表と裏



「なんのつもりだ?」






全員が出払い、空になった会議室。



諒は、部屋から出て行こうとしていた楓を後ろから呼び止めた。







「答えろ」






立ち止まったものの、言葉を発しない楓に、諒は苛立ちながら促す。






「…まさか飼い犬に手を噛まれた、なんて思ってるわけじゃないですよね?」





「何言って…」





振り返って諒を見つめる楓の目は、いつものように笑ってはいなかった。







「貴方は私を信用して等居なかったでしょう?驚くことなんかないんじゃないですか?」







淡々とした、まるで当然の事が起きたのだというような物言いに、諒は楓の胸倉を掴んだ。






「ふざけるなっ。お前がしたことは乗っ取りだぞ。裏切り行為だ。」





「―だから、今更驚くことないでしょう。」





楓は冷たく言い放ち、諒を睨め付ける。






「俺の祖父の時代から受けてきた恩を仇で返すのか?」





「―恩?」





ここにきて初めて、楓は笑った。





「思い上がるのも大概にしてください。まるで自分達が上に立つ者かのように。」





「坂月―」





諒の力が緩んだ瞬間を楓は見逃さず。






「良いじゃないですか。貴方は沢山持っている。」






その腕を振り払う。



そして、背を向けると。





「生まれた時から―」






今度こそ、会議室を出て行った。




一人、取り残された諒は、長机の上に手を付いて腰掛けると天井を仰ぐ。






「厄介なことになったな…」





楓がいつから狙っていたのか。




皆目見当がつかない。




父親が意識不明の今。



この会社を守るのは自分の務めだと思っていた。




なのに。





まさか、内部クーデターが起こるとは。




しかも、こんなに近しい所から。






「対抗策を取らないと…」






諒が視線を手元に戻した途端、スーツのポケットに入れっぱなしだったスマホが震えた。







「誰だよ」






とても誰かと電話、なんて気分じゃなかったが、画面に表示された名前に思わず耳に当てた。








「―孝一?」








名前を呼べば、緊迫した声が返って来て、諒は苦笑する。








「ほんと情報が早いな、お前んとこは。密告者でもいるんじゃねぇの。」





茶化すように言えば、叱られた。





========================






会社を後にして、諒のフェラーリは国道を走っていた。







ハンドルを操作しながら、物憂げな表情の諒の頭の中には、先程かかってきた電話の内容がリプレイされていた。






《―諒、お前危ないぞ。もしかしたら間に合わなかったか?》






《―持株比率が変動している。》






《気付かなかったのか?お前らしくない。》






《親族で、坂月に加担する奴、いるか―?》







まさかとは思うが、他に考えられない。





数ヶ月前にも通った道を、諒はアクセルを踏み込みながら駆け抜ける。





ここには無い筈の百合の香りが鼻を掠めた。






―できればあそこには行きたくないんだが。





会社を出てからもうずっと、諒の眉間には皺が寄ったままだった。






「なんで『今』なんだ…」





怒鳴る力もなく、呟いた。




この時期に、どうして。





「…楓」




楓のことを、楓と呼ばなくなったのは、大学を卒業してから。




共に働くのに公私混同すると良くない。名字で呼べと。




父親の命令だった。








―『貴方は私を信用して等居なかったでしょう?』






乾いたエンジン音が、加速を知らせる。




雪が降りそうな程、外は冷え込んでいた。





―佐伯邸。






「これはこれは、諒様。珍しいですね、諒様からいらっしゃるなんて…」





敷地の中に急停止したフェラーリを見つけて、着物姿の男が慌てて出てくる。




諒はそれに対し、小さく会釈し、




「肇(はじめ)さん、いますか。」





短く問う。






「生憎旦那様は現在来客中でして―」




「じゃ、深雪さんで良い。」






困惑した素振りを示す男に、刺すような口調で切り返すと、あからさまに顔色が変わった。





「失礼ですが、諒様が奥様にどのようなご用件で―?」




「訊かれる筋合いはない。案内しないなら勝手に行かせてもらう。」






そう言い捨てて身を翻した所で。






「お待ちくださいっ、、、今暫く…」






