9.馬鹿?

 塩川涼太はバカである。

 人の話を聞かないで突っ走るタイプのバカだ。

 冗談だった給与アップを鵜呑みにするわ、かわいいからといって女装は続けるわ、勝手に嫌われたと思って逆ギレするわのわがままで理不尽なバカである。

 そのくせ、バカには考えても分からないことをひとりで抱えようとする。


 あれから一夜が明けた。

 昨日の今日で少し躊躇もあったけれど、その昼も俺はいつものカフェに出向いていた。涼太がオーナーに余計なことを言ったりして揉めていないか、心配でもあったからだ。

 店の扉を開けると、カウンターの向こうにウェイトレスの桜ちゃん、つまり涼太の姿が見えた。

「また来やがった」

 カウンターで頬杖をついて暇そうにしていた彼は、俺を見て開口一番毒づく。

「よく飽きないですね。俺はあんたを見飽きましたよ」

 そんな涼太を、オーナーが後ろから小突いた。

「こーら。桜ちゃん、お客様は神様じゃないけど敵でもないよ」

 心配ごとは幸いそれは杞憂で済んだようだ。涼太はウェイトレス桜ちゃんとして変わらない様子だし、オーナーは相変わらずニッコニコである。だから俺も、何も変わらない反応をした。

「美人は三日で飽きるってよく言うけどさ。桜ちゃんのかわいさはかわいいだけじゃないから、全く飽きないんだよね」

「知るか」

 涼太とオーナーは、不安定なまま安定しているのだと思う。涼太もそれを分かっているから、わざわざ不用意な発言をしたりはしないのだろう。この子も、それなりに大人なのだ。

「そうだ圭一くん、今夜すんごく雨降るみたいだね」

 オーナーが新聞を捲りながら言う。俺はいつもの席に座って、ため息をついた。

「そうなんですよね。天気予報見てげんなりしましたよ」

 サンドイッチとコーヒーをお盆に乗せて持ってきた涼太が、えっと短く叫んだ。

「こんなに晴れてるのに?」

 俺のすぐ横の窓を覗き込んで不思議そうに言った。どうも予報を知らなかったらしい。

 俺も一緒に窓の外を覗く。たしかに、今現在の空は青く晴れ渡っている。雨が降る気配などまるでない。オーナーがそうだねと頷いた。

「圭一くんの帰りの時間まで、このまま晴れててくれるといいけどねえ」

「叔父さんは大丈夫なんですか?」

 涼太が窓から外を見つめながら聞いた。

「今日、町内会の旅行でしょ」

「え、そうなの?」

 俺はくるりとオーナーの方を向いた。涼太がメニューで俺の頭をぺしっと叩く。

「また貼り紙見落としてるのかよ。今日は早じまいで明後日まで休みだって、書いてあったじゃないですか」

 全く読んでいなかったが、そういえば扉に貼り紙があったかもしれない。オーナーがふふっと笑う。

「夕方出発でね。旅先の天気はいいみたいだから、僕は雨から逃げられてラッキーだよ」

「ならいいんですけどね。お土産よろしくっす」

 ふたりのやりとりを見て、俺はふうんと鼻を鳴らした。

「涼太は行かないの?」

「行かないですよ。何が悲しくて町内会の知らないオッサンたちと旅行しなきゃなんないんすか。宴会があるのにお酒飲ませてもらえないしさ」

 ちろっとこちらを見下ろして、涼太は肩を竦めた。それもそうだ。自由奔放なオーナーはそんな旅行も楽しむタイプのようで、ご機嫌だった。

「圭一くんにもお土産買ってくるね!」

「あざっす」

 このときはまだ、この雨のもたらす事態を想像もしていなかった。


 退社時間ギリギリまでは晴れていた。だが午後八時過ぎ、俺が帰ろうとするのを見計らったかのように、一気に空が雲を集めて悪天候に転がった。お天道様は俺の帰りを待ってはくれなかった。

 会社のエントランスで傘を片手に、俺はでっかいため息を洩らした。この土砂降りの中、帰るのはしんどい。時々遠くで雲が光っているのが見える。雷まで発生しているようだ。

 今頃オーナーは、よく晴れた旅行先で、町内会のおじさんたちとパーティが始まった頃だろうか。それに対して俺は、散々働いた帰りがこの有様である。

 もう一回ため息をついて、俺は覚悟を決めた。ガラス戸を押し開けるとほぼ同時に、黒い傘をガッと開く。この時点で、すでに吹き込む雨に晒されてスーツが濡れた。

 こんな土砂降りはいつ以来だろう、というほどの大雨だ。その上暴風が暴れるので、横殴りの大粒の雨が襲いかかってくる。アスファルトには分厚い水溜まりの層ができていた。

 傘なんかもう意味をなしていない。あまりにも酷い環境で、途中で心が折れた。雨が弱まるまで雨宿りできないかと考える。無理矢理歩み進めているうちに、雨に霞んでいるカフェクードラパンの前まで辿り着いた。ここでひと休み……と思ったのだが、扉に貼られた貼り紙が風で破けてパタパタ靡いていた。そうだった、オーナーが外出中だから、開いていないのだった。

