2.妨害?
「佐藤さん、お茶どうぞ」
うちの部署の網野玲香ちゃんはとても有能である。肩の高さで切り揃えた明るい茶髪に、ぱっちりした大きな目の女の子だ。二十四歳という若さにして、かなり気が利くし落ち着いている。しかも、胸がでかい。
「ありがとう。玲香ちゃん本当優しいね」
「いえいえ、佐藤さんがなんかすごく仕事抱えてるので……」
玲香ちゃんが労うとおり、俺はデスクに山積みの書類と対峙していた。
俺はデスクワークが嫌いだ。
今週中に仕上げろと言われている企画書があるが今日中の報告書が三件ほどある。作業がなかなか進まないうちに、別の急ぎの仕事が割り込んでくる。
この残酷な仕打ちの中で、玲香ちゃんがお茶を持ってきてくれるのは桜ちゃんに匹敵する癒しだった。
「何かお手伝いできることがあれば言ってくださいね? 私、難しいことはできないですけど、雑用ならできますから」
玲香ちゃんが気を遣ってくれる。なんて気立てのいい娘さんだ。
「助かる。けど、今は報告書とか企画書とかだから、俺が自分でやんなきゃなんないことばっかだから」
実はこれは、デスクワークが嫌いなあまりに後回しの後回しにしてしまい、こんなに溜め込んでしまった仕事である。これを手伝わせるわけにはいかない。
「だめだ、報告書片付かない。気分転換に外回り行ってくる」
ちょうど昼休みの時間を迎えたので、昼食も兼ねて外へ逃げよう。俺は玲香ちゃんに出してもらったお茶を飲み、オフィスの椅子から立ち上がった。営業用の鞄にノートパソコンを詰めて、昼間の町へと逃げ出した。
「いらっしゃい」
クードラパンの扉を開けると、オーナーが暇そうに椅子に座って新聞を読んでいた。
桜ちゃんが男だろうと、俺のカフェ通いをやめる理由にはならなかった。桜ちゃん、いや、涼太は気まずいのかとも思ったが、行ったら案外嬉しそうだったので知ってからも変わらずに訪れている。
「あれ? 今日は桜ちゃんは?」
店の中にオーナーしかいない。オーナーは新聞から顔を上げた。
「今、お使いに行かせてる。そのうち帰ってくるよ」
「よかった」
それにしても、店の中があまりにも閑古鳥である。
「昼時なのに暇そうですね」
ずけずけ言うと、オーナーは老眼鏡の奥でニヤッと目を細めた。
「昼はね。でもこの店、夜になるとバーになるから、そっちで稼がせてもらってる」
「えっ、知らなかった」
俺は席につきながら目を丸くした。
「バーなんて……酒が入るじゃないすか。桜ちゃんは? 大丈夫なんですか、変な客に変なことされてない?」
「桜ちゃんは未成年だから、バーのときは手伝わせてないんだよ。それに、今のところ変なことしそうな変な客は圭一くんだけだから心配しなくていいよ」
「なんだ……よかった」
俺はぽつんと言って、ハッとオーナーの言葉を振り返った。
「俺が変な客ってどういう意味ですか」
「まんまの意味だよ」
「流石に男の子には手え出したりしませんて」
「逆に女の子だったら手を出すつもりだったの?」
穏やかな言葉遣いのくせに、オーナーの醸し出す保護者感が俺を押し潰そうとしてくる。まるで子を守る野生動物だ。
俺はテーブルにパソコンを出しつつ、オーナーに横目を向けた。
「俺はただの桜ちゃんのファンですよ。ファンなので、立場を弁えて一線は超えません」
「分かってる分かってる。恋だなんて言って、あの子をからかってたけど」
オーナーがふふっと笑って、新聞を畳んだ。
「今日もいつものでいい?」
「お願いします」
いつもの、というのは、俺がいつも頼むサンドイッチとコーヒーのことだ。昼食は手軽なサンドイッチで済ませ、食後にコーヒーを飲む。大体いつもこの組み合わせである。
「今、圭一くんのお陰ですごいこと閃いちゃった」
オーナーが厨房から話しかけてくる。
「何ですか?」
