陸ノ幕 嫌でしょうがない過去は忘れられない

 歌声喫茶“ひかり”ではいつものメンバーが“ロシア、我が祖国”を合唱していた。場の空気と、人前での歌唱にすっかり慣れた明照あきてるは誰の目から見ても明らかに堂々としていた。暫く前の、後ろ向きな考え方を持った臆病者の面影は最早何処にも無かった。


「では本日はこれまで。気をつけて御帰り下さい」

「御疲れ様でした。御忘れ物に御注意下さい」

主宰者である寛司かんじ英子えいこ夫妻の一言を合図に皆が帰り支度を始めるる中、明照は唯一残っていた。皆が信頼してくれている以上、もっと上達しないと申し訳無いと考えた末の行動だった。そんな明照の膝の上に、主宰者の孫娘、稲葉いなば杏果きょうかは何の躊躇も無く鎮座した。

「今日も一生懸命頑張っているね。でも疲れたままやっても良い結果は出せないよ。バラライカの弦だって、余り強く張り過ぎると切れるもの。分かるよね?」

「え、あ、うん。確かにそうだよね…」

年下ながら自分より遥かに聡明な杏果に、明照はいつもドキドキしていた。自分の心の内まで全て見透かされているのかも知れない。

「折角居るんだし、一緒におやつ食べようよ」

「良いの?」

「明照君は何時でも大歓迎だよ」

一瞬、自分より年上の人の姿の幻影が見えたが、損得勘定抜きに自分を無邪気に慕う杏果は矢張り疑うことを全く知らない子供だった。

「それじゃ、行こうか!」

「あ、うん」

人前での歌唱はもう平気だが、杏果の積極的な攻勢は相変わらず明照をドキドキさせた。とは言っても初めて会った時よりは大分マシなのだが。


 御茶の間に通された明照は、金楚糕やらサーターアンダギーやら御馳走になっていた。

「いっぱい有るから幾らでも食べてね」

「何かすいません。こんなに良くしてもらって」

「何を言うんだ。明照君は今やうちの家族も同然だぞ」

明照が何か一つ食べると、英子と寛司が五つ出す。正確に数えた訳ではないが、何故かそんな気がした。

「おじいちゃんとおばあちゃん、昔からお客さんをもてなすのが生き甲斐なんだよ。深く考えないでね」

耳元で杏果が囁いた時、明照は一瞬またキスされるかと思ったが、幸か不幸か予想は外れた。


 色々御馳走になった後、明照は杏果に手を引かれ廊下を進んでいた。

「この先だよね、杏果ちゃんの部屋」

「あれとは別だよ。今日案内するのは、この前入らなかった方の部屋。今度もきっと驚くよ」

聞き返す間も無く通された部屋には様々な動物の縫いぐるみが所狭しと並んでいた。物は違えども明照にとっては珍しい物が多く、目線を彼方此方に動かしていた。

「皆から色々贈られてね。正直言ってこんなに増えるとは思わなかったよ」

「へ、へぇ……」

大熊猫や小熊猫は未だしも、中には三葉虫だの恐竜だの変わった物も有り、明照はツッコミを入れるべきか否か分からなくなった。そんな中、杏果は、明照が以前から最も恐れていた質問を口にした。

「明照君、良ければ話してくれないかな。人前で歌うのが怖くなったきっかけは何?」

何時か必ず聞かれると頭では分かっていた。しかし、いざその時が本当に来ると、矢張り掌が汗塗れになっていた。

「大丈夫。嫌なものを強要する事はないよ。断ったからってあたし達が歳の離れた大親友じゃなくなる訳ないんだから」

「いや、何もかも正直に話すよ。杏果ちゃんには何度となく御世話になってきたからね」

そうして明照が話し始めたのは重苦しい内容だった。



 ここで、時は1年前に戻る。当時、中学1年だった明照は校内で行われる音楽コンクールの練習の最中だった。明照は声変わりの時期をとっくに過ぎた筈なのに、ずっと声が高いままだった。どれ程かと云うと、何も知らない人が声だけ聞いたら女性と間違える程の高音だった。同級生達には、明照の高音が異質な存在に映った。そうして迫害へと繋がっていった。普段の音楽の授業なら、明照1人だけが恥をかけば済む。しかし、優勝がかかっている音楽コンクールとなると話は別だ。男子からは“お前女かよ”と罵られ、女子からは“男の癖に声高いなんて”と忌み嫌われ、明照は人前で声を出すのが怖くなってきた。思い詰めた明照は当時の担任に、勇気を振り絞って申告した。