 雨で体温が奪われていく。むごい仕打ちを受けているような気分が増して、ぐったり項垂れたときだった。ぶー、と携帯のバイブレーションで鞄に振動が起こった。店の軒下で携帯を取り出す。雨粒に殴られないようにジャケットで屋根を作って、その中で画面を確認した。

 ぶー、ぶー、という振動と、光る画面。映し出される、「マイスイートハニー桜ちゃん」の表示。

 俺は雨で濡れた手も髪も気にせず、すぐさま携帯を耳に当てた。

「どうした?」

「お疲れ様っす。上見てください」

 涼太は冷たい口調で言った。俺は軒下から一歩道の方へ出て、顔を上げた。大雨の中で上を見上げると、大きな雫が顔をどついてくる。上の方が霞んだカフェの建物を目でなぞると、はたと二階の窓が目に止まった。

「無様なボロ雑巾を見つけました。あまりに哀れなので、助けてやろうかと思ってるんですよ」

 窓からこちらを見下ろす、朽葉色の髪が見えたのだ。


 窓から雨の様子を眺めていたという涼太は、偶然俺の姿に気づいたのだという。彼は店の鍵を開けて、俺を中に入れてくれた。

「助かった……。ありがとな」

「いーえ。雨ざらしになって吹き飛ばされそうになりながら歩いてきて、店の前で佇んでる様子なんて見ちゃったら、流石にかわいそうにもなります」

 桜ちゃんではなく、涼太だ。女装姿ではなくて男物のシャツを着ている。

 カーテンが閉め切られた上に外も大雨で、店の中に自然の光は入ってこなかった。涼太がぱちぱちとスイッチを押して、店内の電球を中途半端に二、三個点けた。いつも座る席周辺だけだ。

「でもよく二階から、しかも雨で霞んでる中で俺だって分かったよね」

「そりゃ分かりますよ。どれほど圭一さんのこと見てると思ってんですか?」

 涼太はつるっとそんなことを言ってから、ハッとなって取り繕った。

「じゃなくて、視力かなり鋭いんですよね、俺」

「俺のことが好きすぎて見つけちゃったんだ」

「違う。バカじゃねえの。風邪でも引いてろ」

 髪の先っぽから雫が滴ってくる。折角傘を差しても何の意味もなくて、気がついたら全身がびしょ濡れだった。ワイシャツまで濡れて、肌に貼り付いている。

 重たいジャケットを脱いで腋に挟み、手の甲で額を拭う。拭った手も濡れていたせいで、どちらにせよ顔からぽたぽた水が落ちた。涼太がくるりと背を向けた。

「タオル、持ってきます」

 ふわふわの髪が涼太の動きについていって、ふわりと膨らむ。俺はその後ろ姿に会釈した。

「よろしく」

 濡れネズミになっているせいで座るに座れず、立ったまま涼太を待っていた。数秒で、涼太は白いタオルを三枚ほど抱えて戻ってきた。

「ほら、どうぞ」

「ありがとうございます」

 突き出されたタオルを受け取って、俺は頭に被った。軽く水気を拭き取っただけでタオル全体が重たくなる。相当水を含んでいたようだ。涼太は残りのタオルをテーブルに置いて、一枚は自分の手に持ち直した。ぱらっと開いて、ぽんぽんと俺の腰の辺りに押し付けてくる。

「お、拭いてくれるの? 至れり尽せりだな」

 ニヤッとしたら、涼太はギロリと鋭い眼光を飛ばしてきた。

「床が水浸しになるんで」

「すみませんね」

「全く。もうちょっと何とかならなかったんですか?」

 文句を言いながら、涼太は俺のネクタイの結び目に指を掛けてきた。首でも絞めるつもりかと思ったら、逆にぐりぐり引っ張って緩めてくれた。

 俺はちらりと、カーテンのかかった窓の方を見た。カーテンが開いていれば、桜の木が見えるところだ。

「こんな雨、花が散った後でよかったよな」

「そうですね」

 他愛もない話をして、雨の音を聞く。ざあざあ降りの雨が途切れない。俺はちらりと、カウンターに鎮座するウサギのぬいぐるみに目をやった。ぬいぐるみはボタンの瞳で壁を見つめている。