「涼太が二十歳になったら、昼間は桜ちゃんで夜は涼太に戻って仕事を手伝ってもらうなんてどうかな。お店は夜のバーの方が忙しいんだから」
「それ面白いですね。あ、でも涼太は今は春休みだからいつもいるけど、学校に通うようになったら忙しくなって今ほど店に出てくれなくなるんじゃないですか?」
俺はオーナーの声がする厨房に目をやった。
「オーナーは涼太が来る前はひとりで回してたんですから問題ないかもしれないけど、俺はめっちゃ寂しいなあ」
「んー、たしかに今よりは来れなくなるかもしれないけど……時給制だし、お小遣い欲しさに出てくるとは思うよ」
オーナーがはっきり事情を言うので、何だかやけに説得力があった。
俺はパソコンの電源ボタンに指を押し付けた。充電マックスの画面が煌々と灯る。時々、こうしてこの店に仕事を持ち込む。静かで落ち着くので、オフィスより捗るのだ。
「最近、忙しそうだね」
オーナーがサンドイッチを持ってきた。
「ここで作業してることが多くなった気がするよ」
「そうなんですよ。忙しいときに限って更なる仕事が重なるんですよね」
いろいろ任されているデキるサラリーマンみたいに言ってみたが、オーナーはあっさり見抜いた。
「圭一くんのことだから、面倒くさくて後回しの後回しにしてたら溜まっちゃったんじゃない?」
「……なんで分かるんすか?」
「事務仕事って、単純なことでもちまちまこなしていかないと一気にドカッと来るからね。君はもう少し真面目に生きた方がいい」
「お節介だなあ。事実だから何も言い返せないけど……」
俺はオーナーの透視にたじろぎつつ、パソコンのタッチパネルをつついた。まずは報告書から作るか。
作業を始めた俺の邪魔をしないようになのか、オーナーは静かに席から離れていった。カウンターの向こうの椅子に腰を下ろし、再び新聞を開く。何の音もしない静かな店内が、しゅっと俺の集中力を高めた。
オーナーが持ってきてくれたサンドイッチをひと口かじる。この店のサンドイッチは、ハムとレタス、たまごサラダ、ツナの三種類のサンドイッチの盛り合わせである。付け合わせのフライドポテトが皿に乗っていて、ハムレタスサンドにだけピックが一本突き刺さっている。
報告書のファイルに着手した、そのときだった。
「あっ、圭一さん来てる」
お使いを終えた桜ちゃん、即ち涼太が戻ってきた。
ウェイトレス服のエプロンを外したワンピース姿に、それを包み隠すように羽織ったスプリングコート。ミルクティー色のそのコートは、裾にレースがあしらわれて桜ちゃんの可憐さを更に引き立てていた。
「うわっ……かわいい。出かけるときはそういうスタイルなんだ」
「うるせえな……何着てても俺の勝手ですよ」
褒められても冷たく切り捨ててくる。
「ていうか、俺が男だって分かっててよくそんなこと言えますね」
「まあ、外に出るときも女装のままなんだなあとは思った」
俺は素直にこたえた。涼太がコートを無造作に脱ぐ。
「買い物のためだけにいちいち男の格好に着替えてたら効率悪いじゃないですか。涼太でいるより、桜ちゃんの方がかわいいしさ」
自分で自分の女装のかわいさを自覚している。涼太は買い物袋をオーナーのいる厨房へと持っていき、カウンターでエプロンを引っ掛けた。背中で紐を蝶結びにしながら、こちらに向かってくる。俺はその気だるげな仕草をテーブルから眺めていた。
「さっきのコートも女物だったよな。あれは買ったの?」
「そう。こういうときに使えると思って」
しれっとこたえた涼太の後ろで、オーナーが声を投げてきた。
「いつ買ったんだっけ、あれか、スカートとかブラウス買ったときに一緒に買ったんだよね」
「スカートとブラウス……?」
俺はサンドイッチを口の手前で止めた。
「それはつまり、涼太はそのウェイトレス衣装以外でも女装してるってこと……?」
「文句あんのかよ」
