本編
壱ノ幕 歌声喫茶なんて知らなかった
PCの画面からはソ連の軍歌“聖なる戦い”が流れていた。画面の中では、金色の仮面に赤紫のドレスが特徴的な、小学3年位の女の子が、一瞬たりとも臆する事なく歌っていた。その声には幼さの片鱗が見え隠れしていた。一方で、ネイティブと間違えられる程ロシア語の発音は精密だった。然し、今聴いている者にとっては、そんな事など全く以て如何でも良かった。
画面では小学生の女の子が表情豊かに歌を披露している最中だった。
「何で僕にはこれだけの行動力と胆力が無いんだろう…」
金色の仮面の下の素顔を想像していると、誰かが扉をノックした。父か母が今日も性懲りも無く小言をぬかしに来やがったのかと、苛立った様子で扉を開けると、意外にも、そこに居たのは祖父だった。
「おやおや、すまんね。聴いている最中だったのか」
「気にしなくて良いよ。お祖父ちゃんは芸術の価値を正しく理解する同志だから」
室内の椅子に腰を下ろすと、均は口を開いた。
「明照、一緒に面白い所へ行かんか? 勿論、嫌がるのを首に縄つけて引っ張りはせんよ」
思いもよらない勧誘に明照はポカンとした。今迄何処かに誘う時は具体的に行先を伝えていた。なのに今日は曖昧な事を言っている。
「良い所って…?」
「心配せんでもカルト教団やギャンブルではないから」
「いや、そりゃそうだろうけどさ」
「金の事なら気にしなくて良い」
全く訳が分からなかったが、“良い所”の正体が気になったので明照は応じることにした。気に入らなければ帰れば良い。そう考えると多少は気が楽になった。1Fに下り、支度をしていると母方の祖母、
「あれま、何処へ行くの?」
「今日は一緒に行く日だろうが。明照も行くんだと」
思わぬ展開に清美は普段切れている頭の回線が繋がった。
「行先は内緒にした?」
「今言ってしまうと面白くなくなるからな」
訳も分からないまま明照は祖父母について行った。
歩くこと数分、3人はとあるビルに着いた。“歌声喫茶 ひかり”と書かれた看板を見て明照は首を傾げた。執事喫茶とかメイド喫茶の亜種だろうか。それにしては見た目が然程派手ではない。あれこれ考えつつ中に入ると、予想以上に客が多く、明照は一時的に瞬きを忘れた。
「随分繁盛している様だけど、一体……」
祖父に尋ねていると、店の奥から老夫婦と1人の女児が姿を見せた。
「吉野さん御夫婦、今日は御孫さんと一緒ですか」
白髪混じりの、背筋の伸びた老紳士は初めて見る客に目線を向けた。
「初めまして。田中明照と申します」
緊張しながらも丁寧に一礼するのを見て、老紳士の妻は表情を緩めた。
「何とまぁ礼儀正しい。余程高度な教育を受けたのね。初めまして。私は
橙色の、ノースリーブのワンピースを着た、ツインテールの女児が自分に目線を向けていると気付き明照は屈んで目線を合わせた。
「初めまして。僕は田中明照です」
聞き漏らさない様、比較的ゆっくり挨拶していると、思いもよらぬ事が起きた。
「田中明照君、気に入った! よし、今この瞬間からあたし、稲葉杏果は年の離れた御友達!」
闘牛の如く突進してきたと思うと、子守熊の子供の様に抱きついてきて、明照はどの様に反応するべきか分からなかった。
「え、な、何……?? これはどう云う状況?」
フリーズしていると、杏果の祖父母は大声で笑い出した。
「これは凄い! 面白い事になった!」
「普段は簡単には心を開かない杏果が1秒で親愛度カンストするとは素晴らしいわ」
小さな手で頭を撫でられている明照は何が何だか分からなかった。
「あ、あの…僕は気に入られたって事で正しいんでしょうか」
未だ情報が整理出来ていない明照の疑問に答えたのは均と英子だった。
「そうだろうな」
「良かったじゃない。おめでとう」
小さい子供と接した経験が無い明照は戸惑いを隠せなかった。
約20分後、漸く放して貰えた明照は寛司と英子に連れられ舞台に上がった。人前で演説した経験の無い明照にとっては拷問も同然だが、皆に名前と顔を覚えて貰う為にはどうしても避けては通れなかった。
「初めまして。田中明照と申します。本日は祖父母の紹介で来ました。祖父母の名前は吉野均と吉野清美です。歌声喫茶がどんな所か全く分からず来た素人ですが、どうか宜しく御願い致します」
ガチガチになりながら一礼すると、一斉に拍手が起きた。
「歌声喫茶ひかりへようこそー!」
「新たなる同志の入隊を歓迎するぞ!」
「宜しくー!」
何故か皆が自分を熱烈に歓迎している。昔から自己評価が–100の明照にとっては、目の前で起きている事は斬新を通り越し怪奇現象だった。舞台袖に居る杏果に手招きされ、専用席に明照が座った後、寛司は入れ違いに演壇の前に立った。