 俺はタオルを押し付ける涼太に視線を戻した。

「昨日、オーナーに変なこと言わなかっただろうな?」

 楓さんについて確執があったのではと尋ねたのだが、涼太はふるふると首を振った。

「ここ来てから一回も、叔父さんとその人の話はしてないんです。互いに触れないのが、暗黙の了解みたいになってるんで」

 やはり涼太は、俺が思っているよりずっと大人びているのかもしれない。

「圭一さんこそ、そういう湿っぽいの嫌いそうじゃないですか。叔父さんにわざと変なこと言って困惑させたりしてないですよね?」

「空気の読めない発言はしてないはずだよ。まあ、気の利いたことも何も言えなかったけどな」

「叔父さんも圭一さんにそこまで求めてないですよ。あの人は慰めてほしくて言ったわけじゃないと思いますし。むしろ、腫れ物扱いしないであげてください」

 そうだろうとは思うけれど、あののほほんとした笑顔の裏に、あんな重たいものを隠しているなんて、軽はずみに生きている俺には想像できなかったのだ。

 涼太がふう、とため息をついた。

「今あの人を支えるべきなのは俺です。てか、それも圭一さんが言ったんじゃないですか」

「ああ、うん……」

 俺の言いたいことは、きちんと伝わっていたみたいだ。

「それより……圭一さん、濡れてるとなんかちょっと色気ありますね」

 涼太がいきなり妙なことを言った。思わずどきりとする。涼太はすっと指をこちらに伸ばしてきて、俺の髪の先に触れた。雨粒が伝って涼太の指に移る。彼は濡れた指を指同士で擦り合わせて水滴を揉み消した。

「それ以上に汚らしいですけど」

「付け足すなよ……」

 結局貶されて、俺は寂しく下を向いた。涼太は濡れた指先を数秒眺めてから呟いた。

「雨、止みそうにないですね」

「ね。少しでも小降りになったら、見計らって出るか……」

 タオルで体を拭いてだいぶ水気が取れた。はあ、と息をついて座り慣れた椅子に腰を下ろす。

「圭一さんって、交通手段何でしたっけ」

 涼太が濡れたタオルを向かいの椅子の背もたれに引っ掛けた。俺は窓の方を一瞥してこたえた。

「電車」

「マジですか。電車止まってますよ、雨で」

「マジですか……」

「マジです」

 涼太はポケットから携帯を取り出してスイスイと弄り、画面をこちらに向けてきた。最寄り駅の駅名と、大雨のため運行見合わせの表示が大きく映されている。

「うわ。仕方ないな、タクシーで帰るか」

 踏んだり蹴ったりだ。くたっと頭を下げると、涼太は同情するように言った。

「帰んなくてもいいんじゃないですか? ゆっくりしてけば」

 俺は項垂れたままちらりと目を上げた。涼太は向かいの椅子に座り、ニヤリとした。

「帰っても『お帰り』って言ってくれる人いないでしょ。帰んなきゃいけない理由もないでしょうし、ここで俺と遊んでればいいじゃないですか」

 雨が降っている。風の音がゴウゴウとうるさい。

「……そうだけど、いつまでここにいればいいんだ」

 雨はまだ当分弱まりそうにない。

「止むの待ってたら朝になっちゃうぞ」

「それでもいいんじゃないですか?」

「明日も仕事なんだけど」

「休んじゃえ」

 涼太がニイッと目を細めた。

 心臓がどくんとする。かわいい顔をして悪魔のように囁き、惑わしてくる。

「お前、結構俺のこと好きだよな」

 俺が言った瞬間だった。

 カッとカーテンの隙間が光り、直後にゴロゴロと大きな音が響く。涼太がびくっと肩を弾ませた。俺も少し驚いて窓の方を見た。

「お、すげえ。今の近かったな」

 また、外がピカッと光る。岩を砕くような音は一秒ほどで来て、涼太がびくっと縮こまった。そんな彼を見て、俺はもしやと思った。

「ひょっとして、雷が怖いのか? 怖いから、俺に帰らないでほしいの?」

「怖くねえよ……」

 強がっている声は震えていた。なんだ、そういうことか。別に俺といるのが楽しくて引き止めているのではなく、誰でもいいから近くに人を置いておきたいだけだったのか。安心したようなちょっと残念なような気持ちになる。

