6.対象?
あれから約一週間が経った。
あの日以来、クードラパンのカウンターにはウサギのぬいぐるみが鎮座している。そろそろそれも風景に馴染んできて、店と一体化しはじめていた。
そしてあの日以来、桜ちゃんのかわいさが加速した気がする。恐らくデートコーデを研究するにあたって化粧を極めたのだ。桜ちゃんのかわいさは更に悪質になった。
その上、あいつはいつの間にか俺をからかい返すことを覚えた。
「圭一さん……」
甘えた声で名前を呼んで、涼太は自身の唇にノートを添えた。
「いっぱい出ちゃった……課題」
こうやって甘える素振りという汚い手を使って課題を手伝わせようとする。
「自分でやれるようにしろって。いつまでも甘えてたらひとりでこなせるようになれないぞ」
「いいもん。いつまでも圭一さんが手伝ってくれるから」
「お前なあ……」
だが俺の方も利用されるばかりではない。元々は俺がこいつを困らせて怒らせて楽しむ立場だった。逆転するつもりなどない。
「授業料はいただくぞ」
ぴろっとスカートの裾を摘んで言うと、涼太は両手で持ったノートを振りかざし無言で俺の脳天を直撃した。
こいつの俺に対する態度の冷たさは変わらない。スカートの中を覗こうとすると、あの筋肉質な腕で容赦なく殴りかかってくるのだった。
「送別会のプレゼント、買ってきてくださってありがとうございます!」
会社の給湯室で玲香ちゃんと一緒になった。彼女は午後のコーヒーを作っていて、俺も自分のものを作りに来たところだった。
「焼き菓子のバスケットすごくかわいかったです。センスいいんですね」
「本当? よかった」
涼太と一緒にショッピングモールで選んだ、あの焼き菓子の詰め合わせのことである。退職する女子社員への餞別として、うちの部から、という枠組みで渡す予定になっている。後で個人からカンパを貰うので、買ったバスケットは写真を撮って部内に回していた。
「佐藤さんって本当に気が利きますよね。送別会の話が来たらすぐに贈り物を提案してくれて、しかも下っ端の私に買いに行かせるんじゃなくて、自分で行動してくれて。選ぶお菓子のセンスもよくて。私の出る幕ないじゃないですか」
玲香ちゃんが褒めながら怒る。彼女が腕を組むと、大きな胸がずっしりと乗って重たそうに見えた。
「玲香ちゃんは、いてくれるだけで華だからいいんだよ」
「また調子のいいこと言って……」
玲香ちゃんがマグの中のインスタントコーヒーにお湯を注ぐ。
「でも、佐藤さんモテそうですよね」
「そりゃモテるためにあらゆる努力をしてるからな」
「自分で言っちゃった……」
呆れ顔で苦笑する玲香ちゃんに、俺も自嘲的に笑った。
努力しないと女が寄ってこないのだ。本当は中身がスッカラカンだからな。
「玲香ちゃんも男がほっとかないでしょ」
俺は冷蔵庫に寄りかかって尋ねた。玲香ちゃんがマグの中にマドラーを突っ込む。
「そう思います?」
「うん。きれいだし、気立てがいいし」
巨乳だし。というのは、声には出さないでおいた。
「若いのに大人っぽいのも魅力だよね」
ガキっぽい涼太の世話をしたばかりのせいか、彼女がすごく落ち着いて見える。玲香ちゃんは照れ笑いをして肩を竦めた。
「そんなこと……ないですよ。褒めすぎです」
なんてかわいい反応だろうか。これが桜ちゃん……いや、涼太だったら、「知ってます」などと言ってのけたところだろう。
「そういう謙虚なところもかわいいよ」
「もう、やめてくださいよー。褒めたって佐藤さんの分までコーヒー淹れるくらいしかしませんよ」
玲香ちゃんは恥ずかしそうに俺の手からマグを奪った。その反応がまた愛らしくて、俺は横で更に連呼した。
「何それ、かわいい。かわいいなー、玲香ちゃんかわい……」
「佐藤! お前はまた女子社員を困らせて!」
給湯室を覗き込んだ課長に見つかった。
