チャラリーマンと女装ウェイトレス

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

1.秘密?

 塩川涼太はバカである。

 人の話を聞かないで突っ走るタイプのバカだ。

「や、やめろって……」

 はらりと散った朽葉色の髪と、俺を掴んだ腕の、細さに見合わない筋肉。翻るスカートから覗いた腿。

「だからやめろって、言ったのに」

 この世の終わりみたいな、絶望的な表情。

「ぶっ殺してやる……!」

 君のこの顔は、多分一生忘れないと思う。


 *


 事の始まりは、俺が昼休みに通うカフェでのことだった。

 カフェ「クードラパン」の前に植わった大きな桜が風に吹かれていた。ほんのり赤みを帯びた白い花びらが、脆くもはらはらと舞っている。桜の木の下を抜けると集まっていた鳩たちが飛び散った。その羽ばたきでまた桜の花びらが舞い上がり、明るい青い空へとくるくる踊る。春の匂いが心地よい。

 俺は高い青い空を見上げてから、店の扉を開けた。

「桜ちゃーん! 今日もかわいいね」

 会社の近所にあるカフェ、クードラパンは、営業に回るついでに昼飯を食いに立ち寄るお気に入りの店だ。ここに、この春から天使が舞い降りてきた。

 振り向いた美少女の、朽葉色の髪がきらりと光る。ふんわりしたセミロングをハーフアップにした、儚げな彼女。

「圭一さん。また来やがったんですか。本当に気持ち悪いですね」

 その薄幸の美少女が、顔に似合わない冷たい視線を俺に突き刺す。

 この店のウェイトレス、御薗桜は、俺のオアシスだった。

「桜ちゃんかわいいよー」

「知ってます」

「今お客さんとこでめちゃくちゃなクレーム付けられたけど、桜ちゃん見たら元気出たよ」

 気に入っている隅っこの席に着くなり、俺はぺたんとテーブルに突っ伏した。桜ちゃんがゴミを見るような目で俺を見下ろした。

「そいつはよかったっすね」

 ふわふわの髪に大きな真っ黒な瞳。白い襟のついた黒いワンピースに、白いエプロンのウェイトレス制服。控えめな胸には桜色のリボンを結んでいる。しっかり筋肉のついた健康的な美脚は白のニーハイソックスに包まれて生脚よりも色っぽい。

 桜ちゃんは、癒しの塊だ。

「あーもう、かわいい」

 俺は椅子から手を伸ばし、桜ちゃんの髪を撫でた。瞬間、彼女がびくっと肩を竦める。その反応を見て俺は慌てて手を離した。

「そんなにビビらなくても。傷つくなあ」

「ビビってねえよ。触んな、です」

 動揺しているのか、若干語尾が乱れていた。だが、俺は桜ちゃんからぞんざいにあしらわれるのには慣れている。

「こんなにかわいいのに態度が冷たいのとか、意外と声がハスキーなのとか、たまらんな」

「態度が冷たいのは圭一さんがしつこいからですよ」

「ああ……この冷たい態度が心地よい。もっと罵ってくれ」

「圭一くん、ここそういうお店じゃないから」

 厨房の方からオッサンの声が飛んできて、俺はむくりと顔を上げた。

「じゃあ桜ちゃんとは個人的に親しくなるしかないか……」

「圭一くん、桜ちゃん見てれば分かると思うけど無理だよ」

 オーナーの酢谷さんは、まろやかな言葉遣いで結構ズバズバ言ってくる。

 五十過ぎの、白髪混じりの眼鏡のおじさんがこの店のオーナーだ。初対面では大人しそうな印象を受けていたのだが、喋ってみると意外と毒舌である。

「叔父さん、この人もう出禁にしましょうよ」

 桜ちゃんが一際冷たく俺を睨んだ。

 クードラパンは、カウンターに椅子が三つと、二人座れる丸いテーブルが四つしかないとても小さなカフェである。元々はオーナーの酢谷司さんがひとりで切り盛りしていたのだが、今年の春から桜ちゃんがお手伝いに出てくるようになった。