「光と音の間隔が狭いほど近いんだ。落ちるぞ落ちるぞー」

 わざわざ恐怖を煽ってやると、涼太はキッとこちらを見上げた。

「怖くねえって言ってんだろ」

「仕方ないなあ、そういうことなら雷が遠くへ行くまでは、ここにいてやるよ」

 テーブルに肘をついてニヤけてやると、涼太は不服そうにむくれた。何か言い返そうとしたようだが、何も言えなかったらしく、そのままそっぽを向いた。

 雨が降り続いている。涼太はしばらく黙っていたが、やがてちらっとこちらに視線を戻した。

「昨日、油井と電話したって言ったじゃないですか」

「ああ、公園に逃げてたときのね」

 あのときは俺を脅かすつもりだったのかと思ったが、何やら別の話をしていたらしかった。

「ちょっと悩みを相……じゃなくて、愚痴らせてもらったんすよ」

「言い直すなよ。悩みの相談で別にいいだろ。泣き言言える相手がいるのは素晴らしいことだぞ」

「愚痴ですってば」

 どうもこいつは、人間くさい弱さを隠そうとする節がある。

「でね、そのとき油井が高校の頃の話をしてくれました。あいつゲイでしょ、だからいろんな奴からいろんなこと言われて、やな思いしたって」

 涼太は淡々と、静かな口調で言った。

「当時大好きだった人にも迷惑をかけた。だから、自分の気持ちがバレたら、大変なことになる場合もあるって。誰も傷つけたくなかったら、自分だけ傷つく方がマシだって言ってた」

 涼太がどんな相談を持ちかけたのかは分からない。

「なんか、こっちが愚痴った側だったのにいつの間にか油井の方が災難な感じになっちゃいましたよ。やっぱ難しい世界なんだな」

「まあねえ……。それでもちょっと前に比べれば社会の理解は多少は進んだよ。ただ、好奇の眼差しは避けられないのかもな」

 そうこたえてから、はたと思い出した。

 閉め切られたカーテンに、休業中のカフェ。オーナーは不在。俺は折角忘れていたこの間のことを思い起こした。

「そういやなんかこの環境、似てるよな」

 自分は男だと証明しようと、涼太がするする脱ぎだしたあの日だ。思い出しただけでも背中がそわそわする。

「あのときはちょっと本気でゾクゾクした。もしかしてこれって、俺もそっちの才能あるのかな?」

 涼太はピタッと石化した。目を泳がせて、みるみる顔が赤くなる。

「いや、でも、あれは桜ちゃんだったから。今は俺……女装してないし」

 言われてみて、ああ、そうかと思った。女装しているかしていないか、それは桜ちゃんであるかどうかという問題なので、重要なポイントのはずだ。桜ちゃんだから、その女性的な色香に取り憑かれる。と認識していたつもりだったのだが、涼太の姿でも同じようなシチュエーションを想像してしまった。

「女装してると思い切ったスイッチ入っちゃうの?」

「あんなん、圭一さんを悦ばせてからかってただけですよ。そっちこそスイッチ入って興奮しちゃって、バカ丸出しでした」

 そう思っているのなら、なんでそんなに耳まで赤くなるのだろう。俺はニヤリとして涼太を見下ろした。

「じゃあ今、お腹触ってもいい?」

 言った瞬間、涼太は背もたれから濡れたタオルを剥ぎ取って、俺の顔面めがけて投擲してきた。顔にベチャッとタオルが貼りつく。触らせてはくれないらしい。俺はモロに被ったタオルを引き剥がして、首に引っ掛けた。

「けど、あのときの桜ちゃんは本当にきれいだったよ」

「それはそうですね」

 桜ちゃんの容姿を褒められると、こいつは誇らしげになる。

「そうだ、どうせ雨弱まるまで暇ですし、今から桜ちゃんになってきましょうか?」

「本当に!? やった」

 嬉しい提案に歓喜する。涼太はニッと笑って立ち上がった。

「どんな服がいいか、リクエストあります?」

「希望きいてくれるのか」

「ニタニタしてる圭一さんを、桜ちゃんは男ってオチでどん底に突き落とすの最高に面白いですからね」

 悪魔的発想だが、それでもよかった。

 どんな桜ちゃんが見たいか、考えてみた。俺の理想とする、桜ちゃん像といえば。

「やっぱり、ウェイトレス姿がいいかな」

 俺の中で桜ちゃんといえば、仮にも客である俺に対して殺意の波動を漲らせるウェイトレスなのだ。客とウェイトレスという本来はそこそこ距離を持つ関係でありながら、桜ちゃんは悪友のように接してくる。制服姿なのにあんなにフランクという、あの距離が桜ちゃんだ。

