはできないので、たった今全ての片付けを終えてしまったところですよ。生憎ですが、圭一さんは今日はお昼抜きです」

 さらっと悲しい現実を突きつけられる。俺は項垂れて鞄を握り直した。

「お昼抜きじゃねえよ、普通に別のところ行くよ」

 こればかりは仕方がない。立ち去ろうとしたら、涼太がパシッと俺の手首を掴んだ。

「待って。サンドイッチでよければ、俺が作ってあげる」

「はい?」

 俺は足を止めて、再び涼太に向き直った。

「サンドイッチくらいなら俺でも作れる。自分の分の昼ご飯作るつもりだったし、ついでに食ってったら」

 親指でくいっと店の扉を示している。俺はしばらく怪訝な顔で彼を見下ろしていた。涼太はもうひと押ししてきた。

「もちろん代金は取んないですよ」

「なんだよお前、どういう風の吹き回し?」

「ついでっすよ、ついで」

 こう言っている涼太を振り払って他を当たる理由もない。

「じゃあ、桜ちゃんの愛妻弁当だと思って戴くとする」

「それは気持ち悪いな。まあいいや、来て」

 涼太に合図されて、俺は彼と一緒にカフェの店内に入った。

 店は電気が消えていて、いかにも店じまいした後の空気が漂っていた。先日見た賑やかな夜のバーから一転、この静寂はまるで別の世界みたいだ。涼太は俺がいつも行く席の辺りだけ電気を付けて、自身は厨房へと入っていった。

 俺は席について、店の中を見渡してみた。窓にかかったカーテンは全て閉められていて、自分の頭上以外の電気も点いていない。薄暗い店内はいつも以上の静けさで、オーナーにあげたウサギのぬいぐるみの無表情が寂しげに見えた。

「涼太ー、何か手伝うか?」

 厨房に向かって声をかけてみたが、涼太は素っ気なく返した。

「ひとりでできる。具材は作り置きがあるから、切って挟むだけだし」

 作業は至って単純だったからだろう、涼太はすぐにふたり分のサンドイッチを皿に乗せてこちらに出てきた。フライドポテトがないし、サンドイッチの重ね方はオーナーのものよりずっと不格好だ。

「マジで作ってくれた。ありがとう」

 テーブルに置かれた不細工なサンドイッチを見て言うと、涼太は向かいの席に腰を下ろした。

「見た目が悪いのは許してくださいね。ご馳走してるんですから」

「うんうん、下手なんて思ってないよ」

「ぜってー思ってるな」

 サンドイッチの隣には、ペットボトルから注いだだけのお茶も添えられた。サンドイッチをひと口かじってみると、味はリアクションしにくいくらい普通だった。そりゃあそうだ、具材はいつもと変わらない作り置きだし、素材は変わらないのだから、特別美味しくも不味くもならない。

「圭一さんって、ほぼ毎日おんなじサンドイッチをお昼にしてるじゃないですか。飽きませんか?」

 涼太がお揃いのサンドイッチを口に運ぶ。俺はうーんと唸った。

「飽きるも何も、昼に何食べるかはあんまり重要じゃないんだよ。仕事してると、食べることも一連のルーティンになっちゃうタイプだからさ」

「かわいそうになってきた。栄養偏っちゃいますよ」

「喧しい。死にはしないからいいんだよ」

「いつか最愛のお嫁さんに、愛妻弁当作ってもらえるようになるといいですね」

 涼太が嘲笑めいた同情を向けてくる。俺は涼太の意地悪に意地悪で返した。

「そうなったらこの店に来なくなるぞ。寂しいだろ」

「別に。さっさとそうなればいいと思ってますよ」

 冷たく言い返してから、涼太はまたひと口サンドイッチをかじった。

「圭一さん、結婚しそうにないですもんね。責任負うのが嫌でテキトーに逃げ回る人だから。女の敵だから」

「うるせえな、なんで涼太がそんなこと気にすんだよ」

「いつまで遊んでんのかなって思って心配してやってるんですよ」

 かわいらしいウェイトレスの姿で余計なことを言ってくる。涼太は突然、思い出したように手を叩いた。

「そうだ。そんな女性経験豊かな圭一さんに相談があるんだった」

「何?」

「圭一さん、どういう女性が魅力的だと思いますか?」

 涼太から投げかけられた質問に、俺はサンドイッチを持つ手を止めた。

「そっか、涼太はそんなナリしてるけど男なんだよな。そりゃ女の子に興味くらい持つか。かわいいウェイトレスにしか見えないからちょっと麻痺してたけど、お前もケダモノなんだったな」

