漆ノ幕 風呂場は涙を隠すのに丁度良い
「あ、あのぉ〜、
「如何したの? 何処か痒い?」
「えっと、あぁ、今手を触れている所から左上が丁度痒くて…って、ちが〜う! いや、確かに痒いことは痒いんだけど」
「分かったー」
何の躊躇も無く痒い所を掻いてくれる杏果の優しさと無邪気さが明照にとっては嬉しかった。その一方、凄まじい罪悪感の源でもあった。
遡ること30分前、両親、
「明照君、一緒に御風呂入ろうね」
「え、あ、うん…」
目の前で次々起こる超展開についていけず、脳味噌オーバーヒート寸前の明照はこの時は半ば機械的に返答した。
「明照君、熱くない?」
「大丈夫だよ。有難う」
杏果と共に湯船に入っても、明照は未だ考える余裕が無かった。それどころか、今の状況は極普通と考えていた。
やがて、湯船から出て体を洗う段階に入った時、明照は漸く自分が今何しているのか理解した。椅子に座った直後、丸裸の杏果の姿を明照は目にした。
「え!? 僕、何で杏果ちゃんと一緒に…!?」
「何言っているの? あたしが“一緒に入ろう”って言ったら、ついて来たのは明照君だよ」
「僕、そんな事言ってた? 本当に?」
「本当だよ。分かったら体洗わせて」
あっと思った時には時既に遅く、杏果の小さな手の感触が明照の背中に伝わってきた。こうなると最早逃げられず、明照は観念して杏果に体を委ねることになった。
「そうだ、折角だから…」
明照がキョトンとしていると、杏果は肩揉みを始めた。小さな手からは想像もつかない力に明照は思わず吐息を漏らした。
「あ、そ、それ、良い…」
「そう? 良かった。何時もおじいちゃんとおばあちゃんにも同じ事しているんだよ。明照君もリラックスしてね」
肩を揉んでもらいながらも明照は自問自答を繰り返していた。
<一体何で自分はこんな事をしているんだ。いい年をした、大の男が小さい女の子に肩を揉んでもらうなんて、余りにも情けないんじゃないのか。抑々、一緒に御風呂に入っている時点でどうなんだ。誰の目にも明らかに……
否、ちょっと待て。抑々、そんな事を考えると云う行為自体が最初から間違っているんじゃないのか。子供と一緒に御風呂に入る事を邪推する奴の方が間違っているんじゃないのか。勝手に有りもしない事を想像して、一人で暴走しているだけじゃないのか>
散々考えた末、明照は漸く結論を出した。
<一緒に御風呂に入るのは至って真っ当な事だ。事実、疚しい事なんて何一つ無い。体を洗ってくれたのも、肩を揉んでくれたのも、杏果ちゃんの好意以外の何物でもない。悪い様に言う奴は、腹の中で良からぬ事を考えている。こんな場面を変な方に結び付ける奴こそが真の意味での変態だ。間違い無い>
自分が出した結論に納得すると、明照は大きく頷いた。
御互い体を洗い終えた後、明照が目線を杏果から逸らす事は無かった。
「考えてみると、誰かと一緒に御風呂入ったのは久しぶりかも」
「明照君が望むなら、あたしは今後も付き合うよ」
「本当? そりゃ嬉しいな」
「なら、今度はあたしが泊りに行く番だね」
また一騒ぎ起こると確信した明照は思わず苦笑した。それを知ってか知らずか、杏果は不意に思わぬ事を言い出した。
「明照君、さっきの御礼をしないといけないね。辛かった過去を話してくれた以上、あたしも話さないと不公平だからね。あたしはね、嘘吐き・不公平・恩知らず・飲食物を粗末にする輩が昔から物凄く大嫌いで堪らないんだよ」
「え、良いの? じゃあ…杏果ちゃんがそう言うのならお願いしようかな」
そうして杏果が話し始めた内容もまた、真っ暗な内容だった。
「結論から言うとね、あたしにはパパとママとお兄ちゃんが“居た”。こう言えば想像つくんじゃないかな」
考えてみると、今まで両親とは一度も会ってないどころか、話題に上がった記憶すら無い。まして兄の存在など考えもしなかった。
「話して辛くなったら何時でも止めて良いからね」
「有難う。その時はそうするね。あたしの部屋が2つ有る理由、今ので分かったよね。縫いぐるみの間、あれは元々お兄ちゃんが使ってた部屋なんだよ。本人の私物はもう一つも残っていないけどね。売れる物は全部売ったし、そうじゃない物は皆捨てたから」
思い返せば、男児の持ってそうな物は確かに何も無かった。