「制服フェチですか? いい具合に気持ち悪いですね」

 涼太は満足げに笑って席を外した。

 俺は涼太が消えた店の奥の方を見つめていた。制服フェチか。そうかもと思ったが、考えてみたら別に制服ではない姿でも充分悩殺されるから、そうではないのだろう。

 ただ、ウェイトレス姿で働いていた桜ちゃんの、あの自信に溢れたきらきらした雰囲気が好きだったのだ。

 外で雨雲が光った。一際大きいドーンという雷鳴の直後、涼太がいなくなった方向からバタンッと扉の音がした。余程雷が苦手なのか、彼はダッシュでこちらに飛び出してきて俺の方に一直線に駆けてきた。

「うわああビビッた! すげえ音したっす、ドーンっていった」

 俺の濡れた胸元にダイブしてきてガタガタ震えている。ウェイトレスの衣装に着替えているが、エプロンは結べていないしウィッグも付けていない。ニーハイソックスは片方だけ膝下までずり落ちていた。

 着替えの途中で飛び出してくるとは、強がっていたくせに本当は相当怖かったようだ。

「よしよし、大丈夫だから」

 ぽんぽんと背中を撫でると、涼太はそろりと顔を離した。

「うう……ワイシャツ湿ってる」

 顔を上げた涼太は、化粧すらしていなかった。男の子の顔でスカートという、不完全な状態だ。そのワンピースの襟のボタンもきちんと止まっていなかったようで、外れて首周りが開いている。桜色のリボンタイは、解けて襟から垂れ下がっていた。

 その危うい姿に、心臓がぎゅうっと締め付けられる。息を詰まらせた俺を見上げ、涼太はハッとなった。

「わっ……未完成で出てきちゃった。これは流石に気持ち悪いですよね。出直してきます」

 女の子に化けきれていない涼太は、慌てて引っ込もうとした。が、俺は咄嗟にその腕を掴んだ。

「待って! それでいい!」

「はあ!?」

 目を剥いて振り向く涼太に、俺はもう一度言った。

「そのままでいい。それ、すごくいい!」

 涼太は唖然として、口をぽかんと開けていた。しばらく考えてから、再び反論する。

「いや、これじゃまんま男だって分かるじゃないですか」

「それでいいんだって」

 今までの桜ちゃんは、完全に女の子に見えた。だがこれは、男が女装しているだけに見える。それが、言葉では言い表せない危ない魅力を引き出している。

 涼太は真顔になって考えた。

「もしかして俺、このまんまでも案外女装似合います?」

 俺はこくこく頷いた。

「似合う似合う。かわいい上にセクシーで」

「そ、そうですか? でも一応今はまだ男の顔してるんで、複雑なんですけど」

 言いながらも、ちょっと嬉しそうだ。俺は引き続き褒めた。

「瞳が潤んでて、舌がツヤッと濡れてて、脚がしっかりしてて」

「うっ……うん、まあ」

「やっぱり桜ちゃんはかわいい。世界一かわいい」

 ウィッグではない涼太の髪に手を置く。ふわふわと細くて柔らかかった。涼太が目を見開いて、ピタリと硬直する。俺は頭をぐりぐり撫で回した。

「桜ちゃんは奇跡の存在だよ」

 すると、撫でていた俺の手を涼太がパシッと叩き落とした。

「……もういいです。息苦しくなってきたので、やめてください」

 いつどこでどう褒められても「そうですね」「知ってます」と返していた自信の塊が、ついに屈した。雨のせいと電気をケチったせいで、店内が薄暗い。顔を伏せてしまうと、表情は影になって全く読み取れなかった。