「そうっす、圭一さんほどじゃないけどケダモノです。って、違う、そういうことを聞いてるんじゃない!」

 涼太がノリツッコミをかましてきた。それから真顔になって、ずいっとテーブルに前のめりになる。

「先日会った、玲香さんを見て思ったんですよ。玲香さんってめっちゃくちゃかわいいですよね? びっくりしました、あんなにかわいいもんなのかと」

 驚いたことに、涼太は夢中になって玲香ちゃんを褒めはじめた。以前写真を見せたときとは大違いだ。

「お前『桜ちゃんの方がかわいい』とか散々言ってたじゃねえか」

「そう思ってたんすよ! でも、会って話してみたらすっごくかわいかった」

 涼太自身も驚いている。

「初対面では、写真どおりだなと思いました。だから写真写りの問題じゃないです。むしろ子供扱いされて、第一印象はかなり悪かった。それなのに、だんだんかわいく見えてきて、いつの間にか勝てない相手に変わりました」

 最悪の初対面から入って、短い時間でそれほどまでに印象が変わったというのか。俺は眉を顰めた。

「まさかとは思うが……お前、玲香ちゃんに惚れたのか? 昨日のあれ見ただろ。玲香ちゃんはうちの総務の池田が好きなんだ。諦めろ」

「そうじゃなくて! 恋愛的な意味じゃないです。玲香さん見て、本物の女性ってすげえかわいいじゃんって思ったんですよ」

 涼太は興奮気味に両手で拳を握った。

「何がそんなに魅力的に見えたのかはよく分かんない。でもなぜか、やっぱ本物は違うなって実感したんすよ」

「ほお」

「自分では、桜ちゃんはそんじょそこらの女の子に負けないくらいかわいいと思ってたんですよ。玲香さんにも負けないって思ってたのに、底力で負かされた感じがするんです」

 もう一度驚かされた。かわいい女性を見て、恋愛相談が来るのかと思いきや、張り合おうという発想になるとは。

「まあ、女装なんかしてたら彼女できないか……」

「っせえなあ……」

 俺のお節介に涼太はお互い様の反応をして、うんざりと項垂れた。

「で、どうしてあんなにかわいいんでしょうか?」

「まあ、そりゃあ体の造りがそもそも違うからなあ。でも桜ちゃんも充分かわいいぞ」

 一応フォローしてみたが、それでも涼太は納得しなかった。

「本物には勝てないとか、そういうの嫌なんですよ。どうしたらあんな風になれるんですかね?」

 高みを目指す姿勢はある意味尊敬するが、生憎どうしてやることもできない。

「どうしたらって言われても、俺も女性じゃないからどんな努力してるかなんて知らないよ。玲香ちゃんはとにかくかわいいとしか、俺には分からない」

 途端に、涼太がむっとむくれた。

「それが腹立つんですよ! 圭一さんが、桜ちゃん以外の人に向かって平気で『かわいい』って褒め殺すのが、すごく嫌なんです」

「うわ、束縛系彼女みたい」

 重くてしつこいタイプみたいな発言だが、むすっといじけた表情がかわいくてクラッとする。焼きもち焼きの女の子が、甘えてきているみたいな、そんな錯覚に突き落とされる。

 涼太は呆れ顔で返した。

「そりゃ面白くないですよ。圭一さんは桜ちゃんにメロッメロだったから、それを利用して課題手伝ってもらってたんですし。別の人にも同じこと言ってたんじゃ、俺だけが利用できる便利屋じゃなくなっちゃうじゃないすか」

