約束に落ちた影
暖かな木漏れ日。
壊れた塀の中へ行ってしまった猫を、追いかけて。
青々とした竹林の中へと迷い込んだ。
追っていた猫の姿を見失って、外とは違う静かな空間に見惚れながら、ゆっくりと土を踏みしめていけば。
少しだけ広い空間に出て。
その場に蹲るあの子を見つけた。
最初は、白い猫が、人間に化けたのかと思った。
『…誰?』
声を掛ければ、その小さな肩がびくりと震えて、弾かれたように女の子が顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった頬に髪の毛が張り付いていた。
あまりに違う長さに、不思議に思った。
前髪半分と、後ろに少し掛かるくらいの髪がざっくりと切り取られているような―。
―ああそうか。
『誰かに、髪、切られたの?』
だから、彼女は泣いているんだ。
真っ黒な瞳をきらきらと涙で光らせて、自分の事を見ている彼女にそっと近づくと、案の定身構えるように身体を硬くさせた。
同じ目線になって、顔を覗き込んで手を伸ばすと、またびくびくと、まるで叩かれるんじゃないかと怖がっているような仕草をする。
だから。
ゆっくり、ゆっくりと、頬に掛かっていた黒髪に触れた。
『女の子にとって、髪は、宝物なのにね。』
どれだけ優しく気をつけても。
彼女は野良猫みたいな目をして、少し背の高い楓を見上げる。
楓にはどうして、彼女が怒りを湛えているのか、わからなかった。
それでも。
彼女が涙をすごく我慢していて。
それを誰にも見せたくないと強く思っているんだと言う事は、なんとなく理解できた。
だから、言ったんだ。
『ここには誰も居ないから、泣いても誰も見ていないよ』
途端彼女は驚いたような顔をして。
直ぐに眉を八の字に下げて、口をへの字に曲げた。
そしたらみるみるうち目に涙が溜まって行って。
大粒の雫がぼろぼろと溢れ出す。
『ふっ…くっ…』
真っ白なその頬を、幾筋も嗚咽と涙が転がっていった。
楓はそんな彼女の背中にそっと手を置いて、落ち着くまで傍に居た。
名前も知らない女の子。
自分よりも小さくて、ふわふわとしていて、守ってあげたくなるような。
―『彼女』を先に見つけたのは、俺だったのに。
========================
あの雨の夜の告白から、少し経った頃。
まだ会社に残っていた楓が帰りがけにスマホを見ると、沙耶からの着信が残っていた。
―なんだ?
車に乗り込んで、直ぐに掛け直すと、5コール目で沙耶が出る。
《はい》
「秋元さん?坂月ですけど―すいません電話に気付かなくて。…どうかしましたか?」
母親の容態もまだ落ち着いていない筈だ。
何かあったのかと気が逸った。
《あ、すいませんっお仕事中でしたよね…あの、、私、今週末に借りていたマンションを出ることにしました。それで…》
迷うような間が少しだけ空いて。
《その前に、坂月さんと話せたらと思ったんです。》
坂月の頭にはこの間の返事かもしれないという思いが過ぎるが、それにしても早すぎると思った。
―とりあえず、顔を見て話したい。
沙耶に会いたい思いも募っていた所だ、直ぐに了承する。
「―わかりました。今から伺います。どこが良いですか?」
《ありがとうございます。えっと…今病院からの帰り道なので―》
「じゃ、こないだのコンビニに入って待っていて下さい。迎えにいきますから、車で移動しましょう。」
少し焦りながら、運転した。
何故か、この先に待ち受けているものが、明るくはないような気がして。
坂月の車が駐車したのを見つけると、雑誌コーナーに居た沙耶は直ぐにコンビニから出てきた。
坂月も外に出て、沙耶に小さく会釈する。
「すいませんっ、なんか面倒なことになっちゃって…」
気にする彼女を安心させるように笑いかける。