「コミュニケーションだよね、玲香ちゃん」
俺は玲香ちゃんを盾にして無実を主張した。玲香ちゃんは楽しそうに笑う。
「誰にでもこうなんだから! 佐藤さんの彼女になる女性は大変そうですよね」
「俺はただ、世の中の女の子たちを満遍なく愛しているだけ」
「それがだめなんですって!」
大笑いする玲香ちゃんと勝手に続ける俺を交互に見て、課長が怪訝な顔をする。だがいつものことなので、課長もため息ひとつで許した。
「でもな佐藤、そういうの女性側が嫌がれば立派なセクハラだからな」
「はいはい、ちゃんと限度分かってますって……」
冗談が通じる相手に、その通じるレベルに応じたことしかしていない。
「職場から追放されるのは困りますからね。きちんと立場を弁えてますよ」
声に出して言ってから、俺はハッと一瞬表情が消えた。クードラパンのオーナーとの会話を、急に思い出したのだ。
かわいいかわいいウェイトレスを見つけて、俺はこんな風に彼女を口説いていた。それも好みのド真ん中をいく外見とキャラだったので、他の女の子より熱心に近づいた。実はそいつは男だったという壮絶なオチではあったが、そんな折にオーナーとのんびり話したことを思い起こしたのだ。
きっとこれは恋だ、なんて言ってあの子をからかっていた。でも立場を弁えているから、それ以上接触するつもりはないと、オーナーにそう告げていた。
それなのに、最近はどうだ。相手が男だからと油断して、仲良くなりすぎたかもしれない。
「……あっ、男だから別にいいのか。仲良くなっても」
その気づきだけ、つい口から洩れ出た。課長の耳には届かなかったようだが、すぐ傍にいた玲香ちゃんには聞こえたらしく、不思議そうに首を傾げていた。
*
その日の夜、残業で帰りが遅くなった。もうすぐ九時になる。
さっさと帰ってすぐにでも寝てやろうかとも思ったが、今日が金曜日だったことに気づいて思いとどまった。明日は休みだ、久しぶりに酒でも飲みたい気分だった。
会社の同僚を数名思い浮かべ、今からいきなり飲みに誘おうかと考えたのだが、その数名は残業せずに帰っている。先に言ってあったならともかく、今から急にでは流石に迷惑だ。
かといってひとりで飲むのもつまらない……そこまで考えて、そうだ、と閃いた。
昼間はカフェのクードラパンは、夜になるとバーになる。オーナーのその発言を、思い出したのだ。
会社から徒歩で十分もかからず、行き慣れた店についた。夜に来るのは初めてだ。窓から洩れる明かりが眩しくて、何だか普段と全く違う店のように感じる。扉を開けると、人の声のざわめきが耳に飛び込んできた。
「いらっしゃーい」
そのざわめきの中から、耳によく馴染んだオーナーの声が交じる。
「あ、圭一くん! お疲れ様。夜に来てくれたのはお初だね」
店の中は、外観以上に昼とは別の店のようだった。カウンターもテーブルも殆ど埋まっていて、いつもはガラ空きの店内に人がたくさん集まっていた。カラカラと酒のグラスと氷のぶつかる音がして、オーナーも手元でカクテルを作っている。もはやぽかんとするほどの光景だった。
「すごく盛況なんですね」
カウンターに近寄ってオーナーに言うと、彼は鼻が高そうに笑んだ。
「まあね。席は……あ、あそこ空いてるね」
オーナーが手で示したのは、俺がいつも座るテーブル席の隣のテーブルだった。お気に入りの場所が陣取られていると、余計に別の店のような錯覚に陥る。案内された席に腰を下ろして、テーブルに立てられたメニューを確認する。昼間とは違うメニューと入れ替えられていて、中身は多種多様な酒とおつまみばかりになっていた。
日本酒やらワインやら幅広く取り揃えてあるが、一杯目は生ビールに決めた。
「オーナー、生を。あと唐揚げ」
「はーい。そんでね圭一くん、今、涼太呼んどいたよ」
オーナーは片手に携帯を握って言った。
「え、涼太来てくれるの?」