「永遠の命なんて無い事はあたしもよく知っているよ。何せ幼稚園の時、パパの方のおじいちゃんとおばあちゃん、病気で死んだからね」
「そうだったんだ…」
明照はこの時思い出した。そう言えば、未だ入ってない部屋が一つだけ有った。仏壇や位牌が有るとしたら十中八九そこだろう。
「続けるね。パパとママとお兄ちゃんが生きていた頃って、言ってみれば、仮面舞踏会だったんだよ」
小3とは思えない程高い語彙力に明照は感服しながらも杏果の話を聴いていた。
「今、もしかして、仮面を被って、ドレス着て踊っているとでも思った?」
「ま、まさか!」
「冗談。でも、大好きな明照君と一緒に踊るのは全力で大歓迎だから、その点に関しては安心してね。…話、戻すね。はっきり言って、パパとママはあたしよりお兄ちゃんを可愛がってた。そんな様子見せない様にしていたけどね。事実、発表会・誕生日・クリスマス・授業参観で差別されたことは一度も無かったし。だけど或る時聴いたんだよね。一生知りたくもなかった、残酷な真実を」
ここで時は4年前に戻る。
「それじゃ、お休み」
「お休みー」
杏果は兄の
「あぁもう……眠気が今ので吹き飛んでないよね?」
洗面所で手を洗い終えた杏果が自室に戻ろうとすると、両親の話し声が聞こえた。
「杏果も後少しで小学生ね」
「本当、早いもんだな」
最初は何も疑っていなかったが、2人の話は徐々に思わぬ方向へ進んでいった。
「親父とお袋が去年死んだのは大きな痛手だな。御蔭で俺の良き理解者が一気に2人も居なくなった。2人目が女と知った時、俺達は本当にがっかりしたよ」
幼いながら、杏果は大体話の内容を理解していた。
「ちょっとあなた、聞かれているかも知れないわよ」
「こんな時間に起きている訳無いだろう。産んだ御前が悪い訳じゃない。種を仕込んだ俺にも責任が有る。正直な話、慶喜と全く同じだけ愛することが出来るか、自信無いんだよな。まぁ、露骨に差別するとお義父さんとお義母さんにバレた時が怖いからな。なるべく表では全く同じ様に接するけど」
「やれやれ。あなたって人は。でも、そうね。今だから言うけど、女と分かってたら中絶してたかも。下手すると母体も危うくなる上、世間体が有るから結局しなかった、否、出来なかったんだけど」
「御前の方が余程怖い事考えているじゃないかlololol」
2人がこちらに気付いてない間に杏果は忍び足で自室に戻ると、全身布団に潜り込み、嗚咽した。
「嘘だよ…こんなの……寝惚けてたんだよね?…」
間違い無く自分の耳で聴いた事ではあったが、杏果は頑なに現実を認めなかった。
幼い子供が聞くには余りにも惨たらしい真実を話し終えた後、杏果は目線を斜め上に向けた。
「それ以降、あたしは何も知らないふりして、偽りの笑顔の仮面を被って過ごしてた。パパとママとお兄ちゃんも、あたしへの本心を隠して過ごしてた」
「成る程。それで仮面舞踏会って訳か…」
風呂場に敷いたマットに寝かされた明照は、足を揉んで貰いながら一連の話を聴いていた。
「まぁ、ここまでは序ノ口だよ。ここから先はあたしの運命を大きく動かした話。あの日、あたし達はバスに乗ってたんだよね。一応、表向きの名目は、あたしの卒園祝い。断っておくけど、ダブルデッカーでもボンネットバスでもないからね」
「あはは、そんな誤解はしてないよ」
「冗談だよ。続けるね。あの日、パパはお兄ちゃんを膝の上に座らせてた。ママはその横。確か真ん中ら辺だったよ。あたしが座ったのは一番後ろの列の、右端。この段階で明らかに異常だって分かるよね?」
「確かにね。杏果ちゃん1人だけぽつんだから」
澱み無く話す杏果は意図的に壁に向かって話していた。その行動の意味を理解した明照は、何も言及せず話を聴いていた。
「久しぶりだな、家族皆でお出掛けなんて」
「本当ね。今日は何して遊ぼうかしら」
「俺、観覧車乗りたーい」
路線バスの中で杏果の両親は慶喜を膝の上に乗せ、駅前の“昭和デパート”で何をして過ごすか想像していた。一方、杏果は最後列の端の席でぼんやり外の景色を眺めていた。
「どうせまた何時ものパターンだよね。屋上遊園地に着くと1万円渡されて“これで今日1日好きに過ごしなさい”。普段のお小遣いとは別にお金増えるから、全く嬉しくないとまでは流石に言わないけどね」