 やはり、先程の悩殺の表情は錯覚だったのかと思わされる。

「俺をそんな風に思ってたのかよ。……いや、使われてる自覚はあったけどさ……」

「じゃ、圭一さんは桜ちゃんに足りないものは何だと思います?」

 質問を変えられたが、俺はやはり悩んでまともなこたえを導き出せなかった。

「何だろう……充分かわいいからな。強いて言うなら腕力がゴリラなのに躊躇なく人を殴るから怖い……」

「ちゃんと加減してるじゃないすか。殴らせるような愚行をその程度で許してやってるんですよ? まだ甘える気ですか?」

 カッと冷たい目で見据えてくる。そういう威圧的態度が怖いと言っているのだが。

「ともかく、涼太は玲香ちゃんから何かヒントを得たんだろ? 涼太から見て、玲香ちゃんのどこら辺が魅力的に見えたか、だよな」

 俺はサンドイッチを口に持っていきがてら質問した。

「具体的に分かんなかったとしても、見た目なのか行動なのかとか、そのくらいは分かるか?」

「うーん……見た目? かな? 雰囲気かな」

 涼太が斜め上を見上げて曖昧な回答をする。俺はふむ、と頷いた。

「肌がもちっとしてて、全体的にふっくらしてる。そういうのはたしかに桜ちゃんにはないかもな」

「やはり体格なんでしょうか」

 涼太が真剣に尋ねてきた。俺は目の前にいる可憐なウェイトレスをじろじろと眺め、首を傾げた。

「いや……桜ちゃんを見てても、体格が気になることは殆どない。ふくらはぎが健康的に筋肉質なのも、むしろ色っぽい」

「わあ気色悪い。でもそうか、体格じゃないなら顔?」

 涼太が整った顔の下で指を絡める。俺はそれにも首を傾げた。

「顔はすっげえかわいいぞ。玲香ちゃんだってかわいいんだけど、そこで張り合ったとは思えない。お世辞ではなく、ほんとに。お前の長所は顔だ」

「褒めついでに人間性否定するのやめてください。しかし、顔でもないなら何なんだ?」

 涼太はサンドイッチをひと口食べて、深く考え込んだ。俺も真面目に向き合う。

「玲香ちゃんと接してて、どの辺からかわいいと感じはじめた?」

 ファーストコンタクトではいいイメージはなかったのだ。つまりどこかに、イメージが変わりはじめるきっかけがあったはずだ。涼太も真剣に昨日の記憶を呼び戻していた。

「いつだろ……圭一さんが、玲香さんに彼氏いないのかって話を振った辺りからかな。それまでは、気が利くお姉さんくらいにしか思わなかった」

 なるほど、と俺も真顔で頷いた。

「それは分かる。たしかに、恋愛相談みたいな話をはじめたあたりから、『女の顔』って感じになった」

「あっ、しっくりきた」

 涼太がバッと顔を上げた。

「そんで、好きな人のことを語り出した辺りではもう、すごくきらきらしてた!」

「分かった! 涼太が虜にされた玲香ちゃんの魅力の正体!」

 俺はぽんとテーブルを両手で叩いた。

「『恋してる顔』のかわいさだ!」

「何それ!」

「恋をする女性は、してないときよりかわいくなるんだよ」

 具体的な数値がない話だが、これは俺の経験に基づく結論である。エストロゲンとかいう女性ホルモンが分泌するからきれいになるのだとか、聞いたこともある。涼太もほお、とフクロウみたいに感嘆した。

「人に見られることを意識するから、服とか化粧とかを頑張るようになって……それでかわいくなるのかな?」

「そうかもな。実際、デートゲームのときの桜ちゃんは失神しそうなほどかわいかったという実績がある」

 俺はショッピングモールへ出かけた日の桜ちゃんを思い出した。あの日の桜ちゃんはたしか、涼太の中で「すごく好きな人との初デート」という設定があったらしかった。つまりあのときの桜ちゃんは、設定上とはいえ恋をしていたのだ。

「あの日の桜ちゃんには、本当に心臓ぶち抜かれそうだった」

「そ……そう?」

 目の前で涼太が目を泳がせる。ストレートな褒め言葉が照れくさいのか、頬を赤くしていた。思わずきゅんとする。頭の中で思い浮かべていた、あの桜ちゃんと同じ顔だ。

 あれ。俺なんでときめいてるんだ。こいつは男だぞ……。

「それじゃ、そのくらい高いレベルを求めてめかし込めばいいのか!」

 涼太は妙に納得して、サンドイッチを口に詰め込んで立ち上がった。

「ちょっと着替えてくる。圭一さん、待っててくださいね」

 テーブルに手を突いて念押しし、彼はダッシュで店の奥へと駆け込んだ。ダダダと元気な足音を立てていなくなる。

 俺は薄暗い店内にひとりで取り残された。お茶を啜って、涼太が戻るのを待つ。

 俺は女性相手に、本気のお付き合いをするのが苦手である。責任を持って交際するのが面倒なのだ。

 桜ちゃんにはしょっちゅうどきどきさせられる。あれが本当に女の子だったら、逆に手出しできない。なるべく距離を詰めすぎないように、でも離れなくていい都合のいい距離を探してしまう。