「上の自宅にいるからね。圭一くん来てるよって連絡したら、来るって」
無視すればいいのに、わざわざ来てくれるというのだ。
「涼太、俺に冷たいくせに案外懐いてますよね」
「来てるなら殺しに行かなきゃ! って言ってたよ」
「わざわざ嫌がらせしに来るのか」
そんなやりとりをしているうちに、涼太はドタドタと走って現れた。オーナーがビールを持ってくるより先に到着した。
「夜も来やがったんですね!」
駆け寄ってくる彼は、桜ちゃんではなく涼太だった。風呂に入った直後だったようで、髪が湿っている。ラフなTシャツに上着を羽織り、下はスウェットを履いていた。
「桜ちゃんじゃないのか。女の子と飲みたかったな」
「キャバクラじゃねえんですよ」
涼太がメニューを手に取って俺の頭を引っぱたいた。
「珍しいですね、圭一さんが昼以外に来るなんて」
メニューを戻して、涼太が向かいに座る。俺は彼の火照った顔に返事をした。
「たまにはね。バーになるとどうなるのか見たかった」
「叔父さんがバーテンダーしてるの、格好いいですよ」
なぜか自分のことみたいに涼太がオーナーを自慢する。話題にのぼっていたオーナーが、お盆にビールと唐揚げを乗せて持ってきた。
「はい圭一くん、お待たせしました」
コトッとテーブルに置かれた金色のジョッキを、涼太が興味深そうに注視した。
「これ美味しいんですか?」
「そりゃあね。暑い時期なんかは最高だよ」
俺が涼太の疑問にこたえている内に、オーナーはせかせかとカウンターに戻っていった。いつになく忙しそうだ。
涼太はまじまじとジョッキを眺めた。
「なんで泡立ってんの?」
「なんでって……知らない」
「ひと口頂戴」
さらっとねだられて、俺は自然とジョッキを差し出した。が、すぐに引っ込めた。
「だめだ、お前未成年だった」
「ちっ、気が付きやがった」
全くかわいげのない反応を見せてから、涼太はめげずにしつこくせびった。
「いいじゃん! ちょっとくらい大丈夫だろ。俺がそれをひと口飲んだからって誰も不幸になんないですよ」
「たしかに理屈としてはそうかもしれないけど……」
こんなに欲しがられると少し揺らいでしまう。ひと口くらいなら舐めさせてやろうかな、などとぐらついていると、オーナーがカウンターから出てきてこちらに歩いてきた。
「ごめんね圭一くん。その子、お酒に興味津々なんだ。僕もなるべく見せないようにはしてるんだけどねえ。飲んでみたいってうるさいんだよ」
お酒の代わりに、涼太の前にオレンジジュースを置く。涼太は不服そうにむくれた。
「二十歳に達してないからって、子供扱いみたいになるの嫌なんすよ」
そうごねられても、オーナーもけじめをつけているしこればかりは許してやれない。オーナーはカウンターに戻り際にちらりと俺に目配せした。
「頼んだよ。絶対に飲ませないでね。目を離しちゃだめだよ」
「承知っす」
オーナーに誓うと、彼はこくりと頷いて涼太を俺に託し、カウンターに戻っていった。
「ねえひと口、ひと口だけ」
涼太が目をうるうるさせておねだりしてくる。しかし俺は心を鬼にした。
「だめなもんはだめ。お前は唐揚げでも食ってろ」
ビールと一緒に注文していた唐揚げをずいっと涼太に突き出す。俺自身はジョッキに口をつけた。くっと傾けるとキンキンに冷えたビールが流れ込んできて、キリッとした辛さとしゅわっとした舌触りに痺れる。喉越しがスッキリしていて、心地よい。
「はあ、最高」
ため息とともに感想を洩らすと、涼太はもっと不満そうな顔をした。
「全然味を想像できない。ひと口くらいくださいよ」
「お子ちゃまの涼太くんにはまだ早い」
わざと煽ると涼太は簡単に乗ってきた。
「あと一年とちょっとじゃん! 飲ませてよ。味教えてよ」
「だめ」
「圭一さんお願い! あなたは叔父さんと違って融通の利く人でしょ? 柔軟にいきましょう?」