 今年から大学生になるという桜ちゃんは、地元を離れてこの町にやってきた。叔父である酢谷オーナーの家でお世話になるついでに、ここでウェイトレスのバイトをしているのだ。

 近所のサラリーマンである俺、佐藤圭一は、営業回りの休憩や昼休みの飯時なんかにこの店を訪れていた。入口から一番離れた奥の席は、最初に入ったときに何となく座って以来定位置になっている。カウンター席に座ってもいいのだが、カウンターから少し離れていた方が桜ちゃんが来てくれるので俺としてはこの場所が気に入っていた。

 特にオーナーと親しく話したりするような間柄でもなかったのだが、桜ちゃんが来てからというもの、俺は随分ここに入り浸るようになっている。

「桜ちゃんって、今年から大学生だよね。ってことは今、十八歳?」

 俺以外に客がいないのをいいことに、桜ちゃんに無駄話を振る。桜ちゃんは迷惑そうにこたえた。

「そうですよ。それがなんですか?」

「そっか、俺は二十八だから……十も離れてるんだな。でも高校卒業してるし手を出してもギリセーフ?」

「は? 何寝言言ってんすか」

 流石にセクハラが過ぎたようで、桜ちゃんの顔がいつにも増して険しくなった。俺は両手をひらひらさせて謝罪した。

「ごめん、冗談冗談。ただ、俺が桜ちゃんくらいのときって何してたかなって思って」

「はあ。何してたんすか?」

「十八の頃なあ……後腐れのなさそうな女の子取っかえひっかえで遊んでたような……」

「最低ですね」

 桜ちゃんは歯に衣着せぬ物言いで言い切った。俺はその冷たい瞳をじっと覗く。

「向こうも男を使い捨てだから……嫌いにならないで」

「もう嫌いなのでこれ以上嫌いになることはないです。さっさと注文決めてください。いつものでいい?」

 あしらい方が冷たくて、かわいい顔とのギャップにまたときめいた。

「じゃあ、サンドイッチとコーヒー」

「はい、承知。いつものね」

 桜ちゃんは俺をぞんざいに扱って、席を離れようとした。厨房に向かおうとする彼女の背中に、俺はまた声をかけた。

「桜ちゃんが俺のこと嫌いでも、俺は桜ちゃんのこと好きだからね」

「うるせえわ」

 振り向いてもくれない桜ちゃんに、引き続きアプローチする。

「多分ね、これ恋だから」

「はあ?」

 桜ちゃんがブンと俺の方に顔を向けた。

「お、こっち見た」

「じゃなくて、何言ってんですか? 圭一さん」

 かなり戸惑っているのがまたかわいくて、俺は意地悪く続けた。

「恋だよ恋。桜ちゃんに会いたいあまりにこの店に通っちゃうほどね」

 繰り返す俺を桜ちゃんは呆然と眺めた。凍りついたみたいに動かない。

 彼女は一度、目を閉じた。俺の言葉を頭の中で噛み砕いているのか、しばらく停止していた。それから再び目を見開く。

「いやいやいや……そんな、この店でこの程度の会話しかしてない人に恋なんて、ないですよ」

「そんなことはない。これは恋だ」

「違うって! 冷静になれよ! もっと慎重に、相手のことを知ってからじゃないと分かんないだろ!」

 桜ちゃんが必死になって反論してくる。が、桜ちゃんが声を上げれば上げるほど俺も熱くなった。

「絶対恋だって、マジで本当にかわいい! 」

「知らねえよ、かわいかったらイコール恋だなんてめちゃくちゃじゃん!」

「かわいいっていうのは、外見に滲み出してる中身のかわいさのことだよ。かわいい服着て楽しそうに働いて、自信に溢れてる感じがあって……」