オーナーの暴露を受けて、涼太はバツが悪そうに声を低くした。
「かわいいからいいんだよ」
「あ、はい、かわいいです」
一応驚いたが、ウェイトレス姿以外の桜ちゃんも存在するというのはちょっと嬉しい。ぜひ見てみたい。俺はパソコンに向き直って、キーボードを叩きはじめた。
「涼太は性同一性障害ではないんだよな?」
先日もした質問を念押しで聞いてみると、涼太はようやく腰紐を結び終えてギロリと俺を睨みつけた。
「逆に、そういうのじゃなきゃ女装しちゃだめなんですか?」
ちらっと、俺は先日のオーナーとの会話を思い出した。「かわいい自分をもっと見てほしかったのかもね」という言葉がやけにリアリティを持つ。涼太は給与アップに釣られて女装を始めたということだったが、多分彼自身も、かわいい「桜ちゃん」をもっと見られたいのだろう。
「ううん。ただ、そうでもなきゃあんまり着たくない格好だよなと思っただけ。俺としては桜ちゃん大好きだし、かわいいから大歓迎」
キーボードで文字を打ちながらこたえる。涼太が俺を汚いもののように見据えた。
「圭一さんのために桜ちゃん演じてるわけじゃねえですから。女として愛されたい願望があるわけでもないです。ファッションですよ。ただ、女と間違われるのは快感に近いものがあるからやってるだけ」
「そういうもんなの?」
「騙されてる奴見てると面白いですよ」
かわいい顔して悪魔のような人だ。俺も先日までがっつり騙されていたわけだから、涼太は俺のことも笑っていたのだろう。
涼太は氷のような目のまま、俺の向かいに腰を下ろした。テーブルを挟んで向こう側で、じっとこちらを見つめてくる。
「何作ってんすか?」
「ん? 会議の報告書だよ」
俺はサンドイッチにかじりつき、もぐもぐしながらキーボードを叩いた。涼太が頬杖をつく。
「ふーん……忙しいんすか」
「俺ほどのデキる男は何かといろいろ任せれちゃうからな」
「どうせ面倒くさがって後回しの後回しにしてたツケが回ってきたんでしょ」
俺の見栄はなぜか涼太にまで見透かされた。
俺はもうひと口、サンドイッチを口に入れた。パソコン越しに涼太がじーっと見つめている。
「で、それいつまでその調子なんすか。最近そうしてること多いですよね」
「うーん、報告書は今日中だから無理にでも終わらせるけど、企画書もあげなくちゃいけないから……それが終わり次第」
「ふうん。会社員てだるいですね。それができあがるまで、ずっとこんな感じなんですか」
「そうなるねえ」
平たいキーボードをカタカタ叩く音が、静かな店内ではやけに響く。
「圭一さん、今の時間は昼休みなんすよね? 休憩時間くらい、仕事置いといたらどうですか」
涼太がつまらなそうに言う。俺は画面から目を離さずに返した。
「もちろんそうするべきなんだけど、現実的にはやらないと終わんないんだよ」
「どのくらいで終わる目処立ちます?」
涼太がまた聞いてきた。
「企画書の締切は今週いっぱいだから、それまでには終わらせる。でもそう捗るものでもなくてね」
「どこが『デキる男』なんですか。そんなズルズル緩い仕事してさ」
毒を吐いてくるのも忘れない。俺はちらっと、画面から顔を上げた。
涼太はテーブルに肘をつき、丸くした両手に顔を乗せ、上目遣いでこちらを眺めていた。たまにゆっくりまばたきする。涼太という男なのは分かっているが、見た目が美少女桜ちゃんであるせいだろうか。その熱い視線に胸がぎゅっとした。
「なんだよ、そんなに見つめて」
つぶらな瞳を覗き返すと、涼太は肩を竦めて目線を逸らした。
「何でもない。暇だから見てるだけです」
「目の前に美少女がいると仕事に集中できないんだけど……」
目移りしてしまって気が散る。呟いた瞬間、涼太の逸らされた視線が戻ってきた。
「そうか。分かった」
オーナーと同じく、これで静かに席を外すのかと思ったのだが。