「だめ」
欲しがる奴を前にして自分ばかり酒を飲むのは妙に快感だ。お預けを食らう涼太は悔しそうに唸った。一旦大人しく、出されたオレンジジュースに口をつける。数秒間、目を泳がせてから意を決したようにちびっと飲んで、涼太はまたこちらに向き直った。
涼太はカタッと椅子から立ち上がり、テーブル越しに前のめりになった。俺を手招きし、顔を寄せるように促してくる。俺は指示どおり上体を屈めた。涼太が耳元に唇を寄せた。
「桜ちゃんの格好してきたら、口移ししてくれますか?」
こそっと鼓膜を擽った言葉に、心臓が止まりかけた。
「それは……色んな意味でだめ」
「ちっ……ドケチ」
ふいっと顔を離して、涼太は椅子に座り直した。が、睨みつけるような目でこちらを凝視してまたひと言加える。
「頂戴」
「お前しつこいぞ。なんでそんなあらゆる手を使って欲しがるんだ。しつこい奴は嫌われるぞ」
いい加減うんざりしてきて、きつめに受けこたえた。しかし涼太は却って反発する。
「俺、欲しいものへの執着はすごいっすよ。望みがなくても欲しがるのは自由ですから」
真剣な眼差しで語りはじめた。俺は見せびらかすように酒を傾けて聞いていた。
「諦めろって言われて諦められるものなら、初めから要らないのと同じなんですよ。相手が困ってるの分かってても、止められないくらい欲しいんです」
涼太の神妙な面持ちは何となく意味深で、何か強い意志のようなものを感じた。が、俺は深くは突っ込まないで上辺だけ捉えておいた。
「熱意は伝わった。そんなに飲みたいのか」
どんなに必死にアピールされようと、お預けはお預けである。俺はジョッキを横取りされないように持って離さなかった。
「じゃあ涼太、こうしよう」
俺はジョッキを口元で止めて、ひとつ提案をした。
「涼太が二十歳になったら、俺のいちばんオススメのお酒を買ってきてやる。誕生日にでもやるよ」
途端に、涼太はぴたっと固まった。
「ほんとに?」
「うん。その酒が涼太の人生で最初の酒だ」
「一緒に飲みます?」
「そうだね」
涼太が押し黙る。意外と効いているみたいだ。俺はもうひと押しした。
「それまで我慢しような」
「……分かった。約束破ったら恨むからな」
あれだけしつこかった涼太は、観念したみたいに頷いた。
「怖えよ。まあ約束は守るけどさ」
そこからは、涼太はもう俺のビールを取ろうとはしなくなった。オレンジジュースの氷をストローでガシガシつついている。
「そのときになったら、俺ももっとこう……ちゃんとする」
「ちゃんとするって何だよ」
涼太はふわっとした表現で何か言いたそうにして、結局はっきり言わずにオレンジジュースのストローを咥えた。
ひとまず大人しくなってよかった。俺は安心してビールのジョッキを置いて、割り箸で唐揚げを摘んだ。
そこへ、店の扉の開く音がした。
「あら、満席ですか?」
澄んだ女性の声だ。聞き慣れた声に、俺はぎょっと振り向いた。空色のワンピースに白いボレロを羽織った女の人がいる。丸い襟から溢れ出しそうな胸と、整った顔に、俺は思わず立ち上がった。
「お!? 玲香ちゃん!?」
「佐藤さん! 偶然ですね」
向こうも驚いて、大きな目をより見開いた。そこにいたのは、うちの部署の事務員の玲香ちゃんだったのだ。玲香ちゃんと対峙していたオーナーが俺の方を一瞥する。
「あれ、知り合いなの? この方、よくこの店に来てくれる人だよ」
「そうだったんですか。玲香ちゃんは同じ会社の子ですよ」
俺は興奮気味に玲香ちゃんへと歩み寄った。玲香ちゃんも、わあっと両手をこちらに伸ばして歓迎した。
「佐藤さんもよく来るんですか?」
「昼間にね。夜は初めて来た。玲香ちゃん今日ひとり? 満席だし、よければこっちのテーブル来る?」
「いいんですか!?」