 桜ちゃんに向かって桜ちゃんのプレゼンをはじめた俺に、彼女は息を呑んで後ずさりした。

「どうでもいい! ぜんっぜん興味ねえから! バカア!」

 捨て台詞みたいに吐き捨てて、桜ちゃんは厨房へとダッシュした。様子を眺めていたオーナーがにこにこ笑って俺を見据えている。

「圭一くんね。あんまりうちの桜ちゃんをからかわないでね」

「だってかわいいんですもん」

 俺は全く反省しなかった。オーナーは苦笑いし、厨房に逃げた桜ちゃんに声を投げた。

「桜ちゃんもね、お客さんに向かって『バカ』はだめだよ。圭一くんだってギリ客なんだからね」

「ギリってなんすか」

 俺は席からオーナーにつっかかった。

 むっすりいじけながら窓の外へ目をやると、外の桜の木が見えた。風に吹かれてはらはらと花びらを舞わせている。

 別に、俺だって本気で桜ちゃんに恋をしているつもりはない。俺はもう三十近い大人であって、流石に分別がつく。まだ未成年の桜ちゃんからすれば、俺なんかオジサンだろう。

 ただ、からかうとしっかり照れる桜ちゃんがかわいいから、意地悪したくなるだけだ。オーナーだって分かっていると思うし、どちらにせよ桜ちゃんは相手にしてくれない。

 でも、かわいいと思ってしまうのは本当だ。

 かわいい服着て楽しそうに働いて、自信に溢れてる感じがあって。桜ちゃんにも直接言った、彼女の溢れ出す輝きは本物だと思う。

「あっ、たまご切らしちゃった」

 オーナーが厨房で悲鳴を上げた。

「やっちゃったー、僕ちょっと今から走って買ってくるね。桜ちゃん、店番よろしく」

「え? 自分行きますよ?」

 桜ちゃんの返事が終わる前に、裏口の戸がバタンと閉まる音がした。桜ちゃんが大きなため息をつく。

「もう、人の話を聞かないんだから……。普通オーナーが店に残って、バイトが買いに行くだろ」

 文句を言いながら、桜ちゃんはお盆にサンドイッチを乗せて俺のところへ運んできた。スカートの裾から覗くむちむちしたふくらはぎに、ついゾクッとする。

「だいたい、たまご切らすってどういうことっすかね。なんでそんな杜撰な管理してんだ」

 かわいい顔して粗野な言葉遣いだ。俺のことが嫌いだと言っておきながら人懐っこく話しかけてきている。やっぱり、桜ちゃんはかわいい。

 桜ちゃんがサンドイッチをお盆から降ろし、テーブルに並べた。猫の手みたいな丸っこい手で、爪にはうっすら桜色のマニキュアを塗っていた。

「桜ちゃんってどこの大学行くの?」

 徐ろに聞いてみたら、桜ちゃんはうーんと唸って、とさっと俺の向かいの席に腰を下ろした。

「秘密っす」

「えー、別にストーキングとかしないぞ?」

「そう宣言されると却ってやりそうな印象ありますよ」

 お盆を胸に抱いて、脚を組む。程よく筋肉のある左右の脚が絡まって、スカートが少しだけ捲れ上がった。健康的な脚の色気にごくりを唾を飲む。桜ちゃんは、腿まで見えそうなスカートを直そうともしなかった。なんて無防備なのだろう。

「桜ちゃんってさ、もしかして処女?」

 思わず、最低な質問を繰り出してしまった。桜ちゃんが石化する。

 俺も流石に取り繕おうかとも思ったが、いっそのこと開き直ることにした。

「男を煽るようなことばっかり言うし、仕草も隙だらけでしょ。桜ちゃんめちゃくちゃかわいいから、男慣れしててわざとやってるんだと思ってたんだけど……。なんか、ひょっとしてただ分かってないだけなのかなって気がしてきた」