「いいえ、全然面倒じゃありません。さ、乗ってください。」
坂月がドアを開けて勧めると、沙耶は申し訳なさそうに頷く。
当たり前だが、今日は見慣れたスーツ姿ではなく、短いダウンにジーパンというラフな出で立ちだった。
「…お願いします…」
「そうだ、夕飯は、まだですか?」
恐縮しながら助手席に乗り込んだ沙耶に訊ねると。
「あーっと…わわ」
代わりに腹の虫が応えてくれた。
「良かった、私もまだなんです。一緒に行ってもらっても良いですか。」
「……はい…本当に、、すみません…」
かかかーと顔を真っ赤にして、しょげる沙耶が可愛くて、坂月は気付かれないようにこっそりと笑った。
坂月が向かった先は、イタリアンの店。
ここら辺では、ちょっとした人気店で、ひとつひとつが個室のようになっているので、会話もし易く、周囲に聞かれる恐れもない。
一通り料理を頼み終えると、坂月は沙耶に向き直った。
「マンションのことですが…何も急がなくてもいいんじゃないですか?」
そう言えば、沙耶は困ったような顔をする。
「だってもう働いているわけじゃないですし…家賃とかないのとか、、気味悪いですし…」
「気味悪いって…」
相変わらずな甘え下手に、坂月も苦笑いした。
が、沙耶は構わず続ける。
「母の容態もおかげさまで落ち着いてきたので、、病院の移動手続きもさっき済ませてきたんです。」
「―え?」
これは予想外だった。
「なんでそんな…」
まるで、この地から居なくなるみたいに。
言葉を失った坂月を、沙耶は真っ直ぐに見返した。
「だから…坂月さんのこともちゃんとはっきりさせとこうと思って。」
「―返事はまだいいと…」
遮ろうとした坂月に沙耶は首を振った。
「良くないんです。坂月さん…教えてください。。これから、、何をしようとしてるんですか?」
今度こそ、坂月は完全に言葉を失う。
「どうして、、石垣と敵同士になっちゃうんですか…?」
沙耶の目が、悲しげに揺らぐ。
何かを知っているかのように。
「それは…今は、言えません。」
沙耶の視線から逃げるように、顔を背けると。
「これ…」
沙耶が何かをテーブルの上に差し出した。
「…?」
見ると、黒革の手帖だった。
「これが、どうしました?」
首を傾げると、沙耶はぺらぺらと頁を捲った。
「この、、まる鶴って所―」
それを聞いて、坂月はぎくりとした。
「幾つかあるんですけど…」
沙耶は指でその文字がある箇所をなぞっていく。
「私どうしても、この文字の意味する所がわからなくって…。でも新しいスケジュールからはそれが入っていないんです。つまり私の初出勤日に書いてあるので最後。私が手帖を管理するようになったのは、この次の日からなので。」
最初から、ひっかかってはいたんです、と沙耶は首を傾げて見せる。
「取引って、なんだろう。って。まぁ、私とは関係ないのかなって思ってはいたんですけど…こないだ遡って文字を探してみたんです。そしたら―」
沙耶の指がひとつの日付の所で止まった。
「この日―。石垣のお父さんが事故に遭った日から、マークが始まってる。そして、このマークが付いている日は、坂月さんがほとんど出ていたと井上さんから聞きました。」
そのまま、楓を見上げる。
「但し、取引、と書いてあった日は、表向き、石垣はひとりで出向いていたけれど、実際は相当数の警備員が配置されていたそうですね。」
「―失礼致します。」
そこへ、注文した料理が運ばれてきて、会話は一旦中断となった。
テーブルに料理を並べるのに、邪魔にならないよう沙耶は手帖を鞄に仕舞う。
楓は、乾いた喉を潤すように、グラスから水を口に含んだ。
―あれから、調べたのか。
沙耶が予想以上に踏み込んできたこと。
そしてこれから暴かれるだろう事実の予感に、焦りよりも素直な驚きの方が勝っていた。