キャッキャと盛り上がる玲香ちゃんがテーブルに向かってくるのを見て、涼太が椅子から立ち上がる。お客さんを迎えて立ち去ろうと思ったようだが、玲香ちゃんは気さくに彼に駆け寄った。
「ん? 君は佐藤さんのお連れ様?」
「こいつはこの店の身内だよ。涼太っていうの」
俺が代わりに紹介すると、涼太はぺこっと頭を下げた。
「お世話になります。玲香さん」
「かわいいー! ボク、高校生か中学生くらいかな?」
玲香ちゃんが悪気もなく涼太に猫なで声を出した。涼太が小柄で童顔なので、大人だらけのバーの中ではかなり幼く映ったようだ。涼太が分かりやすくカチンと眉を寄せた。
「大学生っす……」
「あれ、そうなの!? ごめんね。じゃあこれはお酒かな?オレンジのカクテル?」
玲香ちゃんがオレンジジュースを指さす。涼太がお酒が飲めなくて悔しがっているというのに、何も知らない彼女は天然で涼太を煽った。
「一回生なんで……まだ未成年です」
涼太が険しい顔でこたえる。玲香ちゃんは経緯を知らないので全く悪びれない。
「そうなんだ! じゃあまだジュースで我慢だね。涼太くんも一緒にお話しよっか」
玲香ちゃんがそう言うと、タイミングを見たようにオーナーが予備の椅子を運んできた。テーブルに椅子が三つになって、俺と涼太と玲香ちゃんが全員座れるようになった。
面白いことになったなと、俺は内心ニヤついた。
機嫌が悪い涼太といまいち空気が読めていない玲香ちゃん。俺に対する態度と違って、流石の涼太でも玲香ちゃんには直接攻撃はしない。だが、第一印象は限りなく悪いようだった。
玲香ちゃんが白ワインを選び、それがテーブルに運ばれてくると俺たちはそれぞれグラスをぶつけて乾杯をした。しぶしぶ乗っかる涼太に、玲香ちゃんがにこやかに笑う。
「佐藤さんのお友達なの?」
「まあ、そんなとこです」
涼太がオレンジジュースを啜る。俺は唐揚げを口に突っ込んで、女装していたらなんてこたえたのかなあ、なんてくだらないことを考えていた。
「玲香ちゃん、いつもひとりで飲みに来るの?」
「はい。月に一回くらいですよ」
玲香ちゃんがこたえたところへ、サラダを持ってきたオーナーがニッと笑んだ。
「ひとりで来るから、圭一くんみたいな客に絡まれてるよね。でも全く相手しないの」
「ナンパ待ちかと思われるのかも。ひとりでお酒飲みたいだけなのになあ」
玲香ちゃんが苦笑する。オーナーはお盆の上に重ねていた取り皿を手に取った。
「寂しそうに見えるのかもね。ちゃんと強かに断ってるの見ると僕は安心するよ」
皿をテーブルに置いて、彼は他の客の方へといなくなった。玲香ちゃんは自然な所作でサラダを取り分ける。
「涼太くん、食べられないものある?」
「ううん、特には」
こたえる彼の前に、玲香ちゃんがきれいに盛り付けたサラダを配る。気が利く姿を見せつけられて、涼太は感嘆した。
「ありがとうございます……ほお、こういうとこか。圭一さんが褒めてるとこ」
「えっ? 佐藤さん、涼太くんに私の話なんてしてるの?」
玲香ちゃんが目を丸くする。俺はあははっと笑って手をひらひらさせた。
「部署にかわいい子がいるんだぞって自慢してた」
「どこでもそんな感じなんですね」
玲香ちゃんが俺の前にもサラダを置いてくれた。均等にきれいに盛り付けられて、彼女の細やかさが見て取れる。
「ありがとう。気が利くよねえ、かわいいし。流石は我が社の女神」
早速褒め殺しに入った俺に、玲香ちゃんはじろっと訝しげな目を向けた。
「すぐ調子に乗るんだから。そんなんだから却って彼女できないんですよ」
手厳しい意見が出たところへ、涼太が喜んで加勢した。
「そうそう。圭一さんは特定の人を見つけた方がいいですよ。ふらふらしてるせいで落ち着きがなくて見苦しいっす」
「うるせえよ。涼太もさっさと彼女作れや、華の大学生だろ」
