捌ノ幕 コンサートは何時だってチムドンドン
今日もまた
「コンサートですか!?」
主宰者、
「年に数回やっているんだ。宣伝も兼ねてな。明照君にとっても、これはまたとないチャンスだよ」
「これって、ネット上で生配信しますか?」
一番恐れていた事を明照は尋ねた。99%以上の確率で答えはOuiだろう。しかし、運良く残りの1%が当たる可能性は理論上否定出来ない。しかし、運命の女神は余程小野田夫妻と杏果が大好きなのだろう。明照の望みとは真逆の答えが返ってきた。
「勿論よ。一人でも多くの人に知って貰いたいわ」
あの祖父母にしてこの孫有り。一体どんだけ自由過ぎる発想力を持っているんだ。唖然とはした。しかし、嫌とは最初から考えていなかった。
「楽曲選ぶの手伝わせて下さい」
何かを決心した明照の言葉は寛司と英子にとって杏果の成長と同じ位素晴らしい事だった。
「やる気満々だね。じゃあ、任せてみようかな」
「明照君、宜しくね」
期待されているなら応えないと云う選択肢など無かった。
当日、何時もの会場は普段より賑やかだった。明照の両親をはじめとする、大勢のオーディエンスが開演の時を待ち望んでいた。舞台袖から見ていた明照は流石に恐怖を覚えた。
「如何しよう。今になって怖くなってきた。杏果ちゃん助けて」
最早情けないなんて言っていられなかった。万一しくじれば赤っ恥を晒すのは自分1人だけではない。それに、もしかすると同級生も見ているかも知れない。だとすれば悪い噂が学校で広まった場合、それは社会的な死を意味する。
「良いよ。さぁ屈んで」
素直に従い、屈むと、杏果は明照の耳朶を弄り始めた。心地良い感触に耽っていると、明照は邪念を捨て去ることが出来た。
「助かったよ。有難う」
「朝飯前だよ。他に何しようか?」
「これ位で十分だよ。一緒に頑張ろうね」
「勿論だよ。皆に良いところ見せないと」
再び立ち上がった後、遂に開演時間が5分前に迫った。明照は、以前杏果から教わった事を思い出した。
数日前、皆が帰った後明照が1人で“聞け万国の労働者”を歌っていると杏果が横でじっと聴いていた。歌い終えるのを待って、杏果は声を掛けた。
「明照君、見知らぬオーディエンスの前だとやっぱり怖い?」
「そりゃ怖いよ。何せ誰が来るのか全く分からないから。もしかすると、僕の通う学校の同級生や先生かも知れない。或は、杏果ちゃんが通う学校の同級生や先生かも」
少し考えた後、杏果は手を打った。
「オーディエンスを人間だと思うから怖くなるんだよ。果物のオブジェだと催眠術を自分にかけるのは如何? 果物が苦手だと云うのなら代わりに野菜のオブジェって事でも全然良いけど…あぁ、果物はこの前も美味しそうに食べてたね。まぁ任せるよ」
全く予想外の提案に、明照は目を丸くした。考え込んでいると、何時の間にか姿を見せた清美が明照の背中を撫でていた。
「良い考えね。流石は杏果ちゃん」
一足違いで現れた寛司もまたこの案に乗った。
「確かに、果物のオブジェを相手に怖がる要素は無いな」
「そうまで仰るならやってみます」
試しに想像してみたところ、不思議と緊張感は消え失せた。これにより明照は確信した。これなら確実にいける。
「そうだよ。何で最も基本的な事を今の今迄忘れてたんだ。果物のオブジェ。客席に居るのは果物のオブジェなんだ。誰が何と言おうと果物のオブジェで間違い無い……」
ゆっくり深呼吸しつつイメージを固めた結果、大分緊張感が薄れた。開演のブザーが明照の意識を現実から切り離した。最早客席には人間など1人も居なかった。
「大丈夫。必ず成功する。落ち着いてやれ」
誰にともなく呟いた明照は“ともしび”をロシア語で合唱した。歌い終えた後、拍手を浴びながら明照は実感していた。人前で歌うのを怖がる性分を克服して本当に良かった。
「本日は私達のコンサートへようこそいらっしゃいました。歌声喫茶“ひかり”の主宰者、小野田寛司です」
「進行役を務めます、小野田英子です」
「助役を担当する、稲葉杏果です」
老夫婦に続き、不意に可愛らしい女の子が姿を見せたことでオーディエンス達は思わずほっこりした。懐古厨の年寄りの茶番だろうと高を括っていた者も中には居たが、杏果の存在により、バケツ1杯分の冷や水を頭からぶっかけられた様な気がした。
「それでは、私達のハーモニーをどうか御楽しみ下さい」
杏果の言葉を合図に次の歌が始まった。これまたロシア語で歌われた“トロイカ”が会場内に響き渡った。続いて歌われた“モスクワ郊外の夕べ”に至っては、偶然ロシア語の歌詞を知るオーディエンスが一緒に歌う一幕も有り、場をより一層盛り上げた。
時は流れ、遂に最後の曲の番となった。