ウェイターが一礼して姿を消すと、沙耶は下ろしていた視線を再び坂月に向けてきた。
「石垣に何て言ったかは知りませんけど。。この鶴って会社名じゃないですよね?」
坂月は沙耶の確信を籠めた物言いに、諦めたように笑んだ。
「貴女って人は、本当に…」
言いながら、沙耶と顔を合わせた。
「はっきり言ってください。思ってる事。」
坂月の言葉に、沙耶は一瞬躊躇いを見せたが、唇を一度きゅっと締めてから、再び開いた。
「石垣のお父さんに怪我をさせた犯人はもうとっくにわかっていたんじゃありませんか?私が秘書になる前から。」
「―それから?」
沙耶の問いには答えないまま、坂月はその先を促す。
「それから??」
「まだ、あるでしょう?わかっている事。」
「………」
今度は、沈黙が少し長い。
それは恐らく沙耶の中での優しさが、迷わせているのだろうと坂月は思った。
「―それから…レガメでの事故について、ですが…」
話だした沙耶の口調は、心なしか先程より弱々しかった。
「石垣に一般向けのセレモニーに顔を出すように指示を出したのが誰なのか、あの後確認してくれましたか?」
坂月は返事をしないまま、沙耶の次の言葉を待つ。
「あの時点で、、犯人が確定していたとするなら…あの、、あの事故は…」
「―そこまでで良いです。」
まだ痛む時があるだろう腕を、沙耶は無意識に押さえていた。
「すいません。。貴女にそこまで言わせて…」
坂月も心苦しくなって、頭を下げた。
「言いましたよね。私…いや、俺は…良い人なんかじゃないって。」
―いつか、こうなるってわかっていたのに。
「俺は、貴女を利用したんです。どんな手を使ってでも、諒からあの会社を奪う為に。」
だから、離れたかったのに。
どうして、見つかったの。
どうして、君を見つけてしまったの。
どうして、欲しいと願ってしまったんだろう。
最初に出逢ったのは俺が先だった。
でも大人になってからは、諒が先に見つけた。
どうしてか。
それは、諒がずっとあの約束を追いかけていたから。
真っ直ぐに、あの誓いを守ろうとしていたから。
俺は違う事に。
そう、彼女を守る力すらない事実に、気付いてから。
幼い頃の約束なんかより、追わなければならないものがあったから。
だから、心の奥底に、思い出として封印してあった。
「あの事故の犯人は、秋元さんが言う通り、特定されていますし、今は24時間体制で見張らせてある。首謀者は人を雇って実行した訳ですが、それが諒を狙ってやったのか、巌様を狙ってやったのかがわからなかった。それで、諒に出向いてもらって、もう一度狙うかどうか確認したかったんです。」
フランス語で鶴はgrue。
同時に、クレーンのこともgrueと呼ぶ。
だから、今回のクレーン事故と掛けて、その調査関係のことを鶴と記し、自分だけにわかるようにしてあったのだ。
ただ、諒に怪しまれないようにする為、念の為に黒革の手帖にも書き込み、以前からの取引のように匂わせていたつもりだった。
そうじゃなくても、普段から過密スケジュールなのだ。理由付など幾らでも出来た。
「実際、実行犯は諒については知らなかった。首謀者は諒のことを知っている人物ですし、恨んでてもおかしくなかったけれど…それで、巌様を狙っていたという結論付けに至りました。」
「じゃ、どうして未解決のフリをして―?」
沙耶が途中で我慢できなくなったように訊ねた。
「それは…」
―犯人をまだ、泳がせていたのは。
「諒の意識を分散させたかったからです。」
ガシャン、と何処かで硝子が割れた音がした。
「諒の父親が退くことが決まった時、それは俺にとってはチャンスでした。だけど、諒は顔色ひとつ変えなかった。」
問題は未解決にしたままで、諒の隙を作らないと、自分は入り込めない。