言い返してから、俺は重大なことに気がついた。涼太は女装癖があるが、それを受け止めてくれる彼女なんてできるのだろうか。それか、彼女ができたらもう女装はしなくなってしまうのだろうか。
そう思うと寂しい気がした。身内であるオーナーと涼太本人、後は俺しか知らない「桜ちゃん」の秘密。その存在自体が、なかったことになってしまうのだろうか。
「やっぱやめた、涼太に彼女はできなくていい。一生童貞腐らせてろ」
「何だと! あんたが遊びすぎなんですよ、この歩く猥褻物!」
低俗な喧嘩を始めた俺と涼太を見て、玲香ちゃんがあははっと軽やかに笑った。
「仲良しですね!」
「どこがだよ。それより、玲香ちゃんこそいい人いないの? こんな店にひとりで来てるなんてさ」
俺は今度は玲香ちゃんに話題を差し向けた。涼太も興味深そうに彼女に注目する。自分に振られることを予想していなかったのか、玲香ちゃんは戸惑い気味に目を動かした。
「えっと……私は」
玲香ちゃんが言い淀む。頬をふわっと赤くして、きょどきょどしている。幼い少女のような表情は、なんともいたいけだった。
俺はジョッキを傾けて、涼太は唐揚げを割り箸で挟んだ。ふたりからじっと見つめられ、玲香ちゃんはちょっと狼狽した。
「……本当は、こういうところにも、ふたりで来れたらなって思っている人がいます」
照れて目を伏せる玲香ちゃんは、もそもそと消えそうな声で話した。
「でもなかなか呼べないです。ここは私にとって、隠れ家みたいなものなので。まだちょっと踏ん切りがつかないんですよ」
「ほお。隠れ家を見せてもいいかなってくらいには、好きな人なんだ。でも大事な隠れ家が隠れ家じゃなくなってもいいかというと、葛藤があるんだな」
俺が口を挟むと、玲香ちゃんはこくっと頷いた。好きな場所に好きな人と行きたい気持ちと、ひとりになりたいときのために秘密にしておきたいという気持ちが拮抗しているのだ。
「佐藤さんだったら、そういうとき、どうしてほしいですか?」
玲香ちゃんがちらりと目を上げた。
「自分だけの秘密の場所を持ってる女は、嫌ですか?」
「そりゃあ、いいお店があるのを知ってるんなら教えてほしいよ。喧嘩して飛び出して行っちゃったりしたときに、捜すにあたって心当たりは多い方がいいし」
こたえている俺の方を、涼太が見つめている。彼がひと口グラスを傾けると、氷がカランと涼しい音を立てた。俺はそれを横目に続けた。
「けど、玲香ちゃんが窮屈になるほど束縛するのは嫌だな。俺の知らない玲香ちゃんがいてもいいと思う。愛し合ってるなら全部知ってなきゃいけない、なんてことはないんじゃない?」
知られたくないことくらい、きっと誰にでもある。全部引っ括めて好きだというのが理想的だったとしても、本人か隠したいことまで問いただすのは違う。
「腹ん中全部見せないと信頼できないような関係は、俺なら嫌だな。玲香ちゃんが、自然に『一緒に行こう』って言いたくなるまで、無理して連れてくることはないんじゃないか」
「……ははっ、佐藤さんが言うんなら、きっと私が好きな彼もそう言います」
玲香ちゃんが儚げに笑った。その表情に、胸がぎゅっと締まる。
「佐藤さんって、恋愛経験豊富そうですもんね」
「そう?」
俺は作り笑いを貼り付けて、首を傾げた。玲香ちゃんはゆっくり頷いた。
「女に慣れてる人にとっては、私もたくさんいる中のひとりなのかもしれない。そういう男性を好きになったら、絶対に苦労する。でも、私は自分の隠れ家に連れていきたいと思うほど、本気になってしまいました」
全身に弱い電流が走った。給湯室での彼女の言葉を思い出す。「佐藤さんの彼女になる女性は大変そうですよね」と、玲香ちゃんは苦笑いしていた。
玲香ちゃんは恥ずかしいことを暴露するかのように、少しずつ、少しずつ言葉を選んだ。
「気が利いて、行動力があって、センスもいい。仕事もできるし、優しくて、あと単純に顔が好みです」