「邪魔してやる」
「えっ」
涼太はむしろ、俺の正面に居座ることを選んだのだ。
「叔父さん、紅茶頂戴」
「はいよー」
オーナーも邪魔をするなと止めたりはせず、黙認した。俺はキーボードを打つ手を一旦止めた。
「なんで? なんで邪魔しようと思った?」
「当たり前だろ、圭一さんがいつも俺のお仕事の邪魔をするからですよ。やり返してやろうと思ったんです」
涼太が肩に垂れたウィッグの髪を払い、ニヤッと悪魔のように笑んだ。俺は少し首を竦めた。
「俺は邪魔はしてないだろ。暇そうなときに来て暇そうな涼太に話しかけてるだけで……」
「圭一さんはそのつもりでも、俺は邪魔されてるんです」
「ええー……ごめん……」
「謝られてもやめませんよ」
困った、捗ると思ってこの店に来たのにまさか涼太が意図的に邪魔してくるとは予想しなかった。流石に邪魔をされては仕事が終わらない。ここはサンドイッチをさっさと食べて、オフィスに戻った方が賢明か。
涼太がテーブルの下で靴を脱いだ。ニーハイソックスを履いた爪先で、俺の足首をつんっとつついてくる。じろっと涼太を睨むと、彼は満足げにニッと目を細めた。
してくることはうざったいが、いたずらっぽい笑みは小悪魔のかわいさでつい見入った。思わず俺の口元がニヤけたのを見て、涼太はより嬉しそうに微笑んだ。
「どうですか圭一さん? あんたこのクソウザい小僧を女の子と思い込んでたんですよ。俺相手に頭撫でたり、顔に手を添えたり、いろいろ間違っちゃいましたねえ?」
涼太の爪先がツツッと俺のスラックスの裾をずり上げた。足首をつついて擽ってくる。だが擽ったいというよりは、靴下の薄くてさらさらした生地と涼太のふっくらした足の指の感触が背筋をそわそわさせる。
何より、涼太がこんなに俺にちょっかいをかけてくること自体が妙な幸福感で、楽しそうな彼の方ばかり見てしまう。全く作業に集中できない。
「ああもう……涼太がこんなことしてくるんなら仕事にならん。もうオフィス戻るかな」
わざとらしく言ってみると、涼太はピタッと擽るのをやめた。涼太の攻撃が止まったので、俺はパソコンの画面に目を向けた。
「オフィスに戻ったらまた玲香ちゃんが労ってくれるだろうし」
「玲香ちゃん?」
涼太が繰り返す。テーブルの下は見えないが、もぞもぞしている様子を見る限り靴を履き直しているようだ。
「そう。うちの部署の女の子でね、かわいいし気が利くしでめっちゃくちゃいい子なんだよ」
俺は先程のお茶を運んできてくれた可憐な笑顔を思い浮かべた。
「手伝えることがあるなら任せてほしいとまで言ってくれたからな。涼太はこうやって邪魔してくるのに」
「俺は圭一さんの手伝いなんかする義理ないですから」
「全然終わらないし、資料集めとか本当に玲香ちゃんに協力してもらおうかな」
無関係の彼女を頼るのは申し訳ない気もするが、これだけ仕事が山積みなら手伝ってもらうのもありかもしれない。
「手伝ってもらうとしたら、お礼に何か差し入れでも持ってくかな。そうだ、この店でランチ奢るとか」
独り言みたいに言ってから、ふとパソコン越しの向こう側の席を見ると、涼太が不満そうに眉間に皺を作っていた。
「ふうん」
不服そうな表情はどこか素顔の気配があって、桜ちゃんの格好でも何となく男っぽい雰囲気が滲み出していた。
「何、その顔」
問うと、涼太はむっすりと低い声で凄んだ。
「そんなかわいい人が近くにいるんなら、店に来ないでオフィスでやればいいじゃないすか」
「なんだお前、羨ましいのか? そうだ、前に飲み会のときに撮った集合写真に玲香ちゃん写ってるぞ。見る?」
鞄から携帯を取り出すと、涼太は一層不満そうに首を引っ込めた。
「いい。見ない」
ツンッと横を向いて、二秒くらい経ってから、涼太は目だけこちらに向けた。
「やっぱ見る」