「そこに―」
坂月は一度溜め息を吐いて、沙耶を辛そうに見つめる。
「貴女が…見つかってしまった。」
諒が、沙耶を探す様に言った時。
最初は、ただの興味本位で、傍に置いておきたくなっただけかと思った。
諒にワインをぶっかけ、喧嘩を売って、呼び出されれば殴るなんて女は、坂月から見たって、興味深い。
でもそれが、実は違うと。
諒のシンデレラ探しだったのだと知ったのは。
沙耶があの時の少女かもしれないと思ったのは。
あの夜、あの庭で、泣いている沙耶を見つけた時。
閉じていた筈の、記憶の鍵が解かれて。
諒も、沙耶のことを―あの時の子なんじゃないかと考えていることを知った。
今も甘えるのが下手な彼女が、自分から思い出してくれるまで。
不器用な方法で守ろうとしていることを。
「諒の関心は面白い程、貴女に向いていました。」
疑い深い諒が、疑いながらも、沙耶を信じようとしている。
沙耶がどれだけ思い通りにならなくても。
嘘がつけなくて、正義感が強くて、他の人のために怒れる沙耶は諒にとって、いつも真っ白だった筈だ。
触れれば穢れてしまいそうな程。
「だから、俺も、貴女を雇うことに決めたんです。」
一か八かの賭けだった。
本来なら、沙耶を傍に置くのは危険だ。
「貴女には、まるで犯人を捜すために雇ったと思わせて―実際の目的は諒の気を会社から逸らす為だった。」
自分が駄目になれば、きっと失敗してしまうから。
実際、確信が持てなかった坂月が、沙耶の弟の駿に、昔の呼び名を訊いたのはその頃だ。
上手く利用できれば、諒の隙は広がる。
それは、一瞬でも良い。
「レガメのセレモニーの時は、一番の大詰めの時でした。…諒に一般向けの方にも顔を出すよう言ったのは…さっきの貴女の考え通り、私です。但し…狙ったのは、諒じゃない。」
沙耶の顔色が沈んだのがわかる。
「貴女です。」
坂月も今でも闘っているあの時の痛みが、胸まで上がってくるようだった。
「貴女が怪我をすれば、諒が動揺することは目に見えていた。それが狙いでした。このことに関して…言い開きすることは何もありません。」
沙耶であれば、気付くと思った。
だから、必ずこの罠に嵌まると思った。
「わかってしまった以上、私の負けです。処分に関しては、貴女がしたいようにしてください。」
その裏に籠められている意味に気付くのも、早かったけれど。
志半ばでこういう状況になったのは、自分のミスだ。この先、坂月が無理矢理進んで行った所で、必ず潰れる。だから、沙耶が警察に突き出すというのであれば、自分はここでThe end。
それは最初から決めていたことだ。
駄目になったら、そこで終わり。
それもまた、自分の犯した罪と、生きていく道なのだと、罰も甘んじて受けるつもりだった。
だが。
「それなら、教えてください。」
沙耶の放った言葉は予想に反していた。
「―え?」
坂月は俯いた眼差しを、反射的に上げる。
見ると沙耶がじっと自分を見ていた。
「どうして坂月さんがそうしようと思ったのか。」
あの頃の、黒目がちな、綺麗な瞳のままで。
「坂月さんは、絶対に悪い人じゃない。何か理由がある筈です。」
歪んだ物事に負けず。
その真髄を見極めようとする強さを、今でも失わずに。
「……俺は悪い人間だって、何度言ったらわかるんです?」
自分はどうして、彼女を使おうなんて馬鹿な真似を考えたんだろう。
最初から勝てる訳、ないのに。
乾いた笑いが口から漏れて、坂月は肩を落とす。
沙耶は何も言わずに、自分を見つめたままだ。
「…俺はね、いつも諒が羨ましかったんです。」
やがて、ぽつ、ぽつり。
根底に眠っているものが、少しずつ零れて落ちていく。
「何でも持っている、諒が。」
若い父親と、優しい母親。