玲香ちゃんが零していく言の葉に、俺は口を半開きにしていた。涼太が目をまん丸くして、俺と玲香ちゃんを交互にキョロキョロしている。玲香ちゃんは大きな瞳でしっかりと、俺の目を覗き込んだ。
「ありがとうございます、佐藤さん。あなたのお陰で私、気持ちの整理ができました。ちゃんと伝えます」
「え、ちょっ……玲香ちゃん、待って」
待ってくれ。心の準備ができていない。
涼太がオレンジジュースを口にくっつけて目を見張っている。何かを決心した玲香ちゃんとおどおどする俺とを交互に観察し、黙って様子を窺っている。
俺はもう一度、待ってと口にしようとした。しかし、玲香ちゃんは待ってなんてくれなかった。
「私、告白します。総務の池田さんに!」
彼女の高らかな宣言で、俺も涼太も数秒間ぴたりと石になった。
玲香ちゃんはほっぺたに両手を添えてぎゅっと目を閉じた。
「イケメンってだけでハードル高いですけど、でも私、頑張ろうと思います。気持ちを伝えるだけでも」
「い……池田?」
ようやく俺は口を開いた。池田は俺の同期で、やたらと背の高い正統派イケメンである。プレイボーイと噂されているが、実態はよく分からない。だが総務という気配りの仕事を淡々とこなし、他部署の新しい企画にも手助けしてくれて、提案のセンスは抜群にいいので、モテるのはたしかだ。
「池田さんって、佐藤さんと同期でしたよね。わりと仲が良さそうだったので考え方も似てるのかなって。だから、佐藤さんが話を聞いてくれて助かりました」
玲香ちゃんはニコニコと眩しいスマイルを輝かせた。涼太が彼女をちらと見て、俺の方に向き直る。俺は玲香ちゃんにニッコリ笑い返した。
「よかった。頑張ってな!」
「はい!」
ひとりの女性を勇気づけた……それだけで、充分な功績ではないか。俺はそう自分を奮い立たせた。
*
その後、玲香ちゃんはひと足お先に帰ってしまった。店に残った俺に、涼太が嘲笑の目を向けていた。
「目の前で振られる圭一さん、圧巻の光景でしたよ」
「振られてねえよ。始まってもいねえわ」
俺はため息と共にテーブルに突っ伏した。涼太が俺の頭をぽんぽん叩く。
「まあそんなに落ち込まないでください。あれは俺も勘違いしちゃいましたよ。こりゃお持ち帰りムードだなと……。いつ退席しようか考えはじめてました」
「慰めなくていい。いいんだよ、どうせ俺には玲香ちゃんを幸せにしてやることなどできない……」
玲香ちゃんには分かるのかもしれない。俺という人間が彼女の想う池田とは全然違う種類なのだと、見破っていたのかもしれない。
池田は彼女のいうとおり、気が利いて行動力があってセンスもある。一方俺は、気が利く素振りと見せかけの行動力と甘い甘いその場しのぎが得意なだけで、中身がスッカラカンだ。いや、スッカラカンだからこそ、虚像で補うのだ。
涼太がオレンジジュースのストローを口に寄せた。
「玲香さんって、最初は俺のことガキ扱いしててすごくやな感じでした。見た目だって桜ちゃんの方がかわいいです。ていうか、女装してなくても俺の方がかわいい」
「なんだそりゃ……」
「でも、話してみたらなるほどなって思いました。とってもかわいい人です。普通に幸せになってほしい人でした」
涼太はオレンジジュースのグラスを置いて、皿に残っていたサラダをつついた。
「だから、あの人の好きな人が圭一さんじゃなくてよかったです」
「酷い……」
「玲香さんのためにも、圭一さんのためにも、違う人で本当によかった」
涼太が丁寧に言い直す。俺は低い位置から涼太の顔を見上げた。
「俺のためにも?」
「はい。圭一さんだって言ったじゃないですか。自分に玲香さんを幸せにすることはできないって」
彼は丸めたレタスを口元に運んだ。
「圭一さん、責任負うのが怖いんでしょ?」
「はあ?」
