さらし

増田朋美

さらし

寒い日であった。杉ちゃんはいつもと変わらず製鉄所に行って、水穂さんの世話をしていた。暑い日でも、寒い日でも、看病というものは、しなければならない。それは、どんな人でも同じことであった。杉ちゃんがいつもと変わらず、おかゆを作って、水穂さんに食べさせようとしていると、

「こんにちは。」

聞き慣れない、男性の声がした。

「あれ?誰だろう?」

と、杉ちゃんたちは顔を見合わせた。

「私ですよ。野村勝彦です。たまたま、演奏会で富士市にこさせていただきましたので、ちょっと寄らせてもらいました。」

そう、丁寧にいうのをきいて、

「ああ、ノロだ。」

と杉ちゃんは言った。

「今、手が離せないんだよ。上がって来てくれる?」

と、杉ちゃんがいうと、はい、わかりました。と、ノロこと野村勝彦先生は、玄関を上がって四畳半にやってきた。

「こんにちは。お二人さん。最近は、えらく寒いですが、いかがお過ごしですか?」

ノロは、水穂さんの近くに座った。

「いやあ、いかがお過ごしと言っても、このとおりだね。ご飯を食べないから困る。」

と、杉ちゃんがわざと明るくいうと、

「そうですか。それでは困りますね。水穂さん。周りの人への考慮というか、感謝のつもりで、食事はしないとだめですよ。単に食べるだけではありませんからね。」

ノロは、年寄らしく言った。

「今日はどうされたんですか?わざわざこちらを訪ねてくるとは、何かわけがあったんでしょうか?」

水穂さんが弱々しくそう聞くと、 

「いえ、なにも理由などございません。ただ、文化センターで演奏をしましたので、気になってこちらへこさせてもらっただけです。」

と、ノロは答えた。

「へえ、何を弾いたの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい、山田流箏曲のさらしという曲ですよ。」

と、ノロはいった。

「ああ、あの深草検校のさらしですか?」

と、水穂さんがそういうと、ノロははいそうです、と、答えた。

「山田流箏曲やれば、知らない人はいない、名曲ですね。確か、師範の課題曲になったりすることもあるとか。」

「そうなんです。最も最近の若い方は、古典箏曲をやらない方のほうが多いので、さらしという曲を知らない方のほうが、多いですけどね。」

「ははあ、なるほど。時代の流れだから仕方ないとはいえ、まあ、さらしも後世に残ってほしい曲だねえ。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

ちょうどその時。

またガラガラっと玄関の引き戸が開いて、誰かが製鉄所に帰ってきたことがわかった。

でも、只今とか、そういう声はしなかった。ただ、一人の人物が、製鉄所の中に入ってきたことだけはわかったのであるが。それに続いてブッチャーが、

「ただいまくらい、言ったほうが良いですよ。せめて、帰ってきたことくらい、伝えなきゃ、まずいのではありませんか?」

と、言っているのが聞こえてくる。そして、何か大きなものを玄関先においた音が聞こえた。

「そういえば、今日は、佐藤さんが、不用品を処分したいとか、言ってましたね。」

と、水穂さんが言った。そういえばそうだっけな、と杉ちゃんも言った。

「芳子さん、只今くらい言っても良いんじゃありませんか。ほら、皆さん心配しているかもしれませんから。」

ブッチャーは玄関先でそういったのであるが、芳子さんと呼ばれたその女性は、怒りなのか、悲しみなのか、それもよくわからないような喋り方で、

「そんな余裕はありません!」

とだけ言って、居室へ戻ってしまった。

「おい、机とか、そういうものを壊さないでくださいよ。ここの備品は一応、借り物なんですからね。」

と、ブッチャーは、注意するが、それも聞き取れなかったようだ。

「ブッチャーどうしたの。何か、彼女に嫌なことでもあったか?」

と、杉ちゃんが、玄関先に車椅子でやってきて、ブッチャーにそっと聞いた。

「いやあ、俺も正直言って、よくわかりません。いきなり、不安というか、悲しいというか、俺も口では言えないんですが、彼女は、そういうことに囚われてしまったようです。」

「そうなんだねえ。まあ言葉で言えないというのは、精神障害にはよくある言葉だよな。まあ、人間って、不思議なもんでさ、どうにもならない感情って、持っちゃうことあるんだよね。言ってみれば、水穂さんが咳き込むのと一緒だよな。」