大きな会社の跡継ぎとして決まっていて、将来有望。
賢くて、はつらつとしていて、元気で。
自分とは正反対の存在。
「俺は生まれた時に、死にかけたらしくて。1歳まで病院から家に帰れなかったそうです。」
退院しても、元気に走り回ることは許されず。
年老いた父の傍をずっとくっついて歩いていた。
「そのせいか、諒との接点は、あんまりなくて。でも、諒の母親の体調が芳しくなくなってから、亡くなるまでの間、諒と俺が佐伯家で暮らすことになったんです。」
そこで。
お互い打ち解けずに。
お互い同じ場所へ別々に足を運び。
「貴女に会ったのは、その頃のことです。」
一人の女の子に、恋をした。
毎日通ったわけじゃない。
各々が、大人の目を掻い潜って行った。
それぞれの気が向く時が違ったのか、奇跡的に重なることはなかった。
でも。
「…一度だけ、鉢合せしそうになったことがあったんです。」
諒の母親が亡くなった後。
「それが、硝子の靴の約束をした日。」
坂月は元居た家に帰ること。
そして諒は留学することが決まった時。
もう会えなくなると、沙耶に伝えに行く為家を抜け出したら、諒が前を歩いていた。
不思議に思ってそのまま後を尾けて行ったら、着いた場所はなんとあの竹林ではないか。
陰からこっそりと様子を窺う自分に諒は気付かず、沙耶に約束する。
必ず迎えに来ると。
「なんでだって思いました。俺が先に見つけた筈なのにって。俺のなのにって。」
元々仲が良かった訳じゃない二人。
諒は坂月のことを嫌っていたようだったし、母親の傍に近づく自分の事をいつも不満げに見ていた。
亡くなった後、その悲しみは怒りに変わり、坂月に向けられた。
『お前なんか、居なきゃ良いのに。』
言い返すこともできなかった。
自分自身、どうしてここに居るのか。
どうして、諒の母親の事を大事に感じるのか。
わからなかったから。
だけど。
沙耶との思い出は、自分のものとして、癒着していた。
「―だから、もう一度したんです。重ねて。」
奪われてしまわないように。
諒と、同じ約束を。
「大きくなって、俺が諒を超えられたら、貴女を迎えに行こう。そう、思ってました。」
誇りひとつ、持っていなかった小さな掌に、のせられた大きな約束。
この子の為に、強くなる。
この子を守る為に、強くなる。
その為には、諒を超えられなければならないと。
なかった力が、湧き起こる感覚に、心が震えた。
子供の頃、それは叶わない夢じゃなかった。
超える程まで行かなくとも、努力すれば、諒の隣に並ぶ位にはなれると信じていた。
あの女の子に、どちらかを選んで欲しいと言える位までは。
「貴女との約束は、俺にとって、支えで、生きる力になってました。でも―」
大きくなるに連れて。
現実は、そうならないと知った。
「諒と俺とじゃ、雲泥の差があった。それが本人の問題ならまだ納得できる―」
でも、そうじゃない。
「立っている場所が、そもそも違ったんです。」
最初から、届く訳、なかった。
「諒がアメリカに行っている間、俺は負けじと、日本で頑張って…中等部に上がったばかりの頃、父親が亡くなりました。」
同時に老いた母のアルツハイマー病が悪化した。
坂月家の跡取りは、自分しか居ない。
自分がしっかりしなければ。
母の世話も使用人に任せっきりにすることなく、率先して行った。
なのに。
「段々記憶が混同するようになった母が、俺を見て、言うんです。」
―『あなたは家の人間じゃありません。あなたは私の子じゃない。』
近づこうとする坂月に、母は怯えたように首を振って逃げてしまう。
「最初は、俺の事、忘れちゃったんだろうなと思って、一生懸命言い聞かせてたけど…」
その後、人が変わった様に攻撃的になった母の言葉は、日に日にヒートアップしていった。