「照れてる?」

「気色悪いだけです。何度も言ってますけど、俺は男ですよ」

 刺々しい口調だったが、その声自体は震えていた。

 外でピカッと雷が閃く。

「涼太が男でも、桜ちゃんはかわいいよ」

 もっと困らせてやろうと思い、俺は続けて囁いた。

「桜ちゃん、照れ顔見せて」

「死ね!」

 ガラガラと雷鳴が近づく。大きな音にいちいちびっくりする涼太を見て、俺は余計に楽しくなった。

「取って食ったりしないから、ほら顔上げて」

 椅子から立ち上がって、下を向いた涼太の頬に手を当てた。ふにっと柔らかな頬を、くいっと引き上げる。涼太は少し首を引いて、抵抗した。

「やめてくださっ……」

 ピカッと、カーテンの隙間が光った。

 強く眩い光を受けて、一瞬だけ、涼太の目の端がきらっと星を宿したように見えた。

「えっ……」

 思わず息を呑んだ。

 目を合わせた涼太の表情は、想像していたような照れの表情ではなかった。失意のような、絶望のような、それらを全部堪えて殺しているような、泣きそうな顔だったのだ。

「……今、涙……」

 問いかけようとしたとき、涼太は頬に添えた俺の手をパンッと払い除けた。それからすぐに両方の腕で顔を覆って、隠れてしまった。

「気のせいです」

 消え入りそうな声に、動揺が走る。こんな弱った顔をしていたなんて、全く気づかなかった。

「そんなに雷怖いのか?」

「違う」

「大丈夫だよ」

「違う!」

 顔を隠して、叫ぶ。

「いっそ、そうだったらよかった! 雷が怖いだけだったら、お前が何言ったって何とも思わなかったんだ!」

 薄暗い店の中で、涼太の声がびりびりと空気を震わせた。俺は椅子から立ち上がった姿勢のまま動けなくなった。

「大人しく聞いてりゃ桜ちゃん桜ちゃんって。そんなに桜ちゃんに価値があるのかよ」

 はっ、と、涼太は浅く息を吸い直した。

「俺より……涼太より、桜ちゃんの方が! そんなに好きなのかよ!」

 ぶつけられた怒りが、どうしようもない衝撃になって体じゅうを駆け巡る。何も、言えなかった。

 涼太は顔を覆っていた腕をバッと振りほどき、潤んで赤くなった目で俺を睨み上げた。

「残念だったな、お前の好きな桜ちゃんは架空の存在なんだよ。告白してみろよ。思いっ切り振ってやる!」

 窓の外の雨の音が、やけに遠く聞こえる。

 俺はまだ何も言えなくて、伸ばしかけた手を空中で止めていた。

 涼太がかくんと下を向く。

「あーあ、最悪……何やってんだ、俺」

 声のトーンが萎んで、威勢の良さがどこかへ消えた。

「絶対気づかれないようにしようと思ってたのに。認めたくもなかったのに。知られたら絶対、迷惑かかるのに。嫌われるのに。俺自身が忘れるまで、隠し通していこうと思ってたのに……」

 手首で口元を覆って、ぽつぽつと呟く。目線は俺のせいで水浸しになっていた床に落ちていた。

「二十歳になって、初めて一緒にお酒を飲むときに……言おうと思ってた。『二年前、あなたのことが好きだったんですよ。バカでしたよね』って。笑い話にしたくて、何とかそれまでに諦めようって思ってた、のに」

 雨の音が止まない。

「情けないでしょ。桜ちゃんでいれば圭一さんがかわいがってくれるから、後先考えずに桜ちゃんを続けてたんです。結果的に、虚しくなるだけだったけどね」

 俺は涼太を前にして、身動きひとつ取れなかった。

「油井に愚痴らせてもらったんですよ」

 涼太の声は掠れて、消えかけていた。

「圭一さんが、俺のこと『初めから男だって分かってたらこんなに拗れなかった』って言ったから。このまま桜ちゃんを演じて距離を保つのも、ずるいんだって気がついて、いてもたってもいられなくなって、あの日お店を飛び出してしまいました」

 消えかけているけれど、芯は通った声だ。

「諦めたい気持ちをどうしたらいいのか、気づかせたくなるのは迷惑なのか、行き場のない想いはどうしたらいいのか、教えてほしいって、愚痴ったんです」

 当時大好きだった人にも迷惑をかけた。だから、自分の気持ちがバレたら、大変なことになる。誰も傷つけたくなかったら、自分だけ傷つく方がマシだ。

 それが、油井くんの返事だったというのか。

「でもね、油井は言ってたんです。たとえ伝えられなくても、恋くらいさせてもらっても、いいんだって。好きでいるのは勝手だよって……」

 境界を曖昧にしていたのは、俺もこいつも変わらなかった。

 人懐っこいのは分かっていたけれど、こいつの本当の気持ちも、それどころか自分の気持ちさえも分からなかった。からかう素振りで傍にいようとすることしかできなかった。涼太も攻撃的な態度で本当に言いたいことをカモフラージュして、気づかせないように頑張っていた。

 もしかしたら、涼太の気持ちも自分の気持ちも、知るのが怖かっただけかもしれない。

 俺は一旦深めの呼吸をして、息を吐き出すように声を絞り出した。

「涼太、ごめん」

 千切れそうな声になる。涼太は首を振った。

「謝るなクズ。お前は無責任だから、こういうの受け止められないだろ。しかも相手が男で、十個も歳下で」

 そうだ。そんな面倒くさそうな奴からこんなことを言われたら、これ以上近づかないようにそっと消える。今までの人との付き合い方は、まさにそうだった。受け止められないから、つついたら崩れそうな関係を作って、作っては崩して、後片付けもせずに他へ移った。