考えてみたら、こんな格好でも涼太だって男である。お年頃ということもあり、かわいい女の子と聞けば興味くらいはあるだろう。
「はいよ」
データフォルダを開いて、一ヶ月ほど前の飲み会での写真を再生した。部署の連中七人が全員酔っ払いの顔でテーブルを囲むくだらない写真だ。その中で、玲香ちゃんは淡い桃色のブラウスを着て控えめな笑顔でピースしていた。
「この、右から二番目の子が玲香ちゃん。かわいいでしょ」
画面を涼太の方に向けると、涼太は少し前のめりになって覗き込んできた。眉を顰めてじーっと見て、やがてぽつっと言った。
「胸でけえ……」
「それだよな」
表情は大人しそうだが、テーブルに乗っかった巨乳は抜群の存在感である。
「圭一さんはこういう人が好きなんですか? 胸はともかく……大人しそうで素直そうで、真面目そうな人」
涼太はまだ画面を見つめていた。俺は画面を向けながらうんうんと頷く。
「こういう子ほど愛情深そうじゃんな。といっても玲香ちゃんがストライクというより女の子は大概好きなんだけどさ」
「誰でもいいんじゃないですか。やっぱお胸? 本当に最低の極みですね」
涼太は桜ちゃんぶっていない普通の男性の声で俺を罵った。
「まあたしかに、この玲香さんて人はかわいい人ですね」
「だろ? これで気が利いて仕事がよくできるんだよ」
君はどういう子はタイプなのかと尋ねようとした矢先だった。
「でも桜ちゃんの方がかわいくないですか?」
女の子の話をしているというのに、自分基準で評価しやがった。まさかの比較に返す言葉を詰まらせていると、涼太は勝手に続けた。
「圭一さんだって桜ちゃんを口説きまくってたじゃないですか。それとも、桜ちゃんだけじゃなかったんですか? 玲香さんにも同じようにしてるんですか?」
問い詰められて、俺はまごついた。
「いや、でも玲香ちゃんは君と比較するものじゃないから……」
「それは桜ちゃんが、玲香さんの比にならないくらい貧乳だからですか?」
涼太の視線が、携帯の画面から俺の方に動く。
「玲香さんが女性で、桜ちゃんは男だからですか?」
やや上目遣いの視線は、やけに鋭く俺を突き刺してくる。なぜかすごく、悪いことを言ったみたいな気分になってきた。
「ええっと、もちろん桜ちゃんもかわいいんだけど、なんていうか」
何だか知らないが、彼女に浮気が見つかって問い詰められるような心地がする。こんなに責められる覚えはないのだが、涼太が不機嫌だと無性に申し訳なくなってくる。俺はやはり浮気がバレた男の気持ちでぐるぐると言い訳を考えていた。
「そうだ! 玲香ちゃんはお茶を入れてお手伝いしようかとまで言ってくれるんだけどな、桜ちゃん……いや、お前は気を利かせるどころか邪魔ばかりしようとする!」
ピンと気がついて、俺は反撃の態勢に入った。
「心優しい子の方を褒めるに決まってるだろ。そういう点で玲香ちゃんはかわいいんだ。残念だったな、乳だけじゃないんだよ」
これで涼太が大人しくなればよかったのだが、涼太は却って逆上した。
「んだと! 俺はただ、圭一さんが俺の邪魔ばっかするから仕返ししてやろうと思っただけです!」
ガタッと立ち上がり、テーブルに手を突いた。彼はぎょっとする俺を睨みつけ、俺のサンドイッチからピックを抜き取る。何をするかと思いきや、そのピックをフライドポテトに刺して、ずいっと俺の方に突き出してきた。
「ん!」
怒りの形相でポテトを差し出す彼に、俺はぽかんとした。
「は?」
「ほら食えや」
「え?」
あんぐり開けた口に、ポテトを放り込まれた。
「気が利くかわいい子がお好きなんでしょ?」
涼太がニヤッと不敵に笑った。
「これで、御薗桜は満点ですか?」
目の前の小悪魔を見上げて、俺はもぐもぐとポテトを咀嚼した。わざとらしい、というか、もはやあからさまだ。ここまであざといと、気が利くというよりむしろ腹黒さの方が強く感じる。