「先生、今度の音楽コンクール、僕だけ棄権させて下さい。御願いします」

前例の無い申し掛けに、当時の担任、工藤くどう俊子としこは目玉が飛び出そうになった。

「明照君、エイプリルフールの予行演習なら、流石に未だ気が早過ぎるわよ。それとも、これは新手のアネクドートなの?」

だが、明照の、何かを思い詰めた様な目は、それが断じて冗談でも悪戯でもないと雄弁に物語っていた。丁度職員室に校長・教頭・学年主任も揃っていたので急遽事情聴取が行われた。話を聞き終えた後、俊子は何時しか夜叉の如き形相になっていた。


翌日の道徳の授業は“裁判”の為に使われることになった。担任の気迫に誰もが正直に何もかも白状せざるを得なくなった。最終的に、学級の、何と91%もの生徒が明照の高音について罵っていたことが判明した。極少数の、明照の悪口を言わなかった生徒を明照と共に図書室へ避難させた後、俊子は冷静に、然し冷徹に言い放った。

「自己批判と明照君への謝罪は勿論だけどそれだけでは済まないわよ。音楽コンクール、如何するのか選択肢をあげるわ。


1つ:うちのクラスは不参加

2つ:明照君のソロステージにする

3つ:悪口言った面子は全員他所の学校に転校


さぁ、どれが良い?」

普段、とても穏やかで、笑顔が可愛いと評判の俊子から究極の選択を迫られ、皆頭を抱えた。

「断っておくけど、明照君に口パクさせるのは無しだから。明らかに人権侵害よ」

逃げ道を完全に絶たれ、一部の女子は泣き出していた。それが俊子の怒りを更に増幅させた。

「何であなた達が泣いているの。一番悲しいのは誰か分からない? 人の痛みや苦しみが分からない者は獣にすら劣るわ! 狼だって我が子を守る為ならどんな危ない事でも積極的にするわよ」

容赦無く責め立てられ、一部の男子すら涙をこぼした。

「…まぁ、急には即答出来ないわよね。暫く考える時間与えるから、100%納得出来るまで、皆で徹底的に話し合いなさい。何か有ったら図書室へどうぞ」

最初よりは幾分優しい口調で告げると、俊子は明照と、悪口を言わなかった極少数の者を引き連れて教室を出ていった。


約15分後、俊子達が戻ってくると、話し合いは丁度終わっていた。

「良い時に戻った様ね。では、如何なったのか教えて頂戴」

皆を代表して、三つ編みの女子生徒、山田やまだ道子みちこが挙手した。

「明照君に誠心誠意謝り、一緒に歌います。誰が欠けても絶対後悔する事は目に見えています」

「成る程。それがあなた達の出した結論だと云うのね。悪くないわ。尤も、最終的な決定権は明照君にあるんだけどね。もしも拒まれたら、私ですら口出しは一切出来ないのよ」

一緒に戻ってきた明照はずっと無表情のままだったが神経を常に研ぎ澄ませていた。万一誰かがまた悪口を言ったら直ぐ気付ける様にしなくてはならない。だが、そんな気配は無かった。意を決した明照は俊子と目が合うと、教壇に上った。

「明照君、君が裁判長よ。判決を下して頂戴」

「……皆の謝罪を受け容れます。本当に二度と声の事で何も言わないと全員が約束するのなら」

明照からの“温情判決”に皆一度は安堵した。だが、事はそれで終わりではなかった。

「あなた達が本当に反省しているか否か徹底的に調べなくてはならないわ。何せ口先だけなら何とでも言えるもの。今から1人ずつ前に出て、自己批判をしなさい。それから、帰りのホームルームの時間で原稿用紙を配るから、反省文を書くこと。これは明照君も読むから、その事を呉々も忘れないで。勿論、代筆は一切許さないわよ」