 そうでもしないと、きっと他へ行けなくなるほどの本気の恋をしてしまうからだ。

 だが涼太は男なのだから、このくらい親密になったっていいはずである。これは友愛だ。そう割り切っているつもりなのに、何だろうか、このそわそわした気持ちは。

 これから全力でお洒落してくるという涼太がどんな姿で現れるのか、考えただけで顔がニヤニヤしてくる。

 やがて、またドタドタと騒がしい足音が響いてきた。

「お待たせしました!」

 店の奥から、花が咲いた気がした。

 走る動きに合わせてさらさらのウィッグが揺れ、こちらに向けた目は長い睫毛に覆われていた。カウンターから出てきて全身が目に入る。白いトップスに黄色いスカート、パール風のビーズと花のビーズがあしらわれたネックレス。試着室で見た、あの衣装だ。

 俺は口を覆って、叫びそうになるのを堪えた。

「あっ……かわいいっ……」

 先程よりも化粧が丁寧になっていて、ひらひらと軽やかな服装は妖精みたいに神秘的で、且つ愛らしい。俺の反応を満足そうに見届けて、ふわっと微笑む。薄暗い店の中では目が霞むせいだろうか。男だと分かっているのに、女にしか見えない。脳がエラーを起こしてしまう。

 心臓がばくばくする。女性の美しい姿なんて何度も見てきているのに、何だろうか。今の俺は、ものすごくピュアな思春期のガキみたいに戸惑っていた。

 涼太はニターッとかわいげのない笑顔を滲ませた。背中に隠れていた手がひょこっと出てくる。白い淵の手鏡を握っていた。

「ですよね、超絶かわいいですよね、俺。どうしよー誘拐されちゃう」

 手鏡を覗いて頬に手を添え、くるくる回っている。折角かわいいのに、中の人格が残念だ。アホな振る舞いを見ていると徐々に冷静になってきた。よかった、ちゃんと男、涼太に見える。

 涼太は楽しそうに回転して、ふと、ピタリと回るのをやめた。真顔に戻って鏡を見つめている。

「あんまりかわいくねえわ」

「急に我に返ったな」

「さっきまで結構いい線行ったと思ったんですけど……なんか、やっぱり玲香さんの方がずっときれいだ」

 涼太は大人しくなって、テーブルの方へと歩いてきた。

「あの日の玲香さんは、デート用の服を着てたわけでも凝った化粧をしてたわけでもない」

 男の声で冷静に分析している。外見は驚くほどの可憐な女性なので、見ていると頭が混乱しそうだ。

「たしかに玲香ちゃんはかわいいよ。だけど桜ちゃんは桜ちゃんでかわいいんだからいいんじゃないのか? ライバル意識燃やすところじゃないだろ」

 宥めてみると、涼太は不満そうに眉間に皺を寄せた。

「それじゃやだ……。圭一さんを課題の攻略に利用するためにも、俺だけに惚れ込んでほしい……」

 上目遣いで俺を一瞥したその表情に、またどきんとした。

「玲香さんの写真を見せられたときだって、そんな存在がいるの認めたくなくて、見たくないとこたえました。でも、どんな人なのかやっぱり知っておきたくて、見ました」

 涼太がたじたじと呟く。

「本当の女性と女装の俺じゃ、全然違うのは分かってる。張り合っても仕方ないって分かってます。でも、圭一さんがいちばん好きなの、桜ちゃんにしておいてほしいんです。課題、手伝わせたいので」

 自分で触らなくても分かるくらい、顔が熱くなる。まばたきすら忘れて、息を止めていた。涼太も伝染したみたいに顔を赤らめた。

「え、何ですか、その反応」

「だって、今のすげえかわいいから」

「そうですか?」

 少し気まずそうに、それでいてすごく嬉しそうに苦笑いしている。俺は咄嗟に心臓の辺りのシャツを握った。

「だめだ、すげえ心臓どくどくいってる。お前本当に男?」

「男ですよ」

「女装してる男のふりしてる女じゃなくて?」

「なんのメリットがあってそんなややこしいことするんですか。大体、圭一さんも何度も俺が男だって実感するような姿を見てきてるでしょ?」

 涼太が手鏡をテーブルに伏せた。じっと見つめてくる瞳は、氷のように蔑んだいつものそれではない。それさえも溶かすほどの、熱い視線だ。俺はどぎまぎと声を上ずらせた。

「分かってんのに信じらんない。男だって分かってたら、普通こんなに心臓暴れないだろ……」

「信じてないんですか?」

 涼太がカタッと椅子から立ち上がった。俺の横へと歩み寄ってくる。俺は椅子の角度を変えて、彼に正面を向けた。涼太はスッと左手を伸ばしてきて、椅子に座った俺を追い込むように壁に手を突いた。俺に被さる姿勢になった涼太は、空いている右手でトップスの裾を握った。