「どきどきしましたか? 仕事どころじゃなくなりました?」
尋ねてくる涼太の方が、じわじわと頬を赤くしている。自分のしたことの恥ずかしさを徐々に自覚しはじめたようである。
「な、なんとか言えよ……」
そこへ、オーナーが涼太が注文した紅茶を持ってやってきた。
「ごめんね圭一くん。涼太、圭一くんに構ってほしくていたずらしちゃうみたいなんだ。お仕事大変なのに申し訳ないね」
へらへら笑いながら謝るオーナーを、涼太はブンと振り向いた。
「おい! 俺がいつ構ってほしいなんて言った!?」
「見てれば分かるよ。普通に休んでる圭一くんなら桜ちゃんを口説き倒してるのに、仕事してると全然話しかけてくれないから寂しいんだよね」
涼太を怒らせても、オーナーはより楽しそうに笑っていた。涼太が髪を振り乱して激しく首を振った。
「違う! そんな気持ち悪いことしてない!」
反論しながらみるみる顔が赤くなる涼太を見て、俺は目をぱちくりさせた。口の中に残っていたポテトを飲み込んで、涼太の横顔に尋ねる。
「お前……そんなに寂しがり屋だったのか」
「違うって言ってるだろ! 圭一さんなんか大っ嫌いだって、だから邪魔してやろうと思っただけだから!」
またこちらに顔を向けて怒鳴ってくる。が、声が裏返っていた。
そうか。つついていたずらしてくるのも、無駄なお喋りで時間を奪おうとするのも、わざとらしい仕草で誘惑しようとするのも、そういうことだったのか。俺に反応してほしくて、手を尽くしていたのだ。
そして俺はまんまと涼太の罠にかかった。数々のアピールにいちいち反応していたせいで、報告書が止まっている。
「気が散るくらいかわいいけど、男なんだよね」
「うるせー! 仕事滞留して上司に怒られろ!」
涼太はポカッと俺のこめかみを殴り、紅茶を持って厨房へと逃げ出した。見ていたオーナーがふふふっと笑う。
「男の腕力で殴られちゃったね。大丈夫?」
「いってえっす」
俺はこめかみを片手で押さえた。ただ、実際のところそんなに痛くない。涼太の方もじゃれているだけなのだとオーナーは分かっているのか、本気で心配してくることはなかった。
「圭一くんにすっかり懐いちゃったよね」
オーナーがお盆を胸に抱えてちらっと厨房の方に目をやった。彼は厨房まで聞こえないように声を潜めた。
「涼太はね、親元を離れてひとりでこの町に来たでしょ。家族も友達も地元に置いてきて、血縁はあるけど殆ど知らないおじさんである僕のところに居候することになって、不安だったんだと思うよ」
オーナーに言われて、俺はうっすら想像してみた。新生活を前にして期待に胸を膨らませるだろうが、同時に不安があることは想像に難くない。オーナーが続ける。
「そこへ、仲良く絡んでくれる圭一くんが現れて嬉しかったんだね。友達ができたと思ってるんじゃないかな」
「なるほどね。だから、仕事ばっかで自分に見向きもされないのが面白くないと」
「うん」
気持ちは分からないこともないが……。
「でも邪魔は邪魔だな……」
「ごめんね。注意しとくね」
オーナーはもう一度謝った。俺は厨房の方に目を向けた。涼太は奥に引っ込んでいて、姿が見えない。
あいつはやっぱり、バカだ。子供っぽくて自己中だ。大人で気配りができる玲香ちゃんとは対極である。
「でも、かわいいんだよな」
「見た目はね」
俺の呟きに、オーナーは律儀に返事をした。
*
同じ日の夕方、俺は会社帰りにもう一度クードラパンへ立ち寄った。
報告書はなんとか仕上げたのだが、企画書に手をつける前に今度は会議資料を作るはめになった。残業するより環境のいいカフェへと、パソコンを持って訪れた。
店に入るとすぐに、少しハスキーで可憐な声がした。
「いらっしゃいませ!」
桜ちゃんに化けているときの、涼太の声である。
