弐ノ幕 人前で歌うって恥ずかしい

 人生初の歌声喫茶を体験して数日後、照明は未だぼんやりしていた。これは本当に現実で間違い無いのか。何度も手の甲または頰を抓ってみたが何回やっても夢ではなかった。SongTubeソングチューブから聞こえてくる韓国の歌曲“四大門を開け”も右から左へ抜けていた。

「・・・あぁ、もうこんな時間。行くか」

 半ば上の空だった明照を不意に現実に引き戻したのは、タブレットの左上に表示されている時刻だった。



 歌声喫茶ひかりには今日も多くの会員が集まっていた。壇上では主宰者夫妻と孫娘が紅白歌合戦の時の日本野鳥の会の様に出席者の数を数えていた。欠員が無いと確認すると、小野田寛司は徐に話し始めた。

「今日は予告通り“赤旗の歌”を扱います。舞台両脇の画面に歌詞が出るので安心して歌って下さい」

 事前に予告が有ったので練習する時間は十分有った。然し、それでもいざ本当に歌うとなったら緊張感が凄まじい。一瞬でも油断すると口から心臓がまろび出る気がした。Twitterで知った“Boxボックス Breathingブリージング”を実践することで何とか正気を保った。

「大丈夫だ。落ち着け、田中照明。2人の顔に泥を塗る要素はたった今完全に排除した。何も心配無い」

 しかし、前奏が始まると結局元の木阿弥となった。画面に出る歌詞を機械的になぞっているだけの自分が只の操り人形の様に思えてならなかった。何一つ意識してないのに気道は狭くなり、自分ではない別の誰かの声の様に聞こえた。


 終わって、力無く座り込んだ時、明照は目が回った。矢張り完全に場違いな所へ来てしまった気がする。主催者の孫娘に気に入られたのも、一時的な気紛れで、遅かれ早かれ心が離れるだろう。そんな事を考えていると、主宰者の妻、小野田英子から名前を呼ばれ舞台上に招かれた。キョトンとしながら登壇すると、予想通りの内容を聞かれた。

「照明君、人前で歌うって恥ずかしい?」

ここで下手な事を言うと怒りを買う。かと言って嘘を吐くと今後益々面倒な事になる。必死で無い知恵を絞り出した結果出てきた答えは以下の通りだった

「そうですね。昔はそんなこと考えもしなかったのに。だけどこのままじゃ駄目とも思っています。何とか打開したいです」

前向きな態度を見せれば、少なくとも嫌な気分にさせる事は無いという読みは見事に当たった。

「素晴らしいわ。たとえ音程が滅茶苦茶でも、リズム感が無くても、そうやってポジティブな考え方が出来るなら私達は如何なる協力も惜しまないから」

安堵したのも束の間、明照はいきなり生き地獄に蹴落とされた。

「さぁ、レッスン開始だよ。他の会員の皆さんは各自で過ごして下さーい」

足元が不意に暖かくなったと思ったら、そこにはショッキングピンクの、ノースリーブのワンピースを着た稲葉杏果が抱きついていた。逃げられないと観念した照明は杏果と共に自分の席へ戻った。戻ってくると、祖父母は面白い事が始まると、期待の目で見ていた。

「折角だから杏果ちゃんのレッスン、見学させてくれるかい」

「面白そうだねぇ・・・あれ? 何するんだったっけ」

 何時もの掛け合いに吹き出しながらも、明照は腹を括っていた。

「個別レッスンだよ。尤も、何するのかは分からないけど」

至極当然と言わんばかりに膝の上に座ったと思うと杏果は明照を見上げた。

「一先ずね、さっきの歌、もう1回歌ってみて。何処からでも良いよ」

公の場で歌うだけでも緊張するのに、小さい女の子が膝の上で自分に目線を向けているとは。最初に歌う前にやったBox Breathingが再び役に立った。落ち着きを取り戻した明照が歌っている間、杏果は一度も目線を逸らさなかった。聴き終えた後、杏果は大きく頷き、明照の胸元を撫でた。