男が慌てて諒を引き止める。







「今、今奥様がいらっしゃるかわかり兼ねますので―お出掛けになられたかもしれませんし―」






「―時間稼ぎなら通用しねぇぞ。今すぐお前が案内しろ。」





「っっ…」





ドスを利かせた声で振り返れば、男は弱々しく頷いた。




諒の母親が亡くなってから、石垣家と佐伯家は疎遠になっていた。




間を繋ぐ縁が無いからだ。




諒も同時期に父親と渡米し、日本に残った楓と会う事も少なくなった。




再会は帰国後。




父親の会社に入社した頃、久々に楓に会って、楓も日本で飛び級し、諒と同じ年で大学を出たことを知った。留学も一年程したらしい。




最初は、親戚のコネ入社かと考えていた。


だが、直ぐに楓が努力の人間であることを知った。


物腰の柔らかさと実力も兼ね備えていた。




同時に欲の少ない人間だと思っていた。



だから、今回のような事を画策したとは考えにくいのだ。





―楓は義弟に当たるからな。






もしかしたら、叔父に唆された、という可能性はないだろうか。



本人が会う気がないのなら、その妻―楓の実姉に訊いてみるしかない。





「深雪様。」




短いノック。



外観の日本家屋とは不釣合いな、洋風のドア。



道案内をしてくれている男が、控えめに主の名前を呼ぶ。




高く小さな返事が聞こえると、男はドアを開けて「失礼致します、お客様がお見えです」と伺うように伝えた。





「客人?私に?」




ドアの向こうから、驚いたような声が聞こえ。




「どなた?」




男は返答に窮し、ちらりと諒に視線を送ると、一歩下がって道を譲った。



「ご無沙汰しています。諒です。」





諒が顔を出すと、暖炉の前、1人がけのソファに座っていたらしい女性が立ち上がって振り返った。




どうやら読書中だったようで、片手にはひざ掛けが握られ、文庫本が傍に置かれている。





「あら、本当に珍しいお客様ね。」





滅多に表に出てこない深雪に会うのは、10年ぶりだった。



現在は50を過ぎた歳だと記憶しているが、年齢に不相応な程若く見えた。


念入りに染められた髪色のせいかもしれないが、初対面で彼女の年齢を言い当てることが出きる人間は、多くないのではないか。





「ありがとう、下がって良いわよ。そうそう、暖かいお茶を持ってきてくれるよう頼んでくださる?紅茶が良いわ。」





諒の背後で、深雪の反応を固唾を呑んで見守っていた男は、彼女の指示に安堵の息を吐いて一礼し、その場を立ち去った。





「―突然、申し訳ありません。」





諒が詫びると、深雪はいいのよ、と笑った。





「そんな所に立ってないで、どうぞ中に入って座って?」




「…失礼します。」




諒は、勢いで押しかけてはみたものの、肇相手ならまだしも、深雪相手にどう出るべきかまとまっていなかった上、穏やかな彼女の応対に面食らっていた。



当然だが、10年前の彼女の印象は薄い。



だが、彼女の夫である肇は高圧的で、独占欲の塊のような人間だから、深雪も同じと決め付けていた部分があった。





「今、お茶が運ばれてくるから、少し待っていてね?外は寒かったでしょう。」




労わりの言葉を掛けられ、勧められた椅子の端に腰掛けた諒は小さく頷く。





「本当に大きくなったわね。もう幾つになるのかしら?あ、楓と同い年だもの、23ね。」





ふふふ、と笑い、深雪は懐かしむような顔をする。



反対に諒は、楓、という名前が出てきたことによって、気持ちが引き締まった。




「実は―、楓の事で、今日はお伺いしたんです。」





思い切って、口に出すと、深雪の笑顔が小さくなった。





「楓のこと?」




「はい。本来なら、肇さんにと思ったのですが、お会いできないと言われてしまったものですから。」





暖炉の中の炎が揺らめく。




深雪の反応を窺っても、その心中は読めないが、無言になったという事は、良いものではなさそうだ。




―予想の範疇だ。




諒はかまわず続ける。






「単刀直入にお訊きします。石垣グループの株式を楓になぜ譲ったんですか。それは楓の願いですか?それとも肇さんの狙いですか?」





元々楓が持っている株式と、それに他の株主が持っている株式を足すと、保有率が過半数を越える。




支配率は持ち主に傾き、事実上支配権を握ることになる。




それに手を貸したのが、誰なのか。




恐らく佐伯の持ち株だってそれ程ではない。




第三者の介入もあった筈だ。





―さぁ、どう出る?



