金木犀と百合

母の容態が安定したのは、秘書を辞めてから三日目の事。






―次の職を探さねば…






病院からの帰り道。



沙耶はスクランブル交差点を、求人誌を見ながら渡っていた。




片手にマジック、口にはキャップを咥えて、安い時給とにらめっこ。




そこへ信号待ちの車が、ファン、と軽いクラクションを鳴らしたので、ただでさえ虫の居所が悪かった沙耶は、その持ち主をギッと睨みつけた。





と。





「―あ。」





驚きで思わず開いた口から、マジックのキャップがぽろりと落ちる。





「ちょっと時間ある?」





苦笑しつつ窓から顔を出していたのは、石垣の幼馴染みの、嘉納孝一だった。






「っ、ないですっ!!」





絶対に石垣から何か聞いているだろう嘉納に、思いっきり警戒心を露わにして通りすぎようとすると。




ガチャ。




「誤解を解いておきたいだけなんだ。さ、乗った乗った。」




なんと嘉納が運転席から降りてきて、拒否する沙耶を無理矢理後部座席に追いやった。





「え!?ちょ、、うわぁっ」





公衆の面前で、拉致。




直ぐに信号が変わって、車は動き始める。




―何なのー!?





あんまりな扱いに、沙耶は呆然とするしかなかった。




「どこに行くつもりですかっ…」




飛んでいく風景に気を揉みながら、沙耶が訊ねれば、嘉納はうーんと首を傾げた。




「とりあえず…ドライブかな。停まると逃げちゃいそうだからね。」




「!そんなことは…」





沙耶は否定するが、嘉納はちらっと後ろを向いて。




「強引でごめんね。君の事を考えていたら偶然歩いてたから。」




にこっと笑って、前に向き直った。





―笑えば全部済ませられるって思ってるなこんにゃろう。





世の中そんなに甘くないんだよと毒づきながら、沙耶は風景に目を逸らす。





同時に嘉納が口を開いた。






「―こないださ、諒が俺の所に来たんだ。夜中に、ずぶ濡れになってさ。」





消しても消しても消えてくれない人物の名前が出てきて、ドキリとする。





「それで、変なこと訊くんだよ。お前の彼女は、金持ちに偏見がないの?とかって。」





嘉納は運転しながら、世間話でもするかのようなゆっくりとした口調だ。






沙耶はと言えば、自分の言った言葉が、石垣に与えていたダメージを知って複雑な気持ちになった。




「訊けば、今も昔も好きな女から大嫌いと言われてるらしい。不毛だよね。」




はははと軽く笑い飛ばす嘉納が一体何を言いたいのか、わからなかった。




「その子はきっとさ、諒の居る位置が、自分と違うから、擦り合わさった時、その摩擦に耐えられないと思ってるのかもしれないね。」




でも―と嘉納は続ける。





「…人間てのは皆持ってる物とか立場は違うけど、その場所その場所で、それぞれ必ず何かしらの傷を抱えてるものだって思わない?」





「―何が言いたいんですか?」





沙耶はいつの間にか眉を寄せて、嘉納に問う。






「つまりね。その子は自分でいっぱいいっぱいで、諒がどれだけの荷を背負い続けてきたのかを知らないんだと思うんだ。例えば…どうして諒が佐伯家に拒否反応を示すのか知ってる?」





訊ねられ、沙耶は首を横に振った。


いつかの異常なまでの石垣の潔癖が頭に浮かぶ。




「母親が亡くなった場所っていうのも理由のひとつだけど、それ以外に―諒はあそこで殺されかけてる。使用人のひとりにね。」




「―!?」





「昔からの勢力争いの結果だ。恨みによる犯行だった。確か毒を盛られたんじゃなかったかな。だから、諒はあそこで出されたものには一切手を触れないし口を付けない。大体石垣家と佐伯家は仲が悪かったし、娘―諒の母親が亡くなったのも、石垣家のせいだと思っている。」