「なっ……何言ってんですか。叔父さんがいなくなったからって」

 色白の肌を赤くする桜ちゃんが、大きな目を見開いて俺を見つめる。俺はテーブルに肘をついてニヤリとした。

「そっちこそ、オーナーがいなくなった途端に擦り寄ってきたくせに」

 顔を真っ赤にする桜ちゃんが、妙に色っぽく見える。

「桜ちゃん、かわいいね」

「そういうの、誰にでも言ってるんすよね。後腐れのなさそうな女と遊んでたって、さっき言った」

 怒って言い返してくる台詞がやけにたどたどしい。

「本当に免疫ないのか」

「うるっさい……!」

 桜ちゃんがガタッと席を立った。反撃できなくなると厨房へ逃げようとするのが、彼女の悪い癖だ。俺もサッと立ち上がって、逃げ道を塞ぐ。桜ちゃんの顎に手を添えた。

「ほれ、ほれほれ。こういうの照れる?」

「やめろ、触んな」

 桜ちゃんが俺の腕にしがみついて手を払い除けようとする。その手がスーツのジャケット越しでも分かるくらい熱くなっていて、俺は余計に楽しくなった。

「嫌だったら、蹴飛ばしてでも抵抗して」

 一歩詰め寄ったら、桜ちゃんはきゅっと目を瞑った。

「やっ……圭一さん、やめてってば」

 やめてと言うわりに手に力が入っていない。俺は調子に乗って少しだけ前屈みになった。

「や、やめろって……」

 瞬間、桜ちゃんが膝を折った。お陰で俺も引っ張られるようにバランスを崩した。ガタンと店の床に二人して倒れ込む。

「わぷっ」

 桜ちゃんが変な声を出して俺の下敷きになった。

「うわっ! ごめん」

 俺は咄嗟に飛び退いたのだが、上体を起こす桜ちゃんを目の前にして固まった。

 はらりと散った朽葉色の髪と、俺を掴んだ腕の、細さに見合わない筋肉。翻るスカートから覗いた腿。

「だからやめろって、言ったのに」

 この世の終わりみたいな、絶望的な表情。

「ぶっ殺してやる……!」

 君のこの顔は、多分一生忘れないと思う。

 長い茶色い髪は、ウィッグだった。前髪を横に流した、到底結べない長さの髪が露になる。大きく開いた脚はスカートを完全に捲り上げていて、中に隠れていた男物の下着が丸見えになっていた。

「……えっ?」

 俺は目の当たりにした青いチェック柄のメンズパンツを、真っ直ぐに見つめた。

 脳が処理できない。

 たしかに、ついさっきまで俺の目の前にいたのはマイエンジェル桜ちゃんだった。桜ちゃんは美少女だ。女の子だったはずだ。それなのに今俺の正面で開脚するウェイトレス姿の人物は間違いなく男である。考えてみても、やはり脳が追いつかない。

 桜ちゃんは脚を閉じるより先に拳で俺の頬を殴りつけた。

「見てんじゃねえよクズ野郎!」

「痛い!」

「最っ悪! マジでないわ。本当死ねよ!」

 桜ちゃんの、いや、もはや桜ちゃんと呼んでいいのか分からない人の罵声が止まらない。

「圭一さん、責任取ってくださいよ!」

「責任!?」

 訳も分からず繰り返す俺を、桜ちゃんがまた殴った。

「これだからあんたみたいのは迷惑だったんだ! 死ね!」

 俯きながらポカポカと胸を叩いてくる。殴る速度と力は、徐々に弱まっていった。

「バカ、バカ! 大嫌いだ。バーカ……死ね……」

 最後に一発腹部に決められ、俺は口を押さえて絶句した。桜ちゃんはまだ、下を向いている。そして消え入りそうな声を絞り出した。

「……お願い、圭一さん。このこと誰にも言わないで……」

 店の空調の風で飛ばされてしまうのではないかというくらい、弱々しい声だった。

「えっと……」

 俺はぷるぷる震える桜ちゃんのつむじを見つめ、言葉を探した。

「えっと、なんか事情があるみたいだな」

「言わないで……」

「うん、分かった。分かったから」

 こんなに弱っている桜ちゃんは初めて見た。そっと頭を撫でてみる。髪色は同じ朽葉色だが、いつも見ていた長い髪ではなく、少年っぽい短い髪だ。手のひらに触れた髪はふわっと細くて軟らかくて、気持ちいい。

 大好きな桜ちゃんとはまるで別人に変わってしまったようだが、声も、顔も、同じである。不思議な感覚だが、とりあえず脳を占める感覚のほとんどが「かわいい」で埋め尽くされていた。