「本日から新たな仲間が増えました。皆さん、我々の御誓文を斉唱しましょう。あぁ、明照君はそのまま座っていて。未だ知らないよね」
何が始まるのかと見ていると、寛司は何やら大きな箱を置いて舞台を降りた。入れ違いに、杏果は踏み台として用意された箱の上に立った。その時明照が見たのは皆の纏め役としての杏果の顔だった。
「一つ、去る者は追わず。来る者は拒まず」
他の会員達が一斉に復唱する様子は、明照には何処ぞの軍隊の様に映った。
「一つ、御新規様は手厚く歓迎」
右も左も分からない明照は只々聞かなければしょうがなかった。
「一つ、御新規様に教えるのが古参の仕事
一つ、御新規様の疑問には必ず答える
一つ、御新規様は知らないのが当たり前
一つ、前例が無い、其れ即ちまたと無い好機
一つ、我々は歌声を以て世界に幸せを届ける
一つ、我々は表現の自由を重んじる
一つ、我々は音楽を原語で味わう。翻訳は数ある解釈の一つ」
御誓文の斉唱が終わると、全員着席した。直後、演壇の前の英子が手招きするので再び上がると明照にとっては答え難い質問が来た。
「明照君、あなたがどれ程歌えるか私達の前で示してくれる? 楽曲は何でも好きなもので良いから」
トイレに行きたい訳でもないのに明照は脂汗を垂れ流した。然し、下手な言動で祖父母に恥をかかせるのはもっと嫌だった。どうしようか考えていると、不意に良い事を閃いた。SongTubeでよく聴くあの歌ならいけるかも知れない。
「僕のお気に入りの歌は複数有りますが、中でも一番のものを披露させて下さい」
スマホに保存していたデータを呼び出し、再生ボタンを押すと“独立軍歌”が流れ始めた。忘れもしない、SongTubeで初めて聴いたChang Yuehuiの歌う楽曲だった。少なく見積もって150回以上は確実に聴いたこの歌曲なら確実に歌い切れる。明照は多少楽観的に考えていた。然し、現実は決して甘くなかった。祖父母を含む全ての会員の目線が自分に集中している。こうなると気道が狭くなった気がした。それでも必死で声を絞り出した。
歌い終わった時、明照は体育の授業1コマ分と同じ位カロリーを燃焼した感覚を覚えた。加えて、時計を見るまでは1時間位経ったと本気で信じ込んでいた。僅か3分27秒がこうも長く思えたのは、明照の人生で初めてだった。だから拍手も碌に耳に入ってこなかった。杏果に手を引かれ再び舞台脇の専用席に戻ったのを見ると、寛司は演壇の前に戻ってきた。
「皆さん、人前で歌うと最初は誰でも緊張します。今後、人前で歌うのは恥ずかしくなどないと皆で教えましょう。そんな訳で明照君、私達の普段の活動を御覧下さい」
明照以外の全員が起立して、杏果に目線を向けていた。杏果がタブレットを操作すると、SongTubeで聴いた覚えの有る歌曲が流れ始めた。インターナショナル。元々フランスで作られたこの革命歌はあっという間に世界中に広がり、様々な言語に翻訳された。今この歌声喫茶では原語である仏語から始まりスペイン語・朝鮮語・中国語・ウチナーグチと来て、最後はロシア語で締め括った。楽曲が終わった時、明照は何故か今目の前で起きている事が現実ではない気がした。然し、手の甲を抓った結果、断じて夢ではないと証明出来た。寛司に手招きされ再び演壇に上がった明照は不意に難しい質問を投げ掛けられた。
「明照君、単刀直入に言って、私達の活動について如何思う? 遠慮は一切要らない。何でも思うがままに話して御覧」
明照でなくてもこの類の質問は非常に難しいものだった。当然、貶すなど問題外。かと言って、矢鱈持ち上げても、それはそれで何かが不自然な気がする。然し在り来たりな内容や玉虫色の答えでは誰も納得しない。考えた末、明照は極めて慎重に言葉を選んだ。
「今迄この様な世界が有るとは知りませんでした。率直に言って、半ば夢見心地です。人生経験が浅いから尚更そう思えるのかも知れません」
明照の掌は汗塗れになっていた。然し、そんな事を気にする暇など無かった。
「全く知らない世界に来るとそう思うのは無理もないね、明照君。孫娘は君がお気に入りなので、尚更私達の仲間に入るに相応しいよ。上手に歌うとか、良い表情で歌うとか、そう云うのは後からでもついて来るから、何も難しく考える必要など無いからね。そう云う訳で、皆さんに宣告します。今この瞬間から、田中照明君は正式に歌声喫茶ひかりの一員です」
万雷の拍手と杏果の笑顔を前に、明照は或る事を考えていた。もしかすると自分の人生は大きく激変するかも知れない。
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