すらすら淀みなく出てくる言葉は、嘉納がそれを別段珍しいことだと思っていないと主張しているようだった。





「そうやって負の遺産の中で諒はPTSDを発症。知ってる人間は少ないけど諒はずっとそれと闘ってる。ただのお気楽なお坊ちゃんじゃない。」







嘉納は言いながらハンドルを丁寧に切った。







「なのに―死に物狂いで周囲の期待に応え続けて上り詰めた物を…失っても良いって言うんだよ。阿呆でしょ?」






「えっ?」






信号が赤になり、停車した途端、嘉納は沙耶を振り返った。





「―その女の為に、全てを失う覚悟があるのかって訊いたら、諒の奴、何て答えたと思う?」






―わからない。




そんなの、分かる訳がない。




何も言わずに見つめ返す沙耶から、嘉納は信号に向き直る。







「『勿論。だって全ては、あいつの為にあったんだ』だと。」






「え―?」








思い出せなかった記憶の片方が、自ら囁いた。








―『やっぱり硝子の靴は必要だったんだ。』







『さぁちゃん。僕が君に硝子の靴をあげるから。』








『だから、絶対に忘れないで。今僕が言ったこと。』






絶対に、忘れないで。







―思い出した…








硝子の靴の意味。








それは、沙耶を救い出す手立て。






力。






―嘘でしょ…全部私の為ってこと…?