杉ちゃんは、そういう事を言った。

「まあ、そうですね。でも、水穂さんが咳き込むのと、芳子さんが怒りをコントロールできなくて、暴れるのとは、また違うんじゃないですかね。」

ブッチャーがそう言うと、

「いや、同じにしなければだめだ。そうしないと、机を壊されることになるぞ。水穂さんが畳を汚すだろ。それと同じことだ。だから、同じように扱ってやらなければだめだ。」

と、杉ちゃんは言った。よく、特別扱いするなと人はいう。でも、こういう精神疾患とか、特殊な病気の人は、普通の人とは切り離してやったほうが、その人が楽になると思う。普通の人と同じように振る舞うなんてことは、逆立ちしてもできないのだ。そうしろということは、かえって、病気を悪化させることに繋がってしまう気がする。

「で、その、芳子さんがああなった直前、一体何があったの?」

直接的に、症状が出てしまうような事例があったとは限らないが、杉ちゃんは、そう聞いた。

「まあ、今日は、彼女が、要らないお琴を処分したいというものですから、俺は、彼女をリサイクルショップに連れていきました。お琴は大きいし、一人で運ぶのは大変だろうからと、俺が、車に乗せて連れて行った。ここまでは、杉ちゃんもわかっているよね?」

ブッチャーも、今までの事を整理するように話し始めた。

「まあそうだ。僕が誰か車に乗せていけって言ったんだもんな。それで、買取屋に行くまでの道中彼女に変化はあったか?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「いや、それはなかったね。あったとしたら、リサイクルショップに行ったときだと思う。それまでは、普通に彼女は喋っていたから。俺と、好きな音楽の話をしたりしていたんだ。それは、ちゃんとわかってるよ。俺は、そこは見てたから。」

と、ブッチャーは答えた。もしかしたら、朝飲む薬を飲み忘れたとか、そういう事はあったかもしれないが、そこまで流石に、把握はしきれなかった。

「そうか。で、リサイクルショップに入って、何か雰囲気に怯えたとか、そういう事はあったか?」

杉ちゃんが聞くと、

「いや、それはなかった。まあ大変だったのは、店員さんと話を始めたときだ。店員さんにお琴を見せて、琴柱も爪も全て揃っているので、使えるはずだと彼女は言ったんだが、店員さんは、琴というものは、需要がないので、100円でしか、買い取れないと、彼女に言ったんだ。」

と、ブッチャーは答えた。

「そうか。そういうことか。で、素直に引き取ってもらうことなく、帰ってきたのか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ああ。100円じゃ、急に力が抜けるとは思ったんだけど、その言い方が、ちょっときつかったので。」

と、ブッチャーは答えた。

「なるほどね。そういうことか。まあ、僕達にできるのは、それだけだよ。まあ、まずはとりあえず、彼女が落ち着いてくれるのをまとう。対策法は、色々あるじゃないか。例えば、僕はよく知らないけど、フリマアプリに出品することとか。」

「俺もそれがあるって、ちゃんと言ったんだけどさ。それでも、彼女には通じなかった。それより、そのつらい気持ちを、なんとかしてくれって言って聞かなかったよ。俺たちには、どうにもできない問題だけど、まあ、薬で落ち着いてくれたら、また話せばいいよね。」

杉ちゃんとブッチャーがそう話していると、いつの間にかその場で、ノロが二人の話を聞いていた。

「失礼ですが。」

と、ノロが二人の話に割って入った。

「な、何でしょう。」

ブッチャーは思わず聞くと、

「そのお琴、まだ手元にあるんですよね。」

と、ノロは言う。

「絃がきれているとか、そういう事はありませんか?」

「いえありません。付属品も全て揃っていて完璧です。」

「だから彼女は、もっと高いお金になるのではないかと思ったのかもしれないね。100円よりさ。」

杉ちゃんとブッチャーがそう答えると、

「そうですか。ではちょっと弾かせて貰えないでしょうかな。」

と、ノロは言った。

「ええ、良いですけど、彼女、ちょっと大変かもしれないので、少し後でもいいですか?」

ブッチャーがそう言うと、

「いや、こういうときは、早いほうが良いでしょう。大丈夫ですよ。そういう障害を持った方は、何度か見たことあります。そういう感情をうまく処理できない方で、邦楽を好きになった方は、意外に多いんですよ。」

と、ノロは、にこやかにわらった。じゃあそうするか、と杉ちゃんが、ノロを彼女の部屋に連れて行く。彼女はしっかり薬を飲んでくれたようで、大暴れする事はないが、一生懸命自分の気持ちを消そうと、パソコンで殴り書きするように何か打っていた。