 俺がそんなだめな人間だと知っていながら、どうして君は。

「……なんで? そこまで分かってて、なんで俺でいいの?」

 間抜けなまでに素朴な質問をする。涼太がカッと声を尖らせた。

「知らねえよ! 俺だってあんたなんか嫌いです。バカだと思ってるし最低な奴だと思ってる。こんな気持ち絶対認めたくなかった。でもコントロールなんかもう効かないんですよ。欲しいと思ったものは、手に入らなくても欲しいんですよ」

 怒りに任せたような、ぶっきらぼうな言い方だ。

「あんたが不用意に褒めるからこんなことになったんだ。自信が湧いて女装が楽しくなって、止められなくなって。いつの間にか、あんたが見に来るのを目的にしてた。そういうどうしようもないものなんです」

 丸っこい手がぎゅうっとスカートを握る。

「でも、圭一さんが見てるのは涼太じゃなくて桜ちゃんなんです。女の子じゃなきゃだめだった。こっちはこんなに見てるのに、圭一さんが見てるのは虚像の方。男だって分かってからも何度も女の子と錯覚する……。その度に俺は、女に生まれられなかったことが悔しくなる……」

 怒鳴るような口調からだんだん力が抜けていって、最後の方は掠れて声になっていなかった。

 俺は呆然と立ち尽くした。これだけ傍にいた彼がどれだけ虚しい思いをしてきたか、まるで気づいていなかった。

 涼太はまだ顔を上げてはくれない。

「……ごめんなさい。もうこんなこと言わないです」

 彼の震える声が、雨音に消されそうになっている。

「そもそも言うつもりなかった。忘れてください。忘れていいから、お店来てください」

「アホか……忘れられるわけないだろ、こんなの」

 考える余裕もなく、思ったことが率直に言葉になった。涼太は、ははっと掠れた笑い声を立てた。

「じゃあ忘れなくていいから……いなくならないで」

 ほの暗い店の中に、語尾が消える。腰紐を縛っていなかったエプロンが、はらりと崩れる。肩紐がずり落ちて、涼太の肘に絡みつくように引っ掛かった。

「俺も、なるべく桜ちゃんでいます。圭一さんが涼太の存在をなるべく忘れて、桜ちゃんだと思えるように振る舞います。それなら、これからもここにいてくれますか」

 やけに凛とした声だ。でも、絶対に目を合わせようとしない。

 俺は上手く呼吸ができずにいた。まだ冷静になれない。何からどう言えばいいのか、整理が追いつかない。

「えっと……それは、嫌だ」

 ようやく、言葉を選び出す。呂律が回らずたどたどしい喋り方になった。涼太は下を向いたままでその表情を見せない。俺はもう一度、今度ははっきりと言い切った。

「ごめん、それは嫌だ」

「うん。分かってる」

 涼太もはっきり返した。

「分かってた。ごめんね。困らせてごめん。もういいよ」

 いやにくっきりした声だった。雨の音に負けずにしっかり耳に届いてくる。

「圭一さんが女好きなのはよく分かってますから、別にショックでも何でもないですし」

 淀みなくつらつらと話される。俺は眉を顰めた。

「おい」

「俺の方も一時的な気の迷いですから、明日にはどうでもよくなります。罪悪感とか感じなくていいですからね」

「おい」

 塩川涼太はバカである。

「こっちの話も聞け」

 人の話を聞かないで突っ走るタイプのバカだ。

「いや本当に、気にしなくていいんで……」

 涼太がはは、と静かに笑う。

 俺は空中で行き場をなくしていた手を、伏せたままの涼太の顔に伸ばした。

「顔を上げようとしないのは、本心じゃないからだろ!」

 ほっぺたを指でムニッとつねって、そのまま無理矢理顔を上げさせた。

 目が合った涼太は、大きな目を見開いていた。頬を引っ張ったせいで輪郭が歪んで口が横に伸び広がっている。

「いひゃい!」

「拗ねてないでちゃんと俺の言いたいことも聞けや! バカ!」

 久しぶりに、怒鳴り声なんて出した。

「今更お前を女の子だと思い込むのは無理だ。今の発言を全部なかったことにして、これから先も変わらない接し方をするのも無理。涼太じゃなくなって、桜ちゃんとして振る舞われるのは嫌だ」