 そこへ、オーナーののんびりした声が溶け込んできた。

「あーあー、バレちゃったの、涼太」

「りょ……涼太?」

 俺はバッと声の方を振り向いた。オーナーが厨房から顔を出している。買い物を終えて、帰ってきたようだ。

「塩川涼太は、僕の甥っ子だよ」

「甥っ子……姪っ子じゃなかったのか」

 桜ちゃん……ではなく、涼太に、俺はまた顔を向けた。

 一時的にこの子の悲壮感に呑まれてしまったが、オーナーの普段どおりののんびりした声を聞いて俺は徐々に落ち着きを取り戻した。

「えっ、何、女装してたの? マジかよ、詐欺じゃん」

 かわいいかわいい女の子の桜ちゃんだと思って、今まで口説いてきたのに。正体が男だなんて予想してもいない。

 泣きそうだったのかと思った涼太が、くわっと血走った目で俺を見上げた。

「すっかり騙されてた奴が、今更引いた顔してんじゃねえですよ!」

 涼太の蹴りが俺のみぞおちに入る。オーナーがあははっと笑った。

「ていうか、どういうシチュエーション? どうしたらそんな姿勢になるの」

「襲われたんだよ、圭一さんに!」

 涼太が俺を指さすので、俺は慌ててその手を引っ掴んだ。

「人聞き悪いな! 襲ってはいないだろ!」

 それから俺はその腕を握る手にぎゅっと力を込めた。

「そっちこそどういうシチュエーションだよ。なんで女装なんかしてた? お前さては変態だな!?」

 涼太はまだ顔を真っ赤にして、俺を涙目で睨んでいた。変態と罵った直後だが、歯を食いしばる表情にぐっと胸が痛む。男だと分かっていても、顔は桜ちゃんなので心臓が抉られるほどかわいい。

「もしかして、性同一性障害……とか?」

 デリケートなことなのかと、慎重に窺った。涼太はふるふると首を振った。

「俺は体も心も男だよ。叔父さんが酔っ払って、俺にこの格好させたんだよ」

「そうそう。過去にここで働いてたウェイトレスの制服を見つけてね。涼太は背が小さいから着れるんじゃないの? ってふざけて着せたんだ。そしたらすごく似合っちゃったから、面白くってさ」

 オーナーは楽天的に笑っている。

「だから酔った勢いで、それを着て一ヶ月男だと見抜かれなかったら給料上げてあげるって言っちゃったんだよ」

「それなのに、今まさにあんたにバレちゃったんですよ!」

 涼太がくわっと牙を剥いた。

「折角ここまで順調に、誰にもバレずにきたのに。圭一さんが……圭一さんが!」

「ごめん、そうとは知らず!」

 そうか、ウィッグがずれることを心配していたから、髪を触ると怯えたような顔をしていたのか。男に迫られることに不慣れだったのは、こいつも男だったからなのか。

「本名は……塩川涼太くんっていうのか」

「そうです。御薗桜は、叔父さんが付けてくれた名前っす」

 涼太がいたずらがバレた子供みたいにむくれた。

「もし店に俺の知り合いが来て桜ちゃんの姿を見たとしても、俺だって分からないように、本名からかけ離れた名前を付けることにしたんです」

 涼太が言うと、名付け親のオーナーが付け足した。

「涼太がここに来た日に外の桜が蕾を付けはじめてたから、『桜』。苗字の『御薗』は、本名が塩川涼太だから、塩から味噌を連想して御薗なんだよ」

 次々と衝撃のネタバレが襲いかかってきて、俺はだんだん事態を呑み込めてきた。

「そうか……桜ちゃんは男だったのか……」

 がっくり項垂れると、涼太は俺をひと睨みしてから立ち上がった。

「俺の方が落ち込んでるんですからね。給料アップチャレンジに失敗したんですから」

 スカートの埃を叩いて、床に潰れていたウィッグを拾う。無造作に髪をセットした涼太は、たちまち見慣れた姿の桜ちゃんに変身した。

「うう……男だと分かっててもやっぱりかわいい」

「気持ち悪」

 蔑んだ目が俺を突き刺す。

「はあ、最悪だ。圭一さんなんか大っ嫌い。リストラされてしまえ」

 思い切り罵って、涼太は厨房に引っ込もうとした。まだ床に尻餅をついていた俺は、去ろうとする涼太のスカートの裾をちょいと摘んだ。最後にもう一度だけ中を拝んでおこうと思ったのだが、その前にガッシリした脚で胸元を蹴り飛ばされた。