思わず、眉を顰めた。涼太は怯まずに続けた。
「俺の分析ですけど、圭一さんってMじゃないですか。だめな自分を我慢して愛してくれる人より、だめな自分を叱り飛ばして蔑んでボコボコにして捨ててくれる人が好きなんでしょ?」
「やめろ、そんなに変態じゃねえよ」
「要はあなたは、一途に愛されるのが怖いんです。玲香さんみたいな愛情深そうな人に、責任持って接することができないんですよ」
「やめろ」
やめろ。なんでそんなに、痛いところを的確についてくるんだ。
ガキのくせにしっかり観察しやがって、折角目を背けていたことを自覚させてくる。
「お前に何が分かるんだよ」
「分かります。見てた分だけは、分かりますよ」
涼太はやけに声のトーンを落として、囁くように言った。
「圭一さんは、桜ちゃんをおちょくるだけおちょくって、実際は俺が男だと分かるまで連絡先を渡しもしなかった。本気になるのが怖かったんじゃないですか?」
またもや的確に突っ込まれ、胸の当たりがぐさりと痛んだ。目を泳がせて図星を誤魔化す。
「自意識過剰なんだよ。十個も下のガキにそんなガチなアプローチしないだけ。しかもお前、男だったしさ」
涼太はへえ、とつまらなそうに言った。
「どうだか。どっちにしろ、俺はあんたのそういうだめなとこ、めちゃくちゃ見てるっす」
器用なふりをして、お互い様の女性と出会っては、つついたら崩れそうな不安定な関係を築く。そうやってなるべく楽して生きてきた。アホの涼太でも分かるくらい、俺はスッカラカンなのだ。
涼太はテーブルに肘を乗せて、弱る俺を楽しそうに見下ろした。
「安心していいですよ。俺はあんたが糞野郎なのをよく知ってますし、知ってる上で、二十歳の誕生日を楽しみにしてます」
オススメの酒を贈ろうと、話していたことを思い出す。涼太は一旦言葉を切り、少しの間無言になった。そしてまた、俺の瞳に向き合う。
「それまでにちゃんとする。玲香さんに子供扱いされないくらい、大人になります。そしたら、今だと言えないことも、もしかしたら言えるようになるかもしんないっす」
そう言った涼太の表情は、ちょっとだけ目を細めてちょっとだけ口角が上がっていた。それは俺を嘲笑っているようにも見えたし、何かを期待する微笑とも取れた。
「それに、ガキじゃなかったら圭一さんが桜ちゃんに対してどんな対応をするのか、見てみたいですしね」
「バカ、今と変わんねえよ」
苦笑した俺に、涼太はニヤリとした。
「因みに俺、玲香さんのこと幸せになってほしいとは思ってますが嫌いですからね。圭一さんが桜ちゃん以外の人に『かわいい』って言ってるの、見てて気分悪いんで」
嫉妬深い彼女みたいなことを言い出した涼太に、俺はくすっと吹き出した。
「分かった分かった。桜ちゃんの方がかわいいよ。桜ちゃんの方が、毒っ気が刺激的で好き。これでいい?」
「やっつけじゃないっすか。ま、許してやりますよ」
涼太はしれっと冷たい声で言った。
ふいにまた、オーナーとのやりとりを思い出した。
きっとこれは恋だ、なんて言って桜ちゃんをからかっていた。でも立場を弁えているから、それ以上接触するつもりはないと、オーナーにそう告げていた。
それなのに、最近はどうだ。相手が男だからと油断して、仲良くなりすぎたかもしれない。
昼間はここで、男だから別に仲良くなってもいいのか、と結論が出た。そのとおりだ。涼太は男なのだ。恋愛ではないのだから、後ろめたくなる要素はない。
そのはず、なのに。
なぜ俺は今、「これ以上はまずい」と思ったのだろう。
ジョッキ一杯で酔ったのだろうか。アルコールで頭がぼんやりして、涼太の雌雄が曖昧になったのかもしれない。
目の前の彼は、愉快なおもちゃでも見ているかのように俺を眺めていた。
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