「見ますか?」

 涼太が無声音で囁く。時間が止まったみたいに静かな店内で、その声は俺だけに届く。俺は上手く返事ができなくて、は、と息を詰まらせた。

 涼太の手がススッと白い布をたくし上げていく。俺はびくっと椅子ごと後ずさった。

「おい、何考えてる」

「圭一さんに現実見せてやろうと思ってるんですよ。いい加減俺が男だと百パーセント認識してください」

「だからってこんなとこで脱ぐなよ。なんだこの状況」

 理性をフル稼働して制する。が、涼太は不敵に笑った。

「こんなとこ? なんでだめなんですか。いちばんプライバシー守られてると思いますよ。カーテンは閉まってるし、休業日の札がかかってるから誰も入ってこない。叔父さんはしばらく帰ってこない」

 ほの暗い店の中は、いつの間にやら俺と涼太だけを閉じ込めた異空間と化していた。扉に鍵がかかっていなくても、ここまで隔離されていれば密室と錯覚するほどだ。

 涼太は俺をからかうように、肌を見せていく。くびれのない腰が露になり、引き締まったお腹が晒される。ネックレスがチャリ、と小さく鳴いて、捲り上げられるトップスの裾に巻き込まれた。

「やめ、なさい」

 見てはいけないものを前に、目を背けられないような、罪悪感と背徳感が全身を包んでいく。そわりそわりとした気持ち悪い快感になって、指先まで痺れていく。

 涼太も手を少しずつ上にずらしながら、ふは、と熱っぽい吐息を吐いた。俺をからかうような目で見下ろしているが、その瞳はやけに濡れている。焦らすようにトップスをじりじり上げていく仕草に、俺は呼吸の仕方も忘れて釘付けになっていた。

「ほら、ね」

 トップスを鎖骨までたくし上げた涼太は、嫣然と笑った。

 目の前にはたしかに、丘のないぺたんこの胸が広がっていた。僅かに膨れて張ってはいるものの、女性特有の丸みを帯びた曲線はない。なだらかな胸板とそこそこできあがった腹筋が視界を占めている。完全に男の上半身だ。全く欲情しない。はずなのに、俺はいつの間にか、そろりと手を近づけていた。

 涼太は座る俺を見下ろして、はふ、と短い息を吐いた。店内が暗い上に彼が俺に覆い被さるせいで、顔が影になっている。それでも、艶やかな視線と見下したような不敵な笑みは見て取れる。さあ来いとばかりに、俺を試しているみたいな笑い方だ。

 試されているのなら、我慢が効かないと罵られる。分かっているのに、あからさまな挑発を前に自制が効かなくなる。手が、止められない。

 閉まったカーテン、閉店中の表示、出かけたオーナー。今なら、誰にも見つからない。

「なあ、涼太。俺、分かったかもしれない……」

 俺は声にならない声で掠れさせた。その息が吹きかかったのか、涼太は少しだけびくっと身をよじった。

「多分さ、恋する女性がきれいなのは、めかし込むからだけじゃないんだよ。内側から変わってるんだ」

 指先がお腹に、ツツッと触れる。すべすべしている。涼太は口を結んで、僅かに体を震わせた。

「そういうモードに入ってる人は、スッピンで寝巻きでもかわいい。玲香ちゃんは初対面から最後まで、服も化粧も変わってないけどすごくかわいくなっただろ」

 そうなのだ。好きな人を想う顔というのは、素体に拘わらずかわいくなるものなのである。

 素体に拘わらず、だ。

「そうだ、さっきのやきもち顔の涼太もすげえかわいかった」

「そう、ですか」

 涼太がようやく声を出す。俺は硬いお腹をツッと撫でた。

「好きな人との初デート仕様で現れたときも、気に入った服を買ってもらえて喜んでるときも、いつもより割増でかわいかった」

 指をツツッと上昇させる。お腹から胸にかけて少しずつなぞっていく。涼太は唇を噛んで、目を細くしていた。

「こうやって、触れられてるときも」

「んっ」

 擽ったそうに目を瞑り、唸る。再びうっすら目を開けて俺を睨む涼太は、口から息を吸い込んだ。割れた唇からちらりと赤い舌が覗く。

 顔は我慢で歪んでいるのに、途方もなく艶っぽく見えるのだ。

 目が離せないほどの絶景を前にしたときに似ている。体じゅうを支配されて自由に動けなくなる。誘うような目つきに、自然と指先が吸い寄せられてしまう。目が眩む。長風呂でのぼせたみたいに、判断力がみるみる低下していく。