かわいい声を出してきたなと思ったら、他にお客さんがいたからスイッチが入っていたようである。昼に来たときはお客さんは俺しかいなかったが、今度は近所のおばちゃんが二人お茶していた。
涼太は扉を開けたのが俺だと分かった瞬間、スッと男の険しい顔つきになった。
「また来たんすか?」
「態度冷たいな。俺もお客さんなんだけど」
「仕事は? 終わったんですか」
既にいるお客さんを気にしつつ、涼太が声のトーンを落として聞いてくる。
「まだ残ってるから、ここで仕上げてから帰ろうと思って」
「ちっ、仕事遅えな。要領悪いんじゃねえですか?」
小さな声だったが、しっかり毒づいてきた。
いつもの席について、俺はだるそうに仁王立ちするウェイトレスを見上げた。
「コーヒー頼もうかな」
「かしこまりました」
マニュアルどおりの台詞で気だるげに承って、涼太はオーナーのいる厨房へと消える。俺はその間に、パソコンを立ち上げて製作途中だった会議資料のシートを開いた。
窓の外で桜の花びらが散っている。店の前の木は、殆ど新緑の色に塗り替えられていた。夕焼け空に緑の葉がさわさわ揺れて、見慣れた景色なのにやけにノスタルジックに感じる。もうすぐ、涼太も春休みが終わるのか。そうしたら、彼も忙しくなって今ほどは店に出てこなくなるのだろう。ちょっと寂しくなるが、涼太も学生なのだから仕方がない。
目線をパソコンの画面に戻す。白く明るい画面に黒い文字が無機質に並んでいる。カタカタとキーボードを叩いていると、横から遠慮がちに声をかけられた。
「はい、ここ置きますよ」
声の方に目をやると、涼太がコーヒーを持ってきていた。窓から射し込む夕日を受けて髪がきらきらし、少し不機嫌そうな顔がいつもより少女っぽかった。
コーヒーをパソコンの横に置くと、涼太はそそくさとカウンターの方へ戻ろうとした。俺はキーボードから指を離す。
「あれ、絡んでこないの?」
「ん? なんですか、さっきは邪魔するなって言ったくせに」
涼太がむっすりした顔で振り向く。俺も負けじと眉を寄せた。
「そっちこそ、さっきは邪魔してやる! って言ってたくせに」
「してほしいの?」
「いや……」
もちろん、邪魔をされると仕事が滞るのでそれはやめてほしい。だが、何もしないでいなくなられるのも面白くない。
「あ。お前さてはオーナーに叱られたんだろ。それでしおらしくなったんだな」
俺はコーヒーに添えてあったティースプーンを涼太に向けた。叱られた途端に大人しくなった子供みたいな涼太を、ニヤニヤ笑ってやる。涼太はお盆を胸に抱きしめてぷるぷる震えた。
「……くっそ、外見て黄昏てるから相当疲れてんのかと思って気を遣ってやったのに、その態度……!」
「別に外の木を見てただけだよ」
「だってなんか、真顔だったから。なんか考えてるように見えた」
涼太が悔しそうに頬を赤くする。俺はああ、と思い返した。
「ちょっと思うことはあったよ。君のこと考えてた」
「はあ? 何を……」
こいつの春休みが終わることを考えていたという意味だったのだが、涼太は目を泳がせて取り乱した。
「本当に気持ち悪い! こっちの正体分かってて、よくそんなことが言えるな」
罵倒する涼太に、俺はより意地悪にニヤついた。
「またサービスしてね、桜ちゃん。今度は生脚絡めてほしいな」
「うるせえ! 黙って仕事しろ!」
くわっと威嚇した涼太の罵声を聞いて、お茶していたマダム方が驚いて振り向いた。涼太がハッとそちらを窺う。
「失礼しました」
美人ウェイトレス桜ちゃんを演じるその甘い声に、俺はくすっと笑いを洩らした。
「あらら、怒鳴っちゃって。またオーナーに叱られるな」
涼太はギロッとこちらに鋭い眼光を向け、おばさんたちが見ていない隙にお盆でバコンと俺の頭を殴った。
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