第3話:使者の接近

 先ほどまでのんびりとした空気が満ちていた通りに、わずかな緊張感が漂い始めた。足を進めるたび、通りの先がピリッとした雰囲気に包まれていく。


 私は精一杯、にこやかな笑みを浮かべて歩いていたけれど、街の人たちの表情は対照的だった。小さな子供は不安げな顔をこちらに向けており、大人たちは声を潜めて話し合っている。通りを横切っていく黒猫でさえ、こちらから目を離そうとしない。


「なんか疲れるなぁ」

 溜息と同時に言葉を吐き出したパドマは、気の進まない様子で隣を歩いている。初めて出会う人間と、にこやかに接するという機能は備わっていないらしい。

 そんな少女の向こうには脇道が伸びており、そちらにも点々と家が立ち並んでいた。通りに面した建物より、少し風化が進んでいるようにも見える。


 大通りの方に視線を戻すと、通りを右から左に横断した猫が、家の間に消えていくところだった。尻尾を堂々と立てた彼女(不思議とそう思えた)の向こうには、見通しの良い空間が広がっており、その奥にひときわ大きな屋根が見える。


「あそこまで行ってみよう」

 パドメの耳元でささやき、こっそり家の間を指さした。


「確かに、偉い人がいそうな雰囲気はするね」

 同じくらい小さな声で、彼女は言う。


 街のメインストリートらしき大通りは緩やかに左へ折れており、二百メートルくらい先で家の向こうに消えている。屋敷へ伸びる左折路が、その中間地点くらいに確認できた。 


 少し焦点を引いて、道の両脇に並んだ建物を眺めながら歩いて行くと、一つの看板が目に留まった。棒につるされた木の板に描かれたのは、パンらしき絵。ベーカリーだろうか。適格に止まる視線といい、口の中に分泌ぶんぴつされる唾液といい、体の反応はとても素直だ。


 無意識にそちらへ足が向くも、しかし、すぐにためらいを覚える。

 何らかの対価を求められるかもしれないというおびえが、心にブレーキをかけていた。今日は普段と違うのだ。自動的な生産と配給が機能した無人の街とこの街とでは、食べ物を拝借はいしゃくするという行為の意味が違うはず。


 ガラスケースに並んだパンを恋しく思いながら通りを左折すると、そこへ、流線形の白い物体が近づいてきた。目の前で音もなく止まったその物体に、自然と焦点が合う。車だろうか。マドレーヌの表面を滑らかにすると、こんな形になるかもしれない。質感は、かたわらにあるホバースクーターと近いように感じる。


「逃げる?」

 パドマがこちらを見上げた。


「そんなに敵意は感じないけど」

 期待も込めてそう返事をしたところで、マドレーヌの中央付近が上方へ開き、中から人が現れた。女性だ。彼女は一礼した後で、「屋敷までご案内します」と、落ち着いた声で言った。黒目勝ちな大きな瞳が印象的で、陽に焼けた肌が健康的な雰囲気を演出している。少し光沢のある紺のパンツに白いシャツというシンプルな服装が、妙に似合っていた。 


「あれ?」

 パドマが、乗り物の奥に見える屋敷を示した。


「はい」

「それ、断ることもできる?」

「屋敷に向かわれていたのでは?」

 ブラウンの髪を緩いポニーテールにまとめた彼女が、少し目を見開いた。


「別に。今は街を散歩してただけ」

「なるほど、失礼しました。そうですね……断っていただいてもかまわないのですが、お越し下さると嬉しいです」

「理由は? なんで来てほしいの」

「屋敷の者が、ご挨拶をしたいと申しております」


「それだけ?」

 疑うような視線を向けるパドマ。私が「喜んで参ります」と答えると、信じられないという表情でこちらを見た。


「では、こちらへどうぞ」

 背の高い彼女は、一歩身を引いて車内に手を向ける。


「スクーターはどうすればいいですか?」

「後で屋敷にお届けします」


「ありがとうございます」

 頭を下げて車に向かおうとするも、やはりパドマは気に入らないらしく、「荷物盗まれたらどうするの?」と、耳元でささやいてきた。


 心配しすぎ、と言葉を返そうとしたものの、しかし、口に出す直前でブレーキがかかる。少女の言うことも、理解できないでもない。ただ、ここで急に警戒心を見せてしまうと、物事が悪い方へ転がるような気もした。


「あっ、小さな荷物だけ持っていってもよいでしょうか。飲み物が入っているので」

 苦肉の策で、言葉を付け加える。


「もちろんです」


「すみません」

 彼女に笑顔を向けてから、スクーターのボディにぶら下げていた二つのリュックサックのうち、小さな方を手に取って肩にかける。

 それから、「スーツさえあれば、最悪逃げられるでしょ」と、パドマに声をかけた。拡張スーツを使えば、普通の人間はまずついて来られない。


「捕まる前に着られればいいけど」

 少女は不満げに答えつつ、車らしきものに乗り込んでいった。

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