 短い呼吸を繰り返して、俺はか細い声で囁いた。

「課題を手伝わせるために、俺を惹き付けておきたいだけなんだったらさ。俺にとっていちばんかわいければ、それでいいんじゃないか?」

 玲香ちゃんや、他の女性と比べる必要なんかない。

 しっとりした肌が指に吸い付く。涼太は首を竦めて、細めた瞳で俺を見つめていた。

「じゃあ……今、いちばんになれてますか?」

 俺は返事の代わりに、浅く息を吐いた。微かにぷっくりした胸元に、指を押し付けたときだった。

「ただいまー! 涼太、会合が意外と早く終わったよ。予定変更で午後もお店開けっ……」

 容赦なく開いた店の扉と、二階にまで届くように張り上げた大声。オーナーは途中で、その場にいた俺と涼太に気がついて言葉を切った。

 瞬間、俺はすっと冷静になった。

「……ん?」

 オーナーが微笑みを携えたまま固まった。涼太も彼の方に顔を向けて硬直する。俺は涼太の服の裾を引っ掴んで、腹までガッと下ろした。

「誤解です」

「まだ何も言ってないよ」

 オーナーは動かないで声だけ発した。俺は真面目な声で続けた。

「何もしてません。本当です」

 そこでようやく、オーナーはのそのそ動き出して店の電気をパチリパチリと点けた。天井の電球がパカパカと明かりを灯す。

「僕は悪くないよね。自分の店に戻ってきただけなんだから。そんな邪魔したみたいな顔される筋合いないよね」

「邪魔なんて思ってないです。お宅の甥っ子さんが突然脱ぎだしたので、こっちも困惑していたところです」

 全責任を涼太に押し付けておく。ようやく涼太も我に返った。

「え、いや、そうじゃないっす。叔父さん、俺もそういうつもりじゃなくて、なんか全部圭一さんが悪いんです」

「分かった分かった。ふたりともお昼は食べたの? あ、あと圭一くんは働け。時計見ろ、給料泥棒」

 オーナーが淡々と言うのを聞いて、俺ははじめて腕時計を意識した。一時半近い時刻を指している。

「うわ! やばい、二時から商談だった」

 俺が悲鳴を上げると、涼太も壁に付けていた手を離して後ずさりした。俺はじろっと涼太を睨んだ。

「あーあ! お前のせいでオーナーに絶対誤解された!」

「最悪ですね。チャラ男と変態のキメラですね」

 涼太は自分のせいなのにしれっと冷ややかに言った。

「俺がキメラならお前は美少女型クリーチャーだよ」

 数秒前までの意味不明な色気は幻影だったのか、今そこにいる涼太は普段の態度の悪いクソガキである。俺のことを汚れのように見据えて、ネックレスの角度を直している。

 最悪だ。

 なぜ俺はこいつを相手に、あれほど胸を熱くしたのだろう。理性では男だと分かっていた、いや、むしろ目の前の体つきを見て嫌というほど認識していたはずだった。

 しかしそんなことはさておいて触れたくなってしまった。女性の体に触れるのとは違う、こいつだから触ってみたいという衝動に突き動かされた。脳が飴にでもなったのかというほど、思考がままならなかった。

 これはまずい。自分で自分が分からない。コントロールできない。

 しばらくは涼太と顔を合わせないようにした方がいい。大体、こんな怪しい場面を見られてオーナーに合わせる顔もない。明日からは来ないようにしよう。

 そう決めて店を出ようとしたら、背後で涼太が冷えた声を投げてきた。

「これで恥ずかしがって明日から来なくなったりしたら、チャラ変態に更にヘタレが加わります」

「うるせえ! ヘタレではねえよ」

 事実、自分が怖すぎてもうこの店には近寄れないと思っていたくせに、捨て台詞だけは吐いておいた。

 逃げるように店を飛び出す。頭を仕事に切り替えなくてはいけないのに、あの妖艶な表情が頭から離れない。指に肌の感触が残って、消えてくれない。

 思春期のガキみたいに、頬が火照って目が回る。

 もうなるべく考えないようにしよう。俺は自分の頬をピシャッと引っぱたいて、商談のことだけ考えるようにした。

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