一同はまたも恐怖に震え上がったが、誰も逆らわなかった、否、逆らえなかった。


 この日以降、明照の声の事を罵る者は誰も居なくなった。しかし、クラスでは腫れ物に触る様な扱いが始まった。また、明照は自分の声に自己嫌悪を覚え、1学年が終わるまでの間、筆談に頼る事が増えた。



「…こんな長話なんか聞いても、ちっとも面白くなかったかな」

「とんでもない。寧ろ、話してくれて凄く嬉しいよ。有難う。それで、心の痛みは今も有る?」

後ろから杏果にあすなろ抱きをされ、明照は何故か涙腺が緩んだ。

「もう全部無くなったと思ったけど、未だ有ったみたい……」

「良いよ。残らず吐き出しちゃって。受け容れるから」

 小さく頷いた直後、明照は堰を切った様に泣き出した。元々喜怒哀楽が薄い明照にとって、これは慣れない事だった。しかも、年下の女の子の前で号泣するなど想像出来なかった。そんな明照を、杏果は嘲りも見下しもせず、只々優しく後頭部を撫で、落ち着くまでじっくり待ち続けた。


漸く冷静になった時、明照は自分が何とも無様な姿を見せたと感じていた。

「御免ね。昔の愚痴を延々垂れ流した挙句情けない姿を見せて。本当格好悪いなー…僕、消えて無くなりたい」

「格好悪い? 誰が?」

杏果から思わぬ事を問われ、明照はキョトンとした。

「何か勘違いしている様だね、明照君。格好悪いのは、明照君をこんなに追い詰めた連中だよ。声が高いからって、それは意地悪して良い理由にならないよ、絶対にね」

「いや、それは僕が堂々としていれば良かったんじゃ……」

「自分を責めないの。明照君は何も悪くない。何も間違ってない。高い声だからって酷い事を言った人達が完全に悪いよ」

普段笑顔が輝く杏果が自分の為に激怒している。明照はこの現象をどう受け止めて良いか分からなかった。

「だからって、年下の女の子の前で泣くなんて恥ずかしい事して…やった後でこんな事を言ってもしょうがないのかも知れないけど」

「年下の女の子の前で泣くのが恥ずかしい? 誰から言われたの? 明照君は騙されている様だね。そんなの真っ赤な嘘だよ。それに、あたしの前では本音を隠さず、何でも遠慮無く話して欲しいな」

頭を撫でられ、明照は自分が幼児還りした様な感覚を覚えた。

「杏果ちゃん……」

「明照君の嬉しさも悲しさも、あたしは一緒に分かち合いたいな」

また泣きそうになった時、明照の視界に偶然時計が入った。それは16:40と時を示していた。

「あぁ、もうこんな時間。大分遅くなっちゃった」

「その事なら心配無いよ」

首を傾げていると、呼び鈴が鳴った。英子が迎えに出たのでついて行ってみると、両親と祖父母が明照の荷物を持ってきていた。

「これは何事!?」

金魚の様に口を動かす明照の前で、靖彦やすひこ千枝ちえは寛司と英子に頭を下げた。

「今日は息子が御世話になります」

「何か御座いましたら何でも仰って下さい」

情報処理が追いつかない明照の前で、ひとし清美きよみも同じ事をした。

「何卒宜しく御願い申し上げます」

「えぇと……あぁ、孫が御世話になります」

丁寧に挨拶をする4人に、寛司と英子は大らかな態度で臨んだ。

「そう堅苦しくなる必要など有りません。皆さん、どうか面を上げて下さい」

「明照君が居ると私達も嬉しいんですよ。そんな訳で明照君、今日明日はうちに泊まりなさい。どうせ連休だし構う事ないわ」

「え、あ、その…」

超展開が相次ぎ、明照はオーバーヒート寸前だった。帰ろうとした千枝は慌てて踵を返し、早口で重要な事を告げた。

「宿題は一挙に済ませた方が後々心置きなく遊べるわよ」

嵐の如く去った家族を見送りながら、明照は未だポカンとしていた。一方、杏果は獲物を見つけた山猫の如く、目が爛々と輝いていた。何せ大好きな明照が2日間自分の家に泊まることになったのだから。

「明照君、一緒に御風呂入ろうね」

「え、あ、うん……」

オーバーヒート寸前の明照はこの時は半ば機械的に返答した。


明照が漸く理性を取り戻した時、2人は既に風呂場で体を洗い合っている最中だった。

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