 頬をつねった指にぎゅーっと力を込めて捲し立てる。

「俺は自信に溢れた、きらきらした桜ちゃんに心を奪われてた。男とか女とかはあんまし関係ない。生き生きしてる姿が見られれば、どっちでもよかった!」

 むしろ、桜ちゃんという女の子よりも、好きなものに真っ直ぐで、女装というマイノリティな趣味でさえ全力で楽しむ涼太という男の子に惹かれていた。

「お前、俺に『ぶっ殺してやる』って言ってたけどな、ぶっ殺されたわ。もう戻れない。死んだ。完全に死んだ。ちょっと前までの、抱ければ誰でもよかった俺は死んだ!」

 オーナーから、涼太に触れた感想を問われたことがある。俺はその気持ちを、親愛だとこたえた。このこたえにオーナーは、俺に「合格」と言い渡した。

 きっとそれは、使い捨ての恋ではない、俺が責任持って愛情を注げられると認めてくれたからだ。そういう「合格」だったのだ。オーナーは俺も分かっていなかった俺の気持ちを、とっくに見抜いていたのかもしれない。

「だからごめん! 傷つけてたのに気づいてなくて、本当にごめん! もうそんな顔させないから! お願いだから一方的に振らないで!」

 怒鳴りつけているつもりだったのに、最後の方はもう命乞いみたいになっていた。

 涼太の目がうるうると、天井の電球の光を集める。

「いっ……」

 俺の手首をひしっと握って、伸びた口をもごもごさせる。

「いひゃいれす」

 痛いです、と言われたことに気づき、指を緩めてあげた。涼太は赤くなった頬をぎゅっと押さえてしばらく揉み、ちろっと目を上げた。

「えっと……待って、理解が追いつかないっす 」

 自分で招いた事態なのに、涼太は両頬押さえて疑問符を浮かべている。

「どういうこと? 喜んでいいの?」

 乱れた女装姿で、困り顔をしつつも潤んだ目をきらきらさせる。その心臓がズキズキするほどかわいい顔に、骨抜きにされた。

「かわいい……」

「知ってま……いや、知らない。俺でもいいの? 桜ちゃんじゃなくて、俺でも」

 バカがバカなりに意味を理解しはじめ、ほかほかと赤くなっていた頬を更に紅潮させている。

 そして涼太はびっくり顔で叫んだ。

「マジで言ってますか!? え、じゃあ雨止みそうにないから泊まっていきます?」

「何言ってんだよ今日は帰るよ。意地でも帰るよ。展開早えよ。本当にバカだな」

 一旦落ち着いて冷静になった方がいい。こんなに大事にしようと思ったのは初めてで、その分慎重にならなくてはいけない。

 これは恋愛経験豊富な俺の、初めての本気の恋だと思う。

 よりにもよって最悪なくらい厄介な相手だ。乗り越えなくてはならない弊害がアホほど多い。その上、俺を煽るような真似をしてくる屈折した性格の持ち主。翻弄する側でいたい俺が翻弄されなくてはならない。

 絶対面倒くさいのに、諦められない。「欲しいと思ったものは欲しい」、その言葉の意味が嫌というほど分かる。そう思っているのは、こんなだめな俺を選んだ涼太もお互い様なのだろう。

 抱きしめたくなって両腕を彼の背中に回した。が、涼太は手のひらを俺の胸に押し付け素っ気なく拒絶した。

「やめて、圭一さん雨で濡れててジメジメしてるんで来ないでください。俺まで濡れるじゃないですか」

「そういうこと言うときじゃなくない?」

 むーっとむくれると、涼太はニヤリといたずらっぽく笑った。

「雨を洗い流してくれればいいですよ。シャワー浴びてきますか?」

「挑発すんな変態」

「何だと! そっちの方がずっと変態ですよ」


 塩川涼太はバカである。

 人の話を聞かないで突っ走るタイプのバカだ。

 冗談だった給与アップを鵜呑みにするわ、かわいいからといって女装は続けるわ、勝手に嫌われたと思って逆ギレするわのわがままで理不尽なバカである。

 そのくせ、バカには考えても分からないことをひとりで抱えようとする。

 そういうときは、はっきりと分かりやすい言葉で教えてあげなくてはならない。すると理解した途端、すぐに調子に乗ってまたバカなことを言いはじめるのだ。


 降り続いていた雨はいつの間にか小雨に変わっていた。雷の音も、もう聞こえない。

 この先も晴れ続けることなんてないと、分かってはいる。きっとまた大雨に見舞われるだろうし、涼太は雷に怯えるだろう。

 先が思いやられる。なんて手のかかる恋なんだ。

「因みに俺が抱く方ですから。圭一さんは散々やってきたんだから、次からはやられる方に回ってください」

「なんて?」


 そんなこの子がかわいくてたまらない俺、佐藤圭一も、多分相当なバカである。

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