焦りにも似た動揺が、沙耶の胸の内に広がる。




本当に。




あの約束を、石垣がずっと見据えてきていたというのなら。




自分は何て事をしてしまったんだろう。






「諒は、君の言う『位置』まで降りてくるのも厭わない。これを聞いてどう判断するのかは君の自由だけれど、覚えていて欲しいのは―」






嘉納は第三者に向けたような話し方をやめ、停車すると、バックミラーの中に映る沙耶を見た。







「諒は君が思ってるよりずっと、本気で君を守ろうとしていたという事だ。」






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何処へ行くでもなく。



沙耶は日が落ちる寸前の大通りを、とぼとぼと歩いていた。






『お前はもう…忘れたの?』




『約束』






いつかの石垣の悲しげな問いかけが思い出されて、胸を掻き乱す。





ただ単に、迎えに来るというだけの約束だと勘違いしていた。




でも実際はそうじゃなくて―。







「―ごめん」





気付けば、口から零れ落ちる謝罪。






ちゃんと覚えてなくて。





「ごめんなさい…」





自分ばっかりが苦しいと思ってて。





人目を憚る余裕もないまま、熱いものが込み上げる。





それが滲んでは手で拭い、払うけれど、次第に追いつかなくなってくる。






―ごめんなさい。





飛び込む勇気すら持ち合わせていない。




こんな臆病な自分で。








子供の頃の方が、自分はもっと強かったような気がする。



子供の頃の方が、もっと純粋に物事を見れた気がする。






あの頃の自分だったら、今どうしただろう。




どうやって動いただろう。




こんな風に逃げ回っていただろうか。



それともちゃんと向き合っただろうか。






正解は勿論―。





鳩尾にぐっと力を籠めて、涙を止めると、沙耶は目尻を拭った。






「私らしく、ない。」





今からでも、間に合うなんて甘いことは考えてない。




でも、まだやれることは残っている。




沙耶は肌身離さず持ち歩いていた手帖の感触を、鞄の上から確かめた。








せめて、石垣が築いてきたものを、失うことが無いように。



これ以上石垣が、傷付かなくて済むように。





自分にやれることが、まだある筈だ。








風が吹いて、街路樹から落ち葉がハラハラと落ちた。






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寒風吹き荒ぶ中。






「お願いしますっ!!!」






秋元の本家の玄関前で、沙耶は頭を下げ続けていた。






「ご近所に迷惑だから、帰っていただけませんか?」





年配の小間使いが困ったようにそんな沙耶を見つめる。





「お願いします!父の遺産の中にあった筈なんです。どうか伝えていただけませんか?それだけ返していただけないか…」






「ですから、、大奥様は追い返せと仰られてるんです。」





「せめて、手放さないで欲しいと…」





「それ以前の問題でして―」





二人の押し問答が続いた所に―





「―何してるの?」





着物姿の中年女性が現れ、きつい眼差しを、小間使いと頭を下げたままの沙耶に向ける。






「それがですね、こちらの方が―」





「ご無沙汰しています、、叔母さん…」







顔を上げた沙耶と目が合うと、女の顔付きが益々険しくなった。







「あんた…ぬけぬけとよく来れたわねぇ。ほんっと図太い根性してるわぁ。」






憎憎しげに吐かれた言葉に、小間使いの方が縮こまった。





「二度と顔見せるなって言ってあったよねぇ?何しに来たの?」




「わっ」





叔母は、沙耶のことを上から下まで舐めるように見回すと、ドン、と突き飛ばした。




門に背中を打ち付けて、その痛みに沙耶は顔を顰める。





「すみません…ただ今日はお願いがあって…、、父の遺産の中にミュアンの株があったと思うんですが…これから何があっても、、どうかそれを手放さないで欲しいんです…」





父の保有率は決して多くはないが、それが無ければ、坂月が半分を獲得するのは難しくなる筈だった。





言葉と一緒に零れる息が白い。





「はぁ???なんでそんなのあんたなんかに指図されなきゃなんないのよ?ふざけるのも大概にして欲しいわ!図々しい。」





無論、叔母は目をつりあげながら、沙耶を押しのけて、中へ入ろうとする。






「待って!待ってください…」





それを沙耶は必死になって呼び止めた。






「何でもしますから…だから、、、だからお願いしますっ…」





その言葉に、叔母の足がぴたりと止まる。






「何でも…?」





沙耶はその後ろ姿を縋るように見つめる。






「へぇ…」





振り返った叔母の唇は、ずるそうに歪んでいた。





久方ぶりの狡猾なその目に、鳥肌が立った。




北風が強さを増す。





「あんたさ、ここを出てく時、盗ってった服があったでしょ?」





まるで面白い遊びを思いついたかのようににやりと笑う。





「服…?」




「そう、新しい奴を一着。」





―まさか。




嫌な予感がして、沙耶は目の前に勝ち誇ったように笑う女を愕然として見つめた。





「出て行った後で気付いて、すっごく悔しかったのよ。心残りでねぇ。うちの子が欲しがってたのに。」





一瞬で笑みが消えて。





「あれを返して。そしたら考えてあげてもいいわ。」






ぴしゃりと言い放った。





「でも!あれは父が私に買ってくれたもので唯一の遺品なんです―あの一つしか―」






もう父からの物は他に、ない。





「まぁ!まぁまぁまぁまぁ!泥棒の癖に何言ってるのかしら?折角、兄さんの娘だから大目に見てあげようと思えば…いいわ。この話は無かったってことで―」




大袈裟なリアクションをして、再び背を向けた叔母に。





「…わかりました…」





唇をぐっと噛み締めて、沙耶は呟く。





「何?聞こえなーい。」





心底馬鹿にした声が、耳障りに響く。






「お返しします…」




「―そう?」





沈痛な面持ちでいる沙耶を見て、更に奈落の底まで突き落としてやろうと叔母は口を開いた。





「あぁ、それと―うちの子があんたの所の弟と外ですれ違って嫌だって言うから、高校も別の所にしてくれる?そうねぇ…都外にでも行って。そしてもう二度と家に顔を出さないで。目障りよ。」






最後の台詞を、低い声で冷たく言い放った叔母を。



沙耶は真っ直ぐ、静かな目で見つめる。





「…そしたら、、」






胸に痞(つか)えるものがあって、言い掛けた所でそれをぐっと呑みこむ。






「―私が言った事、守ってくれるんですね?絶対に。」





ねぇ石垣。




あの時、全てを失った子がした約束と。




約束の為に全てを賭けた子のそれとでは。




温度差があったんだと思う。





大きくなって、その差に苦しませてしまって、ごめんね。




お伽話の中のシンデレラは、素直に硝子の靴を履いたのに。




私は素直じゃなくて、ごめん。




守ってもらうことに、慣れてないの。





だから。





こんなの自己満足で、僅かな時間稼ぎにしかならないんだろうけれど。




私なりの精一杯のやり方で、メッセージを送るよ。




あの頃出逢った、二人の男の子に。





それぞれの傷の種類があるにせよ、あの時過ごした時間と約束が、発端になっているから。






シンデレラは硝子の靴を、履かない。





どちらの靴も、受け取らない。





そうすることで約束を反故にするから。





だからもう、自由になって。




負の連鎖を断ち切って。




ちゃんと、向き合って。





金木犀と百合が香る思い出と共に。





私の記憶も、消し去って。


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