深雪の反応のひとつひとつを漏らさずに、どんな小さな綻びでも見落とさぬように、諒は息を潜め、じっと待った。




深雪は諒の顔を見ることなく、暖炉にその眼差しを向けている。


その口元に、もう笑みはなかった。




コンコンコン。




静寂を軽快なノックの音が崩す。



深雪が小さく返事をした。





「失礼致します。」





着物姿の女の使用人が中へ入ってきて、ソツのない動作で、カップとソーサーを二人の前に置いていく。




空気に、湯気と共に漂うアッサムの香り。




使用人が出て行くと、静けさが逆戻りした。




深雪はおもむろにカップを取り上げると、紅茶を少しだけ口に含み、気分を落ち着けるかのようにゆっくりと飲み込み。





「―私が言えるのは一つ―」





やっと口を開いた。






「それは楓の意志よ。」





彷徨うようにうろうろとしていた目が、諒に向けられた。





「会社の事云々は、よくわからないし、肇さんがどんな風に加担したのかを私は知らない。けれど、楓がこの為にどれ程努力していたかは知っているわ。」






「―どうして…」





「どうして?」





思わず零れた諒の疑問の言葉を、深雪が呆れたように繰り返す。





「貴方達は表と裏だからよ。コインのようにね。いつ引っ繰り返ってもおかしくなかった。」





不可解な例えに、諒の瞳が揺れる。






「私の口からは正解は言えないわ。でもヒントはあげる。訊ねるならここではなくて、ちゃんと本人から―、巌さんから聞くべきね。」




深雪の口から意外な人物が出てきて、諒は動揺を隠せなかった。




「親父から?」




パチ、と火が弾けた音がする。



諒の脳裏に、まだ目覚めぬ父の姿が浮かんだ。


========================





「それで?」




音を出さないようにカップがソーサーに戻される。





「それでも何も…意識がないんだからどうしようもないだろ。」




孝一が指定したカルモというカフェで、諒はテーブルに頬杖を付き、そっぽを向く。






「まぁ、確かに。でも、これで、親戚の力添えがあったってことはわかったわけだし…佐伯絡みっていうのが、いかにもだけど、、今回ばかりはあのおっさんの悪巧みじゃ無かった訳だ。」





「え、僕の事?」





ちょうど、諒が頼んでいたアールグレイが注がれたカップを運んできた店主が、驚いたように動きを止めたので、孝一は笑って手を振った。





「違いますよ。佐伯違いです。」




「良かった、なんかびっくりしちゃったよ。」




それに対し、人の良さそうな店主は胸を撫で下ろす。



カルモは孝一が高校の頃に働いていた店で、忙しく働くようになった今でもたまにふらりと行きたくなるのだと言う。



確かに、珈琲の味もさることながら、居心地の良さも抜群で、魅力の溢れる店だ。



「佐伯さん、どう思います?今の話聞こえてたでしょう?」




「ええ?」




「実は、佐伯さんの意見が訊きたくて、わざとここにしたんです。」




孝一はにやっと笑った。




―なんだよ、そういうことかよ。





諒は隣で顔を顰める。





時刻は夜の8時を過ぎていて、店内には他に客は2人の他、誰も居なかった。





「俺も俺なりに、片手間ですけど、諒の周囲で起こる事件について調査に出したりはしてるんですよ。でも、どの方面から調べても繋がらない。石垣グループのトップの事故もニュースで報道されてたから知ってるでしょう?」