しかし、この時の杏果は全く知らなかった。何度となく見てきたこの風景が数秒後、世にも恐ろしい地獄絵図となる事を。信号が青に変わり、車が一斉に動き出した。杏果達を乗せたバスが交差点を通過した時、猛スピードで突進してくるタンクローリーが見えた。杏果は咄嗟に手すりを握り、姿勢を低くした。これが功を奏し、激突しても大して衝撃を受けずに済んだ。しかも、暴走タンクローリーがぶつかった位置は路線バスの車体の真ん中ら辺であった。杏果が座っていた所から離れていたと云う事情も重なり、杏果は怪我を免れることが出来た。
「……っ…! パパ、ママ、お兄ちゃん・・・?」
恐る恐る目線を上げてみると、そこには赤黒く、
「大丈夫ですか…あぁ、良かった。未だ生きてたか」
唯一無傷だった杏果を見た運転手は、自分も酷い激痛に苦しむ中、非常口を開く手伝いをしてくれた。
「…よし。今の内に逃げるんだ。逃げたら、そこの公衆電話から119番して欲しい。掛け方は分かるかい?」
「はい。幼稚園の先生から教えてもらったことが有ります」
「そうか。頼もしいな。それじゃ、任せるぞ」
車が通り過ぎたタイミングを見て杏果は一足先にバスから降りて公衆電話に駆け込んだ。電話口で事情を話している最中、杏果が今まで一度も聞いたことがないであろう轟音が響いた。何事か大体想像は出来たが、杏果は振り返らなかった。否、振り返れなかった。見てしまったら残酷極まりない現実を、嫌であろうとなかろうと認めざるを得なくなる。
約5分後、杏果達と運転手は現場に着いた救急車に乗せられ、病院へと運ばれた。
杏果本人は外傷も無く、臓器も平常通りだった。運転手は、重傷でこそあったものの、致命傷には至らなかった。しかし、あの時虫の息だった両親と兄は爆発に呑まれ真っ黒焦げになった。後で警察から聞いた話によると、両親は兄を庇う様にして
硬直していたらしい。
「…やっぱり。あの人達にとって、あたしよりもお兄ちゃんの方が大事だったんだ。もしちょっとでもあたしに愛情残っていたならどっちかが守りに来た筈だよ。だってあたしが何処に座ったかは皆分かっているんだから」
歪んだ顔を見せたくなかった杏果は何時もの様に壁に向かって独り言を呟いた。そんな様子を見て警察官は何と声を掛けて良いか分からなかった。
「…何か他に知りたい事は有る?」
「特に有りません」
杏果にとっては、家族三人の死そのものよりも、誰も自分を気にかけてくれなかったという現実の方が遥かに重苦しかった。
体を洗い終え、湯船に入った2人はお互い違う所に目線を向けていた。
「…とまぁそんな訳。これは余談だけど、事故を起こしたタンクローリーは盗まれた物だったんだって。しかも、運転手は酒を飲んでた上に免許も持ってなかったらしいよ。おまけに何やら危ない薬をやってたって」
「うわ、酷いなそれ…警察特番に有りそう」
「明照君もそう思うよね。それでね、あの時、他にお客さん誰も居なかったから、唯一無傷で生き残ったあたしはマスコミによって悲劇のヒロインに祭り上げられたんだよ。しかもパパとママがどちらもあたしを放っておいてお兄ちゃんを庇った事が知れた後、あたしが可哀想って声が余計大きくなってね。賠償金とは別に確か…義援金って言うんだっけ。それも沢山集まったんだよ。加えて、誰からかは知らないけど縫いぐるみ・魔法少女グッズ・文房具・お菓子・ジグソーパズル等も送られてきてね。おじいちゃんとおばあちゃん、一時期忙しいって困ってた」
送られてきた荷物の仕分けをする場面を想像して、明照は少しだけ可笑しくなった。
「仕分け、杏果ちゃんも手伝った?」
「勿論。はっきり言って凄く大変だったよ〜。でも、それは別に大した事じゃないから。パパとママがあたしを本当は全く愛していなかった。それだけでも酷いよ。しかも、その上更に、悪い事をしたと認めさせることが永久に出来なくなったのが悔しくて悔しくてたまらないんだよ。悪い事を散々しといて、一度も謝りもせず勝手に遠くへ行って……!」
壁を向いたまま体を震わせる杏果は不自然に咳をしていた。どうしようかと迷った末に明照はとある決断を下した。