「人前で歌うのが恥ずかしいって考えに完全に染まりきっているね。だって明らかに呼吸が浅いもん」

自分より遥かに幼い子供に心を見透かされ、明照は別の意味で落ち着かなかった。

「杏果ちゃん、君未だ小さいのに頭が良いね」

何気無く口にした言葉に対する杏果の反応は意外なものだった。

「小さいと言っても、あたしこれでも小3だよ」

均と清美は杏果が胎児の頃から知っているので驚かなかったが今日が2度目の訪問である明照は我が目を疑った。

「言われなければ今も5~6歳だと本気で信じ込んでいたかも。御免。嫌な事言ったね」

「良いんだよ。わざとじゃないから。然も、実際より小さく見えるって案外悪くないよ。例えばお祭りでたこ焼き8個入りパック買うと、2個おまけが付くから」

一寸法師の様に、自分の小さな体を逆に利用とは。明照は自分の世界が如何に狭苦しいか改めて痛感した。

「杏果ちゃんは僕より凄いな。何でもポジティブに考えることが出来て」

「歌うことで何かを表現するには必要な事だよ。分かったら先ず“問診”から始めようか」

首を傾げていると、杏果は早速鋭い所を突いてきた。

「“人前で歌うのは恥ずかしい”って誰から言われたの?」

 想定外の質問に明照は面喰らった。慌てて考えてみるも全く記憶に無い。

「覚えてない?」

「そもそも、そんな事誰かから言われたか否か自体怪しい」

「成る程ねぇ……」

 考え込んでいたと思うと、杏果は不意に目を大きく見開いた。

「可能性は2つに1つだね。間違い無く誰かに真っ赤な嘘を教えられたけど、肝腎の、誰の仕業かは記憶に無い。或は、本当は誰もそんな事1度も言っていないのに、言われたと思い込んでいる。明照君自身は何方が正解だと思う?」

明確な物証が無い以上、普通なら答えたくても答えられない。然し玉虫色の答えでは抜本的な解決にならないと明照は悟った。

「証拠こそ無いけど、僕は思い込み説を取るね。もし誰かが嘘を教えたのなら、皆がその人を責めるんじゃないかな。僕にとってそれは耐え難い場面だよ」

今度は杏果がポカンとする番だった。何でこんな状況でも未だポジティブな考え方が出来るのか。

「こんな時でも自分より人の事を気にするんだね。驚いちゃった。まぁ、知りたい事は分かったから良いよ。それじゃ、続けようか。人前で歌うのが恥ずかしいって考えを、明照君はどうして正しいと思ったのかな?」

再び頭を捻るも、矢張り答えは見つからない。

「……御免、全然分からない」

何度も同じ答えを出せば流石に怒るかと思ったが、杏果は依然として笑顔だった。

「そう云う事、確かに有るよね。音楽室の壁に貼ってあるベートーヴェンの肖像画が何故か怖い。理科室の、ホルマリン漬けの標本が何故か怖い。誰からも何も言われてない筈なのに、何時の間にか可笑しな事を考える。どうしてこうなるのかは分からないけど、放っておいて良い事じゃないね」

対面座位でのレッスンを見学していた均と清美はこの場面を見ても何も驚かなかった。

「本当、杏果ちゃんは下手な大人より賢いな」

「前世ではさぞ高名な学者だったのかも」

感心する均と清美とは正反対に、明照はどんどんネガティブな方へ沈んでいた。

「何で僕こんなになったんだろう。本当にここの一員で良いのかな。自分でも分からなくなってきた」

頭を抱えている明照を、杏果は見捨てていなかった。

「あたしは明照君が大好きだから、悩みを解決出来るなら何でもするよ」

家族からも言われたことがない言葉を他人、然も、会って未だ数日の小さい女の子から言われ、明照はネガティブとポジティブ、2つの感情が鳴門海峡の大渦の様に渦巻いていた。

「僕は本当に慕われているのか……?」

「未だ信じられない? それならチューしようか」

慌てて制しようとするも間に合わず、明照のファーストキスは一瞬で杏果に奪われたのであった。丁度通り掛かった寛司と英子は口付けの瞬間を見ていたので、流石に叱ると思っていた。しかし、2人の反応は明照の予想と全く違うものだった。

「何と大胆な……! 誰に似たんだろうな」

「明照君が余程気に入ったのね。素晴らしいわ」

呆然としながら目線を上げると、寛司と英子は冷静に話し始めた。

「明照君、驚かせたね。杏果がこんな事するのは初めてで、大いに驚いたよ」

「そ、そうですよね。何十回もこんな事が有ったら怖いです」

「杏果が幼稚園に通っていた頃、園長先生から“人を愛するのは尊い事”と習ってきたのよ。それを忠実に実行したという訳ね」

「えっと、あ、はい、立派な教えです」

しがみ付いて離れない杏果の頭を撫でながらも、明照は落ち着かなかった。嫌というのも違うが、正直何と言って良いか分からない。明照は未だ唇の感触が消えずにいた。

「明照君、今後もレッスン頑張ったら今みたいにチューするから一緒に歌おうよ。あたしは大好きな明照君と一緒だと嬉しいよ。明照君の歌を聴きたい人がここに居るんだから、恥ずかしがる必要など無いよ」

「あ、有難う……」

年齢=恋人居ない歴の明照にとって、今日のファーストキスは色々な意味で一生忘れられなかった。

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