「知ってるけど…」





佐伯は困ったような顔をしながら、トレイを抱えた。




「今回起こったことも詳しくはまだ言えないんですけど、諒は親戚から大変な事態に追い込まれてるんです。」




孝一と佐伯の間で、諒は難しい顔をしながら運ばれてきた紅茶を黙って啜る。





「―諒君は…」




「―?」





そこへ突然名前を呼ばれ、慌ててカップから口を離した。





見上げれば、先程までは孝一に向けられていた佐伯の視線が、諒に注がれている。






―同じ佐伯でもここまで違うのか。




自分の叔父のことを思い出し、目の前の白髪交じりの男性と重ねてみるものの、当たり前だが重ならない。




がたいが良く、無駄な脂肪が付いている肇と、痩せ型長身の店主は外見からしても全く異なっていた。






「どう思ってるの?」




「ちょっと…佐伯さん、諒に訊かないでください。俺の努力が泡になります。」






唐突にも思える質問に、諒が首を傾げると佐伯は柔らかく笑って続けた。



向かいの席では、珍しく孝一が焦ったような顔をしている。





「孝一君は僕の意見を聞きたいって言っているけれど、諒君はどう思ってるの?」





穏やかな物言いは、警戒心や猜疑心をふるい落とす作用がある。



また、佐伯の礼儀正しさは好感が持てた。



孝一も諒も、かなり年下だというのに、見下す態度はひとつも見出せない。


同時に、孝一や諒の身分を知っていながら、格上の扱いをすることもなかった。





―その上、孝一がここまで信頼しているのなら。





「俺は―、俺も、できたら聞きたいなって思います。もし、、その、、、佐伯さんが良かったらの話ですけど…」




迷いはあるが、ここまできてしまったのだから、もうどうにでもなれと思った。




正直な所、今までで一番最悪な気分だった。



父親の事故。


沙耶との別れ。


楓の裏切り。




父親の事故と沙耶の事故に関しては、楓が調査に乗り出していた。


内部の犯行が疑われ、肇が一番怪しい動きをしていた。


なのに、まさか、楓も容疑者に浮上するとは。





「珍しい。佐伯さんが変なこと訊くから、諒は絶対出て行っちゃうかと思ってた。俺がやんわりと佐伯さんに訊いた時から不機嫌オーラがすごい出てたし。」




「やんわりじゃねぇし。」





そうなの?と佐伯が孝一を見ると、彼は頷く。





「諒は極度の人間不信なんですよ。しかも自分でコントロールできない。」





信じたくても、信じられない。



嘘ばかりに囲まれて生きてきたせいか、諒は人を信じられなくなっていた。




楓に関してもそう。



信じて仕事を任せる一方で、猜疑心を拭うことができなかった。



信じれば、裏切られた分、傷付くから。



最悪の結果を常に考えていれば、傷付かずに済むから。




苦い感情に支配されそうになって、諒が黙ると。






「そっか。。。本当に、人間っていうのは難しい生き物だねぇ。」





佐伯はそれ以上を訊くでも、否定するでもなく、しみじみと呟いた。





「君たちの痛みを理解できないこんな僕なんかの意見で申し訳ないんだけれど―」




そして、決意したように再び諒を見つめた。





「もしかしたら、全部の出来事は絡まってしまっているだけで、実際は別々なのかもしれないね。」





「―どういうことですか?」





俯いた顔を諒が上げたと同時に、孝一が訊ねる。





「つまりね…繋がりなんて、ないのかもしれないって事さ。繋がりを求めるから物事が複雑化されてしまっているけれど、ひとつひとつを単独で調べてみたら物事は案外単純なのかもしれないよ。」





「ひとつひとつって―…?」



「うーん、そうだな…」




諒が思わず口を開くと、佐伯は人差し指を立てて見せた。





「例えば、今回は親戚に窮地に追いやられてるってことだけど、諒君や孝一君はそれを別の事件と関連づけようとしてる。でもそうじゃなくて、その本人だけに焦点を当てて考えてみる、とか。」





―楓のことを?