―『あなただって思ってるでしょう!?分かってる癖に知らないフリをして!あなたはこの家の人間じゃないっ!出て行きなさいっ!!!早く出て行け!!!』
声を荒げ、肩で息をし、物を手当たり次第に投げつける母に、成す術がなかった。
やがて。
―母は本当に、、忘れてしまっただけなのか。
そんな疑念が、自分の中にふと生まれる。
もしかしたら、混濁した記憶の狭間に見える真実を言っているのかもしれない。
そうだとしたら、自分は一体―
小さい頃からうっすらと感じていた孤独感。
ひやりとした冷たい魔物が、息を吹き返したのを感じた。
そんな時だった。
遺言状の検認の為に取り寄せた全員の戸籍謄本を、母が持ち出してきて、目の前に広げたのは。
保たれていた均衡が、崩れた瞬間だった。
「それで、、実家を出ていた姉に訊きに行ったんです。」
自分は、一体、どこの誰なのか。
どうして、養子に出されたのか。
どうして、坂月家に来たのか。
最初、深雪は頑なに口を開こうとしなかった。
夫である肇も、知っているに違いなかったが、やはり教えてくれなかった。
だから。
母の口からそうした言葉が出ること。
戸籍を突きつけられたこと。
ずっと言わないで黙っていた事全てを伝えて。
『どうすればっ…良いんですかっ…』
姉の前で。
苦しくて、泣いた。
限界だった。
大人しくて、聞き分けが良くて、感情を出さないように振舞っていた自分の悲鳴は、もうずっと心の中で響いていた。
『もっと、、、苦しむことになるけれど、覚悟はできているの?』
見かねたように、深雪がそう声を掛けて。
それに対して、自分は頷いた。
「それで、、知ったんです。」
23年前に起こった出来事―
石垣家に授かった子供は、二卵性双生児だったこと。
そして、その双子の出産は、間隔が空いたこと。
双子の内の一方は、死産になりかけたこと。
なんとか一命を取り留めたものの、きちんと成人するかわからない。
結果、実の祖父と父親から、要らない方とされたこと。
「実際どんなやりとりがあったかはわかりませんが、俺は跡取りが居なかった坂月家に養子に出されることになったと聞きました。」
深雪はそこまでしか、教えてくれなかった。
しかし。
「後になって結局石垣グループに坂月家は買収される形になったので…俺はその取引の条件として使われたのかもしれません。」
「そんな…」
それまで黙っていた沙耶の顔に動揺が広がる。
もう自分にとっては古くなった傷跡。
「それを知っていたから、母の持つ石垣家への憎しみが俺に向いたんでしょうね…」
痛みは笑って隠せるほど、鈍い。
「最初から立っている場所が違ったと言った意味が、わかるでしょう?選ばれたのは諒。捨てられたのは俺。」
今、自分は果たして上手く笑えてるだろうか。
「俺は、貴女との約束を、守る力すら、いや権利すら持ち合わせてなかった。俺が貴女と同じ側の人間だと言ったのはそういう意味です。」
沙耶は、そんな坂月から視線を外し、俯く。
「諒はその事実を知らないで、ただ真っ直ぐに、貴女との約束を追いかけていた。俺は―いつしかその諒を引き摺り下ろす事だけに執着するようになりました。」
諒が悪い訳じゃない。
でも、自分が悪い訳でもない。
余りに理不尽過ぎる分かれ道は、二人が目指すものをも変えていく。
温かな約束に、影を落として。
「それで―」
沙耶は、憂いを帯びた瞳を、坂月に向けた。
「石垣から地位を奪ったら…それで、坂月さんの傷は少しは癒えるの―?」
真っ直ぐすぎる痛い質問に、坂月の視線が揺らぐ。
―わかってる。
「―結果として、俺は賭けに負けたのかな。貴女が諒に行かずに、俺を選んでくれたら、と、欲張った甘い考えを途中から持ってしまって、自己嫌悪に陥って…」
今更そんなことしても、癒える傷なんかじゃないってことは。