 涼太は厨房に引きこもって、出てこなくなった。

「圭一くんねえ、あの子もお年頃なんだからあんまし意地悪しちゃだめだよ」

 オーナーがふふんと笑う。俺はのっそり床から立ち上がって、コーヒーとサンドイッチが並んだ席に腰を下ろした。

「いや、そもそもオーナーが着せたんですよね?」

「だって似合うじゃん」

「大賛成ですけど」

「まあね、涼太は元々女装趣味があったわけじゃないんだけど、今はあのとおり楽しそうにしてるでしょ。だから無理させてるわけじゃないし、いいかなって」

 オーナーは自分が酔って着せたことを堂々と正当化しはじめた。

「服がピッタリだったのも面白かったし、折角だからコンビニで化粧品揃えて化粧までしてみたんだ。そしたらあのとおり、めちゃくちゃかわいくなったでしょ。絶妙な似合いっぷりに本人も笑ってたよ」

「本当にかわいいですもんね、桜ちゃん」

 俺も完全に騙されていた。女の子だと思って、全く疑っていなかった。

「声もちょっと高めに発声すれば案外いけるよね。僕も時々涼太だってこと忘れるよ」

 オーナーがゆったり話すのを聞きながら、俺はサンドイッチを口に運んだ。瑞々しいレタスとハムがしっとりしたパンの間で互いの甘味を引き出している。

「でもね、涼太も流石に、他人にバレるのは不安だったみたい。女装趣味の変態って思われたら嫌だったんだろうね。完璧に女の子に見せかけることで、バレないようにしてる」

 そりゃそうだ。バイト中は女装しているなんて、トップシークレット事項だろう。

「桜ちゃんの正体を知ってるのは、今のところ僕と……あと、圭一くんだけだよ」

 オーナーが穏やかな声で言う。

「だから圭一くん、この件は誰にも言わないでね。万が一にもバレてしまったら、君の大好きな桜ちゃんは首を括るかもしれない」

 穏やかな口調のくせに、オーナーの目は俺を捕らえて離さなかった。

「漏洩してたら圭一くんがバラしたってすぐに分かっちゃうからね?」

「分かってますよ。絶対口外しませんて」

 もしもバレてしまったら、涼太を見る周りの目線は冷たくなるだろう。叔父として、オーナーは涼太を守りたいのだ。……いや、自分が女装させたくせに……。

 しかしまあ、とんでもない秘密を共有させられてしまった。

 俺の癒しの天使だった桜ちゃんが実は男だったショックはかなり大きい。今まで全く見抜けなかったことが我ながら情けない。それほどまでに完璧な変身だったというわけだ。

「いくら自分で女装が似合うことに気づいて楽しかったにしても、バレるリスクを考えたら店にまで出てくることないですよね?」

 コーヒーを口に注ぎながら聞いてみたら、オーナーは苦笑いを返してきた。

「さあ? かわいい自分をもっと見てほしかったのかもね」

 たしかに、桜ちゃんのかわいさはオーナーと本人だけの秘密として燻らせておくのはもったいない。オーナーはニヤリとして続けた。

「或いは、給与に反映するって聞いてムキになったのかも。もしかして涼太って、お金さえ払えばなんでもさせてくれるのかも?」

「マジすか。じゃあちょっと奮発してみようかな」

 俺が冗談を抜かした瞬間、聞こえていたのか涼太が厨房から飛び出してきた。

「叔父さん! 変なこと吹き込んでんじゃねえですよ!」

「だって涼太が給与に釣られて思い切った行動するからさあ。しかも僕、給与アップは嘘だってその場で言ったよね」

 オーナーの突然の打ち明けで、涼太はぎょっと目を剥いた。

「はあ!? 嘘だった!?」

「うん。冗談だよって言ったのに、お前全然話聞かないでメイクの練習始めたからもう放っておいた」