「最後は皆で一緒に歌いましょう。只座って聴いているだけなんて、何も面白くないでしょうから」
杏果の一声を合図に、メンバー達は客席に歌詞カードを配りに行った。その間、待機用BGMとして、この後歌う“聞け万国の労働者”が只管流れていた。これで少しでも馴染めるだろうという計算だった。
「初めての方もいらっしゃると思うので、暫くの間練習する時間を設けます。御手洗へ行きたい方も今の間にどうぞ。場所は右奥の扉を開けて直ぐです」
清美の言葉を聞き、数名のオーディエンスは待ってましたとばかりに席を立った。
全員戻った後、この日最後の楽曲が歌われた。老若男女・国籍・出身地等の立場を超えて皆が一緒に“聞け万国の労働者”を朝鮮語と日本語で歌う姿は圧巻そのものだった。
皆が帰った後、後片付けを済ませた会員達はテーブルを囲んでいた。そこにはクッキーとミルクティーが有り、労をねぎらう用意がされていた。
「よく頑張ったな、明照」
「土鳩からフェニックスと英子さんが仰ったのは冗談でも誇大広告でもない、揺るぎない真実ね」
均と清美を筆頭に、皆が明照の頑張りを絶賛していた。幼稚園の頃から詳しく知っている味の御菓子も何故か今日は味が何時もと違う様な気がした。
「おじいちゃんとおばあちゃんが僕をここへ連れて来てくれた事が全ての始まりでした。今では隣に僕を慕ってくれる親友が居ます」
不意に自分の事に言及され、杏果は一瞬驚いたものの、嫌な気はしなかった。
「明照君、本当は果物のオブジェだって思い込んでも未だチムドンドンしてたよね? 気にしないで。何もおかしな事じゃないから」
「やっぱりバレてたのか。杏果ちゃんには敵わないな」
照れ臭そうに笑う明照と、得意そうな顔の杏果に誰もが表情筋を緩めた。
小規模の打ち上げが終わった後、明照は杏果の部屋に呼ばれた。
「明照君、とてもよく頑張ったから御褒美に素敵なものを見せるよ」
「素敵なもの? 何だろう。楽しみ」
会って間も無い頃の明照ならこう言われると萎縮していた可能性が高かった。しかし、裸の付き合いと本音の吐露を経た今なら何も怖くない気がした。縫いぐるみの
「あたし、年長さんの頃から身長伸びてないんだよ。だから今でも普通に着ることが出来るって訳」
「こんな事って有るんだねぇ」
明照はこの時猛省した。
<自分の見立ては予想以上に甘過ぎた。杏果ちゃんは自分が何を予想しても、常にその斜め上を行く。もしかすると何も予想しない方が楽なのかも知れない>
考えていると、杏果は準備運動を終えた。
「それで、その格好に着替えて、何を見せてくれるのかな?」
「動画サイトで見たんだけど、昔、小銭チョコのCM、話題になったのが有るんだってね。あれを再現するよ。勿論100%同じと云う訳にはいかないけどね」
何処迄も自由過ぎる杏果が、今の明照には愛らしく思えた。
「♪お尻をフリフリ小銭チョコ 皆でフリフリ小銭チョコ♬」
リアルタイムでは見たことが無かったものの楕円を描く様にお尻を振っている杏果の姿は明照を萌えさせるには十分過ぎる要素だった。杏果は自分1人だけの為に目の前で体を張ってくれている。これはどれ程感謝しても十分ではない。そんな気がした。前屈みになって、お尻を自分に向けて突き出した瞬間でさえ、明照は不思議と邪念を抱かなかった。
たった1人のオーディエンスの為だけに開かれたショーが終わった後、明照は初めて杏果をお姫様抱っこした。
「明照君…?」
キョトンとする杏果を他所に、明照は上ずった声で耳元で囁いた。
「これは他の人の前では絶対しないで。その代わり僕の前でならどんな事でもやってくれて良いから」
「あれ、もしかてやきもち? 可愛い事言うね。良いよ。他でもない明照君の御願いだから。後、何かリクエスト有ったら言ってね」
「それなら、僕、勇気を出してやらせてもらうよ」
杏果が何か聞き返す前に明照は唇を交えた。以前、完全に不意を突かれたので意趣返しの機会をずっと待っていたのだった。
「あ、明照君……」
「驚いた? 僕だって本気を出せばこの通り出来るんだ。…全く怖くないと言ったら嘘になるけど」
思わぬ展開に、杏果は一時的にフリーズした。しかし直ぐに何時もの調子に戻った。
「良いよ、明照君。凄く素敵だね。今ので一挙に20段階レベルアップしたよ」
予想以上の好成績に思わず笑みを浮かべると、明照は一旦杏果を地に下ろしたと思うと、自ら膝の上に座らせ頬を撫でた。今は亡き両親が一度もしてくれなかった事をして貰い、杏果は涙をこぼしながらも、笑顔を浮かべていた。
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