「あの、失礼いたしますが、あなたが持っていたお琴を弾かせてもらえませんかな?」

と、ノロが、そう彼女に優しく声をかけた。彼女は、複雑な気持ちなのだろうか、ノロを見た。何か恐怖心というか、それとも何か別の気持ちを持っているだろうか。もしかしたら、お年寄りという人に対して、どう接したらいいか、わからないという反応かもしれない。それは、仕方ないことでもあるが、お年寄りと若者が断絶しあっているという事は、ある意味深刻な社会問題かもしれない。

「いやあ、怖がらなくても良いんだよ。この方は、有名な山田流箏曲の先生なんだよ。」

と杉ちゃんが言うと、ノロは、

「もし、あなたが嫌でなければ、その処分したいお琴を私がもらいますよ。100円ではなく、もっといい値段で。そのためにもちょっと試しに弾かせて貰えないでしょうかね。」

と、にこやかに言った。

「そこに立てかけておいてあります。」

彼女はボソリといった。ノロはわかりましたと言って部屋の隅においてある、お琴を確認した。そして、床の上に起き、琴柱をきれいに立てた。渡された爪をはめて、ノロは、お琴を弾き始める。

「まきの島には晒す麻布、しずが仕業に宇治川の、、、。」

「さらしだ!」

杉ちゃんがでかい声で言った。確かにそのとおり、さらしなのであった。深草検校の作品であるさらし。歌詞の中には、富士山の事も言及されている。確かに、ノロが弾くと、このお琴は決して、100円という価格にはふさわしくないのだということがわかった。

「ところがらとてな、ところがらとてな、布を手ごとに、まきのさと人うち連れて、戻ろうやへ、しずが家へ。」

これを歌い終わってさらしは終了した。

「素晴らしい!さすがだね。お琴もいい音がなるじゃないか。良かったなあ。ノロがもらってくれてなあ。」

と、杉ちゃんが、にこやかに笑って、そういう事をいった。

「確かに良い楽器だと思いますよ。琴には、いくつか階級がありましてね。この楽器は、最高級のくり甲ではありませんが、かなり上級の上角というタイプです。うまく行けば、ステージようにも使えるかもしれない。そんな高級な楽器です。100円という値段では、お琴が可哀想ですよ。せめて、10000円程度はつけないとね。」

ノロは専門家らしく、琴を鑑定した。

「ありがとうございます。1万で構いませんから、それで引き取ってください。」

と、彼女、佐藤芳子さんは、涙をこぼしながら言った。

「私、家族にどうしたら良いかで悩んでたんです。いくらお琴を引き取ってもらっても、二束三文と家族は言っていたものですから。私はそれなら、思いっきり高い値段にしてもらってくると言ってしまいました。」

「はあ、今住んでるご家族に、何か問題でもあるの?」

と、杉ちゃんが聞いた。こういう病気になる女性は、何かしら家族に問題があるものだ。たとえそれが、表面的には、幸せに暮らしているように見えてもだ。

「問題っていうほどでもないと思います。父も母もいますし、経済的には困っていません。ですが、私が、こうして、働けないでいるから、どうしても親に苦労かけてるっていうイメージが付きまとうみたいで。周りの人達は、みんな私の事をそう言って居るんだろうなって、いつも考えてしまうんです。」

と、彼女はそういうのだった。そういわれていないとしても、彼女はそう言っているように見えてしまうのだろう。医者に見せれば、何か病名が付くのかもしれないけど、大体それは公表されることがない。日本社会では、かくして置くほうが、安全と言えるのかもしれない。そういう人が安寧に暮らしていくためには、精神障害者手帳などの危険信号を持って、社会から、切り離すしか方法はない。

「そうなんだね。まあ、お前さんがそう感じてしまうなら、そうなんだろうね。それで、お前さんは、いつもそういうことで、緊張を強いられて居るのかな。」

杉ちゃんがそう言うと、芳子さんは、はいといった。

「何か癒やしを受けられると良いね。餅は餅屋だからさ。ちゃんと、ご両親にお前さんが苦しんでいることを話して、できるだけ早くそういうことやっている人に、引き渡してもらえると良いね。親とか、家族なんてできることはそれしかないよ。だから、お前さんも、そうなると良いね。」