今更、何を。





「知っているようで知らなかったことが、見えてくるかもよ。」




珈琲の香りと、紅茶の香りが混ざる。



湯気は弱まって。




「まぁ、年寄りの戯言だけどね。」




閉店時間が近づいた店の主は、照れたように笑った。











「何か分かったら連絡しろよ。」





カルモを出た所で、孝一が諒に声を掛ける。



まだ雨は降っていないが、空には月が見えない。






「お前が取り戻せなかったら、俺があの手この手で株を全部買い占めても良いし。非公開になってもなんとかしてやるよ。」





「馬鹿言え。」





雷鳴が遠くで聞こえた。






「坂月を甘く見るなよ、諒。あれは頭の切れる男だ。物事を用意周到に運んでいる。隙なんかない。早く止めないと取り返しがつかない。」






「分かってるよ。」





諒が雨雲に向かって伸びをすると、孝一は呆れたように溜め息を吐いた。






「それがわかってるって態度かよ。事態は結構やばいんだぞ。坂月の株の買い占めに反対してるのがどこのどいつか知ってるのか?」





「わかったのか?」





「おいおい、俺に任せっきりにするなよ…」





「悪い、そっちまで手が回らなかった。」






脱力する孝一を、諒が急かす。






「で、誰だった?」






「悠長な奴…」





はー、ともう一度盛大な溜め息を吐いてから孝一は腰に手を当てた。





「なんと諒の嫌いな佐伯邸のご近所さん。あんな近くでよくおっさんに呑まれなかったよな。まぁ、小さな財閥だけど…ある意味そこが頼みの綱って所だ。」







「近所?」






「そう。諒も暫く住んでたことあるんでしょ、顔見知りかもよ?」







顔を顰めた諒に、孝一が続ける。








「秋元家。」












その夜。




諒はアールグレイ香る部屋の、ベッドの上で、ひとり。







―坂月、楓。






頭の中で、自分の持っている楓の情報をまとめあげていた。






同い年。



誕生日は3日違い。



親戚の子で、最初は自分とは合わなかった。



性格は温厚で、諒とは正反対。



小さい頃は病弱だったと聞く。






「意外と思ったより少ない―」






それ以外、大して思い浮かばなかった。





深雪は、父親に訊いてみろと言ったが、父親と楓の接点が親戚ということ以外に見つからない。



更に、父が目を覚ました際、楓が会社を乗っ取っていて、実の息子が解任されたと知ったら、折角目を覚ましても、卒倒してしまうかもしれない。





いちいち引っかかるのは、深雪の言葉だった。




―コインの表と裏。



―いつ引っ繰り返ってもおかしくない。




親戚同士、会社のトップとナンバー2の関係とはいえ、自分と楓は、そこまで近しい人間だっただろうか。







佐伯が言うように、自分と楓との関係を今一度、きちんと調べる必要が、あるのかもしれなかった。




どこかにある綻びを見つけなければ。






「佐武。」




深夜の廊下に、諒の声が静かに響く。



急に荒れ始めた天候を、窓から見ていた執事は、直ぐにはい、と返事をすると、主に向き直った。




「眠れないんですか?」




佐武は諒の祖父が雇った執事だった。


祖父が亡くなってからも本邸から離れずに働いてくれ、幼い頃から諒もよく知っている。






「まぁ、少し―」




「では温かい飲み物でも淹れましょう。どうぞ部屋でお待ちくださ―」




「佐武、飲み物はいい。」





佐武の言葉を遮って、諒は首を振った。





「実は、ちょっと話したいことがあるんだ。」




「話したいこと―?」






白髪眉がぴくりと動く。




今まで諒がそんなことを言った試しがあっただろうかと、不思議に思った。



ましてこんな真夜中に。







「どんなご用件でしょうか。」




「…坂月が石垣グループを買収しようとしている。」




感情を押し殺したような声で放たれた言葉は、老いた執事の心臓を震わせるには十分な重さだった。




「俺は解任された。」




「なんと…」





さすがに言葉を失い、佐武は狼狽える。




「結論付けたくはないが、坂月は前々から狙っていた節がある。それをふまえて、佐武に訊きたい。」







恐らく、過去に何かがあったとすれば、古くから居る佐武は絶対に何かを知っている。





「坂月楓について何か知っていることがあれば教えてもらいたい。」





諒が佐武に期待するのは先代からの忠誠心。




彼は今静かに諒の言葉に耳を傾け、感情を隠す為か、目を閉じていた。






「深雪さんにも会ってきたけど、親父に訊けと言われたんだ。どうしてここに親父が関係してくる?俺にはそれがわからない。親父だってこんな話聞いたって寝耳に水で―」







そこまで言うと、佐武が薄く瞼を開き、首を横に振った。






「…いえ、、巌様は驚かれないと思います。」






「―どういうことだ?」






説明を求めると、佐武はまた沈黙する。



窓を大粒の雨が打ち叩く音が、激しさを増している。





「…坂月様は、ご存知だったのですね…」






やがて雨音に掻き消されてしまいそうな程の声で、佐武は呟いた。





「ならば、今ここで、諒様が知るのも自然の流れなのかもしれませんね。」




迷いや葛藤はあるのだろうが、佐武は意を決したように、諒に再度向き直った。




「私が今ここで話さなかったとしても、諒様は遅かれ早かれ、真実を知ることになると思います。それに、、坂月様―楓様が知っているならば、尚の事諒様も知っておくべきだと考えます。」