 人の話を最後まで聞かないところは、桜ちゃんこと涼太とオーナーのそっくりなところなのかもしれない。涼太がオーナーに噛みつきながら俺を指さした。

「じゃあ何、俺は意味もなく女装して意味もなくこのチャラいリーマンに絡まれて、意味もなくスカート捲られたってこと?」

「スカート捲ってはいないぞ」

 ぽそっと反論してみたが、涼太の耳には届いていない。

「どこまでも最悪だ! くそー!」

 汚い言葉で男の声で怒鳴っていても、見た目は愛くるしい桜ちゃんなので見ていて不思議な気持ちになった。


 *


 翌日の昼のことだ。

 満開の桜が、正午の青空を舞う。白い花びらが風に飛ばされて、どこかへ消えた。俺はまた、カフェクードラパンにやってきた。

「桜ちゃーん! 今日もかわいいね」

 朽葉色のセミロングがふわりと振り向いた。

「また来やがったんですか。本当に気持ち悪いですね」

 相変わらず顔に似合わない冷たい視線を俺に突き刺す。塩川涼太は、今日も黒いワンピースに白いエプロンをかけていた。

「俺にバレたのになんでまだ女装してんだよ。給与アップもしないんだろ?」

 他に客がいないのを確認して言うと、桜ちゃんはうんざりした顔で俺を睨んだ。

「似合うからに決まってんだろ。かわいい服着て何が悪いんですか。この方がお客さんからもチヤホヤされるし、都合いいんで」

「開き直ったな……」

「俺にかわいいかわいい言ってんの、圭一さんだけじゃないですからね」

 ツンツンと冷たく当たってから、桜ちゃんは少しだけ、沈黙した。

「……もう来ないかと思ったのに」

 桜ちゃんのつぶらな瞳が、上目遣いで俺を見上げた。

「なんでそう思うの?」

「俺が男だって分かったら、もう来ないと思ったんですよ。気持ち悪いでしょ、こんなの」

 チークが濃いめなのか、血色がいいのか、桜ちゃんの頬が少しだけ赤く見えた。

「桜ちゃんはやっぱ、オーナーに似て人の話を聞かないね。俺がいつ、君のことを気持ち悪いだなんて言った?」

 桜ちゃんが男だった衝撃は大きかった。

 でもなぜだろう、男だと分かっても桜ちゃんがかわいいことは俺の中ではあまり変わらなかった。

「かわいいよ、桜ちゃん」

「……うるせっ」

 桜ちゃんはぷいっと横を向いてしまった。機嫌を損ねる桜ちゃんに、俺はニタニタ笑いかけた。

「残念だったね、俺はそう簡単には立ち去らないぞ」

「あっそ。しつこいですね」

 桜ちゃんはツンと横を向いたままだ。そしてそのまま、ぽつりと零した。

「よかった、また来てくれて」

「ん?」

 思わず聞き返すと、桜ちゃんはバッとこちらに顔を向けた。

「違うぞ、個人的には圭一さんなんか大嫌いだけどな、俺のせいで店の客がひとり減ったとしたら叔父さんに悪いと思っただけだから。お前なんか、個人的には! 大っ嫌いだ! 個人的にはな!」

 いきなり怒鳴って俺の腹をどつき、厨房へと引っ込んでいった。

「桜ちゃーん、お客さん殴っちゃだめだよー」

 オーナーが楽しげに眺めていた。


 桜ちゃん……もとい、塩川涼太はバカである。

 人の話を聞かないで突っ走るタイプのバカだ。

 冗談だった給与アップを鵜呑みにするわ、かわいいからといって女装は続けるわ、勝手に嫌われたと思って逆ギレするわのわがままで理不尽なバカである。

「桜ちゃん、優しくしてくれないと女装趣味を他人にバラすぞ」

「ぶっ殺すぞてめえ! サービスでデザート付けてやるからやめろ」

 そんなあの子がかわいくてたまらない俺、佐藤圭一も、多分バカである。

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