「でも、戻る道は、消えてしまってるんです。」
佐伯が自分を利用している事を知りながら。
助けてもらっていると騙されてるふりをして、石垣家の溝を深めるのに加担したのは、自分だった。
今更手を退く事は許されない。
バシャン
「!」
細かい氷と一緒に、水が顔に掛かる。
「目を覚ましてください。」
反射的に瞑った目を開くと、立ち上がった沙耶の手には空のコップが握られていた。
「―坂月さんは、、確かに、私と似てます。自分ばっかりが苦しすぎると思ってるから、自分のことだけしか見れなくて、他の人の思いも決め付けて…結局逃げてる。」
言葉に表わさずとも、諒とのことを言っているのだということが、坂月にはよく分かった。
「秋元さん…貴女はやっぱり、諒の事―」
問い掛けるが、沙耶はそれを遮る。
「戻れない道なんか、ない。立ち止まれば必ず見つかる筈です。でも、もしも―」
言いながら、沙耶は席に掛けてあったダウンジャケットと鞄を手に取る。
「もしも、坂月さんが立ち止まれなかったから、その時は、少しだけ私がストッパー代わりになるから。だから、ちゃんと、、石垣と、、それからお父さんとも、向き合ってください。」
「え?」
訊き返した坂月に、沙耶は既に背を向けていた。
「ちょっとま…」
慌てて呼び止めれば、沙耶は背を向けたままで。
「…いつだったか、言いましたよね。坂月さん。ミュアンホテルのミュールアンピエール、はフランス語で石垣っていう意味だって。」
私を騙して、とぶつぶつ付け加えている。
「私に二度、同じ手は通用しないって、ちゃんと覚えといてくださいね。」
ふんっ、と鼻を鳴らして、沙耶は今度こそ出て行く。
跡に残された手付かずの料理と、男一人。
冷たい氷と水が、ポタカラリ、と音を立てる。
坂月は、目を隠すように、手を額に当てた。
「…ふ……はは……」
沙耶の最後の言葉に、そういえばそんなことがあったなと、笑いが込み上げる。
だから、沙耶は手帖の鶴の意味を悟ったのだ。
そのことがあったから。
「ほんと……敵わないよ…」
自分にしか聞こえない声で呟く。
後戻りは、もうできないけれど。
========================
「坂月様?」
扉の向こうから掛けられた声に、坂月ははっと我に返った。
恐らく何度かノックもしていたに違いない。
彷徨っていた思考を振り払うと、坂月は椅子に座り直した。
「どうぞ。」
失礼します、と言いながら中に入ってきた井上がトレイに載せた珈琲を運ぶ。
「あ、自分で淹れたのに…ありがとうございます。」
慌てて目の前にあった書類を脇へ避けると、井上がくすくすと笑った。
「もう少し偉そうにしていただかないと。オフィスも最上階へ移られたら良いのに。」
言われて、坂月も苦笑する。
「私はここに慣れてるので、ここが居心地が良いんですよ。」
社長、と呼ばれるのも拒み。
結局は今までと変わらない位置にしがみつこうとする自分。
欲しかったものが、手に入る瞬間というのは、果たしてこんなもんだったろうかと、ここ最近自問してばかりいる。
あの頃、本気で守りたかったもの。
それを忘れてまで、目指してきたもの。
途中で再び欲しくなってしまったものは、欲張ったせいか、手に入らずにすりぬけていってしまった。
―秋元さん…
あの時沙耶が言った意味を、坂月は理解し始めていた。
今考えていたのも、それがあったからだ。
珈琲に口を付け、少しの沈黙。
そこへ内線が鳴って、慌てて井上が傍にあった受話器を掴んだ。
「はい、井上ですが…あ、はい…はい、、、」
途中で彼女は通話口を手で塞ぎ、坂月を見た。
「巌様が意識を取り戻されたそうです。」
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