「杏果ちゃん、言ってくれたよね。“本音を隠さず、何でも遠慮無く話して欲しい”って。“嬉しさも、悲しさも、一緒に分かち合いたい”と言って貰えた時、僕は凄く心強かった。だから、言わせて貰うね。僕は誰よりも大好きな杏果ちゃんの悲しみと苦しみを分かち合いたい。どんな表情をしていたとしても、杏果ちゃんが別の誰かに変わる訳じゃないから僕だけにでも、素顔を見せて欲しいな。心配しなくても、ここで見聞きした事は全部墓場まで持っていくと約束するから」
母方の祖父母を除けば世界一信頼出来る明照から言われては拒否する正当な理由など何も無かった。だが、不安が消えて無くなった訳ではなかった。
「今のあたしは酷く顔が歪んでいるんだよ。それ見たら百年の恋も冷めるかも知れない。それでも本当に見たい? 一度見たらもう引き返せないんだよ」
「分かっているよ。全てをちゃんと分かった上でこうして正式に御願いしているんだ。そういう訳で杏果ちゃん、僕に素顔を見せてくれ」
数秒固まった後、杏果はゆっくり振り返った。その表情は、激怒・悲しみ・怨念・妬み・後悔等の集合体であり、既存の言葉では到底表現出来なかった。
「…これを見ても未だ同じ事を言える?」
「言えるよ。杏果ちゃんこそ、何時迄も泣いて良いよ。恥ずかしい事じゃないんだよね? 前にそう教えてもらったよ」
抱き寄せられ、大きな手で背中を撫でられると、最早我慢など出来なかった。杏果は既に不自然な咳で誤魔化すのを止めていた。そんな必要は無いと悟っていた。
どれ程泣き叫んだだろうか。杏果はしゃくり上げながらも明照と目線を合わせた。
「御免ね。明照君が辛かった過去を話してくれた御礼と言っといて、何時の間にかあたしの恨み言になってたね」
「自分を責めなくて良いよ。杏果ちゃんは何も悪くない。何も間違ってない。女の子だからって理由で杏果ちゃんを愛さなかったパパとママが完全に悪いよ」
少し前、明照に言った事が自分に返ってきて、何時しか杏果は笑いを堪え切れなくなった。
「特大ブーメランとはこの事なのかな?」
「そうかも知れないけど、気分は悪くないよね?」
「まぁね」
杏果の涙は未だ乾いてはいなかったが、風呂場なので見分けがつかなかった。
風呂上がり、英子が用意した麦茶を飲み終えると杏果は膝の上に乗っかり何時もの笑顔を見せた。
「明照君、裸の付き合いって良いね」
「本当だね。誘ってくれて嬉しいよ。1人だと味気無かっただろうね」
最初は小さい女の子と一緒に御風呂に入ったと云う事実に半ばパニックだった。然し、大分リラックス出来た明照は杏果の優しさを理解し、感謝する余裕が出来た。
「杏果ちゃん、辛かっただろうに正直に話してくれて有難う。僕を信頼してくれたんだね」
「信頼? それなら会った初日からしているよ。只、言うチャンスが中々無かったけどね。そうだ、何か教えて欲しいなら何でも言ってよ。あたしと明照君の仲だもの。遠慮なんてすることないからね」
例によって思わぬ申し出を受けたが、明照は冷静だった。
「魔法少女について教えてくれる? この前入った部屋に色々有ったよね。あれから僕は興味を持ったんだよ」
明照は極普通に答えたが、杏果にとっては違った。
「そういう意味じゃないよlololololol まぁ、知りたいと言うのなら教えるけどねlolololol あたしが言ったのは歌声喫茶の事だからlolololol」
大笑いしながらも、杏果は歳の離れた親友の御願いを快諾した。一方、盛大に勘違いしていた明照は苦笑しながらもタブレットの画面を見せ、とある動画を再生した。
「歌声喫茶という事なら、丁度これが気になったんだよ」
杏果が覗き込んでみると、そこには自分が上げた動画が載っていた。
「あたしの動画を選ぶとは、明照君は見る目が有るね。そして選曲も最高。夕飯まで未だ時間が有るから、魔法少女の間で練習しようか」
「え、えぇ!?……この子って…杏果ちゃん!?」
「気付いてなかったんだね。そうだよ。“マジカル
この日の夕食の前後、明照は杏果から新たな歌曲を教わった。杏果の部屋はどちらも二重窓に防音壁である為、余程派手に大暴れでもしない限り、外を通る通行人には何も聞こえなかった。
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