杉ちゃんは、にこやかに笑ってそういう事を言った。

「いずれにしても、このお琴は、まだまだ使えそうですし、100円で処分するにはちょっと可哀想すぎます。一万円で、お引取りさせていただきましょう。いつか、このお琴を使って、演奏をすることができるかもしれません。その時には、あなたにも、聞きに来てもらいたいです。」

ノロは、そう言って、財布を取りに四畳半に戻っていった。芳子さんも、ノロに続いて四畳半に行きながら、

「こんなことになるなんて、信じられませんでした。まさか、野村先生が、きてくださるとは。人生、何が起こるかわかりませんね。毎日不安で仕方ない日々を送っていますが、それも幸せになるための、必要なことなのかと思えば、良いのかな。」

と、言った。

「いいえ、そういう事は、考えすぎないことです。それが、一番大事なんじゃないかと思います。」

ノロは、年寄らしく言ったが、誰もそれに文句を付ける人はいなかった。何よりもノロが弾いた、さらしの音色に魅了されてしまったのである。

不意に、誰かが咳き込んでいる声がした。声の主は、水穂さんである。彼は、布団に横向きになって、咳き込んでいたが、口元には赤い液体が僅かについていた。

「水穂さん、大丈夫ですか!」

と、芳子さんはすぐに水穂さんの背中を撫でてやった。ノロが、叩いてやるほうが良いのかもしれないと言ったので、芳子さんは、そのとおりにした。それをすると、出すものの本体が、ぐわっと姿を表すんだけど、誰も引いてしまうものはいなかった。予想通りに、背中を叩くと、咳き込んで出すものがしっかり出てきた。ノロが、素早く、ちり紙を水穂さんの口元にあてて、それを拭き取った。ノロは杉ちゃんから水のみを受け取って、その中身を飲ませた。水穂さんは、数分間咳き込んでいたが、やがて、薬が効いてくれたんだろうか、静かになってくれた。

「良かったねえ。一大事にならんで済んだよ。ノロ先生、ありがとう。」

杉ちゃんが、急いで礼を言うと、

「いいえ、大丈夫です。私は、こういうことは、若い頃、身内がかかりましたので、経験があります。」

と、ノロは、静かに言った。

「そうかそうか。そうなるとやっぱり、亀の甲より年の功というのは、本当だったんだな。経験にまさらない、ものはないねえ。」

と、杉ちゃんがにこやかに笑ってそう言うと、ノロは、

「いいえ、一番始めに、手を出してくれたのは、そちらの女性ですよ。私じゃありません。お礼を言うのなら、彼女に言ってください。」

と言った。

「その女性というと、、、。」

杉ちゃんは、彼女、佐藤芳子さんを見た。ブッチャーも、彼女を見る。でも何か素直に礼を言えといわれても、言えないような気持ちになった。だって、彼女は、言ってみれば、精神疾患がある障害者だ。なぜか知らないけど、そういう人に、礼を言うのは、かっこ悪いというか、そういう気持ちになってしまうことがある。そういう事を、芳子さんのような人は感じてしまっていて、更に病んでしまうのかもしれなかった。家族が、そういう人の味方になれないというのは、そういう事を大げさに感じてしまうことからだと思われる。

「佐藤芳子さんだね。」

杉ちゃんにそういわれて、ブッチャーは、複雑なきもちになりながら、

「ありがとう。」

と、にこやかに言った。

「いえ、良いんです。私は、水穂さんにはさんざん助けてもらいましたし。これからも必要なひとになっていくでしょうから。私は、水穂さんのように、優しくはありません。自分の事で手一杯です。でも、水穂さんはそうじゃありませんから。それは、大きなちがいだと思います。」

芳子さんは、ブッチャーに向かって、そういうのだった。そうやって、褒められても奢らないところが、障害者でもあった。そういうところは、もっと、評価されても良いのかではないかと思うのであるが、それは、まだ、できないようである。

「大きなちがいではありませんよ。琴の音を、美しいと思えて、そして、水穂さんの事を、美しいと思える、あなたの心も、また美しいんです。私は、少なくとも、そう思います。」

にこやかに笑って、ノロがそういった。

「そんなこと、ありませんよ。私はただ、周りの人に迷惑をかけて、お金を作れない。何も役に立てない、人間ですよ。なんで、この世に生きていなきゃいけないのかなって、よく思いますもの。」

芳子さんはそういうのであるが、ノロは黙って首を横に振った。杉ちゃんもブッチャーもノロの意見を肯定するように、頷いた。


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さらし 増田朋美 @masubuchi4996

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