でも、と佐武は広い廊下を見回して。






「ここですべき話ではありません。―宜しければ私の部屋にいらっしゃいませんか。少々窮屈かもしれませんが…」





提案を持ちかけた。



断る理由など何処にもない。



諒は頷いて、佐武の部屋へと向かった。





佐武に宛がっている部屋は、階段を降りて、食堂と反対側にある。




年齢を気遣ってのことだったが、佐武を見れば、未だに一段抜かしでも階段を上れそうな位元気だ。





「どうぞ。」




佐武は扉を開け、電気を点けると、諒に入るよう促す。




中は諒の部屋に比べれば狭い上に質素だが、成程内密の話をするには持ってこいの場所でもあった。





机と椅子、ベッド。




それ以外には何も置いていない。



佐武は諒に椅子を勧めると、自分は立ったまま、話し始めた。







「もう、、23年前の話になりますか―」






瞳は諒の姿を捉えている筈なのに、佐武の瞳はどこか遠くを見つめていて。





当時の風景や接した人々なんかが映っているに違いない、と諒は思った。







時計の針が刻々と進んで行くに連れて。




諒は自分の予想をはるかに上回る事実に圧倒されそうになっていた。






「悪いけど…とても信じられない…」





抱えるものの重さと、取り戻すことのできない深さ。



それが諒に大きく圧し掛かる。





佐武の語り口は静かで、終始落ち着いていていたが、何年間も閉ざされていた秘密を音に乗せることに、緊張を隠せては居なかった。




最後の最後にも、これで本当に良かったのかどうかわからない、と繰り返した。





「誰かの抱えたものを『聴く』ということは、誰かの重荷を背負うことでもあります。それが周囲のした罪であろうと、巻き込まれた当事者であるなら尚の事。但し…坂月様、、いえ、楓様は、どの時点でかは存じませんが、このことを把握しているのでしょう。ですから、今回のような行動を取ったのだろうと考えられます。」






「あいつも…知ってるのか…」




この、重さを。




そして、痛みと、辛さと、悔しさを。





「はは…」





そしたら、楓の気持ちが手に取るようにわかって、笑えた。






「そりゃ、、こうするわな…」







なんでだろうと思ってた。




いつも、母親が絵本を読むのに、隣に楓がいるのはなんでだろう。




どうして、自分と同じ時期に、母の実家で、佐伯邸で過ごすようになったのだろう。




母親が死ぬ間際、傍に居たのはなんでだろう。




母親が、楓に優しく接するのはなんでだろう。





「いつから…いつから知ってたんだ…」





大人しくて、男の癖にシンデレラの話で泣いてしまうような。




引っ込み思案で、中々人前に出てくることの出来ない楓が。




この事実を知ったのは、いつのことなんだろう。





諒の相手のない問いに、佐武が沈痛な面持ちで応えた。





「幼い頃は、まだ知らなかったと思います。。恐らく最近か、、譲様が亡くなられた際―戸籍か何かで知ったのではと…」






譲とは、楓の父親の事だ。



いや、養父の事だ。





「13の時に一人でか、、きついな。」





誰に訊ねた訳でもなく。



多分、知ろうとしたつもりもなく。



たった一人で、真実を知ってしまった時。



楓は一体何を思ったんだろう。







自分は、石垣家の人間だ、と。





諒と楓は、双子の兄弟だと。







そう、知った瞬間に。








―母親が死んだ時。




母を前に。



諒の隣で、楓はぼろぼろと泣いた。



力はなくなったけれど、まだ温もりのあるその手を放さずに、ずっと握り締めて。




それを見ながら諒はジレンマを感じていた。



自分もそうしたいのに、できないこと。


隣でそれをいとも簡単にやってのけている存在が居ること。




棺に花を容れる時にも。





楓は離れようとしなかった。




諒はそれを遠くで見ていた。





百合の花を容れてしまえば、さよならだから。


自分の持っている花を容れなかった。




でも結局運ばれて行ってしまって。





『なんでお前が僕のお母さんを独り占めするんだよ。』







楓にそう言って怒った。




頭では理解していた。




単なる八つ当たりだってこと。





『お前のせいで、お母さんは居なくなったんだ。』






―楓。





『お前なんか、居なきゃ良いのに。』






あの時の記憶を、今、どう感じてる?





きっと、二度、傷つけた。




きっと、二度、悔やんだ。








―俺が楓の立場だったら、やっぱり。




今のお前と同じ事をしたと思うよ。






表裏一体だからこそ。





剥がされた痛みは壮絶な仕方で―





お前を襲ったんだろうから。





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