第2章 -2日目-

第14話:母の投影

「アガサ」

 耳元で声がして、意識が覚醒した。


 一瞬の思案の後、声の主が母だと思い出す。

 体にはゆらゆらと心地の良い振動を、肌には眠気を誘う温かさを感じた。

 ゆっくり目を開けると、白いカーテンがなびいている様子が見えた。窓の向こうから差し込んだ光が布を輝かせており、少しまぶしい。


「あなたが世界を救うのよ」

 再び、母の声がする。胸の中になつかしさが広がった。

 反射的に「お母さん」と、言葉をかけようとしたものの、うまく話すことができなかった。声を出そうとしても、のどに力が入らない。


 しばらく言葉を絞り出そうとしたけれど、かすかな音すら漏れてくれなかった。無言の「お母さん」の数だけ、もどかしさがつのる。

 何とか意思表示ができないだろうか。そう思い、母の方を向く――


 つもりだったが、体が動かなかった。話す時と同じく、体のどの部分に力を入れても、まるで手ごたえを感じない。視線を少しだけ動かすのが精いっぱいだ。

 体が言うことを聞いてくれないらしい。と、その事実を認識した瞬間、何とも言えない居心地の悪さを感じた。先ほどまでのやすらぎが、嘘のように消え去る。


 「あなたは特別。神様が選んでくれたのだから」

 そう言って、母が私を抱きしめた。腕の肌が圧迫され、痛みを感じる。五感は正常に機能しているせいで、体を動かせないことにより違和感があった。


 「あなたが私に託されたことにも、きっと意味がある。正しく使命に導くことができると、判断されたのだと思う」

 耳元でささやかれる声には、悲壮感が漂っている。


 心の中で感情が揺らぎ、体に走る痛みがその揺らぎを大きくして、あっという間に恐怖に近い感情へと移り変わった。自分でも驚くほどに、もろい。感情を客観視する余裕もすぐに失い、思わず目をつぶってしまった。


 真っ暗な視界に、窓から差し込んだ光の残像が波打つ。早い脈動を感じた。

 暗闇の中では母の声が聞こえず、肌の痛みも感じない。

 鼓動の音を聞いていると、不思議と心も落ち着いた。

 心拍数が下がったところで、再び目を開ける。


 ――当惑。


 目に映る光景が、先ほどと変わっていた。

 私は、手に抱えた赤子を見下ろしている。

 心に感じるのは、義務感? それから不安と焦燥しょうそう

 光景、感覚、心情、その他すべて、何もかもが一瞬で切り替わり、脳の処理が追い付いついていない。立ちくらみのような感覚が襲い、目を閉じた。


 すると、即座に恐怖がよみがえる。

 再び目を開ければ、目の前に母の顔らしきものが見えた。目に涙が浮かんでいるせいで、細部をとらえることができない。

 それでも、母の思いを感じる。一瞬前まで胸に抱いていた不安や焦燥といった感情が、再び胸に押し寄せてきていた。


 私の恐怖に、彼女の感情が重なる。

 私の視界に、赤子の図像が重なる。

 あげた叫び声は、母の声色だった。


*******


 目を開けると、白い天井が視界に飛び込んできた。胸が高鳴っている。


 顔を横に向け、あたりの様子を確認。レースのカーテン越しに、陽の光が差し込んでいた。理解が追い付かない。

 呆然ぼうぜんと時が経つままにしていると、ゆっくりと昨日の記憶がよみがえってきて、夢の中の光景が遠ざかっていった。


 しばらく現実に体を慣らした後で、私は深く息を吐く。そして一度寝返りを打ってから体を起こし、大きく伸びをした。頭の中に血が巡り始め、今日の行動に考えが至る。朝食はどうすればいいのだろうか。


 パドマの姿を求めて部屋の中を見渡すと、部屋の角、シャワールームへ至る扉の前で庭の方を眺めていた。寝る時に着る真っ白なワンピース姿だから、起きてからそれほど時間は経っていないらしい。


「どうしたの?」

「あっ、起きた?」パドマはそう言いながら、こちらに振り向いた。「いや、なんか外が騒がしくて」


「騒がしい?」

 私はベッドから立ち上がり、彼女のそばまで歩いていく。足の裏に床の冷たさが伝わり、心地良かった。


「ほら、あそこ」

 パドマの細い指の先を追って、窓の向こうを眺めた。離れのそばを流れる小川が視線を導き、百メートルほど離れた位置にある噴水のそばに、三、四人の女性が集まっているのが見えた。


「本当だ」

「行ってみる?」

「えっ? でも、一応やめてくださいって言われてるから」


「こういう場合は仕方ないんじゃない? それに、緊急事態が起きたのかと思いました、って言えば許してもらえると思う」

「そうかもしれないけど……」

「アガサも気になるでしょ?」

「それはね」


「じゃあ行こう」

 パドマはカーテンを閉め、壁の中央付近にある扉の前に立った。


「本当に行くの?」

「行く。アガサが行かなくても行く」

 少女は力強く言って、扉を押し開けた。庭の方から風が吹き込み、彼女のワンピースをはためかせる。


 そのまま庭に降り立ったパドマは、「無邪気な振りしてあげるから、私が勝手に行っちゃったことにすれば? アガサは、この子がすみません、みたいな振りしてついてくればいいから」と言い、にっと笑った。

 いつも無愛想にしているのは、時々見せる笑顔を引き立たせるためなのだろうか。瞬間的に思う。だとすれば、私はパドマの戦略にやられている。


「ちょっと待ってて。上に一枚羽織はおりたい」

 顔に浮かんだ笑みを見られないよう振り向いてから、ソファの前に置いたリュックサックに手を入れ、カーディガンを取り出した。


「行こう」

 私が言うと同時に、パドマは一歩踏み出す。


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